赤い帽子のサーシャ

捨石 帰一

第1話 赤い帽子のサーシャ

Ⅰ 夏


 サーシャは草原の女の子です。草原はどこまでもどこまでも果てしなく続いていきます。

 『サーシャ』というのは、彼女の呼び名です。本当の名前は『空を見下ろす湖』、そういう意味の名前でした。

 サーシャの生まれたところでは、かわいい子どもを悪魔にさらわれないように、子どもにわざとおかしな名前をつけます。そうすれば、悪魔は「こんな変てこな名前の子はかわいくないに違いない」と思って、その子をさらわずに行ってしまうのです。

 でも、ふだんから『空を見下ろす湖』と呼ばれるのは、ちょっと変な気分です。お父さんも、お母さんもやっぱりそう思っています。だから、家の中では、『サーシャ』と呼ばれることになっています。亡くなってしまって、今はもういないおじいさんが、サーシャが生まれる前に、そう決めていたのでした。それは、遠い国の、昔いた英雄の名前なのだそうです。サーシャは女の子なのに…。けれど、サーシャはこの名前が何となく気に入っています。

 サーシャはいつも白い鳥の羽のついた赤い帽子をかぶっています。あまり口数は多くありませんが、出会う人には誰にでもニコニコと笑いかけます。


 ある晩のことです。サーシャは、パオ(サーシャたち家族が住んでいる羊の毛で作ったテントのことです)が軋む気配で目を覚ましました。隣に寝ているお母さんが寝返りを打ってサーシャの方に体を寄せます。外からは、ものすごい勢いで風が草原を吹き抜けている音が聞こえます。

 サーシャはお母さんにすりよりました。お母さんの胸はやさしく、暖かな寝息がサーシャを包みます。サーシャは安心してそのままもう一度うとうとと眠りかけました。

 その時です。嵐の中から不思議な声のするのが聞こえてきました。

「おいしい瓜は西のオアシス。東の空に砂の雨。南の国の雪の城」

 サーシャはぎゅっと目を閉じて身を固くしました。サーシャには分かりました。悪魔がやってきたのです。

 不思議な声はパオの周りをぐるぐると回っています。けれど中に入ってくることはできません。パオには魔除けがしてあるからです。

「ローラン、ミーラン、砂の城。ハミ瓜買うのは羊飼い」

 不思議な声はまるで歌うように呪いの言葉を唱えています。

 悪魔の姿は誰も見たことがありません。なぜって、悪魔を見た子どもは誰ひとり帰ってきたことがないのですから。

 表の囲いの中から、羊の低い鳴き声がします。こんな夜中に起きているなんて。羊たちには悪魔が見えるのでしょうか。悪魔を見たら、その羊もさらわれてしまうのでしょうか。

「北でささやく虹の壁。真昼の夜の朧月」

 表の羊たちの鳴く声が「助けて、助けて」と言っているように聞こえます。けれど、お父さんもお母さんも起きる気配はありません。

「ローラン、ミーラン、塩の海。ハミ瓜売りはもういない」

 気が付くと、いつの間にか嵐がやんでいます。羊たちの鳴き声も聞こえません。羊たちは、嵐と一緒に、もうどこかに連れて行かれてしまったのでしょうか。

「ハミ瓜売りはもういない。ハミ瓜売りは砂の底」

 悪魔の言葉だけがパオの周りを踊っています。

 サーシャは羊たちが心配でたまりません。羊がいなければ草原では暮らしていけません。

 お父さんに何とかしてもらわなければ。

 サーシャはお父さんを起こそうとして、ふと気がつきました。悪魔は子どもにしか見えない…。そうです。大人には悪魔が見えないのです。サーシャは、今まで悪魔を見たという大人には一度も会ったことがありませんでした。

「ローラン、ミーラン、砂の中。行方知れずの羊飼い」

 回り続ける悪魔の言葉。

 先ほどの嵐で、覆いが少しずれてしまったのでしょうか。きちっとふさいであったはずの天窓から細い風がすぅっと降りてきて、サーシャの頬をなでます。サーシャはそれまで閉じていた目をちょっとだけ開けてみます。天窓の覆いの隙間から、夜の空が見えます。不思議な声はきらきら青い光の粒になって、隙間から見える夜空に何か誘いかけるような模様を描いています。

 サーシャは表に出てみようと思いました。自分にしか悪魔が見えないのなら自分で何とかしなくてはなりません。

 なにより、羊たちを取り戻さなければ。それに、誰も見たことのない悪魔を見てみたい。ちょっとだけ、そう思ったからです。さすがに昔の英雄の名前で呼ばれている女の子だけのことはあります。

 サーシャは起き上がると、みんなを起こさないようにそっとパオの外へ出て行こうとしました。お父さんやお母さんに悪魔のことを話したら、自分でやろうとした決心がゆらいでしまいそうでしたから。

 その時、薄暗がりの中、白い羽根飾りが目の前にぼおっと浮かんで見えました。ハーナー(パオをまあるく囲んでいる木の枠組みの呼び名です)に引っ掛けておいたサーシャの赤い帽子です。サーシャは帽子を手に取って、両手でしっかりと頭にかぶりました。そして勇気を出してパオの外に出て行きました。

 パオの外は、見渡す限り右も左も頭の上も一面の星空です。遠く星屑の切れるところに、長く連なる山々の頂が、黒く空に分け目を描いています。

 不思議な声はもうしません。青い光の模様もどこかへ散らばって消えてしまいました。けれど、何かがじっとサーシャの方を見ているのが、冷たい夜の空気の中を伝わってきます。

 羊たちはどうしたでしょう。

 サーシャは一か所にかたまって丸くなっている羊の数を数えました。

 一、二、三、四…

 どうやら、悪魔に連れて行かれてしまった羊はいないようです。

 サーシャは、ほっとしました。

 その時です。

「あかーい帽子に白い羽」

 耳許でさっきとは打って変わった低い声が囁くように聞こえます。

「あつーい氷は黒い雪」

 嫌な臭いがほっぺたの回りをなでるように漂っています。それは、前に一度、お母さんが誤ってダメにしてしまった大切なミルクの腐った臭いに似ています。

 サーシャは足がすくんで、思わずぎゅっと目をつぶってしまいました。

 悪魔はサーシャのすぐそばにいます。それはサーシャにまとわりついている、あのいやぁな臭いで分かります。

 けれど、悪魔は何もしてきません。気配だけが、あっちへ行ったりこっちへ来たりするだけです。

「あかーいお肉に白い骨。迷子の羊は砂の底」

 悪魔の気配がすぅっと離れた隙に、サーシャはそっと目を開けてみました。

 悪魔は確かにそばにいるようです。けれど、どういうわけか、悪魔にはサーシャが見えないようでした。

 その時、ふとサーシャは気がつきました。上着も着ないで表に出たのにちっとも寒くない。何かとても暖かいものに包み込まれているような…

 何だろう?

 サーシャはもう一度目をつぶって、じっとその温かさを感じました。

 ああ、これは…。これは、おばあさんの温もり。

 それは、今はもう亡くなってしまった懐かしいおばあさんの胸の温もり。おばあさんと一緒にいる時いつも感じていた、おばあさんの暖かな息づかい。不思議なことにサーシャには、はっきりとそう分かるのでした。

 おばあさんが来てくれている。

 サーシャは帽子にそっと手をやりました。サーシャの帽子は、おばあさんがサーシャのために薬草を煎じた赤い汁で羊の毛を染めて織り上げてくれたものでした。

 おばあさんがいる。サーシャは嬉しくて泣きそうになりました。

「あかーい帽子、しろーい羽」 

 悪魔は、ときどき青い光の粉を黒い闇の中に散らしながら、あちらへこちらへと落ち着きなく動き回っています。悪魔の臭い息が近くなったり遠くなったりするのがサーシャにも分かります。けれど、悪魔はサーシャに触れることはできないようでした。

「あかーいあかーい、しろーいしろーい」 

 声の響きが苛々している。サーシャはそう感じました。

 羊たちは大丈夫。そろそろ中に戻ろう、悪魔に連れていかれないうちに。

 おばあさんの温もりに包まれて、サーシャは安心していました。それでも悪魔のいる方に背を向けるのはちょっぴり怖い。サーシャは後ずさりしながら、ゆっくりとパオの中に入ろうとしました。

 その時です。突然、悪魔の嫌な臭いがサーシャの上に覆い被さるようにまとわりついてきました。一瞬身をかがめたサーシャの頭の上を青い光の筋がかすめていきます。かがんだ拍子に帽子が脱げて足下にぽとりと落ちてしまいました。

 帽子の白い羽が、通り過ぎた青い光の残していった粒の中で震えています。

「見ぃつけたぁー」

 嬉しそうな悪魔の声がサーシャの頭の上で響きます。サーシャは身がすくんで動けません。どうしよう…

 次の瞬間、ゴーッという風の音と共に悪魔の臭い息が、サーシャの耳のすぐそばをなでるように通り過ぎていきました。

「あかーい髪、しろーい頬」

 サーシャは顔を挙げることができません。

 さっきまでのおばあさんの気配はすっかり消えてしまっています。

「しろーい頬、あかーい髪」

 悪魔の臭い息が今度はサーシャの反対側の耳許をなめるように通り過ぎます。

 悪魔に連れて行かれてしまう…

 その時です。突然、空いっぱいの星屑の中から、とてつもなく大きな稲光が、目の前の闇を切り裂いて落ちてきました。サーシャはしゃがみ込んで目をつぶりました。

 サーシャはそのままじーっと息を殺していました。何の音も聞こえません。

 サーシャはそぉーっと目を開けてみました。

 サーシャの足下に帽子の羽が白く輝いて見えます。

 ああ、おじいさん…

 サーシャは思い出しました。「星を裂く白い稲光」。おじいさんが、そう呼ばれていたことを。

 サーシャの帽子に飾った白い羽は、おじいさんの形見です。サーシャの生まれる前、獣から家族を守るために闘って、その時の傷が元で亡くなったおじいさん。その時いっしょに闘って死んだ、おじいさんの白い鷹の大切な風切り羽。それを、おばあさんはサーシャの帽子に飾りとして縫い付つけてくれたのでした。いつもこの子を守ってくれますように、と。

 おじいさんが来てくれた…

 サーシャは、勇気がむくむくと湧いてくるのを感じました。サーシャは、まっすぐ顔を挙げ、帽子を手にとってさっと立ち上がりました。

 目の前は真っ黒な闇。

 羊たちは稲光に驚く様子もなく静かに眠っています。

 悪魔は…

 悪魔の声はもう聞こえません。嫌な臭いも…

 遠く、空いっぱいの星屑がとぎれるあたりに、一瞬、青い光の粒がよぎっていくのがかすかに見えたような…いいえ、気のせいです。

 サーシャは、そっと帽子をかぶりました。

 そうしてしばらくしていると、だんだんと空の星が薄く闇の中に溶けていくのが見え始めました。そうです。夜が明け始めたのです。

 東の山の縁に朝日が顔を覗かせ、草原が暗闇からすっかり緑を取り戻したころには、サーシャはすっかり落ち着いて、いつもと同じおだやかで、そしてちょっぴりうきうきとした気持ちでいました。

 サーシャは駈けだしました。草原の空気が頬をなでていきます。

 サーシャには分かりました。

 悪魔を見るというのがどういうことなのか。どうして自分は悪魔に連れていかれなかったのか。

 朝のピンとした冷たい空気の中に、目覚め始めた家族の声が聞こえてきます。

 後ろからお父さんの呼ぶ声がします。サーシャは振り向くと元気良くお父さんの方へ駆け戻ります。

「どうした、何かいいものでも見つけたか」

 お父さんはサーシャを抱き上げて尋ねます。

「私、自分さえ怖がらなければ、怖いものなんて何もないんだって分かったの」

 お父さんはじっと娘の顔を見つめ、それからぐんと肩に担ぎ上げると羊たちの群の方へ歩き出しました。

 お父さんは心の中で思っていました。不思議なことがあるものだ、こんな小さな娘が、死んだじいさんと同じことを言い出すなんて。

「そうだ、怖いものは何もない。怖いというのは心がそう感じさせるだけの幻だ」

 サーシャはお父さんの広い肩の上で、胸いっぱいに朝の空気を吸い込んで、うーんとひとつ伸びをしました。サーシャは、お父さんと、そして羊たちの匂いに包まれて、とても幸せでした。


Ⅱ 冬の終わり


 サーシャは、ふだん、お父さんとお母さんと三人で羊を追って暮らしています。学校には冬の間だけ寄宿舎に寝泊まりして通いますが、それもほんの少しの間です。家族以外の人と出会うのはその時だけです。でも、サーシャは寂しいと思ったことはありません。サーシャはお父さんとお母さんが大好きでした。


 冬も終わりに近づいてきました。けれど、冷たくなった草原に何度もみぞれ混じりの雨が降り、羊の餌になる草も心配になるほど少なくなってきています。

 サーシャは毎日早く春になるようにお願いをします。誰にというわけではありません。心の中で、春の景色を思い浮かべて夜眠りにつくのです。

 一緒に寝ているお母さんの温もり。その温もりが春の景色の中に伝わってきて、毎日サーシャはとても幸せな気分で眠ることができました。


 ある朝のことです。久しぶりに、お日さまが灰色の雲の間から顔を覗かせて、光の筋を斜めに何本も草原に投げかけています。

 お父さんは羊たちを少し遠くまで連れていこうと朝早くから準備をしています。

 サーシャが起き出して、お父さんとお母さんと一緒に朝ご飯を食べ始めた時には、お父さんの支度はもう全部済んでいました。

「サーシャ、一緒に行くか?」

 お父さんは、その日、四つ丘を越えたところにある湖のほとりへ羊たちを連れていこうと考えていました。

 サーシャはそんな遠くへは行ったことがありません。もちろん、冬の間通う学校はもっとずっと遠くにある町の中でしたが、そこまでは学校の自動車で行きます。羊と一緒に湖まで歩いていけるか、サーシャはちょっと心配でした。

