第2話 夢

 画家がある時を境にして、その画風を変貌させる事は珍しい事では無い。僕のアパートから見える景色も、あの時を境にして変わったのだと思う。

 ただ表面だけを観て美しいと感じていた景色は決して窓の外の絵空事では無く、僕の手で触れられる世界の延長にあった事に改めて気付かされた。

 彼女と出会った日から僕の世界は拡がり、確かな現実感を持ったのだ。


 桜の季節が終わっても彼女は深夜に、ふらりと公園に現れた。

 週に一、二度顔を合わせて他愛もない会話をし、約束とも言えぬ予定を告げてその場から去って行く。まるで猫のようなものだが、ビールを催促しないぶん猫の方が謙虚だと言えるだろう。


 「わたしねぇ、夢があるんですよぉ。」


 蒸し暑い夏の晩の事だった。ビー玉のような目を細めて、恥ずかしそうに彼女が話した事がある。


「小説をね、書きたいんですよぉ。誰かを暖かい気持ちにさせる、誰かを勇気づける、そんな小説を書きたいんですよぉ。」


 いつものように、だらしなく語尾が伸びる言葉だった。自分の夢を語る事が余程恥ずかしかったのだろうか。いつもなら僕の目を見て話す彼女の視線は、照れ臭そうに足元の雑草に向けられていた。


「書けるよ。キミなら。」


 決してお世辞ではなかった。アパートに引きこもっていた僕は今、就職する為に資格習得の勉強をしている。久々の暗記作業に四苦八苦したが、なんとか合格できるだろうという自信は出て来た。全て、彼女のおかげだ。彼女と出会った事で、僕はまた世界に触れる勇気をもらえたのだ。


「本当にそう思いますぅ?」


「僕は嘘をつかないよ。」


「えへへぇ。嬉しいなぁ!おにいさんに、められちゃったよぅ。」


 まだ僕たちは、互いの名前も知らなかった。『キミ』と『おにいさん』で会話は成立していたから、特に不便は感じていなかった。

 どちらかといえば、事でこの関係性が変わる事の方が僕には恐ろしかったのだ。連絡先の交換も必要無い。住所も知らなくていい。ただ、このぬるま湯のような心地良い関係に、もう少しだけひたっていたかった。


 それに僕は詮索したくは無かった。彼女がこの時間まで、何処で何をしているのか。いや、本当はわかっているのに聞きたくは無かったのだ。

 僕は自分の中で勝手に、彼女を聖女か何かのように扱っていたのかもしれない。


「そういえば今日、花火大会があったんですよねぇ。あぁ、仕事が無ければ観に行ってたのにぃ……」


「部屋の中にいたけど、結構大きな音が響いてたよ。凄かったみたいだね。」


「そうなんですかぁ……。来年はお休みもらって行きたいなぁ。ねぇ?」


 何が「ねぇ」なのかは理解できていたが、僕は「そうだね」と曖昧な返事をして誤魔化した。


   


 季節が変わっても、僕たちは変わらず深夜の公園で顔を合わせた。僕は必要以上に彼女の領域に踏み込まぬように距離をあけ、彼女もまた僕の触れられたくない部分をそっとしておいてくれた。そんな関係がまだ続くのだろうと、その時の僕は漠然とした都合の良い未来を想像していた。

 だが、予想もしないものが、僕たちを分断した。


 ×××ウイルスだ。


 誰もがそんな速度で拡がらないと楽観視していたウイルスは瞬く間に世界に拡散し、年齢、性別、人種に関わらず、大切な人の命を数えきれぬほど奪っていった。


 そして彼女も、へ行ってしまった。


 彼女には再三、注意していたのだ。ほんの僅かな不注意が取り返しのつかぬ事態に陥ってしまう事は、日々繰り返されるニュースを見ていれば誰もがわかっているはずだったのに。どうして彼女は理解してくれなかったのだろう。


 出来るだけ外ではマスクをつけていて欲しい。

 手を拭かずに、缶ビールを飲んじゃいけない。

 僕と話すときでも離れていた方がよいよ。

 遠くへの旅行は、今は控えるべきだ。

 そもそも僕なんかに会いに来てはダメなんだ。


 僕が彼女の行動に口を出す権利など無かったのだが、どこか物事を楽観的に考える彼女を危うく思い、感情的になってしまう事が増えていった。自分でも、それが少し過剰かもしれないと思っていたが、命には代えられないではないか。仕方がなかったのだ。


 もう一度だけ彼女と会うことが出来るのなら、その事で何度も口論になった事を謝りたい。僕は調子に乗っていたのだ。思い上がっていたのだ。


 正社員として採用され、社会復帰できたのは誰のおかげと思っていたのか。世界の本当の美しさを知るきっかけをくれたのは、誰だと思っていたのか。ああ、僕はあんな事を言うべきでは無かったのだ。



 あれは、花冷えの風が肌を刺す新月の晩のことだった。

 減ることの無い犠牲者の数に焦る僕は、いつものペースを崩さぬ彼女と口論になり、その果てに吐き捨てるように酷い言葉をぶつけてしまった。


「キミがこんな時間まで何をしてるか知らないけど、をしていると、いつか――――」

 

 その言葉を口にした瞬間、汚泥おでいのようにドロつく感情が僕の心を満たした。僕は自分が何を言ったのかわかっているはずなのに、どうしてそんな事を言ってしまったのかわからなかった。


 ああ、僕は結局こういう人間だったのだ。彼女の優しさに甘え、忘れてしまっていたのだ。自分が人間の真似事をする、クズ肉の寄せ集めのような存在だった事に。

 

 彼女のビー玉のような人懐こい瞳が、スウっと光を失うのが見てとれた。表情には、先程まで口論していた時の怒りも無ければ、悲しみも無い。まるで魂が抜け落ちた人形のような顔だった。その口が震えるように開き、聞き取れぬほど小さな言葉を落とした。

  

「……ごめんねぇ。してて――」


 それきり彼女は姿を消した。

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