月が消えた夏に

花井たま

月が消えた夏に

 月が消えた。

 僕は別に月を毎日監視していたわけでも、天体観察が趣味と言うわけでも、その月が消えた瞬間を見たわけでもない。

 夏夜の蒸し暑さから散歩に出かけた時、ふと月を探してみたらそれが無かったというだけの話である。

 空は真暗闇だが、快晴。

 1等星、2等星までが燦爛と輝き、しかし月のみがいない。

 ああ、新月という概念もある。弟に比べると相当頭の出来が悪い僕も、それに至らない程阿呆ではない。

 しかしたまたま外に出かけて月を探したこの日が、たまたま新月ということがあるだろうか。確立にして30分の1。

 大きくもないし、小さくもない。

 月が消えたって何も困らないのに、僕は漠然とした不安を抱えて家に飛び帰る。

 『新月 いつ』

 スマホに打ち込み、答えを待ったゼロコンマ数秒。

 『検索キーワードを含む検索結果は見つかりませんでした』

「はぁ?」

 そんな馬鹿な。

 有史以来人類は、月を基にした暦を使用していた時代があるほど、月と密接に結びついてきたわけで、新月というワードが人類の発明であるコンピュータに嫌われるわけはないだろう。

 現に『たいやき 泳ぎ方』と調べても5000件ヒットするのだから、まさか月よりたいやきが偉大なわけがあるまい。

 本当に月は消えてしまったのだろうか。

 誰でもいいから他人に早くこの深憂を打ち明けてしまいたい。

 僕はリビングに向かい、母に話しかける。

「母さん、月が消えているのだけれど」

「……?」

 母が怪訝な顔をしたのは、僕が唐突に頓珍漢な言動をしたからというだけではないだろう。押し入れに長く仕舞い込んでいたぬいぐるみが、急に話し出したような怯えが顔に現れていた。

 『この子はなぜ話しているのかしら。ぬいぐるみのはずなのに。不気味だわ』

 まあ、怯むのも頷ける。食卓に参加することもなければ、顔を合わせることもほぼない。──あの活動的で万能な弟と比べた劣等種が、急に「月が消えた」などと言い出したのだから。

「ああ、月。消えたのね。そう。……で何?」

 しかしその答え方はいくら何でも淡白過ぎだ。

 ──まるで無関心。

 それが僕と長く話していたくないがための鈍返事なのか、月が消えていることに無関心なのか。もしくはそんなバカなことがあるわけないと高を括っているのか。

 最後の可能性が一番大きいものの、僕にはそれが正しいことだと証明する術も、または母の厭そうな目線を耐えて説明する気力もなかった。

 去り際に後ろから母が「何? 気持ち悪い」とぼやいた。

 言われ慣れていたので僕は聞こえないふりをする。

 次に僕は弟の部屋をノックする。

 彼は誰もが耳を澄ます静謐な声音で返事をした後、扉を開けてくれた。

「お……っと。兄さん。どうしたの」

 肩越しに見る彼の勉強机には参考書が開いていて、受験生でありながら怠惰に夏を過ごしている僕とは大違いだ。

 あからさまに厭な顔をする母とも違って、僕のことを一応人間として扱ってくれるその性格も、彼に人気がある所以だろう。

「月が、消えているんだ」

 僕はどうにか共感してくれと願いながら言った。

「そうか、消えているのか。それで本題は?」

 茶化すでもなく、聞き流すのでもなく「そうか」と受け止められてしまった。

 『月が消えている』という現象を事実として認められてしまった。

 眉一つ動かさず、それが当たり前と言うように。

「いや、何でもないんだ。おやすみ」

 気を動転させて自室に戻る。

 確かに月が消えても僕らには何の影響もない。

 実際僕も今日まで全く気付かなかったのだから。

 精々夜が暗くなり、泥棒家業がやり易くなるというだけだろう。

 防犯は追い追い強化するとして、それにしてもだ。

 あまりにも反応があっさりとし過ぎてはいないだろうか。

 月が、消えたんだ。

 まるで別にあってもなくても困らないものがなくなった時のように──例えばトイレのカレンダーが撤去された時のように、もしくは暇潰しに弄っていた輪ゴムがどこかへ飛んで行ってしまったときのように、「アレ。なくなったのか」とそう言える程、僕にとって月はどうでもいいものではない。

