第19話 どこかの道

 翌朝の九時にゴロタはホテルを出た。

 フロントにいたのは、佳子でも七三分けでもなく、ここの近所から勤めているであろう中年の女性だった。

 結局、佳子にまた会うことはなかった。


 どこかに寄り道するつもりは、ゴロタにはなかった。

 このまま、馬助に会いにいくのだ。


 車の流れは、ベルトコンベアーの上を流れる物品のようだった。

 クラクションが鳴ることもなく、それぞれの色と形が、灰色のベルトで、前へ、あるいは脇にそれて右へ左へ運ばれてゆく。


 ――道がなくなったとして。もがいても、立つべき場所が消えてしまったとして。そうなったとき、人はどうするのだろう。おれはどうしてたっけ……。


 仕事は、ある。

 仮そめのものだが。

 だから、責任なんてたいして感じちゃいない。


 なのに……どうして、胸がざわつくのだろう。

 空虚が押し寄せてくるのだろう。

 馬助のバカ面が心に浮かんだ。

 昨日は感じていた充実感を思い出すことはできなかった。



 武蔵小杉の中心街から外れたコーヒーショップに、馬助はやってきた。

 ゴロタはこれから車を返しにいかなければならないので、飲み屋は選べなかった。


「今日は、産業道路の工事だったんだ」


 そう朗らかに笑う馬助は、セメントがあちこちにこびりついているニッカを堂々とはきこなしていた。


「似合うな、その恰好」


「なんだかんだんだで、こういう仕事ばっかしてっからな。少しは板についてきたのかもな」


「おまえ、どうせならその道で出世してけばいいじゃん」


「バカだからだめだよ」


「自覚してるだけマシさ」


「んで、佳子には会えたのか?」


(やれやれ、相変わらず単刀直入な奴だ。間ってものを知らない)


 けれど、それだけに遠慮なく経緯を話せそうだった。


「ああ、会ったよ」


 それから、驚くでも、しかめっ面をするわけでもなく、馬助はゴロタの話を聞いていた。

 

「ごめんなさい。もう、元には戻れない」という彼女の言葉を伝えたときだけ、彼が目を深く閉じたのが、ゴロタには印象的だった。


 意外なことだった。

 単細胞なこの男なら、いつ話の途中で泣いたりしだすか、ゴロタは内心ひやひやしていたのだ。

 

「おれが暴れたり、泣きだすとでも思ってたんだろ」


 見透かすように、馬助は苦笑していた。

 なんとも言えず、ゴロタは片眉をひそめた。


「どこか、わかっちゃいたんだ。もう遅いってな……。でも、おれはこんなんだけど、人の幸せを願うことはできる。んで、佳子は今、幸せなんだろ?」


 どうだろうか。

 彼女からは、幸福な雰囲気を感じはしなかった。

 でも、なにかを変えようとしているように思えた。


 だから、ゴロタは「そうかもな」と答えた。


 馬助は寂しそうに笑うと、明るい声で言った。


「おれじゃあダメなことは、つくづくわかったよ。よく、わかった。ありがとな、ゴロタくん」


「仕事だからな」


 ゴロタは馬助と同じような表情をして、エスプレッソをすすった。


 ――おまえに会ったときから、わかっちゃいたさ。おまえはダメな奴だって。なぜなら……おれはたぶん、おまえよりもダメだからだ。道ってやつを、次々と自分から壊して、あるいは無視したあげく、今は少しの勇気さえも残っていないんだ。


「よお、飲みに行かねえか?」


 ゴロタが口をつぐんでいると、馬助がそう言ってきた。

 この馬鹿な男の笑顔は、曇天の向こうにある晴れ間のようだった。


 二つ返事でゴロタはうなずき、そのまま店を出ると、馬助を助手席に乗せた。


 ええい、このままタケ爺の家に行って、車を返すついでに三人で飲めばよかろう。

 そんな時間を想像すると、ゴロタの顔は自然とほころんでいた。

 となりにいる馬助は、歌を口ずさんでいる。

 ブルーハーツの〈青空〉だった。

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