第4話 春月の桜に君を想う

 休日の昼間だというのに、公園には誰の姿も無く、そこにあるのは木々が落とす影とセミの声だけだった。窓の外から見える景色は静止する夏そのものであり、世界の終わりすら感じさせる不気味さがあった。


 必要な事を除いて、外出してはならない。


 誰にでも出来る静かな戦いを僕達は続けていた。以前の生活を思えば外出の不自由は苦にならなかったが、窓から見える公園のベンチは、僕にとって再び遠い存在となっていた。


 秋が訪れ、冬が過ぎた頃、ようやく事態は収束し始めた。

 ニュース番組には明るい話題が。

 街には手を繋ぎ歩く若者の姿が。

 空には白い尾を伸ばす飛行機が、日を追うごとに増えていった。

 僕たちは数えきれない犠牲を払って、元の日常を再び手にしたのだ。

 

 季節は再び、春を迎えた。

 僕は独り公園のベンチに腰かけ、頭上に咲き誇る八重紅枝垂を眺めていた。夜空には青白い月が、ポツンとひとつ。

 ああ、綺麗だ。

 でもあの時観た景色は、もっと綺麗だった。その理由はわかっていた。わかっていたから、僕はそれ以上考えないようにしていた。


 公園の時計が一時を指す頃、袋から缶ビールを一本取り出して夜空に掲げた。八重に咲く桜の花びら越しに差す月の光が、優しく僕を照らす。あの時と同じ、変わらぬ光だ。


「月が……綺麗ですね。」


 誰に言うでもなく、独りごちた。


 返事をする声など何処にも無い。

 無いはずだったのに――

 僕の背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。


「『死んでもいいわ』なんて答え、ホントに縁起でも無いですよねぇ?」


 ガラゴロと大きな旅行カバンを引きながら、少し派手めの化粧をした彼女が、あの時と同じ無邪気な笑顔で現れた。


「いやぁ、お久しぶりですねぇ。ようやく帰国できました。おにいさんの言うこと聞いて、海外旅行なんて行かなきゃよかったですよぉ。」


「今、帰ってきたばかりなのかい?」


 上擦る声を隠すのが精一杯で、僕は自分がどんな顔をしているのかわからなかった。多分、くしゃくしゃの顔をしていたのだろうが、もうそんな事はどうでもよくなってきていた。


「空港から直ですよぉ。いやぁ、母には電話で散々怒られましたから、正直帰るのが怖いんですけどねぇ。」


 あれから彼女は夜の仕事を辞め、前々から計画していた海外旅行に単身行ったらしいのだが、旅先で封鎖された街から出れずにいたのだという。大使館が用意した施設で最低限の生活は保証されていたものの、事態が収束するまで出国は禁止されていたのだ。

 厳しい渡航制限が出る前に勢いで行った旅行だったらしいのだが、これはいくら責められても仕方がない行為だと思う。


 当たり前のことだが、空港で母親にも、旅行は猛反対されていたらしい。

 彼女の母親は謝罪の言葉と共に、『今のところ無事だから、帰国できたらまた会いに行く』という旨の伝言を、わざわざしに来てくれていた。本当に頭が下がる思いだ。


 文字通りへと行ってしまった彼女に、僕は再び会う事が出来た。

 伝えたい言葉は数えきれないほどあった。

 それでも、いざ彼女を目にすると、うまく言葉はまとまらず、ただ相槌をうってうなずくだけになってしまう。僕は変わらずダメな男で、彼女は相変わらずマイペースな女性だ。


「どうして……この公園に寄ったんだい?」


「だって、今夜は満月ですよねぇ?漱石そうせきだって、鴎外おうがいだって、外国の月を観て日本の月を想ってたんじゃないすかねぇ?」


「ああ……そうだね。」


「あと、そこ。私の特等席すよ?」


「知ってるよ。だからとっておいたんだよ。」


 僕はベンチに置いた袋を持ち上げ、ポンポンと座面を手で叩いた。当然のように彼女が隣に腰を下ろし、夜空を見上げた。放射状に垂れ下がる薄桃色の桜越しに、柔らかい月の光が僕たちを照らした。