 それに月があること前提で生きてきたものだから、もし僕が「月がないよ」などと誰かに言われたら、そいつが如何に賢くないかを散々馬鹿にした挙句、本当に月がなくなっていることを確かめて、卒倒するまでがおおよそのストーリーだろう。

 或いは、僕が本当に気を狂わせてしまったのかもしれない。

 これまでいくら爪弾きにされようとも、正気だけは保ってきたつもりであったがそれも今日までだ。明日にはガチャンと脳病院に閉じ込められるか知らん。 

 こういう時、誰か親しい人間に共有することができたなら楽なものだが、生まれてから永続的に『余りもの』体質を持つ僕には簡単でない事だった。

「月が、消えたのかあ」

 『月』とスマホに打ち込んで調べてみても、月に関する情報は一切出てこない。

 国立天文台のサイトにもペルセウス座流星群のことしか書かれていない。

 数日前までの月の写真は見つかるが、パタリとアップされなくなっている。

 ──7日前、人類にとって月はないものになったのか。

 散々焦燥に晒されて、慣れた脳がそう冷静に判断する。

 不要物が片付けられたように、誰からも看取られず消えていったのか。

 偉大な月に失礼かもしれないが、なんだかそれは僕の末路のような気がした。

 つまりそこにいること自体は疎まれないが、いなくなったって誰も気にしない存在だということだ。僕も月がなくなったと気づくまでに7日もかかった。

 他の人間は月がなくなったことを気にも留めていない。

「おかしいよな」

 例えば母などは冷蔵庫にしまっていたプリンを、父に食べられたというだけで怒髪冠を衝く勢いで般若となる。

 何が言いたいかといえばプリンが月に置き換わっただけで、本来は何かレスポンスがあって然るべきなのだ。おかしい。……おかしい?

 おかしいのは僕か、世界か。

 はたまた夢の類の何かなのか。

 僕は周章し、なんとかして『話の通じる誰か』を見つける必要に駆られた。

 数年前に居場所を見つけられなかったきり、ログインしていないSNSを使い検索してみると、数件だけ、たった数件だけ月に関する書き込みがされていた。

 『アカネ:月がなくなった。なのに誰も気づかない。自分がおかしいのかどうかも誰にも確かめられない』

 ……なるほど。

 まるで僕が書き込んだような文書で面を喰らう。

 それらは1いいねすら貰っていない、「何を当たり前なことを」などと噛みつかれてもいない、ネットワークの──もしくは人間社会にとっての沈殿物のような書き込みであった。

 アカネというアカウントにとれば、誰にも打ち明けられない悩みを、何とか形にして吐き出した文字列なのかもしれないが、他多数の人類から見ればそれが『私、逆立ちすれば世界が逆に見えることに気が付きました』などといった、確かにそれはそうなのだけれど、全く関心の持てない”ただの事実”として読まれている──いや、読まれてすらいないだろう。こんなフォロワーのいないアカウントの、くだらない書き込みなど。

 しかし僕は僕の抱えている悩みを、そのまま全て吐き出しているフォロー0、フォロワー0の『アカネ』というアカウントにかなり興味を持った。

 ただ、わざわざ返信を書き込む勇気がなかったので、いいねボタンを恐る恐る押して反応を伺う。何も『いいね』ではないのだけれど。

 こういう時の為に『わかるよ』ボタンでも付けといてくれないかなあ。

 


 **********



 『アカネ』は僕のいいねに対して反応を示してくれた。

 デフォルトで通知がオフになっていたので、僕が『アカネ』からのDMに気づいたのは翌朝のことだった。

 『本当にいいねと思っているのですか』

 そのすれ違いが起こる故『わかるよ』ボタンが実装されて欲しいのだ、と一夜ぶりに思った。

 ともかく無礼は謝らなければならない。

 『突然すみません。出来心でした』

 これから『いいね』を推す機会があるかどうかはわからないが、もう少し心を込めて押そうと自戒する。

 12時を回り腹の虫が鳴った時、アカネからの返信が来た。

 『いえ、こちらもあまり作法が分かっていないもので。カイトさん、あなたはどういう意図でいいねを押したのですか?』

 カイト、というのは僕のアカウント名だ。

 しかし「どういう意図」と訊かれても答え辛いものがあるな。

 いいねを押した経緯を書けばいいだろうか。

 『アカネさん、単刀直入に申し上げますが、僕も月が消えたことに気づいたのです。それを家族に話してみても、のらりくらりとした回答しか返って来ず。あなたもそうなのではないかと推察したのですが』

