第3話 別離

 小雨が長々と降る、梅雨の日の晩のことだった。身体に染み付いた習慣からか、僕は深夜になっても寝付けない事が多く、その日も雨音を聞きながらぼんやりとベッドの端に座っていた。


 ふと窓の外に目をやると、公園のベンチのそばに傘をさして立つ女の姿が見えるではないか。時計の針は深夜一時を指していた。


 あれは?

 まさか!


 僕の心臓は早鐘を打ち、手の平にはじっとりと汗が滲んだ。何度も足がもつれながら階段を駆け降りる最中、僕の頭の中には最後に見た彼女の顔と声が思い出されていた。


 あんな酷い事を言ってしまったことを謝りたい。許されなくても、僕は謝らないといけない。泥水に顔を擦り付けてでも、彼女に謝らなければ。どんな言葉も受け止めよう。僕はそれだけの言葉を吐いてしまったのだから。

 僕は傘も差さず転がるように道路に飛び出し、公園のベンチへと駆けた。


 だが、そこに立っていたのは彼女に似てはいるが二回りも歳の離れた別人だった。薄ぼんやりとした傘の下で、疲れた顔の女性が口を開いた。


「あんたが……あの子が言ってた『おにいさん』なのかい?」


 即座に言葉を返せないほど、僕の呼吸は乱れていた。しかしそれ以上に頭が混乱して、その言葉をすぐに理解する事が出来なかった。


「夜中にこのベンチに座って、ビール片手に月見をしてる男がいるって言われたんだけどね。今日来なけりゃ、もうやめようかと思ってたところだよ。」


 聞けば、連絡手段を持たぬ僕に伝言を預かっているのだという。


「落ち着いて、よく聞くんだよ。

 『ごめんね。おにいさんの言う事を聞いておけばよかった。』

 それと――」

 

 最後まで彼女に付き添い、彼女を見送った女性。雨の中、傘を差して立っていたのは彼女の母親だった。その声は憔悴している事が容易にわかるほどであったが、それを悟らせないよう静かに、ゆっくりと落ち着いて話をしてくれた。


 僕はその言葉を聞き終えると、深々とお辞儀をした。


 本当に大切なものは、失ってからで無いとわからない。僕はこれから何を失えばそれを理解できるのだろうか。


 夜空には月も無く、黒く厚い雨雲が墨絵のように拡がっていた。

 僕の頬を、冷たい雨粒が流れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る