第14話 その力を
ウィンドウを上げ、タバコに火をつけた。
ゆらめく紫煙をかきわけ、湿気と排気ガスとを含んだ空気が運転席にはいってくる。
微かに、潮の香りがした。
――海底か。
タケ爺に借りたレクサスはいたって調子がよく、物音をたてずに草原を走るジャッカルのように、アクアラインを滑らかに突き進んでいく。
途中、せっかくなので、ゴロタは海ほたるに立ち寄ることにした。
東京湾に浮かぶ人工島では、平日のゆったりとした時間を楽しむリタイア後の老夫婦の姿が多かった。
ゴロタは見晴らし台まで行くと、そこにある屋台でつぶ貝の串焼きを買った。
さっそく、磯の香りが詰まった貝にほおばりつく。
目の前には、ゆったりとした海風景が広がっていた。
いくつかのコンテナ船が、波の上に乗っかりながらそれぞれの方向に歩を進めている。
(こういうとこに美香を連れて来たら、楽しいだろうなあ)
ほんの少しだけもの思いに更けてから、ゴロタはズボンの右ポケットから一通の手紙を取り出した。
封筒の裏には、ピンク色の髪が一本、セロテープでとめられている。
――それは、不思議な力だった。
こういうこともあるのかと、ゴロタはいまだに息を呑む思いだった。
やっぱり、タケ爺は自分の知らない何かを知っているのだ。
「――封筒に、毛を貼っときゃ大丈夫だよ。
「嫌な切手だな」
タケ爺とそんなやりとりがあったのは、昨晩のことだ。
中庭に面した縁側で、タケ爺と一緒に泡盛を飲んでいた。
いい気分になってくると、ゴロタはタケ爺にうながされるまま、財布に入れていた馬助のピンク色の髪の毛を取り出し、その髪を封筒の裏に貼りつけたのだった。
すると――自分の頭皮の裏側がざわつきはじめた。
そして、腹の底から頭のてっぺんにかけて、一本の固い糸が駆け上がっていき、パラシュートのようなものがスパーン! と脳の中で広がってゆく感覚を覚えた。
次に、高い山の頂が見えた。
が、すぐに頭をふり、こめかみを押さえた。
痛みはない。
「なんだ今のは」そう言う前に、ゴロタには新しい感覚が備わっていた。
想像するよりももっと明確に、今この目で見えているものとは別の世界が見えているのだ。
それは、ゴロタが目を開けながらも、ふいになにかを鮮明に思い出すとき――太郎とバカをやったり、美香が笑ったりしたときのような――に似た感覚だった。
ゴロタはもう、その感覚が導く景色を知っていた。
封筒に髪の毛を貼ったことで、その景色が、自分の頭にインプットされたのだ。
(間違いない――馬助が大好きな佳子のいる場所へ続く道が、おれには見えているんだ)
「タケ爺……これは、いったい」
「不思議な力ってやつさ。ちなみに前にも言ったとおり、おれ自身は、踊っても、歌っても、ましてや念仏じみたもんを唱えてるわけでもないぞい」
タケ爺は、欠けた歯をむき出し、どうだ、とばかりに笑っていた。
「よく、多くの人が言う。道につまずいたとき、何も見えやしないと。だが、本当はそうじゃあない。自分がその目でとらえていたものなんて、今この瞬間、地球が見ているものにくらべれば、アリのクソほどにもならん。おれは思う。もしかしたら、あの森は、地球の目を借りることができる場所なんじゃないかってな」
ゴロタのおちょこに、タケ爺が酒をそそぐ。
「想いとは、伝えられるものだ。それを運ぶのは、ある時には風だろう。あるいは、炎だろう。いや、雨かもしれん」
いつになく、老人の目には実直さがにじみ出ていた。
「想いを伝えなくたって、人は生きていける……。だがな、人は、かけがえのない想いを行動にのせることで、文化を築いてきた。そのそばには、いつも森があった。川があった。山があった。砂漠があった」
かすかに、老人は微笑んだ。
「年をとるのもまんざらじゃないな。わからなかったことが、少しはわかったような気になる」
「そんな詩人みたいなことを言うなんてな。おれ、タケ爺のことが、ますますわからなくなるよ」
「じじい、ばばあなんて、みんな詩人だよ。まあ、その半分は言葉を持たない詩人だがな」
「おれには、よくわからないな」
「わかったら、老人の立場がなくなるわ」
赤ら顔で、タケ爺は得意げにそう言ったのだった――。
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