 どうだろうか、長すぎないだろうか、短すぎないだろうか。

 相手に不快な思いをさせていないだろうか。

 対話というものは難しい。

 返信が返ってこない時間に比例して胃がキリキリ痛む。

 ──ポコン。

 まるで恋する青少年のような胸裏でスマホを持っていると、『アカネ』からのメッセージが返ってきた。

『私には家族がいませんが、そうです。あと、すみません。私はあまりチャットに慣れていないので、できれば通話などで対応できませんか』

 少し迷ったが、僕はこれを了承することにした。

 僕としても文字上でのやり取りに少し辟易としていたからだ。

 自分の声で話すという羞恥心よりも、チャットの面倒さが勝つのだから、よっぽど僕は現代に向いていないのだと思う。

 しばらくして着信が届いた。

 相当な空腹を感じていたが長くはならないだろう、僕は電話に出る。

「はい、もしもし」

 もしもしが『申す、申す』から来ているらしく、目上の人に使うのは失礼であると思い立ったのはその言葉を発した後だった。

「……こんにちは」

 返ってきたのは相当若いであろう女性の声。

 アカウント名から予想はしていたが、反射的に身が竦んでしまう。

「……どうも」

 向こうから話を切り出してくるかと思ったが、彼女は何も言わない。

「あの」

「あの」

 完全に声が被った。

「……あっ」

「えっと、先にどうぞ」

 アカネに主導権を渡されるが、僕が何か話題を持っているわけではない。

「あの、月の話なんですよね?」

「はい。かなり奇妙ではないですか?」

 何とか会話が軌道に乗ったようだ。

 僕だけが正気を失い幻覚を見るという現象が起こることは、認めたくはないが起こり得る。

 しかし僕とアカネの他にも数人のアカウントが、異変に気付いて書き込みをしていた。……気づいた人の中にもSNSを使わない人がいるだろうから、月がなくなった現象に気づいた人間の実数はもう少し大きいか。

 ともかく、何人もが同時に同じ幻覚を見るという現象は、果たしてそれは幻覚なのだろうか。

 そういう点での奇妙である。

「例えば……例えばですけど、同じテレビ番組を見ていて、それによるサブリミナル効果だったり」

 全然知識はないけれど、そういう深層心理が働いているのかもしれない。

「……いえ、家にはテレビがないので。ダメですね」

「だったら、テレビではなくても何か動画だったり」

「動画を見るとすぐに通信制限になってしまうので見ていません」

「……そうですか」

「ええ」

 家に無制限のWi-Fiがあるという環境が恵まれているのかもしれない。

 ──サブリミナル効果の線は薄そうだな。

 そんなことを考えていると、アカネは僕に問うた。

「……ご家族は何と仰られていたのですか」

「『そうなんだ』と、どうでもいいふうに聞き流していました」

 僕がそう言うと、彼女は「うーん」とひとしきり唸る。

 久しぶりの一対一での会話に息苦しくなり僕は窓を開けた。

 よっぽど外の方が涼しいのではないだろうか、室内温度がぐっと下がる。

「どうでもいい風? ですか?」

「はい。月が消えていようと、なかろうと、まるで自分たちには関係がないような雰囲気でした」

 アカネには家族がいないという。

 僕は家族に訊くことによって、自分のおかしさを認識することができたが、彼女の場合は誰にも問うことができなかったのだろう。漠然とした自分の狂いを、他人という合わせ鏡を使い確認できないことは辛い。