「大丈夫、馬で行く」

 サーシャの家では馬を一頭飼っていました。サーシャの生まれる前から家にいるということですから、ずいぶんとおじいさんのはずです。いくらサーシャが小さいからといってお父さんと二人で乗って大丈夫なのでしょうか。

「じゃあ、行って来る。天気が変わらなければ、行った先で泊まるかもしれない」

 お父さんはそう言うとサーシャを連れてパオ(サーシャたちが住んでいるテントのことです)を出ます。サーシャは慌てて自分の白い羽根飾りの付いた赤い帽子をぎゅっと頭に被って外に出ました。

 お父さんはちょっと空を見上げてます。雲はだんだんと晴れて、お日さまの光がとても気持ちよく感じられます。お父さんは何も言わずサーシャに顔を向けてにっこりします。そして口笛をぴゅぅっと吹いて馬を呼びました。

 馬の背にはもう鞍が積んであります。お父さんは軽々とサーシャを持ち上げると馬の背に乗せました。

 そしてお父さんはそのまま羊の方へ歩き出します。

 そうです。お父さんは、自分は歩いていくつもりだったのです。お父さんには分かっていました。サーシャがもう独りで十分上手に馬に乗れることが。


 湖までの道のりは大変厳しいものでした。草の枯れた、小さな岩のごろごろした大地が登ったり降りたりしながらどこまでも続いていきます。

 サーシャたちは何度も休みながら歩き続けます。馬もずいぶん辛そうです。でも、お父さんは自分の足でずっと歩きどおしなのに、全然疲れた様子を見せません。

 遅れがちになるサーシャと馬をときどき振り返り、そのたびにサーシャの目をまっすぐに見つめると、黙ったまままた羊を追って先を行きます。

 サーシャには分かりました。おとうさんが、サーシャの疲れ具合をちゃんと見ていてくれることが。決して無理をしなくても良いことが。サーシャは馬を急がせることなく、馬の歩調に合わせて、もくもくとお父さんのあとをついていきました。


 ずいぶん朝早く家を出たのですが、お日さまは、もう空の真ん中あたりまでやってきています。冬とはいっても、もう何時間も歩き続けていますから、馬の背で汗が湯気を立てています。

 目指す湖はまだなのでしょうか。

 目の前にひときわ険しい丘の斜面が広がっています。

 お父さんは、丘の麓で馬とサーシャがやってくるのを待っています。

「さあ、もう少しだ」

 お父さんは、馬の手綱を取ると、しっかり手に巻き付けて、一歩一歩滑りやすい斜面を登り始めます。羊たちも子羊を真ん中にして、上手に丘を登っていきます。

 ザッ、ザッ、ザッ

 あと少し、あと少し。

 羊たちが先を争うように丘の縁を越えて行きます。

 お父さんが、馬の手綱を引くのをやめます。

 馬の太い首の向こう、ぱっと開けたその前。サーシャは、生まれて初めての景色を見ます。

 真っ白な雪をかぶった山の頂を逆さまに映した大きな深緑色の湖。青い青い空の写し鏡のように波一つ立てずに、峰と峰の間に音もなく広がっています。

 サーシャは、お父さんと二人たたずんだまま、音のない世界に瞬きもせずにじっと耳をすませました。

 空を映した深い緑色がサーシャの心の中いっぱいに広がっていくのが分かります。

 気持ちいいというより、なにかとても怖いような、そんな気持ちがします。

 サーシャは、ずいぶんと長いことそのまま湖を見つめていました。

 気がつくと、お父さんがじっとサーシャの目を見ています。羊たちが、岸辺に降りて、時折鳴き交わしながら、草をはんでいるのが見えます。

 二人は、馬と一緒に、ゆっくりと湖の方へ降りていきました。


 湖の周りには、一足早く春の草が芽吹いています。お日さまに照らされたその草の上に腰を降ろすと、ひんやりと澄み切った空気をとおして、お日さまの光が心地よい温もりを運んできます。頭の上から、そして、お尻の下からも。

 サーシャは、ひだまりに首をもたげた気の早い小さな花のつぼみにそっとさわってみました。つぼみの綿毛から、ほんのちょっと春の匂いがしたような気がします。サーシャはとっても嬉しくなりました。

 お父さんは、羊たちがあまり遠くに行かないように、声が届くところに集めています。

 もちろん、羊が迷子にならないように。そして、もう一つ、せっかく芽吹いた春の草を羊が全部食べてしまわないように。

 すぐそばの湖の縁では、馬が水を飲んでいます。ずっと歩き通しで、汗をいっぱいかいたから。

 サーシャも馬の隣にならんで湖の水を両手にすくってみます。とてもきれいな澄んだ水、そして思ったより冷たくない。サーシャは、くっと水を飲んでみます。

「あーおいしい」

 水に味があるのかどうか分かりません。でも、サーシャは今まで飲んだ中で一番おいしい水だと思いました。


 しばらくするとお父さんが戻ってきて、馬の背に積んでおいた袋から包みを二つ取り出して草の上に広げました。お母さんが持たせてくれたのでしょう、ナン(小麦をのばして焼いたパンです)とバター茶(バターをお湯に溶いた栄養満点の飲み物です)。

 お父さんは、石で簡単なかまどを作り、火を起こすと、その上に金具のコップを置いてバター茶を暖めます。しばらくすると、コップからいい匂いが立ちのぼり始めます。

 サーシャは、すっかりお腹が空いて、さっきからお腹がぐうぐう鳴っていました。ただ馬に乗っていただけのサーシャがこんなにお腹が空いているのですから、ずっと歩き通しだったお父さんはサーシャの二倍ぐらい、もしかしたら十倍ぐらいお腹が空いているかも知れません。

 二人は、湖の方を向いて草の上に座り、羊たちの群を眺めながら、ちょっと遅いお昼を食べました。どういうわけか、いつものお昼より二倍ぐらい、いいえ、やっぱり十倍ぐらいおいしいとサーシャは思いました。今度はお母さんと三人で一緒に来たいな。サーシャは大きなナンを両手でしっかり持っていっしょうけんめい食べながら、そう思いました。


 それから午後いっぱい、サーシャとお父さんはのんびりと過ごしました。

 お父さんは、湖が見渡せる岩の上に寝ころぶと、起きているとも、寝ているともつかない様子で、気持ちよさそうにお日さまの光を浴びています。

 サーシャは、湖の岸辺から、水が澄んでいてずいぶんと先まで見える湖の底の様子を眺めます。ずーっと平らなようでいて、深い方へいくと少しおかしな模様があるようにも見えて、それが光の加減でゆらぐので、見ていてちっとも飽きません。けれど、お魚は一匹

も泳いでいません。前にお父さんと一緒に行った川には大きな灰色のお魚がいっぱい泳いでいたのに。

 サーシャは、もう一度、湖の底の深いところへ、じーっと目を凝らしました。さすがに、底の方は、暗い緑色に沈んでしまって、底の模様どころか、砂や岩の形も分かりません。

「なんにもいないのかな」

 そう言って、サーシャが、ふっと目を離そうとした、そのときです。サーシャの目の端でキラっと何かが光った…いえ、光ったように見えたのです。

 サーシャは、あわててもう一度湖の底を覗き込みます。でも、見えるのは真っ暗な深緑色の水ばかりです。

 サーシャはそれからずいぶんと長いことそのまま湖の底を睨んでいました。


 久しぶりに家を離れて、初めてやってきた大きな湖。サーシャは、その午後いっぱい、自分の心がうきうきと自由にお日さまの光の中を駆け回っているような感じがして、ほんとうに楽しくてたまりませんでした。

 でも楽しい時間はすぐに過ぎてしまうものです。

気がつくと、暖かかったお日さまが、もうすぐ西の山の影に隠れようとしていました。

 ほほをなでる空気もいつの間にかひんやりとしたものに変わっています。

 お父さんが、羊たちを一つところに呼び集める声がします。

 サーシャはお父さんに駆け寄ります。

「今日はここに泊まる」

 サーシャはお父さんを手伝って羊たちを集めます。

 その間にお日さまは山の影にすっかり隠れてしまい、山肌に赤い夕焼けを残して、あたりは次第に薄暗くなり始めました。

 お父さんは、馬の背から降ろした袋から、大きな固まりをいくつか出します。乾いた羊の糞です。

 草原には木があまり生えません。薪もありません。だから燃える物はとても大切です。もちろん町から買ってきた油を使うことも出来ます。けれど、油はとても高いのです。そこで、この乾いた羊の糞を燃やすのです。

 羊は草だけを食べます。だから、糞もそのほとんどが草の食べかすです。それをしばらく放っておいて乾かせば、乾いた草の固まりのようになって、立派に燃えるのです。

 お父さんは、湖を背にして羊たちを守るように火を灯します。

 その時です。

「ウォーン~」

 遠くの方から獣の吠え声が聞こえてきました。

 夕暮れ時はあっという間に過ぎて、あたりはもう真っ暗です。

 サーシャとお父さんは、燃える火の明かりの下で昼ごはんの残りを食べると、寝袋を出して羊たちを集めたそばに広げました。

「ウォーン」

 さっきより少し近いところでまた獣が吠えます。

 お父さんは、離れたところに、羊たちを挟むようにもう一つ火を起こします。獣は火を恐れるからです。

 サーシャは、獣の声のした方にじっと耳を澄ませました。

「大丈夫だ、遠くにいる」

 火を起こして戻ってきたお父さんは、サーシャの目をじっと見るとその大きな手でサーシャの頭をくしゃくしゃっとやりました。

 夜、獣が吠えることはよくあります。家のそばでも、時々獣の吠え声を聞くことがあります。それに、滅多にないことですが、家の羊が襲われることもあります。

 ときには、サーシャのおじいさんのように、獣に命を奪われてしまう人もいます。

 獣のことを考えると、サーシャは、少し怖いと思います。

 でも、サーシャも、羊たちも、そして獣も、みんなこの自然の中で生きています。自然の中でお互いにいろいろなものをもらいあって生きています。

 サーシャは黙って寝袋に入りました。

 仰向けに寝て見た雲一つない空には、今にも落ちてきそうなほどのたくさんの星が帯になって瞬いています。そして東の山の端には、とっても大きな満月が赤い顔を覗かせています。

 お父さんは、湖を背にして火の前に座っています。火の番をしていてくれるのです。

「おやすみなさい」

「おやすみ」

 サーシャは、寝袋に頭まですっかりくるまって、目を閉じました。


 どれくらい時間が経ったのでしょう。サーシャが目を開けると、ぼんやりとした丸い光が遠くの方に浮かんでいます。

 ああ、お月さまだ…

 もう真夜中なのでしょう。夜空の真ん中へんに小さくなったお月さまが輝いています。

 すぐ側では、変わらずに暖かく炎が燃えています。

 お父さんは炎を見つめて座っています。ずっと眠らずに火の番をしていてくれたのです。

「お父さん」

 サーシャは小さな声で呼びます。

 お父さんは顔を挙げてサーシャの方を見て、そして、微笑んでちょっとうなずきます。

 寝袋の中で身をよじってお父さんに顔を向けていたサーシャはもう一度顔をまっすぐにします。夜空の雲が月を覆い隠すように流れていきます。

 サーシャは、寝袋の中でまた目を閉じました。

 すると、それまでじっと座っていた馬が突然ブルッと鼻を鳴らしました。

 お父さんは、さっと立ち上がると、闇の方をじぃーっと見つめます。

 小さくはじける炎のパチパチという音のほかは、何も聞こえません。

 でも、サーシャは感じました。何かいる。

 月が雲に隠れてしまっていて、炎が照らし出しているサーシャたちのまわりから先は真っ暗で何も見えません。

 サーシャは、寝袋から這い出すと、そっとお父さんの側に寄り添いました。

 お父さんは寝袋の脇からライフルを取り上げると、撃鉄を起こして肩に構えました。

 羊たちが落ち着きなく押し合いながら、一つにかたまって騒ぎ始めます。

「ウルルルル」

 闇の中で低いうなり声がします。

 獣です。すぐ近くまでやってきたのです。

 闇に目が慣れてくると、炎の向こうの暗がりに青い小さな点が光っているのが見えます。

 一つではありません。二つずつ対になって、いくつもいくつも。

 その青い点が、だんだんと、だんだんと近づいて来るのが分かります。

 その時、ふいにあたりがぱぁっと明るくなりました。月が雲の間から顔を覗かせたのです。

 月明かりに照らされた岸辺。まわりに連なる丘。

 サーシャは、目の前の光景を見て、ぐっとのどが詰まって息が出来なくなってしまいました。

 昼過ぎにお父さんと一緒に越えてきた丘のふもと、なだらかに広がる草地に、身をひそめるようにしていくつもの黒い影が青い目を光らせて近づいてきます。

 獣の群です…オオカミが群をなして何十匹もサーシャたちを取り囲もうとしていたのです。

 羊たちは逃げ場をなくして悲しげな声で鳴き叫んでいます。

 馬は鼻を鳴らしながら、湖の方へ後ずさりしています。

 でも、お父さんは少しも動きません。

 じっとライフルを構えたまま、目の前のオオカミから目を離しません。

 前だけ見ていればいいのです。お父さんはちゃんと用心のために湖を背にして、羊たちを両脇から挟むようにして火を焚いていたのです。

 オオカミは少しずつ近づいてきます。

 最初の一匹は、もう目の前。大きく裂けた口の端からこぼれた赤い舌がはっきり見えるところまで来ています。

 その時、一瞬にして、またあたりが暗闇に包まれ…

 ズドォーン!

