第6話 ある風景

 夕焼け空が、どこかの家から漂ってくるカレーのにおいを、より濃く、懐かしいものにしている。

 無意識に広がる鼻の穴に、温かい家庭の風景が吸い込まれてゆく。

 ああ、いいもんだなとゴロタは思うが、少し前を行くタケ爺は、そうしたゴロタの感慨を無視して好き勝手にくだらないことを喋っていた。


 近所の風呂屋にエロスの香りムンムンの未亡人が通っていること、中田という家の小学生四年のガキをひっぱたきたいこと、ケネディは大統領になる前に宇宙人狩りをしていたらしいこと(彼はその明らかなホラ話を本当のことのように話していた)――。


 そんな調子で坂道をのぼってゆくと、右手に大きなすべり台のある公園が見えた。

 この辺りは、ゴロタが子供の頃にちょくちょく遊んでいた場所だ。


「で、どこに向かってるんすか?」


「ここを、曲がるんだ」タケ爺は古いアパートの塀に沿って右に曲がり、うす暗い路地裏へと入っていった。


 そのまま十メートルほど狭い道を進んでゆくと、足の踏み場が柔らかい土へと変わっていき、うっそうとした森林が立ちはだかった。


(ここが、仕事場? まさか、この森の中なのか?)


 とまどうゴロタを尻目に、タケ爺は立ち止まることなく、その森につづく轍のような道を歩いていった。


「ここで、やばいことでもやらせるつもりじゃないでしょうね」


 タケ爺はようやく立ち止まり、しかしふり返ることなく背中を揺らした。

 笑っているらしい。


「かもな」


 一言だけ残し、老人はそのまま進んでいった。

 ゴロタは、苦笑し、


「やれやれ」と口に出して、肩をすくめた。


 もし、本当にやばいことなら、このじいさんをはったおしてでも逃げればいい。

 ゴロタは、昔から腕っぷしにだけは自信があった。

 妙な覚悟を胸に、彼はタケ爺の背中を追った。


 ひたすら立ち並ぶヒノキやマツといった常緑樹がこの森を森たらしめ、緑のもつ風味が、すぐそこにある町並みとは異なる清涼感をこの空間に与えていた。


 知っている――。


 そう、ゴロタはこの場所を知っていた。


 昔、近所のクソガキ仲間と二、三度だけこの森を駆け回って遊んだことがあった。

 たしか、クワガタかなにかをとりにきたのだ。

 ゴロタといえば、無理やりついてきた妹の由美を追い払うので必死だった。


(あれから、二十年くらいは経っているのか)


 苔のむす土を踏みしだきながら歩いていると、しばらく聞いたことがなかったような、穏やかで心地よい音が、足元から耳に入ってきた。

 それは、自分と大地がもたらしている音だった。


 次第に、ゴロタの脳裏に、昔の記憶が顔を出しはじめていた。


 そういえば――同級生のひとりが教えてくれたことがきっかけで、この森に来ることをやめたんだった。


『悲しみの森』


 その同級生は、この森がそう呼ばれているのを恐ろしげに語ったのだった。

 森に棲む、哀しみを背負った男が、刀で脅して子供をさらう。

 容赦なくさらう。

 そんな話だった。


 今思えば、よくあるデタラメな都市伝説だったんだろうとゴロタは思う。

 とはいえ、当時のゴロタたちには、その話と〈悲しみの森〉という通り名は強烈なインパクトを持っていた。

 ふだん強がっている少年には、妙な習性があるものだ。

 全員があることに対して共通の畏怖をおぼえると、怖がっているそぶりは見せずに暗黙の了解でそこからフェードアウトしていくか、一番立場の弱い奴をあおって肝試しさせるのだ。


 ゴロタたちは、前者だった。


 当時の自分たちが、どこからこの森に侵入したのかまでは、ゴロタは思い出せなかった。

 はたして、忘れてしまった、ということなんだろうか――。


 まあ、ただ単に記憶力がないだけか、とゴロタは思うことにした。

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