「なるほど。……他に、なにか仰っていましたか?」

 彼女はなんとか沢山の情報を仕入れようとする。

「……すみません。家族とは数年ぶりに話したので、そこまで深くは」

 まだ父には聞いていないけれど、あの人は勉強の話しかしないから僕は嫌いだ。

 よっぽど総合的に弟と比べてくる母の方がマシまである。

 いや、マシってことはないな。

「いえ、こちらこそ。図々しくてすみません」

 お互い謝りあい、そこで一旦会話が途切れる。

 アカネの声質は僕と同じくらい若いもので、家族のいない彼女がどうやって生計を立てているのかが少し気になった。

 もしかしたらもう既に社会人という可能性もあるのだけれど。

「……本当に私たちがおかしくなってしまったのでしょうか」

 アカネは唐突にポツリと漏らした。

 底知れぬ不安がその声から読み取れる。

 しかし僕は彼女の鬼胎を取り払う言葉を持ち合わせていない。

「もしかしたら、そうなのかもしれません」

 だから客観的な分析しか言葉に出すことができないのだ。

 それが少し悔しかった。

「……段々と、自分の目が信用できなくなっていきます。あるはずの物が見えなくなると、次は今見ているものが本当に存在しているかどうか心配になるのです」

 言われて気が付いたことだが、確かにそれはそうかもしれない。

 例えば窓の外を翔ける鳥が、他の人には見えていなかったとしたら。

「聞いて僕も不安になりました」

「ごめんなさい。でも、カイトさんには相談できるご家族がいるじゃないですか」

 同調した僕を励ますようにアカネは言う。

 しかし、僕に家族はいない。

「家族ですか?」

 家族とは。

 年賀状に僕の名前すら書かない母のことか。

 有名大学以外人間として認めない父のことか?

 それとも何をやっても僕より出来て、それを意地悪く見せつけたりしない。僕に劣等感を植え付けるだけの完璧な弟のことか。

「ええ、家族です。率直に言えば羨ましくて」

「……アカネさんにはご家族がいらっしゃらないと」

「父も母も私が小さいころに死にました。事故で」

「ああ、それはご愁傷様です。現在は一人暮らしされているということでしょうか」

 もしくは親の実家暮らしか。

「そうですね。高校に通いながら一軒家に一人暮らしです」

 やはり同じ高校生なのか。

 通話しているのが同年代女子なのだと意識すると、急にお腹が痛くなってきた。

 しかし段々とリラックスもしてきた。大きなミスをしていないのが大きい。

「……だとしたら、です」

「えっと。……家族がいるのでは?」

「ええ、戸籍上はいます。戸籍上は。……家族って一体なんでしょうね。血が繋がっていれば家族なのでしょうか」

「私は……そう思いますけど」

 アカネは戸惑いながら首肯する。

「一人で起きて、一人でごはんを食べて、一人で過ごして、一人で寝る。そして久しぶりに話しかければ疎まれる。それが果たして家族と言えるのでしょうか。僕は人間として扱われているのでしょうか」