「ギャウン」

 赤い火花が散って、火薬の臭いがあたりに立ちこめます。

 月が雲に隠れた途端、最初の一匹が襲ってきたのです。お父さんは、それを見逃しません。

 オオカミたちは近づいて来るのをやめたようです。青い目がろうそくの炎のように止まったままゆらゆらと揺れているように見えます。

 お父さんとオオカミたちは睨み合ったままずーっと動かずに、じっとしています。時間が止まってしまったのかと思うほどです。

 月はまだ雲の後ろに隠れたままです。

 しばらくすると風が出てきました。

 丘の上から吹き下ろしてくるような強い風です。

 雨を運んで来る風です。まもなく雨か、それとも、もしかしたら雪が降り出すでしょう。

 風は羊たちの方へオオカミの臭いを乗せて吹きつけます。羊たちはますます怖がってひどい騒ぎようです。

 風はだんだんと強さを増してきます。

 サーシャたちから離れた方に焚いていた炎の先が、弱々しく千切れては闇の中に吸い込まれて行きます。

 このままでは消えてしまうかも知れない…

 サーシャは、火に燃える物を足そうと思い、お父さんの側を離れようとしました。

「動くな…」

 ズドォーン!

「ガウッ、ウルルルル」

 ズドォーン!

 火花が二つ。火薬の臭い。

 そして…


「お父さん、お父さん、大丈夫?」

「ああ…大したことはない」

 お父さんの上着が少し裂け、肩のところに血がにじんでいます。

「ごめんなさい」

 いつの間にか雨が降り出しています。

 仲間がお父さんを傷つけたことが分かったのでしょう。オオカミたちの青い目がまた少しずつ近づき始めます。

「気にすることはない。お父さんの側を離れるな」

 羊たちが悲鳴を挙げています。

 オオカミたちはますます近づいてきます。

 馬が嘶きながら水際を狂ったように右へ左へと逃げまどっている水音が聞こえます。

 炎は風に吹き飛ばされそうになったと思うと、また持ち直します。

 まだ、まだ、大丈夫…

 そう自分に言い聞かせるように祈りながらサーシャがお父さんの側にもう一度ぴたりと身を寄せたその時です。ひときわ大きな馬の嘶きが暗闇に響きました。

 何ということでしょう。遠い方の炎に馬が走り込んで蹴散らしてしまっているではありませんか。

 怖くて目が見えなくなってしまっている…

 炎はいくつかに割れて、小さな固まりになって弱々しく燃えています。

 雨がだんだん強くなってきます。

 見る間に炎が縮んでいくのが分かります。

 ズドォーン!ズドォーン!ズドォーン…

 お父さんが闇を目がけて、続けてライフルを三発撃ちます。

 オオカミに当たったかどうかは分かりません。

「ウルルルル」

 オオカミの唸り声が聞こえます。そちらでも、こちらでも。

 そして、とうとう、遠い方の炎が消えてしまいました。


 ズドォーン!ズドォーン!ズドォーン!ズドォーン…

 お父さんがライフルを撃ちます。

 さっきから悲鳴を挙げ続けている羊たちがどうなったかは分かりません。

 サーシャたちの周りにもオオカミは迫ってきています。

 目の前の炎一つだけではもう防ぎ切れません。

 オオカミがまた一匹サーシャたちに襲いかかります。

 ズドォーン!

 そしてまた一匹…

 ズドォーン!ズドォーン!ズドォーン!ズドォーン!ズドォーン…

 その時です。今まで丘の方から吹き下ろしていた冷たい風が、急にぴたりとやんだのです。

 そして今度は湖から丘の方へ、何か生暖かい風がすぅーっと吹き始めたのです。 あたりはすっかり冷え込んでいるというのに。

 その風が吹いた途端、オオカミたちの動きが止まるのが分かりました。唸り声も聞こえません。

 と、どうしたことでしょう。いきなりオオカミたちの青い目が次々と消えて行くではありませんか。

 丘を駆け上っていく獣たちの足音。

 オオカミたちはサーシャたちに背を向けて、丘の方へ、まるで逃げ出すように走って行く…

 気がつくと、もう闇の中にオオカミの青い目は一つも残っていません。

 ちょうどその時、雲の間からさっと月が顔を覗かせ、あたりがほんの一瞬明るくなりました。

 目の前の草地には、もう何もいません。ただ岩や木立が月明かりに照らされて薄く影を伸ばしているだけです。

 けれど、サーシャとお父さんの影は…

 そこには、黒い大きな影…二人をすっぽり隠してしまうほどのとてつもなく大きな黒い影が一つ。

 サーシャは思わず背中がざわざわしてお腹がすぅーっと冷たくなってしまいました。

 サーシャは恐る恐る振り返ります。

 その途端、影は見る見る縮んで行って、その上、雲がまたお月さまをその陰にさっと隠してしまいました。

 サーシャが見たもの、それは、雲の間から投げかけられた一筋の月の光にきらめいた青白い鱗のような物。そして、ザブンという大きな水音。それだけでした。


 朝になりました。

 お日さまの光で薔薇色に燃え上がった東の頂を愛おしむように、お月さまは優しい淡い光に包まれながらひっそりと向かいの山筋に姿を消して行きます。

 昨夜のことが嘘のように空は晴れわたっています。

 サーシャとお父さんは冷たい朝の空気の中で黙って炎を見つめています。

 二人とも朝まで一緒に目を覚ましていました。

 結局、オオカミの群がもう一度やって来ることはありませんでした。

 お父さんは熱いバター茶を一杯サーシャに渡しました。サーシャはそれを両手で包むようにしながらゆっくりと飲みます。体が中の方からほかほかしてくるのが分かります。

 羊たちもすっかり落ち着いた様子です。寝ているのか起きているのか、ひと固まりになって静かにしています。

 岸辺を逃げまどっていた馬は、羊たちの側に横向きに倒れて眠っています。馬が横になって眠るなどということは滅多にありません。よほど疲れてしまったのでしょう。

 サーシャは隣に座ったお父さんの顔を見上げます。

 鋭い眼差し。引き締まった口元。

 その顔はお日さまの朝の光に照らされてとても立派に見えます。

「お父さん、怪我は大丈夫?」

 お父さんはサーシャの顔をじっと見つめます。厳しい眼差し。けれどその瞳の中にはとても優しい光が宿っています。

「安心しろ。心配はない」

 お父さんの口元に浮かんだやさしい笑みを見て、サーシャは少しほっとします。


 しばらくするとお父さんは立ち上がりました。そして燃えている火の向こう側、少し離れたところへと歩いていきます。そこには一匹のオオカミが横たわっています。

 一番最初に襲いかかってきて、お父さんのライフルに撃ち殺されたオオカミの死体です。

 お父さんはその側に跪くと傍らにあった石で地面を掘り始めます。

 お父さんは黙ったまま掘り続けます。

 サーシャは手伝おうかどうか迷いました。けれど、掘り続けるお父さんの背中を見ていて、やっぱり手伝わないことに決めました。

 これはお父さんが自分が殺したオオカミのためにやってあげようとしていること…そう思ったからです。

 やがてちょうどオオカミの死体が収まるほどの窪みが掘り上がります。

 お父さんはオオカミの死体を静かに抱き上げると、そっとその窪みの中に横たえました。

 お父さんは少しの間じっとそのオオカミを見つめます。そして、その上に掘り起こした土を丁寧に被せました。両手で包むように、ゆっくりと。

 サーシャにはお父さんの気持ちが分かります。

 一番最初に戦いを挑んできたものに対する敬いの心。

 そしてなにより生きるものに対する慈しみの心。

 草原に住み、獣と共に暮らすものはみな、毎日の暮らしの中で自然にこの心を学び育てていくのです。

 結局、死んだのはそのオオカミ一匹だけでした。もちろん、ライフルの弾に当たって怪我をしたものはいたかも知れませんけれど。

 反対に、羊たちはオオカミに殺されることも、連れていかれることもなく、幸せなことにみな無事でいるようでした。

「そろそろ戻ろう」

 お父さんは土を被せ終わると立ち上がって言いました。

 サーシャとお父さんは火を丁寧に消してその上に土をかけます。火は野山を焼き払ってしまうほどの恐ろしい力を持っているからです。

 お父さんは横になっている馬を静かに起こします。そして優しく撫でながらゆっくりと立ち上がらせました。

 馬はまだ疲れた様子です。運んでもらう荷物は出来るだけ少なくしなければなりません。

 サーシャは寝袋を小さく丸めます。

 食べ物はみんな食べてしまいました。火を燃やすために持ってきた乾いた羊の糞もほとんど残っていません。

 自分は歩いて帰ろう…

 帰る支度をしながら、サーシャはそう決めていました。

 お日さまもだいぶ高いところまで昇ってきました。

 サーシャとお父さんは羊たちを連れて歩けるように小さな群にまとめます。

 いよいよ出発。

 その時、お父さんは湖の方に向かって跪き、片手を胸に当てると静かに深く頭を下げました。 

 お祈り…

 サーシャもその場で同じように湖に向かって頭を下げました。

 何の音もしません。羊たちまで鳴くのをやめて湖にお祈りをしているようです。

 しばらくそうして後、お父さんは静かに跪いていた体を起こして立ち上がりました。振り向くとサーシャが同じように跪いているのが見えます。お父さんは小さく微笑むと、羊たちの後ろから良く通る声で「ホーイ」と羊追いの掛け声を一声かけて羊たちを歩かせ始めます。

 サーシャも立ち上がるとお父さんと一緒に羊たちを追い始めます。サーシャが独りで歩き出したのを見てお父さんは馬の手綱を取ります。

「賢い娘だ…」

 お父さんは呟くようにそう言うと、また一声「ホーイ」と叫びました。

 サーシャは羊たちと一緒に湖を囲む丘を登ります。丘の向こうには白い峰々が遠く連なっているのが見えます。

 サーシャは丘を登りきると大きく一つ息を吐いて振り返ります。来た時と同じように白い頂を逆さに映した深い緑色の湖面がサーシャの目の中いっぱいに広がります。そして、来て初めて見た時と同じにとても怖いような気持ちがします。

 その時です。湖の真ん中当たり、お日さまの光がきらきら照り返しているところで一瞬何かが動きました。

 青白い鱗のようなもの。大きなお魚…それとも。

 それは、ほんの瞬きするくらいの間です。でも、サーシャには分かりました。それは昨日の晩サーシャたちを助けてくれたもの…。サーシャはあの時の…目の前に広がる黒い大きな影を見たときの背中がざわざわしてお腹がすぅーっと冷たくなるような気持ちを思い出しました。

 それでも、サーシャは「ありがとうございます」と目を閉じてそっとお礼を言うのを忘れませんでした。

 サーシャとお父さんはそれからずいぶんと時間をかけて来た道を戻りました。サーシャにはまだ独りでずっと歩き続けるのが大変だったからです。

 でも、サーシャはゆっくりとでしたが少しもへこたれることなく歩いていきます。


 途中で一休みした時のことです。

 並んで腰掛けて羊たちの様子を眺めていたお父さんがサーシャに言いました。

「昨日の晩のことはあまり人に言ってはいけない」

 サーシャは黙って、そう言うお父さんの顔を見ます。

「神さまのことは滅多に口にしてはならない。神さまは…静かにしているのを好まれるんだ」

 ああ、そうだったんだ。助けてくれたのはやっぱり湖の神さまだったんだ…

 どうして今までお父さんが助けてくれたものの話をしなかったのかもこれで分かりました。そして、湖に他に生き物が何もいなかったことも。神さまはきっと独りが好きなのです。お父さんが湖にお祈りしていたのも、騒がせてしまったお詫びの気持ちだったのでしょう。

 サーシャはこくんと一つうなずきました。

「あの湖に行くのは、本当に必要な時だけだ」

 お父さんはサーシャの目をじっと覗き込むように見つめました。そしてサーシャの目がいつもと同じようにキラキラ輝いているのを確かめるととても安心しました。

 この子はちゃんと分かっている…

 そして、ニッコリ微笑むとこう付け加えて言いました。

「おまえの名はあの湖から取ったのだよ」

 サーシャの名前。空を見下ろす湖…

 ああ、そうか。湖の底の神さまは水の底から空を見下ろしているんだ。

 サーシャはふっとそう想像して、少しだけ神さまが怖くなくなったような、そんな気がしたのでした。


 お日さまは空の真ん中へんまで来ています。

 サーシャのお腹はもうぺこぺこです。

 家まではもう一息です。

 サーシャは、おいしいお昼ご飯を作って待っていてくれるに違いないお母さんの姿を思い描くと、元気に立ち上がって羊たちの先頭に立って歩き始めました。

 暖かな風が少しだけ頬を撫でていきます。

 春はもうそこまで来ているようでした。


Ⅲ 春


 草原に春がやってきました。

 遙かな山々の頂は変わらずに白い雪をまとって青い空に背を伸ばしています。けれど、その空はお日さまの光を集めて日に日に色を深めています。

 冬の間に緑のマントをすっかり脱いで土色の肌を面に晒していた草原も、お日さまの日射しに綻んでそこここで暖かな春の装いに衣替えを始めています。

 新しい一年の始まりです。

 春はサーシャたち草原に住む人々にとって特別な季節です。

 人々は永い冬の間、パオの中に籠もって何日も過ごします。でも、ただじっと春を待っているわけではありません。

 冬の間、それぞれの家に昔から伝わっている手作りの品をこつこつと作り続けるのです。木彫りの品、染め物、織物…。春は出来上がったそれらの品々を、お互いに分け合って、一年の生活の糧にする季節なのです。作り方をずっと伝えてくれたご先祖に感謝しながら。