 ああ、綺麗だ。本当に、綺麗だ。


「ごめん、僕はキミに謝らなきゃいけないんだ。許してもらえないかもしれないけど、僕はキミに酷いことを――」


 僕が絞り出すように発した言葉の先を塞ぐように、彼女が言葉を被せてきた。まるで詩でも詠むかのように、優しい声でゆっくりと。


「いやぁホントに、『月が綺麗ですね』ぇ。」


 伸びた語尾の余韻が、ひび割れた僕の心に染みた。

 戻ることの無いと思っていた日常を、失ったはずの世界のひとかけらを、僕がまた手にする資格があるのだろうか。僕のような酷い人間が。


 夜空を見上げていた彼女の視線がゆっくりと僕に向けられ、無邪気な笑みが浮かんだ。


 返す言葉が幾つもあるのは知っている。

 だけど、どこかで見たセリフを言っても、彼女はその全てを知っているだろう。僕は彼女の前では何も知らない男に過ぎないのだ。

 だから僕は、まっすぐな言葉で返した。


「『あなたのものですよ』」


 そう言って膝上にある袋から缶ビールを一本取り出し、彼女に手渡した。


 彼女は缶を受け取ると懐かしそうにラベルを眺め、ビールを一口、二口、喉に流し込み、胸の奥底からプハァと息を吐いた。

 

「いやぁ、初めてですよぉ。そっちの翻訳の方が良いと思ったのは。」


 飲みやすくて美味しいですよねぇ、二番絞り、と言いながら彼女は目の前にスマホの画面を出してきた。


「これは?」


「空港の待ち時間が結構あったんで、ちょっと書いてみたんですよぉ。向こうでもネットで小説を投稿してたんですけどねぇ。」


「書いてたんだ!」


 思わず甲高かんだかい声が出た。


「ったりまえじゃないですかぁ。おかげで暇潰しには困りませんでしたよぉ。」


 小説投稿のサイトが幾つもある事は知っていたのだが、彼女が利用しているとは想像だにしていなかった。彼女は昭和の文豪のように、四百字詰め原稿用紙に万年筆で執筆しているものだと勝手に思っていたのだ。

 結局、僕は彼女の事は何一つ知らなかったのかもしれない。


「すぐ読めちゃう量ですから、今読んでくれますかぁ?これで良ければ、サイトにアップしちゃいますんで。」


 全く人の都合を考えていない、本当に猫のような女だ。目を離すとまた、ふいと消えてしまうのかもしれない。思わず僕は苦笑いした。


 画面に目を落とすと、大仰おおぎょうな作者の名前が記されていた。


「この名前、凄く響きが独特だけど、何か意味があるの?」


「あー。それ私の本名の音読みですよぉ。私の名前はですねぇ、」


「待った!名乗るなら、僕から名乗らせてくれ!」


「はぁ?武士ですか?おにいさんはぁ。」


 このまま彼女のペースで進められたら、この先が思いやられる。そんな予感がしたのだ。


「ああ、僕の名前は――」


 言い終わらないうちに、彼女が無邪気な声で語尾に被せてきた。


「私の名前はですねぇ――」


 世界は終わらない。

 世界は続く。

 十年先も。

 百年先も。

 その先も、ずっと。

 

 スマホの画面には彼女の書いた小説が表示されている。

 四角く光る画面は、まるで小さな窓のようだ。窓の中には彼女が紡いだ世界が拡がっている。それは多分、今までに見たどの景色よりも美しいだろう。

 その小説のタイトルは――


『春月の桜に君を想う』


 互いに名も知らぬ男女の出会いと別れ。

 そして再会を描いた、暖かい物語だった。


                                     了

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春月の桜に君を想う マスク・ド・ゆーゆー @maskedyuyu

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