 話し終えて5秒経っても、10秒経ってもアカネは何も喋らなかった。

 熱が入りすぎて怯えさせてしまったのかもしれない。

「……すみません。ちょっと高圧的で」

「いえ。お気になさらず」

 これ以上語るとまた強い語気になる気がしたので、気分転換がてら僕はアカネに質問をすることにした。

「アカネさんは、一人で大変ではないのですか? お金の問題とか」

 どこまで答えるか線引きをしているのだろう、アカネは少しの間沈黙する。

「お金は……大丈夫です。親戚の方が諸々費用を出してくれているので」

 なんだか含みのある言い方に違和感を覚えるが、僕はスルー。

「だったら何か他に?」

「……あ。いえ、特にありませんね」

 これは確実に何かあるだろう。違和感が確信に変わる。

 しかし「ない」と言っている相手に悪魔の証明をさせるのも酷であり、不毛なので、僕はただ黙って彼女の次の句を待った。

 彼女は何度か吐息をスピーカーから漏らし、喋り始める。

「……お金は、大丈夫なんです」

「へえ。では何が」

 別に親身になって彼女の悩みを聞いてあげる義理もないが、僕の軽い意地悪が引き出した言葉なので一応相槌を打つ。


「私は、いらない子なんです」


 しかしアカネがこの言葉を発したとき、僕の脳に電流が走った。

 心の奥の奥まで──脳みそで繋がっているニューロンネットワークの一つ一つまで見透かされている気がして、体中を悪寒がぞわぞわと駆け巡った。

「……両親は死にました。私は生き残りました。そしたら親戚がお金を出してくれるそうです。彼らの家庭に入るという案もありましたが、それは彼らが嫌がりました。そうして毎月一人暮らしする私の口座にお金が振り込まれます。食費、光熱費、学費等々の。でもあの日私は聞いてしまったのです。「アカネちゃんも、一緒に死ねばよかったのに」と親戚が陰口を叩いていたことを。私は所詮穀潰し。いなくなっちゃえばいいのだけれど、あの月みたいに」

 どうせだれも気づかないんだから。とアカネはポツリと呟く。

「本当に僕らが消えたら、誰かに気づいてもらえるのかな」

「あなたには家族がいるじゃない」

「もう既にこの家に僕はいないよ」

 ……僕も、いらない子だから。と付け足す。

「友達は。学校の友達とかはいないの?」

「いるわけない。できるわけない。作ろうと思わない」

 そもそも僕みたいな劣った人間と付き合いたい人がいないだろう。

「趣味とかはないの?」

「何をやっても弟には勝てないんだ。何かをやろうとする気力も失せた」

 強いて言うなら自慰くらい。何も楽しくないけど。

「家族もいない、友達もいない、趣味もない……」

 アカネは一つ一つ列挙していき。

「──私と全く一緒じゃない」

 明るい声で言った。

 僕はアカネが僕に似ていると感じていて、彼女にとってもそれはそうらしい。

 だから初めて仲間というものを見つけた気になった。

「へえ。アカネさんも友達いないんだ」

「死んだ方がいい人間に友達なんかできるわけない」

「じゃあ、趣味とかはないの」

「暇すぎてオナニーしかやることない」

「え」

 途端に僕の顔が引きつった。そして上気した。

 とんでもないワードが同年代女子の口から飛び出してきたからだ。

「オナニーって……」

「知らないの? オナニー」

 いや知ってるけどさ。

 アカネはどうやら羞恥心だったりモラルを知らない。

「いや、でもそれってあんまり言わないほうが……」

「どうして?」

「そりゃあ周りに白い目で見られるから」

「今は見られていないの?」

 ……見られているけれどさ。

「自分からわざわざ災いを起こしにいくことはないだろ」

「でも今まで誰かあなたに気を遣ってくれた人間はいた? 所詮善人気取りの偽善家しかいなかったでしょう。白い目で見られるとか、そんなくだらない世界に遣うための気は捨てていいんだよ?」