 サーシャの家に伝わるのは、色染めした羊の毛で織った丈夫な布に細かな刺繍を施したキルトです。

 一昨々年亡くなったサーシャのおばあさんはたいそうな名人で、毎年誰も真似のできないものを作ってはみんなを驚かせ、そして喜ばせました。

 もちろんサーシャが大切にしているお気に入りの赤い帽子もおばあさんが作ってくれたものです。

 サーシャのおばあさんが作ったものは本当に素敵でこの世に二つとないものばかりでした。おばあさんの作るものは、キルト作りをする他のどの家の品物と比べても抜きん出て素晴らしいものでした。

 けれど、おばあさんには、誰にも真似の出来ないキルトを作るための一つの秘密がありました。それは、サーシャの他は誰も知らないおばあさんだけの秘密でした。


 亡くなる前、足が弱くなって家の中にいることが多くなったおばあさんは、お父さんとお母さんが家畜を連れて外に出かけている昼の間、まだ小さかったサーシャと二人、留守番をしながら、いろいろなことをサーシャに教えてくれました。

 花の名前、草の名前、鳥の名前、動物の名前。チーズの作り方、バターの作り方。

 遠い山の向こうのそのまた向こうのもっと向こうにある青い青いお城の町の話。

 見たこともないとんでもなくたくさんの水が溢れている生き物のような「海」というものの話。

 亡くなってしまったおじいさんの話。人は死ぬとどこへ行くのかという話。

 魔術の話、悪魔の話。砂漠の中に消えてしまった湖の話。

 皇帝の話。盗賊の話。どこまでも続く煉瓦の塀の話…

 実は、馬の乗り方までおばあさんが教えてくれたのです。

 おばあさんはサーシャにお話をしながら、いつもキルトをこしらえていました。

 おばあさんの手は魔法のように色染めした羊の毛の丈夫な布をいろいろな大きさにあつらえます。ある時は敷物に、ある時は肩掛けに。そして帽子や鞄にも、布はおばあさんの手の中でさまざまに形を変えていきます。

 そして、それぞれにおばあさんは針と糸で細かな刺繍をしていくのです。とてもとても細かくてとても不思議な色合いをした、おばあさんだけの刺繍です。

 でも、おばあさんも初めからキルトを上手に作れたわけではありません。若い頃、キルトの上手な作り手になるための練習をたくさんたくさんたくさんたくさん重ねてきたからです。そして、おばあさんだけが知っているキルト作りの秘密…


 春浅いある麗らかな昼下がり、おばあさんはそのお話をサーシャにしてくれたことがあります。後にも先にもおばあさんがそのお話をしてくれたのは、その時ただ一度だけでした。なぜなら、そのお話は誰にも話したことのない、おばあさんだけの秘密のお話だったからです。


 それは、おばあさんの、そのまたおばあさんが生きていた頃のこと。


 おばあさんたちは、サーシャたちの暮らしている所からずいぶんと北の大きな大きな湖のほとりに住んでいました。おばあさんたちの一家は、ほかの家の人たちと一緒に湖の魚を捕って生活をしていました。

 けれども魚を捕ることが出来るのは暖かな季節の間だけでした。なぜなら、冬はその大きな大きな湖の面がすっかりと氷に覆われてしまうからです。

 そして湖の氷の上にいつの間にか降り積もる雪は、それまで見慣れていた景色を、ずーっと遠く遙か彼方までまっすぐ線を引いたように、平らで真っ白な世界に変えてしまうのでした。

 漁が出来ないのですから夏の間に蓄えたもので何とか冬を過ごさなければなりません。でもそれで家族みんなが生きていくのはとても厳しいことでした。ですから男の人たちは、雪の晴れ間を見つけては、鹿や野兎、狐や鼬を捕まえるために、危険を承知で狩りに出かけました。時には真っ白なとても立派な毛皮を纏った雪豹を獲物にすることもあります。けれど、前触れもなく変わる天気や、突然襲ってくる飢えた獣の群に邪魔されて、何も捕れずに帰ることの方が多いのでした。それでも諦めずに出かけては、どうにか冬の間の食べ物をやりくりしていました。

 その一方で、女の人たちは家の中から一歩も外へは出ませんでした。

 多くの女の人は冬の間、子供を育てます。本当は暖かい春に子供を産んで育てる方が良いにきまっています。けれど、春になると女の人も男の人と同じように働かなくてはなりません。赤ちゃんの面倒を見ている暇がないのです。だから、たいてい冬が始まる少し前、北の平原から氷のような冷たい風が吹き始める頃に、若いお母さんたちは、そろって子供を産むのでした。

 男たちは狩りに、女たちは子育てに、冬の間それぞれに役割を果たします。

 では、それ以外の者たち、若い娘や子供たち、そして年取ったおばあさんは何をして暮らすのでしょうか。

 冬の間、年寄りや子供たちは、一つの家に集まって過ごすことが多くなります。

 そこで、年寄りは子供たちに多くのことを教えます。

 まるで学校のようです。

 特に女の子たちは教わることがたくさんありました。

 とりわけ大切なことは、よいキルト作りになること。

 なぜなら、大人になれば日々の生活に必要な物すべてを自分の手で作らなければならなくなるからです。

 特に身に纏う物は大切です。布や糸はなかなか手に入りません。餌になる草を求めて旅をしている羊飼いの人々がやって来た時に、干した魚やめずらしい獣の肉の代わりに羊の毛から作った糸や布を分けてもらうしかありませんでした。

 その糸や布からこしらえたキルトは、ですからとても丈夫に作られていました。そして、破れても擦り切れても繕いながら大切に大切に使われているのでした。

 年取った女たちは、冬の間の多くの時間をキルト作りと、その繕いに費やします。

 幼い子供たちには、そんなおばあさんたちの手の動きはまるで魔法のように見えます。でもしばらくすると少しずつ自分たちの手にも魔法が掛かってくるのが分かります。

 冬が終わる頃にはみな魔法遣いのお弟子さんです。

 そうして、いく冬も過ごしていくうちに、立派なキルトづくりになるのです。


 サーシャのおばあさんは春に産まれた子供でした。

 ですからおばあさんは産まれてすぐに年寄りに育てられることになりました。なぜかといえば、おばあさんのお父さんとお母さん、それは、サーシャの曾おじいさんと曾おばあさんのことですけれども、二人とも、春にはみんなと一緒に湖に出て働かなければならなかったからです。

 サーシャのおばあさんは、年寄りたちにたいそう可愛がられました。

 冬に産まれた赤ん坊は、たいてい長い冬の間、お母さんがずっと側にいて育てるものでしたから、年寄りたちが、小さな赤ん坊を我が子のよう一日中面倒を見ることなど、普通はほとんどありません。ですから年寄りたちは、サーシャのおばあさんが可愛いくてならなかったのです。

 そんなわけで、サーシャのおばあさんは、大きくなってからも、年寄りたちにとって特別な子供でした。

 おかげで、おばあさんのキルトづくりの腕前は、何年かするうちに他の娘たちよりたいそう抜きんでたものになりました。なにしろ、年寄りたちが、それぞれに秘伝の技をおばあさんにこっそり教えてくれたものですから。


 サーシャのおばあさんがちょうど十五になった年のことです。

 その年はことのほか長く厳しい冬で、男たちは食べものになる動物を捕らえに、大変な危険を冒して、ずいぶんと遠いところまで出かけていかなければなりませんでした。ついには、あやうく命を落としそうになる者まで出てしまうほどでした。

 ようやく春になったと思えば、いつもの年より桁違いに多く降った雪の、その解け出した水のせいで湖が溢れ、思うように漁が出来ません。

 こんなことは今までに一度もありませんでした。

 このままでは暮らして行けません。

 蓄えはありません。

 これは何とかしなければならないとみんなが思い始めたある晩のことです。一番大きな家の中に、大人も子供もみんな、すべての家族が集まりました。

 冬の間、狩りに出かける時、リーダーをしていた男が言います。

「今までしてこなかったことを何かしなければならない」

 みんな黙ったままです。いったい何をすればいいと言うのでしょう。

 その時です。一番年寄りで一番物知りのおじいさんが低い小さな声で言いました。

「南に十日ほど行ったところに『都』がある。たくさんの人が住んでいる。本当にたくさんの人だ」

 みんな、おじいさんの言うことを黙ってじっと聞いています。

「そこでは『市』というものが開かれる。人々が品物を持ち寄って、必要なものを互いに交換し合う」

 みんなはおじいさんの方を見つめます。「都」とはいったいどんなところなのでしょう。「都」に行ったことのある者など一人もいません。

「そこへ行くのだ」

 おじいさんは顔を挙げてみんなの顔をひとりひとり見渡します。

「行って食べ物を手に入れるのだ」

「でも、何を持って行けばいい。食べ物と交換するものなど何もないじゃないか」  一人の若者がおじいさんに強い調子で言い返します。

 みんな押し黙ったまま下を向いています。誰も何も言いません。

 自分たちの持っているもので、人が欲しがるようなものなどない。みんなそう思っているようでした。

 ずいぶんと長い間、誰一人口を利きません。

 いつの間にか外では雨が降り出しています。天蓋を叩く雨音が息苦しいほどの静けさを少しだけ和らげてくれます。

 ポタッ、ポタッ…。どこかで雨が漏っているようです。

「キルトはどうかしら…」

 ふと、誰かが隅の方で小さな声で呟きます。

 みんなは、一斉に声の方へ振り返りました。

「キルトなら欲しがる人がいるかも知れない」

 まだ幼さの残るきゃしゃな体つきの娘が、みんなに見つめられて恥ずかしそうにしながら、それでもしっかりとした口調で言いました。そうです、サーシャのおばあさんです。

「そうだな…」 

 リーダーの男が頷きます。

「キルトは丈夫だ。何にでも使える」

「それにとても綺麗だと思う」 

 重苦しい雰囲気から解き放たれたみんなは、口々に賛成します。


 その翌日、選ばれた男が二人、まだ細かい雨が降りしきる中、選りすぐったキルトを担いで南の都へと出かけて行きました。


 二十日が過ぎました。都に行った者はまだ戻って来る様子はありません。

 湖での漁も相変わらず思わしくありません。溢れ出した水は一向に引かず、荒れた湖面からは魚たちのいる気配がまるで感じられません。

 あちこちでお腹をすかせて幼い子供たちが泣いている声が聞こえます。

 男たちは、とうとう漁を諦め、みんなで相談して、狩りに出かけることにしました。

 春は獣たちにとって子育ての季節です。ですから、春には狩りをしないという無言の約束がありました。

 親を狩ってしまっては子供は育ちません。きっと死んでしまうでしょう。もちろん子供を狩ることなど初めからやりはしません。同じ自然の中で暮らしている者として、次の世に繋がるものを摘み取ってしまうようなことは決して許されないからです。

 でも、このままでは、自分たちの命も危ない…。

 男たちは懸命になって野山を歩き回りました。けれど見つかるのは親子の獣ばかり。しかたなく、食べられそうな木の芽や実ったばかりの果実を探しては持ち帰るのでした。


 ひと月が過ぎました。その日は朝から一日冷たい雨が降っていました。

 みんなは家の中にいて何も出来ずにじっとしていました。

 狩りのリーダーの男の家もみんなのところと同じように、ひっそりと誰一人喋る者もなく静まりかえっています。

 気が付けばあたりは暗くなり、もう夕方になろうとしていました。

 その時です。

 家の外から何か引きずるような重い音が聞こえてきます。

 リーダーの男は用心しながら扉を開けて外をうかがいます。

 見ると、ずいぶんとやつれ果てた男が二人、一歩一歩何とか足を前に出しながら、家の方へふらふらと進んで来るところでした。

 都に行った者たちでした。

 二人が持っているのは、出かける時に抱えていったキルトの束だけ。他には何一つ持ち帰っては来ませんでした。


 その晩、みんなはまた一つ所に集まりました。

「『都』はとても華やかで、俺たちなんかには誰も見向きもしない…」

 都へ行った男の一人が言いました。

「『市』で品物を交換するやり方もよく分からなかった」

 もう一人が下を向きながら呟くように言いました。

 それでも二人は都で道行く人にキルトを手にとってもらおうと、一生懸命頑張ったのです。けれど、結局誰一人キルトに目を留めてくれる人はいなかったのでした。

「『市』ではどんなものが取り引きされているの?」

 サーシャのおばあさんが尋ねます。

「食べ物、着物、綺麗な器…動物もいた」

 都へ行った男が答えます。サーシャのおばあさんは聞きます。

「欲しいものはあった?」

「みんな欲しくなったな。どれもみな素晴らしく見えた」

 都へ行ったもう一人の男が答えます。サーシャのおばあさんは聞きます。

「私たちのキルトよりも?」

 都へ行った男たちは考えます。

「…いや、俺たちのキルトも負けないくらい素晴らしい」

「では、なぜ誰も欲しがらなかったの?」

 サーシャのおばあさんは尋ねます。男たちは黙っています。ずいぶん長いこと二人は黙ったまま考えます。

「…誘い方かもしれないな。『市』に品物を並べている人たちは話しっぷりがとても上手い」

「俺たちはうまく人を呼び止められなかったな」

 二人は下を向いたままぼそぼそと言います。

「そんなふうに話してたんでは誰も振り向かんだろさ」

 隅の方から女の人の大きな声がかかります。

「そりゃそうだ」「誰も気が付かん」

 みんな一斉に笑い出します。久しぶりの笑い声です。

「まず、人の目を引く工夫をしないとな」

 リーダーの男がみんなを見回して言いました。


 その晩遅くまでみんなは話し合いました。

 もう一度都の市へキルトを持っていこう、でも、今度は市に来ている人々に、キルトを持ってきていること、そして、それがとても素晴らしい品物であることをちゃんと伝えられるようにしよう。

