第13話 酒でもどうぞ

 運転手の苛立ったアナウンスが、ゴロタの意識に響いてきた。

 どうやら、最終停留所に着いたらしい。

 辺りを見ると、落ちついた住宅街だった。

 お店というお店は、雑貨屋と個人経営の居酒屋があるだけだ。


 馬助が運転手に礼を言い、よいしょと腰を上げてから、勢いよく外に出ると、


 ドン!


 という低い音がした。

 どうやら、通りすがりのおばあさんに後ろからぶつかってしまったらしい。


「ちょっ、なにすんのさ、あんた」


 おばあさんの顔はひきつっていた。

 うろたえる馬助の顔を見ながら、ゴロタも外に出た。

 と同時に、バスのドアがプシューっと音をたてて閉まり、低い排気音だけを残して、大きな車体は去ってしまった。

 置いてかないでくれ、とゴロタは心から思った。


「いや、すまねえ。ああ、バッグが……」


 おばあさんが持っていたであろうバッグは、水たまりに浸かってしまっている。

 馬助は急いでそのバッグを水たまりから救い出し、自分のズボンで拭きはじめた。


「ちょっと、やめてちょうだい! このスカタン! クズ!」


 おばあさんはヒステリックに声をあげると、ひったくるように、自分のバッグを馬助から自分の手元に取り返した。


「ごめんよ、おばあさん。なんなら、弁償するよ」


 耳まで真っ赤にして、馬助はおろおろとするばかりだ。


「結構よ、そんなの! それより、さっさと消えちまいな! このピンク頭のノロマが!」


 言い捨て、おばあさんはずかずかと歩いていってしまった。


 ゴロタは頭をかきながら、おずおずと馬助に近づいた。


「ずいぶん、口の悪いばあさんだな。きっと、近所じゃ厄介者扱いされてるぜ」


 馬助の肩が震えている。

 彼はクビをコキコキと鳴らし、ゴロタの方に向き直ると、しかたなさそうに笑ってみせた。


「へへ。いつもこうなんだ、おれ。やることなすことドジでよお。どうにも、うまくいかねえよ」


「おれも似たようなもんさ」


 皮肉でも慰めるつもりでもなく、ゴロタは本気でそう言った。

 それから、辺りを見渡した。


「よお、まだ早え時間だけど、一杯やってくか?」


 ゴロタは道路の向かい側にある個人経営の居酒屋を指さした。



 開店直後のせいか、店内はゴロタたち以外に客はいなかった。

 店の中はカウンター席しかなく、年季の入った壁には、地元の名士らしい人物が趣味で出したような演歌のポスターが貼ってある。

 焼酎のボトルや取り皿が雑然と並ぶカウンターの向こうでは、気のよさそうな老夫婦がのんびりと仕込みの作業をやっていた。


「いらっしゃい。この時間に来てくれるなんて嬉しいね」


「酒が恋しくなりましてね」


 愛想のいい旦那にゴロタはそう答え、馬助と肩を並べて席についた。


「とりあえず、ビールだな。飲めるんだろ?」


「うん」


 馬助はぽりぽりと頬をかき、おしぼりで手を拭った。

 これまた愛想のいい奥さんからビールが届くと、さっそく乾杯した。

 奄美塩がたっぷりかかったハツやモモをほおばり、ビールを流し込む。

 そうやって、酔い具合をこねくりまわしていると、会話も弾んできていた。


 いつの間にか、二人は互いに「ゴロタくん」「馬助」と呼び合っている。


「おまえ、そんなに彼女のことが好きなんだな」


「うん、まあな。そりゃそうさ、佳子は最高の女だもん」


「どんな女なんだ?」


「そうだなあ……。とりあえず、食いしん坊だな。メロン一個まるごとペロリと平らげちまったときはびっくりしたな。あと、気が強かったり、片づけが苦手だったり、気に入らないことには堂々と舌打ちしたりするんだ。んで、優しいな」


「価値観ってのは、人それぞれなんだな」


 ゴロタは苦笑しながらもうなずいてやった。

 実際、価値観ってやつは人それぞれなのだろう。

 なにが、彼あるいは彼女にとって、優しさや誇りであるのかはわからない。


 五杯、六杯とビールジョッキが空になっていく。

 気がつけば、ここに入ってから二時間近くも経っていた。


「つまりよお」


 馬助の目がとろんとしている。

 この男は、飲んだときのほうがスマートに、かつ詩人になるらしい。


「あいつのいない季節は、おれの心を野ざらしにしていくんだ。もう、おれのことなんか好きじゃないのかもしれねえ……。わかってるさ、今のおれじゃあ、うまくいきっこねえって。でもよ、せめて伝えてえじゃねえか。たとえ、さよならになっても――悲しみくらいはとっておきたいんだ」


 目の前のピンク頭がゆらゆらと揺れている。

 どうやら、ゴロタにも酔いがまわってきているらしい。


 ――こいつは、おれにとって、うらやましいくらいの思想を持ってやがる。


 手元には、飲み干したあとのジョッキがしんどそうに立っていた。



「おい、しっかり歩けよ」


 もう、時計の針は十時をまわっている。

 ゴロタの肩につかまっているモヒカン野郎はへたくそな歌を気持ちよさそうに歌っていた。

 どうやら、詩人でいられる時間は短いらしい。


「おっ、ちょっ、待っててくれ」


 馬助はゴロタの肩をはなし、よろよろとした足取りで高架下へと走っていった。


「おい、吐くなら、背中をさすってやろうか?」


 が、彼は背中でゴロタの言葉を聞き流し、おもむろにジッパーを下ろした。

 すぐに、滝のように勢いのある音が響きはじめた。


「あんだよ、しょんべんかよ。さっさと済ませろよ」


「きゃあー!」


 もちろん、馬助の返事ではない。

 気づかなかったが、大学の部活帰りらしき女学生がすぐ近くを歩いていたのだ。

 彼女は、ラケットをカバーごと振りまわして叫んでいた。

 しかも、しまつの悪いことに、馬助は自分のを彼女に向けてしまっている。


「やべえ、なんかやべえ! そしてごめんなさい!」


 女学生に向けて、びゅんと頭を下げると、馬助は中途半端にチャックを上げ、相棒をはみださせたままゴロタの方に走ってきた。


「てめえ、早くしまえよ!」


「走りながら、閉めるから! 置いてかないでくれよう!」


「そのまま、捕まってくれ。頼むから、捕まってくれ」


 ゴロタも駆け出す。

 気がつけば、馬助がチャックを閉めながらゴロタを追いかけるという、妙な構図になっていた。


 はじめは肩をいからせながら走っていたが、後ろをふり返るごとに、ゴロタはおかしさをこらえるのでいっぱいになっていった。


 やがて、夜空に笑い声が響いた。

 それは、ひどく懐かしく、それでいて自分でも豪快だと感じられる大きな笑い声だった。

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