 軽く考えればそれも理屈としては通っていて、僕はなぜだかそれを試してみる気になった。

 少しだけ息を吸って、僕は一気に発声をする。

「……そっか、君はオナニーをするのか」

「うん」

 電話の奥の彼女は自慰をするらしい。その事実に心臓がドクンと跳ねた。

 その単語は口に出してみればやっぱり恥ずかしくて少し後悔。

 しかも無理やりな文脈で、ただオナニーと言いたいだけの人になっている。

「ん……別にそんな下ネタ言いたいわけじゃないや」

「無理して言わなくてもいいのに」

「確かに」

 会話に間が空いて時計を見る。13時ちょうど。

 空腹も忘れて僕は話し込んでいた。

 ビジネスライクな敬語もいつの間にか取り払われ、僕らは旧来の友人のように全てを分かりあった気になる。

「……もし、もっと前から知り合えてたら。なんて考えちゃうな」

 アカネはあったかもしれない現在を、羨ましげに眺めるように言う。

「僕、SNSやってなかったからなあ」

「私も。何が楽しいのか解らなかった」

「じゃあ同地区に住んでいることはないだろうし、出会うことはなかっただろうね」

「いやいや、わからんよ。もしかしたら目と鼻の先かも」

「こんな近くに同じ境遇の人間がいるなんて考えたくないや」

「……私も」

 電話口に天使が通り、また僕らは一息つく。

 その天使のおかげか、僕は一つのアイデアを思い付いた。

「「……じゃあさ」」

 ──被った。

「え、先どうぞ」

「いや、僕はいいです」

「……じゃあ私から」

「どうぞ」

「えぇと。『もし家近かったら、会ってみない?』と、言おうとしたのだけれど」

 ──同じだ。

 僕も全く同じことを提案しようとした。

「……いいの? 僕、まだ何も自己紹介とかしてないけど」

 アカネからすれば、僕がまだ50歳くらいの男子高校生かもしれない可能性が残されている。逆にアカネがアラフォー女子高生かもしれないけれど。

 この世界は何かと物騒なのだ。

「必要ないよ。まず家が近いわけないから」

 自己紹介以前にまず、会える場所にいるわけがない。と彼女は言う。

「それもそうか」

 人口比は東京に偏っていて、僕は地方に住んでいる。

 ボーイミーツガールみたいな出来事は都市だから起こるのだ。

「じゃあ、まず県から──」



 **********



 真夏だというのに、長袖Tシャツを着て『アカネ』の最寄り駅で待っていた。

 他にあった服がジャージのみだったのだから仕方がない。

「まさか、同じ県だとは」

 流石に同じ地区というわけではなかったが、僕らは何もやることがなく暇だったので、そく夕方に待ち合わせることにした。

 何をするかも何も決めていないがどうするのだろう。

「……あなたが、カイト?」

 後ろから電話で聞いたばかりの声が聞こえた。

「そうだよ、アカネ?」

 彼女は制服を着ていた。

 僕より20センチほど低い身長に、手入れが届いていないぼさぼさのショートカット、そしてそばかす顔。

 第一印象は幸薄そうといったところだ。

「やっぱりカイトか。幸薄そうな顔をしているね」

「お互い様だよ」

 ……どうやら向こうから見た僕もそうらしい。

「……どこか行く当てはあるのか?」

 僕はアカネに問う。

 まるで初対面とは思えないフランクさだ。

「当然。──私の家よ」

 本当に?

 僕が女子の家に上がり込むのか? それはどうだろうか。男子の家にすら上がったことがないのに、作法とか当たり前のマナーとか。

「最初はスーパーに買い出しだ」

 アカネは僕の内心に気づかず、すたすたと歩いて行ってしまった。

 まあ、いいか。なんでも。僕は彼女の後を続く。

 汗ばんだ手を握れば自由を掴んでいる気がして少し嬉しかった。



 **********

 


「おじゃまします」

 外見は普通の一軒家、内装も普通の一軒家だった。

 しかし、タバコ臭い。

 僕が鼻を利かせていると、アカネはバツの悪い顔をした。

「ちょっと煙が出るココアシガレット食べててさ」

「本当に食べたら死ぬから気をつけな」

 かなりストレスを感じていたんだろうな、と僕は雑感した。

 太陽は地平線に沈む間際、夏の陽は長いのでもう相当遅い時間だ。

 僕らはすぐに夕飯の準備に取り掛かることにした。

「私たちは今日、肉じゃがをつくろうと思う」

「了解……って言っても僕は全然料理できないよ」

「そこらへんは私に任せなさい」

 敬語を使って話していた辺りは、とても理知的な人物だと評価していたけれど、どんどんとそのキャラが崩壊している。

 本当に大丈夫だろうか。




 ──雲行きはアカネが包丁を両手で中段に構えた時から怪しかった。

「……ちょっと玉ねぎなんとかして」

「いや僕に言われても……」

 アカネは涙をボロボロと流し、僕は『肉を一口大に切れ』という指令の解読に四苦八苦していた。

 一口大ってなんだろう。具体的にどういう大きさのことを言うのだろうか。

 そうして僕とアカネは協力して夕ご飯の準備をしていた。もしくは戦場の上。

 彼女はジャンクフードばかり、僕は家の残り物ばかりを食べていたので、いきなり肉じゃがを作ろうなどとは無謀だったのだ。

 『肉じゃがはビーフシチューの失敗により出来上がった』とは有名な話だが、肉じゃがが失敗した派生料理はこの世に存在しているのだろうか。

「……あれ、砂糖ないけど」

 やっと肉を炒め終わったところでアカネはそう言った。

「一つくらいなくても大丈夫じゃないかな」

 レシピには10個くらい材料書いてあるし。

 1つ抜けたところで大した影響は出ないだろう。

「まあ、だよねー」


 