 みんなは一生懸命考えました。

 そして、今度は三人で都に行くことになりました。

 一人は見上げるほどの大男の若者。

 一人は一番おしゃべりの上手な女の人。

 そしてもう一人はサーシャのおばあさんでした。

 市で、大男が人目を引いて、そこで女の人が上手に話しかけ、目の前でキルトづくりの上手なサーシャのおばあさんが刺繍をするところを見せれば、きっとみんなおもしろがって立ち止まり、キルトを手に取るにちがいない。みんなそう考えたのです。

 それに何よりサーシャのおばあさんはたいそうな美人でしたし。市には遠くから品物を運んでくるため、若い男の人がたくさん来ているということでしたから。


 それから二日後、サーシャのおばあさんたち三人は、都に向かって出発しました。送り出すみんなは、本当に乏しい蓄えの中から何とか旅に必要な食べ物を工面してくれました。 

 十日の道のりは平穏なものでした。お腹は空いていましたが、春の景色が三人の心を軽くします。都に着けば、すぐにでもキルトと食べ物を交換できそうな気がしてきます。

 森を抜け、草原を渡り、そして十日目。とうとう三人は都の門の前に辿り着きました。

 小さな森のほとりを流れる川の向こう、川に渡された細い橋のその目の前に大きく立派な都の門がそびえています。

 大きく開け放たれた門からは、都の大通りが遙か向こうまで見渡せます。

 いろいろな服を着た人々が大勢歩いています。

 三人は門の前で一度顔を見合わせると、ゆっくりと中へ入っていきました。なるべく胸を張りながら。

 都の大通りは中にはいると外から見たのより一層にぎやかで活気に満ちていました。

 通りのあちこちからいろいろな言葉が聞こえてきます。なかには聞いたことのない言葉もありました。

 三人はそのままどんどん歩いていきました。すると、程なく四方から道の集まった大きな広場が見えてきました。

 そこは本当に大勢の人でごった返していました。みんなそこここで大きな声で何かを喋り合っています。何だか、まるで喧嘩をしているように見える人たちもいます。

 そこが「市」でした。

 みんな大きな声で品物の交換をしているのです。 

 ここで品物を交換し合うのは思っていたのよりずっと大変そうです。

 だいたい、どこにどうやって品物を並べたらいいのでしょう。

 広場は人と物でいっぱいで、どこにも空いている場所などなさそうです。

 三人は広場の中を、空いている場所を探して歩き回りました。

 大勢の人をかき分けながら市の中を歩くのは一苦労です。

 何より三人はこんな人混みの中を歩いたことはありません。

 少し行っては人にぶつかります。

 特に大男の若者は大きなキルトの束を担いでいます。行き交う人はみんな邪魔そうに顔をしかめます。

 ちょうどそこへ、向こうから同じように大きな荷物を担いだ男がやって来ました。市の中の通り道は二人の大男が荷物を背負ったまま行き違えるほど広くはありません。けれど相手の男はかまわずにどんどんやって来ます。

 三人はよけるによけられず、おたおたしてその場に立ち止まってしまいます。そして、とうとうぶつかって、お互いの荷物が落ちてそこら中に散らばってしまいました。

 相手の男は凄い形相で怒鳴っています。何を行っているかは分かりません。聞いたことのない言葉です。男は怒って、今にも殴りかからんばかりです。こちらの若者も怒鳴ってこそいませんが、同じくらい怒っています。このままでは喧嘩になってしまいます。

 騒ぎで周りに人だかりが出来ます。誰も止めようとはしません。反対に面白がっているようです。男たち二人は立ち上がって顔がくっつきそうなほど近づいて睨み合っています。

 一緒に来た女の人は座り込んで泣いています。サーシャのおばあさんは、もうどうしたらいいか分かりません。大男の若者の腕を取って、とにかくその場を離れようと引っ張りますが、若者はまったく動こうとはしません。

 サーシャのおばあさんは二人の間に入って、若者の体を押して二人を引き離そうとします。相手の男は何か怒鳴ると、太い手でそれを払いのけます。

 サーシャのおばあさんは勢いあまって地面に投げ出されてしまいます。

 その時、周りを囲んでいた人だかりの中から長い手がすっと伸びてきて、サーシャのおばあさんを優しく助け起こしました。

 見上げるとそこには顎の下に髭を生やした眼差しの鋭い若者が立っています。頭に白い鷹の羽を差した真っ赤なキルトの帽子を被っています。

 若者はつかみ合いを始めた二人の男の方へ進み出ると、黙ったまま二人の腕を掴んでぐっと引き離しました。あまりの力に二人はびっくりして若者の顔を振り返ります。若者は二人の腕をくるっと捻ると、そのまま二人を地面に組み伏せてしまいました。

 そのままの姿勢で若者は相手の男に何か囁きます。男は頷くと、離してもらった腕をさすりながら、散らばった荷物を黙って拾い始めます。そして拾い終わるとそのまま人混みの中に消えて行ってしまいました。

 周りに集まっていた人たちもいつの間にかいなくなってしまいました。赤い帽子の若者は黙ったままサーシャのおばあさんたちの荷物を拾ってくれています。三人も慌てて荷物を集め始めます。

 程なく散らばっていたキルトを集めてもう一度一つに束ねることが出来ました。幸い品物はみな無事のようです。

 三人がほっと胸を撫で下ろしていると、赤い帽子の若者はそのまま無言で立ち去ろうとします。サーシャのおばあさんは行こうとする若者に向かって慌ててお礼を言います。

 若者は振り返ると、少し口元を緩め、ちょっとだけ笑顔のような表情を浮かべると、そのまま行ってしまいました。


 通り道の真ん中に取り残された三人は、しばらくぼんやりとたたずんでいました。

 すると、すぐ脇の道端から呼ぶ声がします。

「あんたらその荷物を市に出したいんだろう。わしゃ明日にはここを立つから場所を譲ってやるよ」

 声をかけてくれたのはその場で獣の干し肉を広げていた男でした。

 品物の交換がうまくいったのでしょう。干し肉はもうほとんどなく、代わりにいろいろな品が後ろに丁寧に荷作りされて積み上げられています。

 サーシャのおばあさんたちは、その晩その男の人に夕食をご馳走になりました。久しぶりに食べる肉の味は格別のものでした。その上、三人はその男の人から余った肉を少しだけ分けてもらうことが出来ました。


 翌日から、その場所でサーシャのおばあさんたちはキルトを並べて道行く人に声をかけ始めました。

 前の日の騒動のおかげもあるのでしょう。時々、大男の若者に目を留めては、立ち止まって三人の様子を眺めていく人がいます。そういう時は、すかさずおしゃべり上手な女の人がその人をつかまえて、キルトに興味を持たせようと愛想良く話しかけます。

 けれど、なかなかキルトと自分の持ち物を交換してくれる人は現れません。みんな一度は手に取るのですが、あまり欲しいとは思わない様子で行ってしまいます。

 その日は、結局何一つ交換できずに暮れてしまいました。

 次の日も朝から一生懸命声をかけました。

 サーシャのおばあさんも人々の目の前でキルトに器用に刺繍をして見せたり、キルトを何枚か持って広場の向こうの方まで行っては、市を見て回っている人や、品物を並べている人に声をかけて回ったりしました。

 けれども、やっぱり誰一人キルトを欲しがる人はいないのでした。


 その次の日はどんより曇った空模様で、昼前から細い雨が降り始めてしまいました。

 一日中いつも人でいっぱいの市の開かれている広場でしたが、さすがに雨が降っては人出もまばらです。

 サーシャのおばあさんたちも、キルトが濡れてしまってはいけないので、広場の真ん中に一本立っている大きな木の下へキルトを背負って移動します。場所を取っておくために大男の若者を残して。

 大きな木の下には、他にも大勢の人が品物を持って集まっています。多くの人々は都の中の知り合いの家に泊まったりして市に来ているのですが、サーシャのおばあさんたちのように都に知り合いなどまったくいない人たちは広場で寝泊まりして過ごしています。この木の下に集まって来ているのは、みんなそういう人たちでした。

 長く市にいる人同士は顔見知りになりますから、せまい木の下ではあちらこちらで話の輪が広がります。

 けれどサーシャのおばあさんたちは、来たばかりでまだ親しくするような人がいませんでしたから、隅の方で黙って小さくなっていました。

 そうしてしばらく過ぎた時でした。霧のように降る雨の中を人影がこちらにやってきます。場所取りに残っていた若者が、やまない雨に音を上げて雨宿りにきたのでしょう。

 ところが、近づく人影は立派な白い羽根飾りのついた赤い帽子を被っています。そして、その人影はサーシャのおばあさんたちの前に来ると立ち止まりました。

 市に着いた日、助けてくれた若者でした。

「この前はありがとうございました」

 サーシャのおばあさんは立ち上がると頭を下げてもう一度丁寧にお礼を言いました。

 けれど若者は黙っています。もしかしたら言葉が通じないのかも知れません。

 そのまましばらく二人は黙ったまま向かい合って立っていました。

 すると若者はサーシャのおばあさんに着いてくるように手で合図をすると、雨の中へ歩いて行ってしまいます。

 サーシャのおばあさんとおしゃべりの上手な女の人は顔を見合わせました。女の人はどうしたらいいか分からないという顔をしています。

 結局サーシャのおばあさんは若者のあとをついていくことにしました。


 若者は市の広場を出るとそのまま都の家々の立ち並ぶ通りを進んでいきます。雨のせいで通りにはほとんど人が出ていません。

 しばらく行くと若者は一軒の一際大きな建物の扉を開けます。そしてサーシャのおばあさんが来るのを待って中へ招き入れました。

 家の中では男が何人か床に丸くなって座って何かを飲んでいます。壁際には羊の毛が山のように積んであります。他にも、たぶん羊のでしょう、干した肉や、白いミルクの固まりのようなものが置いてあります。

 男たちはじろじろとサーシャのおばあさんを眺めます。サーシャのおばあさんは恥ずかしくて耳まで赤くなってしまいます。

 若者は奥の部屋へ入っていきます。サーシャのおばあさんも慌ててその後を追いかけました。

 そこはずいぶんと暗い部屋でした。明かり取りの窓が一つもないからです。サーシャのおばあさんは暗闇の中で目が慣れてくるのを待ちました。

 しばらくするとあたりの様子がなんとなく分かるようになります。

 壁には何か布のようなものが掛かっています。そしてそれがだんだんはっきりしてくると…

「あっ…」

 サーシャのおばあさんは自分の目に見えたもの驚いて思わず小さな叫び声を挙げてしまいました。

 そこには今までに見たこともないほど立派なキルトの織物が掛かっていたのです。

 サーシャのおばあさんはしばらくその織物に見とれてしまいました。

 色使いのなんて鮮やかなこと。描かれた絵柄のなんて素敵なこと。刺繍もこれほど細かいものは見たことがありません。

 さらに周りを見回すと、同じように立派なキルトがいくつも壁に掛かっているではありませんか。

 これでは、サーシャのおばあさんたちのキルトを欲しがる人などいるわけがありません…。

 サーシャのおばあさんは、なんだか急に悲しくなってしまいました。それまでのことがいろいろ思い出されてあとからあとから涙が溢れてきます。

 その様子を見て、今まで黙ってじっとサーシャのおばあさんの顔を見ていた若者は、ひどく慌ててしまいました。サーシャのおばあさんがなぜ泣いているか分からなかったからです。

 けれどサーシャのおばあさんはいつまでも泣いてはいませんでした。

 服の袖で涙を拭くと若者に尋ねました。

「このキルトはあなたたちが作ったの?」

 若者はしばらく黙ってサーシャのあばあさんの顔を見つめます。そしてゆっくりと言いました。

「俺の母さんたちが作ったものだ」

「どうしたらこんなに上手に作れるの?」

 いきなりの質問に若者はどう答えたらいいか考えている様子でした。

「おまえたちのキルトも上手に出来ている」

 サーシャのおばあさんは納得しません。

「あなたたちのキルトとは比べものにならないわ」

 若者はじっとサーシャのおばあさんの目を見つめました。そしてずいぶん長いこと考えた末に、またゆっくりと答えました。

「おまえたちのキルトは上手に出来ている。上手に出来てはいるが、しかし一つだけ足りないものがある」

「それはいったい何?」

 サーシャのおばあさんは尋ねます。その声はとても真剣です。若者はサーシャのおばあさんの目を見つめながらゆっくりと答えます。

「おまえは…妖精を信じているか?」

「妖精?」

 サーシャのおばあさんは一瞬からかわれているのかと思いました。けれど若者の目はまっすぐにこちらの目を見据えています。

「このキルトには一枚一枚、一つ一つに妖精が宿っている」

 サーシャのおばあさんは若者が何を言おうとしているのか一生懸命考えました。

「何か…魔術のようなものを使うというの?」

「そうではない。妖精が宿るのだ」

 サーシャのおばあさんは若者から視線を外し、下を向いて目をつぶりました。

「分からない…」

 そのままサーシャのおばあさんは黙ってしまいます。若者はひどく困ってしまいました。 若者はおそるおそるサーシャのおばあさんの肩に手を乗せます。サーシャのおばあさんは若者の方に顔を挙げます。そして言いました。

