第2話 森の匂い
踏みしめる足から、ポキッという音が鳴る。
地面に落ちている小枝が折れた音だ。
この森を歩くことにも、ゴロタは慣れてきていた。
雨が降った後にかかるぼんやりとしたもやの中を歩くのが、特に好きだった。
その白いカーテンの向こうには、いつもと違うなにかがありそうで、実はそんなことはない――そんなところが、自分の性に合っている気がした。
階段の脇に咲くジャコウソウとゴマナの群れに目をやりながら、ゴロタは真鍮の鍵をドアに押し込んだ。
が、開錠した手応えは得られなかった。
どうやら、タケ爺かトミさんが来ているらしい。
そのままドアを開けた。
ソファにちょこんと座ってスポーツ新聞を読んでいるのは、タケ爺だった。
「珍しいすね。最近、来てなかったじゃないすか。散歩ですか?」
「ううん、なんとなく」そう言ったタケ爺はそわそわとしていた。
なにか頼もうとしているのでは――。
だとしたら、給料アップにも持ちこめるかもしれない。
気持ちよく仕事ができたことが何回かあった先月は、タケ爺はその前の月よりも給料を多めに払ってくれた。
「おまえさんの顔つきで、おれが評価し、その評価を元に月末に給料を渡す」と言ったタケ爺の言葉は本当だった。
本当に彼は、三日に一回報告に来るゴロタの顔つきを見て、評価をしているのだ。
おそろしいじいさんだな、と思いつつも、ここでもし彼の頼み事を引き受ける機会があるのなら、それは自分の顔つきに良い意味で現れるだろう、ともゴロタは思った。
ある程度の貯金はできるくらいの給料はもらってきたものの、給料アップの機会があるのなら、それを逃がす手はない。
コーヒーを淹れると、ゴロタはいつも通りにふるまってデスクについた。
タケ爺は、新聞の上から顔を少しだけ覗かせ、声をかけてきた。
「ゴロタはよくやってくれてる。さすが、おれが見込んだだけある」
「どうなんでしょうね……」
「選んでいるのは、奴らだ。おれたちにできることは、届けることだけさ」
ゴロタは顎をさすった。
「まあ、なんだかんだで、この仕事にやりがいを感じてきてんのかもな」
タケ爺は柔らかく目をつむり、「ふむ」とうなずいた。
それから、笑みを浮かべた。
「ところでな、明日も仕事できるかいな?」
きた――とゴロタは思った。
でも、あえてぶっきらぼうに答えることにした。
「明日は土曜ですよ。予定もあるし」
「いいじゃん、いいじゃん」タケ爺はせがむように手を合わせた。
「でもなあ、もう予定入れちまったしなあ」
といっても、一人でデパートに行くくらいの予定ともいえない予定だが。
「そこを頼むよ。給料も割り増しするからさあ。休日手当ってやつだ」
「……なん割?」
タケ爺は二本、指を立てた。
それに対し、ゴロタは五本、指を立てる。
すると、タケ爺は深い目尻を余計に深くさせ、三本の指で意志を示した。
ゴロタは考えるふりをしてから、負けじと四本の指でかえす。
うーむと唸ると、タケ爺は「トミに頼むことにするかの……」とつぶやき、新聞紙に目を戻した。
(なるほど、欲張るとロクなことにならないな)
ゴロタは声を張って、「わかりました。三割増しでやりますよ。ちゃんと、月末の査定に反映させてくださいよ」と言った。
タケ爺は新聞紙をガバッと下ろし、満面の笑みを向けてきた。
金をけちっているのではなく、交渉ごとを楽しんでいたのだろう。
「よしよしよし、このヒマ人め」
「昼間からエロDVD観てるじいさんに言われたかねえや」
タケ爺は、ふふんと鼻で笑うと、肘掛けに腕をのせた。
「今度の仕事は、おれからの頼みだ」
「タケ爺の?」
意外な展開に、ゴロタはカップを持つ手をとめた。
「ああ。今までは、森に導かれてここに来た客しかいなかったが……明日、おれの甥っ子をここに連れてこようと思ってな。彼にはきっとここに来る資格がある」
「へえ」ゴロタの中で、想像が膨らんでいく。
「タケ爺の甥っ子てことは、もしかして、トミさんの息子さん?」
「いや、もう一人、トミよりも下の舞子という妹がいてな。その舞子が三十過ぎてから生んだ子だ。ただ、舞子はその十年後に亡くなってしまったがな」
「そうですか……」
「その甥っ子はもう三十七になるんだが、ちょいと不器用な奴でな」
タケ爺はしかたなさそうに笑い、つづけた。
「イライラするかもしれんが、まあよろしく頼む」
「まあ、仕事ですしね。それに、面倒くさいのには慣れてきたっす」
ゴロタはタケ爺をまじまじと眺めたが、この老人はすぐにこう返してきた。
「おまえさん、気づいてないだろ?」
「なにがっす?」
「おまえさんが、一番面倒くさい奴なんだよ」
言葉に詰まり、ゴロタは喉をごろごろとさせた。
やはり、このじいさんにはかないそうもない。
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