 そして何とか肉じゃがが形になった。

 僕らは肉じゃがのレシピに『いらない子』などいないということを思い知る。

「「いただきます」」

 炊飯器で炊いた白米と、苦労の末に生まれた肉じゃが。

 食べてみたら。

「辛っ。甘くない、なんで?」

「いや、なんでだろう。全然肉じゃがじゃない」

 僕らは総じてアホなので、砂糖を抜いたことが原因だとは全く気付かない。

 冷蔵庫からアカネは卵を持ってきた。

「あ、でも卵かけ肉じゃが丼にしたら結構いけるよ」

「じゃあ僕も卵貰っていいかな?」

「もちろん」

 誰かと談笑しながらご飯を食べたのなんか初めてだ。

 一緒にご飯を作り、一緒に食べて、一緒に楽しむ。

「……もしかしたら、こういうのを家族って呼ぶのかもしれないな」

 ただ食卓を囲んでご飯を食べるという状況に、僕は家族を感じていた。

 しみじみ白米の甘さを噛みしめていると、彼女は突拍子のないことを口走る。


「──だったら家族になろうよ。私達」


「え、どういうこと」

 急にプロポーズとかそういう? まだ早いと思わないですか。

「ここ住む? ってことだけど」 

「……?」

「今日から私と兄妹けいまいになろう」

「僕が兄かい」

「そんなのどっちでもいいよ。あれ? カイト何歳?」

「18」

「一個上か」

「じゃあ僕が兄だな」

 提案自体は魅力的だった。実家への愛? クソくらえだ。

「どっちでもいいよ……って結構乗り気だね」

 アカネは僕の表情を読み取る。

 しかし憂慮すべきは僕の気持ちだけではない。

「でもそんな金持ってないよ」

 金銭的な問題。食費も光熱費も二倍かかる。

 学費は僕の親が出してくれるだろうけれど。

 最悪出してくれなくてもいい。退学したとしても人生はそう変わらないだろう。

「さすがに学費は無理だけど、食費とかは全部親戚が出してくれるから心配しないで。私が大食いになったってことにするよ。……あいつらは私に早く死ねって思ってるだろうけど、私はまだ簡単には死なないね」

 アカネは悪い笑みをたたえる。

「……開き直りやがって」

 じゃあ、もうなるようになれ。

 『家出します』

 そう母にチャットした。

 いくら疎んでいても息子の家出宣言には少しくらい狼狽えてもいいと思うが、返信はほとんど間を開けることなく返ってきた。

 『そう。私達に迷惑かけないように』

 この答えが即返せる時点で、僕のことを息子とも認識していないんだな。

 別に悲しくともなんともないが、僕は醒めた目でチャットを見る。

 そして僕は彼女にその画面を見せた。

 アカネは「親じゃないね」と笑い言った。同感だ。

「世話になるな、アカネ」

「いやいやもうここはカイトの家。晴れて私たちは家族だよ」

 アカネはビールを冷蔵庫から取り出す。

 『家族』という響きが想像以上に心地よくて、胸が空いたように思う。

「「乾杯」」

 酒を飲むのは初めてであったが、そこに抵抗はなかった。

 しかし初ビールの味は最悪。なぜアカネが美味しそうに飲んでいるのか意味不明である。しかも一気飲み。

「カイトー。──じゃあ兄弟になったことだしセックスする?」

 ビール一本でアカネは酔っぱらっていた。

 どういう脈絡で『じゃあ』なのかわからない。

 しかし僕は迷わず首を横に振る。

 彼女に魅力がないというわけではない。例え彼女がグラビアモデル並の体型だとしても僕はそれを断るだろう。

「知ってるか。兄弟はセックスしないんだ」

「あら、そうなの」

 ぼーっと床に寝っ転がるアカネにブランケットを掛ける。

 どれだけ酒に弱いんだ。

「そうさ。僕らは家族だからな」

「おー。家族だ」

 月が消えた夏に。

 僕らはいらない子を卒業し、それから月の話題を出すことは一度もなかった。

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