「その方法…キルトに妖精を宿らせるやり方を教えてもらえないかしら」

 若者はサーシャのおばあさんの肩に手をかけたままその顔をじーっと見つめます。本当にあまり長いこと見つめられたものですから、サーシャのおばあさんは少し目眩がしてしまったほどです。

「本当に知りたいか」

「ええ」

 若者はサーシャのおばあさんに背を向けると部屋の反対側へ少し歩いていきました。そして背を向けたまま小さな声で言いました。

「これは俺たちの一族だけの秘密の技だ」

 若者はそこで一つ息を飲み込みます。

「もし、おまえが…どうしても知りたいと言うのなら…俺たちの一族に、俺たちの家族にならなければならない」

 黙ったままの二人の息づかい、そして雨だれの音だけが聞こえます。

「ええ、なるわ…」

 サーシャのおばあさんはたいそう頭の良い娘でした。

「あなたのお嫁さんに」


 こうしてキルト作りの秘密を教わったサーシャのおばあさんのおかげで、キルトと食べ物を交換して、サーシャのおばあさんたちみんな、なんとかその年を乗り切ることができました…おばあさんのお話はそれでおしまいでした。


「キルトの中に妖精が住むようにするにはどうすればいいの?」

 サーシャはおばあさんのお話の最後のところがよく分かりませんでした。どうしたら妖精がやってきて素敵なキルトになるのか、お話の中ではぜんぜん説明されていないと思ったからです。

「それはね…いつか、サーシャがもう少し大きくなったら教えてあげよう」

 そう言うと、おばあさんはなんだか本当に楽しそうににっこりと笑いました。


 どうやら、サーシャはお話の一番最後、一番大切なところを聞き逃していたようです。

 今でも、おばあさんが作ったキルトには、不思議な妖精が宿っています。


Ⅳ 夏の終わり


 夏も終わりに近づいたある晴れた日のことです。

 その日は、朝からとても風が強く、空がいつもよりずいぶん高いところへ持ち上がってしまったようでした。

 空を舞う大鷲が、ずぅーっとずぅーっと上にいて、まるで砂粒のように見えます。


 草原の夏はあっという間に過ぎていきます。

 こんなふうな風の強い日を何回か繰り返すうちに、いつの間にか夏は終わって、気が付くと、もう毛皮の上着を着なければ外へは出られなくなっているのです。


 朝食のあと、いつもなら羊を追って出かけていくお父さんは、空を見上げて、小さな小さな大鷹の飛ぶ様子をじっと眺めています。

 朝食の片づけを終えて家から出てきたサーシャもおとうさんと並んで空の高いところを見上げます。雲一つない空は、どこまでもどこまでも高く広がっていて、まるで底なしの大きな大きな青いお椀のように見えます。

 サーシャは見ているうちに、なんだか体から命が抜け出て空の向こうに吸い込まれていってしまうような不思議な気分がして、思わず空の端の境にある山の縁へと目を落としてしまいました。

 けれどお父さんはまだじっと空の様子を見つめています。

「今年は冬が来るのが早いかも知れない。それに雪も多い」

 お父さんは空を見上げたまま誰に言うともなくそう言います。

「どうして?」

 サーシャは尋ねます。

 お父さんはゆっくりサーシャの方を向くとまた空を見上げて言います。

「大鷹があんなに高く舞っている。北の冷たい風があんなところまで鷹を吹き上げているんだ。北の風は雪を運んで来る。強い風はそれだけたくさんの雪を運んで来るんだ」

 お父さんは、サーシャを抱き上げると、肩に乗せて羊たちの方へと歩き出します。

「もう、じきに雪が降る」

 お父さんは何かを考えているようでした。


 その日、お父さんは羊たちを家の回りの目の届くところに放して、草原には連れて行きませんでした。

 サーシャは家の前に座って、独りで羊たちの番をします。

 家を背にして日溜まりにじっとしていると、いつの間にか鼻の頭に汗の粒が浮いて来ます。

 草原をわたって来る風がサーシャの回りをくるくると舞って通り過ぎていきます。

 ちょっぴり冷たい氷の匂いがする…サーシャは、ふとそんな気がしました。


 お昼過ぎ、お日さまが南の空の向こうですこーし傾きかけた頃、お父さんが家から出て来ました。

 どういう訳か狩りに出かけるときのように銃まで携えてすっかり身支度を整えています。それに、あまり神さまやご先祖さまには頼らないお父さんでしたが、めずらしくお守りの白い鷹の羽を帽子に差しています。きっと遠くに行くのです。

「町の市まで出かけてくる。四、五日戻らないが、その間、母さんと二人でしっかり羊の番をしていておくれ」

 サーシャの頭に手を置いてそう言うと、お父さんは家の裏で草を食んでいた馬の背に大きな荷物を二つ乗せ、羊たちのうちから大きくて立派なものを二匹選び出すと、馬の手綱を引き、羊を連れて西の丘の方に向かって歩き出しました。

 立ったまま黙ってその後ろ姿を見送るサーシャ。その肩にそっと置かれた温かな手の温もり。

 サーシャは、いつの間にか後ろに立っていたお母さんの懐に、前を見つめたまま深く身を委ねました。


 サーシャはその晩初めてお母さんと二人きりで床に就きました。

 お父さんと二人で出かけて一晩過ごしたことはありましたが、おばあさんが亡くなってからは家ではいつも三人一緒でした。

 サーシャは何だか寝付けません。

 隣からお母さんの寝息が聞こえます。しんとした家の中でお母さんと二人きりでいるのは何かくすぐったいような気がします。

 いつまでもそうしていたいような、早く朝が来て欲しいような不思議な気分です。

 サーシャはお母さんを起こさないようにその手をそっと握りました。

 お母さんの手はとても柔らかくて暖かです。気がつくといつの間にかサーシャも小さな寝息を立てていました。


 翌朝、サーシャとお母さんは早めに朝ご飯を済ませると羊たちを家の回りに放しました。 サーシャはまた家の前に座って羊たちの番をします。

 お母さんはいつものとおり家の仕事をしています。

 サーシャは空を見上げます。

 かわらずに青い色がどこまでも高く広がっています。

 お日さまはちっとも動きません。

 長い長い一日になりそうです。


 どのくらい時間がったったのでしょう。

 ガラガラという大きな音でサーシャは目を覚ましました。どうやら少しうとうとしてしまったようです。

 あたりを見回すと何やらすっかり薄暗くなっています。

 その時、目の前の丘の上を稲光がさっと走りました。そしてほとんど間を置かずガラガラガッシャンととてつもなく大きな音が響きます。

 と、見る間に大粒の雨が降ってきました。

 羊たちは雷に驚いてメェーメェー鳴きながら右往左往しています。

 サーシャは立ち上がると羊たちがちりぢりにならないように、急いで囲いの中に追い込もうとします。

 けれど、次々と光る稲光に羊たちはすっかりおびえてしまって、サーシャの言うことなど聞かずに勝手に走り回ります。

 それでも、サーシャは雨でびしょ濡れになりながら、何とか羊たちを囲いの中に入れて落ち着かせることが出来ました。

 サーシャはお母さんを探して家の中を覗きました。

 けれどもお母さんはいません。どうやら川へ水を汲みに出かけてまだ戻っていないようです。水汲みはお昼前に毎日必ずしなければなりません。夏の間、草原ではこうして雨の降ることがあまりないので、雨水を溜めておいて使うことが出来ないからです。

 サーシャは、もう一度外へ出て、お母さんが戻って来ないか川の流れている丘の方を眺めました。するとそこに何か白い物がうずくまっているのが見えます。

 その時、また丘の上を稲光が走りました。うずくまっていた物は、驚いて丘の向こうに走って逃げて行きます。

 羊です。

 サーシャは、急いで囲いの中にいる羊たちを数えました。

 一、二、三…

 一匹足りません。サーシャはもう一度数えます。やっぱり一匹足りません。

 サーシャは囲いの中をよーく見ます。どの子がいなくなったの…

 サーシャはお父さんのように羊たちの全部を見分けることは出来ません。でも、何匹は分かります。

 どうやら、いなくなったのは、この春産まれた子どものうちの一匹のようです。顔が真っ黒のオスです。いつも群から離れて独りで草を食べていた子です。

 どうしよう…

 サーシャは考えました。

 お母さんが戻って来るまで待とうか…でも、急がないと羊がどこかへ行ってしまう。

 草原で暮らす者にとって、羊はとても大切な財産です。たった一匹でもなくすわけにはいきません。

 それに、サーシャはお父さんにしっかり羊の番をするように頼まれました。

 お父さんはサーシャを信頼してくれたのです。けれど、サーシャは居眠りをして…

 サーシャは降りしきる雨の中を丘に向かって駆け出して行きました。


 雨はますますひどくなってきました。サーシャは頭から水を被ったようにずぶ濡れです。けれど羊は見つかりません。サーシャが丘の向こうまでやって来た時には、もう羊はどこかに行ってしまっていました。

 昼だというのにあたりはすっかり暗くなってしまっています。 

 あいかわらず雷はすぐ側でゴロゴロと唸りをあげています。

 とにかく探さなくっちゃ…

 サーシャは次の丘を目指してどんどん歩いていきました。

 いつも見慣れている景色のはずなのに、何だかとても冷たい感じがします。吹きつける風に草がまるで蛇のように踊っています。

 サーシャは立ち止まってあたりを見回しました。

 逃げ出した羊はどこにも見あたりません。

 羊はそんなに速く走ることが出来ません。そんなに遠くに行けるわけがないのです。

 サーシャは歩き続けました。

 雷が反対の方向へ離れていくのが分かります。風の向きが変わって、雨がまともに顔に吹き付けてきます。

 その時です。どこかで羊の鳴き声がしたような気がしました。

 立ち止まってサーシャは耳を澄まします。

 聞こえます。

 小さいけれど、確かに羊の鳴いている声がどこからか聞こえてきます。

 けれど、どこにも姿は見えません。

 サーシャは目を閉じてもう一度じっと耳を澄ましました。

 そんなに遠くではありません。

 その声は吹き付ける風に乗って目の前の草原のどこかから運ばれて来ています。

 サーシャは目を開くと回りを注意深く見回しながら歩き始めました。

 鳴き声は風の吹き過ぎる音と一緒に遠く近くサーシャの回りを通り過ぎていきます。

 けれども一向にその姿は見えません。

 サーシャは注意深く歩き続けます。鳴き声はどんどん近づいて来て、ほんのすぐ側から聞こえます。

 いったい、どこから…

 と、突然、目の前の草の切れ目にぽっかりと大きな裂け目が、まるで耳まで裂けたオオカミの口のように、暗い縁を覗かせているではありませんか。

 風に吹き倒された草がその開いた口の上に覆い被さるようになびいています。

 サーシャはもう少しで裂け目の中に落ちてしまうところでした。

 すると…

「メェー」

 どうやら、羊はこの中に落ちてしまっているようです。

 この前このあたりに来た時にはこんな裂け目はありませんでした。

 きっと地震で地面が割れてしまったのに違いありません。

 サーシャは生まれてから何回か地震にあっています。その度にお父さんや、それから亡くなったおばあさんに地震について色々なことを教わっていました。地震はとてつもなく大きな力で、丘から丘そのまた先の丘の向こうまでまっすぐに地面を割ってしまうことがあるのです。

 サーシャは裂け目の縁に手をついて、そぉっと下を覗き込みました。

 裂け目は、まっすぐに切り立った壁が下の方まで細く切り込んでいます。

 底の方は暗くて見えません。

 羊の鳴き声はその底の方から聞こえてきます。

 サーシャは、もう少しよく見ようと前へ顔を出して底の方を覗きました。

 と、手を付いていた濡れた草がすべって、一瞬体が前に放り出されました。

 あぶないっ…

 掴むところをなくした手が何もない空気を掻き回します。

 頭は裂け目の中に向かって逆さまに落ちていきます。

 もうだめっ…

 サーシャは思わず目をつぶりました。


 落ちる、と思って身構えたサーシャ、けれど…何も起きません。

 恐る恐る目を開くと目の前に裂け目の壁が迫り、下の方に暗がりが潜んでいるのが見えます。その底の方にサーシャの赤い帽子が小さく落ちているのがぼんやりと見えます。

 どうやらサーシャは下まで落ちずに、途中の何かに引っ掛かったようです。

 首を回して足の方を見上げると、ズボンの裾の折り返しが突き出た岩に刺さるように掛かっています。

 裂け目の口はそれほど上ではありません。

 まっすぐ切り立っているように見えた裂け目の壁でしたが、上からは見えないところに岩がごつごつと飛び出しています。

 サーシャは、近くの岩の出っ張りに手をつくと、ズボンの折り返しが切れてしまわないように、そぉっとそぉっと上下逆さまになった体の向きを変えていきます。

 雨でしめった岩を伝ってどうにか体をまっすぐにした時には、サーシャはもう汗でびっしょりになっていました。もっとも、その前から雨ですっかり濡れ鼠になっていたのですけれども。

 サーシャは裂け目の縁まで何とか登れないかと上を見上げました。けれどもサーシャのいるところから上は飛び出た岩が少なくて、手を掛けるところも足を掛けるところも見あたりません。

 下の方はと覗いてみると、裂け目は下に行くほどごつごつと岩がたくさん飛び出していて、見える限りは何とか降りて行くことが出来そうです。

 このままここにじっとしていてもしかたがありません。

 じっとしていると手も足もだんだんと冷えてしびれてきます。

 それに、おばあさんのこしらえてくれた赤い帽子をこんなところでなくしたくありません。

 サーシャは、少しずつ下へ降りて行くことにしました。


 あいかわらず羊は鳴き続けています。

 その鳴き声はサーシャが下へ降りるにつれてどんどん大きくなっていきます。

 もう少しで裂け目の底に着くというところで、片方の足を引き吊りながら羊がこちらにやってくるのがサーシャの目に入りました。

 どうやら落ちて怪我をしたようです。

 サーシャは用心深く最後の一歩を踏み出すと裂け目の底におっかなびっくり立ちました。底は尖った葉っぱの先のようになっていて、ちゃんと立つには狭すぎたからです。

 上を見上げるとずいぶんと深いところまで降りてきてしまったのが分かります。灰色に曇った空が筋のように細く一本の線になって左右に伸びています。

 雨も底まではあまり落ちてきません。

 サーシャは落ちていた赤い帽子を拾うと、ぎゅうっと頭に被りました。

 羊は足下にすり寄ってくると「メェー」と小さく鳴きます。

「まったく…あんたのせいで」

 サーシャは、羊の頭に手をやると、そのもじゃもじゃ頭をやさしくくしゃくしゃっとやりました。


 あとはどうにかして裂け目から外に出るだけです。

 裂け目の底は狭いながらも何とか歩いていくだけの幅がありました。

 右か左か、どちらかに歩いていくしかありません。いずれにしても上には登れないのですから。

 サーシャは裂け目を覗き込んでいた時のことを思い出していました。

 左手の方にはいくつかの丘が重なっていてそれがだんだんと険しい山並みへと連なっていました。

 右手の方にはなだらかな丘の向こうにどこまでも続く平原が広がっていました。

 裂け目の端はきっとここより狭くて深さもそれほどではないでしょう。もしかしたら地面に向かって少しずつ浅くなっているかも知れません。

 だとすれば、どちらかの端に向かって歩いていけば外に出られるはずです。そして、なだらかなところに出た方が家に戻りやすいに決まっています。

 そこで、サーシャは向かって右手の方向へと歩き出しました。もちろん怪我した羊を気遣ってゆっくりゆっくりと。


 歩き始めてからずいぶんと時間が経ちました。もうお昼はとっくに過ぎているはずです。もしかしたら夕方に近い時間かも知れません。

 見上げれば、頭の上に細い帯のように続いている空は、あいかわらず灰色に曇っています。けれど、どうやら雨は上がったようです。

 足場の悪い湿った土の上を歩き続けるのは思ったより楽ではありません。

 おまけに怪我をした羊の歩く速さはとてもゆっくりとしていて、その上時々休まなくてはなりません。

 ずいぶん時間が経っているのに、本当はちっとも進んでいないのではないかしら…サーシャにはそう思えてなりませんでした。

 そのうち何となくあたりが見えづらくなってきました。上を見上げると空が濃い灰色に変わり始めています。どうやら本当に夕方になってしまったようです。

 ここで一晩明かさなくてはならないのかしら…

 あまりそれは気が進みません。もちろん夜になってもここなら獣に襲われることはないでしょう。こんなところにわざわざ下りて来る動物はいないはずです。

 けれども、何となく気味が悪くて落ち着きません。狭くてじめじめしていて。

 それにまた地震が起きたらどうなってしまうでしょう。

 地震…

 サーシャは前にお父さんが言っていたこと思い出しました。

「大きな地震が来ると一晩で湖の水が枯れてしまうことがある。その水がどこへ行ったかは誰にも分からない」

 そうだ、きっとその水は地震で出来たこういう地面の裂け目に流れ込んでしまうんだ。水が流れ込んで来て裂け目が水でいっぱいになったら、浮かび上がって外に出られるかも知れない…いいえ、そんなことはあるはずありません。もし本当にそんなことが起こったら、おぼれてしまうだけです。

 それに、地震で開いた裂け目なら、地震でまた閉じてしまうかも知れない…

 薄暗がりをとぼとぼと歩いていると、悪いことばかり思い浮かんで、何だかとても暗い気持ちになってきてしまいます。

 濡れたままの体を乾かすことも出来ず、家を出てから何も食べていないサーシャは、すっかりくたびれてしまっていました。

 まだまだ裂け目の端には辿り着けそうにありません。

 しばらく行くとちょっとだけ平らなところに出くわしました。

 サーシャはそこに座り込むと濡れたままの服を脱いで脇にどけました。そして、羊をかかえるように抱きしめてそのまま横になりました。

 羊のお腹はちょっと獣臭くて、そしてとっても暖かでした。


 どれくらい時間が経ったでしょう。羊がもぞもぞ動き出す気配でサーシャは目が覚めました。頭の上に見える空の帯は青白く光っています。どうやら一晩経ってお日さまがまた戻ってきてくれたようです。

 一晩寝たおかげでサーシャはすっかり元気を取り戻していました。もちろんお腹はとっても空いていましたけれど。

 サーシャは服を着ると、羊を連れてまた歩き始めました。


 それから数時間、お日さまが細い空の帯を通り過ぎて行こうとした頃、ようやく裂け目の端が先の方に見えてきました。

 サーシャの足は自然と速まります。何だかのどもとっても渇いてきています。速く外に出て家に帰りたい。思わず羊を置いてどんどん先に行ってしまいそうになります。

 ところが…

 裂け目の底の道はそこで唐突に終わっていました。

 裂け目の端はそれまでと同じ深さでまっすぐ切れ込んでいて、その先で両方の壁がぴったりと合わさっています。

 登るための手がかりも何にもありません。

 サーシャはとっても悲しくなりました。

 けれど泣いている訳にはいきません。水も食べ物もなくて、こんなところでいつまでもぐずぐずしていたら、悪くすれば死んでしまうかも知れません。

 サーシャはすぐさま来た道を引き返し始めました。

 反対側の端に行ってみなくては。そちらからなら出られるかも知れない…

 

 サーシャは一生懸命歩きました。一晩経って少しは傷がよくなったのでしょうか、羊も懸命についてきました。


 サーシャたちは、あたりがすっかり暗くなって何にも見えなくなるまで歩き続けました。 上を見上げても、もうどこまでが裂け目の壁でどこからが空の帯なのか全然分かりません。

 サーシャも、そして羊ももうくたくたに疲れ切っていました。

 のどはからからに乾いています。疲れているので思わず口で息をするとひりひりと痛むほどです。

 サーシャの頭の中を「もしかしたらもうダメかも知れない」と言葉が通り過ぎていきます。

 でも、サーシャは一生懸命その言葉を頭の中から追い出します。

 こんなことぐらいでへこたれたりなんかするもんですか…

 けれど頭はボーっとして、足もふらふらと一歩一歩何とか前に踏み出しているだけ。

 目も、本当にもう見えているんだかどうだか分からなくなってしまいました

 その時です。

 頭の上から一筋の光がキラキラと差し込んで来たではありませんか。

 見上げると、今まで雲の間にでも隠れていたのでしょうか、半分欠けたお月さまがちょうど頭の上の空の帯のところに顔を覗かせています。

 そして目の前には裂け目の端が見えています。

 そうです。とうとう裂け目の反対側の端に辿り着いたのです。

 サーシャは思わずその場にへなへなと座り込んでしまいました。

 こちら側の裂け目の端はうまい具合に岩が幾重にも突き出ていて、手掛かり足掛かりがたくさんあります。

 これなら外へ出ることができそうです。

 けれど…

 一度座り込んだサーシャはもう立つことが出来なくなっていました。

 サーシャの体はサーシャが思った以上に疲れ切っていたのでした。

 このままここで眠ってしまって明日起きてから登ればいい…

 サーシャはそう思って座ったまま目を閉じました。その時、頭の上の方から不思議な声が響いてきました。

「眠ってはいけない。さあ、顔を挙げて」

 サーシャはその声に促されるようにもう一度目を開けて裂け目の端から外の方を見上げました。

 するとそこには何か生き物がいて、こちらの方を見ています。

 白い大きな鳥です。大鷹です。

 それはこの間北の風に吹き上げられて遠く空の彼方を舞っていたあの大鷹でしょうか。それとも、地面の裂け目に風切り羽を落としていった白い鷹なのでしょうか。

「あたし、登れそうにないわ」

 サーシャは誰に言うともなくそう呟きました。

 その声が聞こえたのでしょうか。

 白い大鷹は黙ったまま大きく一つ羽ばたくと月夜の空へ舞い上がっていきます。そして、羽ばたいた翼から抜け落ちた白い羽が一本、いつまでもいつまでもキラキラと月明かりに舞っていました。


 気が付いた時、サーシャはお母さんの胸の中に抱きかかえられていました。

 目を開いたサーシャを見てお母さんはニッコリと微笑みます。そしてちょっと怖い顔をして、サーシャを抱いたまま両手でサーシャのほっぺたを軽く叩きます。

「ごめんなさい」

 声にならない声でサーシャはお母さんに謝ります。何も言わないけれど、お母さんがどんなに心配していたかはその顔を見れば分かります。

 あたりはまだ薄暗くお月さまの明かりだけが二人を照らしています。

 サーシャの胸の上には白い立派な羽が一つ置かれています。まるで目印のようにそこだけ白くぼーっと輝いています。

「メェー」

 すぐ側で羊の鳴き声が小さく聞こえます。どうやら羊も助け出されたようです。

 サーシャはまた目を閉じました。

 サーシャは目を閉じたままお母さんにすっかり身を委ねます。サーシャはお母さんのいい匂いに包まれて心の底から安心していました。


 サーシャはそれから二日間家の中で寝ていました。お母さんに助けられて家に着いた途端、びっくりするほど高い熱が出てしまったからです。 

 けれどお母さんが付きっ切りで看病してくれたおかげで三日目にはすっかり熱も下がり、少しなら起きて家の回りを歩けるようになりました。

 助けた羊もお母さん羊が看病したのでしょうか。お母さん羊に寄り添うようにして元気に歩き回っては、草を食べています。


 その日、お昼を食べた後、家の入り口の前に座って羊たちを眺めていると、遠くの丘の縁に小さく動く者の姿が見えました。だんだん近づいてくるその影は次第に人と馬の姿になってこちらに向かってやって来ます。

 サーシャは立ち上がると大きく両手を振ります。あんまり勢いよく手を振ったので、被っていた帽子に手が当たって脱げてしまいます。白い羽が二つ…元から縫いつけてあったのが一つ、その脇に差し掛けてあるのが一つ、脱げた帽子の上でまるで手を振るように揺れています。

 こちらに近づいて来る人影も手を振っています。馬の背には大きな荷物がいまにも落ちそうなほど高く積まれています。

 羊のお乳を搾っていたお母さんも気が付いてサーシャの方を向いてニッコリ笑います。

 人影はだんだん近づいてくると最後は小走りになって叫びます。

「ただいま!」

 サーシャを抱き上げたお父さんの顔はこぼれんばかりにほころんでいました。


 その夜、サーシャは五日ぶりにお父さんとお母さんと三人で床に就きました。

 夕ご飯の時に、お父さんが町へ羊を売りに行って居なかった間のサーシャの冒険をすっかり話したので、いつもより寝る時間が遅くなっていました。

 お父さんが帰ってきて安心したからでしょうか、それともサーシャを付きっ切りで看病して疲れたからでしょうか、お母さんは横になった途端に寝息を立て始めました。

「お父さん…」

 サーシャはお父さんに小さな声で話しかけます。

「ん?」

「あたしね、どうしても分からないことがあるの」

「…」 

 お父さんは黙って聞いています。

「お母さんがどうやって裂け目の中に居る私を見つけ出して、独りで上まで運び上げてくれたのか。それも真夜中に」

「…おまえは、白い鷹を見たと言ったね」

「うん」

「夕ご飯の時は、あんまりおまえが一生懸命話すものだから言わなかったんだけれど…ちょうどおまえが裂け目の中で倒れていた頃だと思うんだが、実はお父さんも白い鷹を見たんだ。夢の中で」

「え?」

「というより、白い鷹の目を通して倒れているおまえの姿を見た…と言った方が正しいかも知れない」

「じゃあ…もしかして、あたしに『眠っちゃいけない』って言ったのは、お父さん?」

「ああ…そう、かも知れない。夢の中では確かにそう言ったが」

「そのあとお父さんはどうしたの?」

「おまえが『登れない』と言うので、助けを呼びに行った…」

「空を飛んで?」

「ああ…そして家までやって来て、お母さん起こして、そしてお母さんを連れてまた戻って来た」

「お母さんは不思議に思わなかったのかしら…」

「さあ…お母さんは何も言わないからな」

 しばらく二人は目を開いたまま黙って天井を見つめていました。天窓から星がまたたいているのが見えます。もうすっかり秋の星空です。

「…お父さん」

「ん?」

「お守りの羽…なくしたでしょう?」

「ああ…ちょうど鷹の夢を見た日、だったかな」

「あたし、持ってるから…」

「…うん」

 サーシャは、お父さんの方に右手を伸ばして、その手をぎゅっと握りました。お父さんの手はとても大きくて硬く、まるで岩のようです。

 そして、今度は左の手を伸ばすと、お母さんを起こさないようにそっとその手を握りました。

 するとそっと握り返して来るのが分かります。サーシャはお母さんの方を見ます。お母さんは目を閉じたまま規則正しく寝息を立てています。

 サーシャは目を閉じて二人の手の温もりを感じます。

 お母さんは何も言わないけれど、その手はいつも変わらずに柔らかくて、そしてとても暖かでした。


Ⅴ 冬


 どんよりと曇った日の続く冬の、めずらしく晴れ間の広がったある午後のことです。

 サーシャはお母さんと二人、家の前に座って、冬枯れた草原の残りわずかな草を探し出しては飢えを凌いでいる羊たちの番をしていました。

 お父さんは狩りに出かけています。サーシャたちの食べる物も乏しくなってきていました。

 サーシャは何するでもなく羊たちの様子を見つめています。羊たちは鳴き声一つ立てずに前足で荒れた土を掘っては、食べられる草を探しています。

 お母さんは朝からキルトを編んでいます。冬の間はずっとそうして過ごします。

 サーシャは傍らでキルトを編むお母さんの姿に目を移します。お母さんはサーシャの目線をとらえると、一時編む手を休め、にっこり微笑んで、また編み続けます。

 サーシャは空を見上げます。

 いつの間にか北の方からまた灰色の雲が空を覆い始めています。

 冷たい風がサーシャの頬をなでていきます。

 サーシャはお母さんに寄り添うように身を預けると、そのまま目を閉じます。

 今夜は、雪になるかも知れません。


 いつの間にか、あたりはぼんやりと薄暗くなっていました。

 お日さまは雲の裏側に隠れて、うっすらとその姿を雲の向こう側ににじませています。

 風が出てきたせいでしょうか。それとも、雪の気配を感じたからでしょうか。散らばっていた羊たちが、ひと所にまるで身を寄せ合うようにして固まっています。

 でも、まだ囲いの中に追い込むには時間が早い…

 お母さんの膝の上ではサーシャが小さな寝息を立てています。

 お母さんはキルトを編む手を休めて、幼い娘の髪をなでます。眠って薔薇色に染まった娘の頬の上にほつれかかった髪をその小さな耳の上に掻き上げながら、お母さんは思います。

 この子は幸せかしら…幸せならいいのだけれど…

 お母さんは娘の温もりを感じながら、今この時に感謝せずにはいられません。

 お母さんは音のしない、声のないその口で、そっと神さまにお願いをします。

 いつまでもこの時が、この幸せな時が続きますように…


 お母さんは、決して喋りません。

 お母さんが声を自ら失ったのは、もうずいぶんと前のことです。


 お母さんの生まれたところは、北の山脈を越えたそのまた向こうの凍った大地の端、大きな河の脇にある小さな村でした。

 村はとても貧しく生活はとても厳しいものでした。

 短い夏の間、村人は日々一生懸命働きます。朝、日の出前から、作物を育て、家畜を養い、夜は月明かりの下で粗末な布を織る。働いて、働いて、それでも、長い冬を越すには足りないくらいです。

 それに、一生懸命働いたからといって、作物がたくさん出来るとは限りません。ちょっとした日照り具合で、実の付き方が変わります。雪解け水がことの外多いと、洪水になることもあります。人の力だけではどうにも出来ないことがいくらでもあるのです。

 ですから、村人は、大地に宿るいろいろな神さまに、わずかな、けれど村にとっては精一杯のお供えをして、何とか日々の暮らしを守っていたのでした。

 時には、本当にどうにもならなくなりそうに思えることが起きます。そんな時は、村で一番立派な家畜を神さまに差し出します。生きたままの家畜を、夏の間雪解け水がごうごうと流れる河の深みに沈めるのです。「生け贄」です。

 それで大抵はうまくいきます。

 神さまも村で一番大切な家畜まで差し出されては、さすがに村人のささやかな願いを聞かないわけにはいかないと思ってくださるのでしょうか。


 ある年のこと。

 春になってもあまり暖かくならず、作物の芽吹きが遅れ、いつもならとっくに実を付け出す頃になっても、まだ青いままの葉が、夏なのに何やらうすら寒い風の中で力無く揺れていました。

 おまけに曇り続きで、お日さまはあまり顔を覗かせません。そのくせ、雨はまったく降らないのです。

 作物は、青白く痩せ細ったままです。

 このまま、作物が実らないようなことになったら…

 村人は、とうとう神さまに「生け贄」を捧げることにしました。村一番の家畜を。

 けれども、野の草もあまり育たなかったものですから、家畜もみな痩せて元気がありません。

 それでも、一番太っているのを差し出さなければなりません。

 ある夏の日の午後、選ばれた村の男三人が、家畜を河の深みへと連れて行きます。

 いつもは、雪解け水で川幅も広く、流れが急な大きな河です。

 深みに「生け贄」を連れて行く男たちも命がけです。

 けれど、その年は、水の量が少なく、「生け贄」を沈めるための程良い深みがなかなか見つかりません。

 しかたなく、男たちは家畜を縛って、河の流れの中に放り込みました。

 家畜は悲しげな鳴き声を挙げながら河面を漂っていきます。

 河の流れは水の少ないせいか、ずいぶんとゆっくりです。

 家畜の悲鳴は、男たちが河を背にして歩き始めても、まだしばらくの間、聞こえ続けていました。


 村人たちは待ちました。

 お日さまが雲間から顔を覗かせてくれることを。暖かな風が大地を渡ることを。

 けれど、何も起こりません。

 相変わらず日は差さず、ほこりっぽい乾いた冷たい風が痩せ細った作物の間を吹き過ぎていくだけです。

 こんなことは今まであったことがありません、少なくともこの何十年かの間には。

 いったいどうしたら…

 みな途方に暮れて、もう何も手につかなくなりました。いつもなら一生懸命働いている昼間から、何もせずただぼんやり河を眺めている者まで出る始末です。

 夜は、みな心配で眠れないのでしょう。誰かの家を訪ねては、言っても仕方のないようなことを何度も何度も繰り返し話すのでした。

 そんな話の中、ふと村一番の年寄りが小さな声で呟くのがみなの耳をとらえました。

「人身御供を出すしかない」

 みなは一斉に年よりの方を見ます。

「『ひとみごくう』ってなんだ」

「生きた人間を神さまに差し出すことだ」

「生きた人間?…だが、もうちゃんと家畜を差し出したぞ」

「それでも駄目なときは…人間だ」

「そんなことが出来るか!」

「出来る」

「人を神さまに差し出したなんて聞いたことがないぞ」

「いいや、五十年前、いやもう六十年も前になるか、俺の姉さは河に沈められた…」

 

 人身御供を差し出すことに反対する者はありませんでした。

 その晩、村一番の年寄りは、自分の姉のおかげで本当に村が救われたことみなに話して聞かせたからです。

 誰を差し出すかもすぐに決まりました。

 まだ大人になっていない娘の中で一番年かさの者、そう決まっていると村一番の年寄りが言うからです。

 村では、娘が大人になると、ささやかながらも村全体でお祝いをします。村では、娘が新しい命を育むことが出来る体になったことは、とても大切なことだと考えられていたからです。

 だから、まだお祝いをされていない娘の中で一番年かさの者が誰だかは、すぐに分かります。

 次の日の夕暮れ時には、村人誰もが、その娘が人身御供になることが当然のように思い始めていました。

 

 それから二日後、その娘は河の岸辺に立たされていました。今まで一度も着たことのないような美しい着物を着て。それは、娘のお母さんが、もうすぐ迎えるであろう娘の大人になったお祝いの日のために内緒で縫っていたものでした。

 お母さんは、この二日、まったく寝ずにそれを仕上げたのでした。

 着飾り、化粧をした娘の姿は、夏の日射しに照らされて目映いばかりです。

 そうです、ここ何か月もなかったほどに空は澄み渡り、お日さまもようやく、いえその夏初めて本当に夏らしい顔を見せてくれていました。

 娘の美しさに、神さまもようやく心が和んだのでしょうか。

 村人たちもどこか嬉しげです。

 娘と、その両親を除いては。

 やがて、お日さまが頭の真上に来ました。

 お昼です。村一番の年寄りが合図をします。

 娘は、静かに河の中に歩を進めます。たった独りで。

 その一歩一歩はとてもゆっくりです。

 なぜなら、足が震えてうまく前に進めないからです。

 そしてとうとう、娘は転んでしまいました。

 流れの中に横様に頭からもんどり打った娘は、ちょうど河面に飛び出ていた岩に頭をぶつけ、意識を失い、そのまま流されていきます。

 流れはそれほど急ではありません。水の量はますます減っています。

 意識を失った娘の体は、あちらにひっかかり、こちらのよどみに渦巻きながら、少しずつ少しずつ流されて、なかなかみなの前から離れていきません。

 娘の母親は地面にうずくまったまま声を殺して泣いています。

 さすがに、村人たちも娘の様子を見続けていることが息苦しく感じられてきます。

 というより、今頃になって自分たちのしていることが間違っているのではないかという声が、心の中でだんだんに大きくなってくるのを抑えられなくなってきたのでした。

 村人たちは、河辺から一人去り、二人去り…そして、最後に娘の両親だけが残りました。

 河面に浮き沈みする娘の姿は、だいぶ遠くに行ってしまい、もう小さな点です。

 いつになく陽気な日射しが河面に照り返して、いつまでもいつまでも二人のまわりを踊っています。


 これで村は救われたのでしょうか。

 いいえ、そうではなかったのです。

 天気が良かったのは、娘を河に流した日だけ。

 次の日からはまた元のようなどんよりとした日々…いえ前より一層肌寒い日が続くようになってしまったのでした。

 村人たちは日に日に表情が険しくなっていきます。

 誰もほとんど口をききません。

 娘の両親はあの日以来、家に籠もったきり一歩も外に出てきません。

 前より良くなったことなど一つもありません。

 何かが間違っている…

 みな何が間違っていたかを考えます。

 やりかたが悪かったからか?

 娘がちゃんと沈まなかったからか?

 ほかの娘がよかったのか?

 それとも一人だけじゃだめなのか…

 村人たちは、みなおかしくなり始めていました。

 間違っていたのはそんなことではないのに。そのことは、みなよく分かっているはずなのに。


 そんなある日、狩りに出ていた若者が、何の獲物も持たぬまままだ日の高いうちに、ずいぶんと慌てて村に戻ってきました。

「大変だ…生きている」

「何が?」

「あの娘だ」

「誰?」

「人身御供に出したあの娘だ!間違いない」 


 娘はゆるい流れに沈むことなく流されていき、ずいぶんと下の方で漁をしていた別の村の者たちに助けられていたのでした。

 若者は狩りの途中、たまたまその村を通ってやってきたという行商人に出会い、「河を流れてきた娘」の話を聞いたのでした。


 それから後の村人たちのあり様は、ずいぶんとひどいものでした。

 もちろん、娘が生きていたこと聞いてほっと胸を撫で下ろした者も何人かはいます。

 けれど、多くの者が、娘がちゃんとその身を神に捧げなかったから、天候や作物の出来が良くならなかったのだと決めてかかりました。中には、娘が助けられた村へ行って、もう一度娘を河に沈めてこようと言う者まで出る始末です。

 一方、娘のお母さんは嬉しさのあまり、その身一つですぐさま娘を迎えに行こうとしました。けれども、お父さんに黙って止められてしまいました。

 お父さんには分かっていました。この村には、もう娘の居場所はない、と。


 ところが、それから何日かして、娘は村に戻されてきてしまいました。

 助けてくれた村の人がわざわざ送り届けてくれたのです。

 助けられた後、娘はほとんど口をききませんでした。

 もちろん、突然に降りかかった苦しみ悲しみからすぐには立ち直れなかったせいもありました。

 けれど、なにより、自分の生まれた村のひどい仕打ちを、よその人たちに話すことがとても恥ずかしかったからです。

 ですから、ただ一言「お母さんに会いたい」と言っただけでした。


 娘はとりあえず両親の元に返されました。

 お母さんと娘は抱き合って涙を流して喜び合います。

 けれども、このままでは、娘は間違いなくもう一度、河に沈められることになるでしょう。

 お父さんは、同じ過ちは繰り返すまいと心に決めていました。

 

 その夜のうちに三人は暗闇に乗じてそっと村を出ました。


 それからの三人の旅はとても厳しいものでした。

 急いで家を出たものですから大した持ち物はありません。狩りの道具すら満足に揃えることが出来ませんでした。

 食べ物はもっぱら草や木の実、それに魚。けれど、飢えるということはありませんでした。

 というのも、どういうわけかお腹が空いたり、のどが渇いたりするころになると、うまい具合に食べ物が見つかったり、川や池に出くわしたりするからでした。


 娘はすっかり無口になっていました。

 慣れない長旅で疲れているせいもありました。

 もしかしたら、心のどこかに、人身御供に出される時、自分を守ってはくれなかった両親に対するわだかまりがあったのかも知れません。

 ときどき口にする言葉は「何か食べたい」「のどか乾いた」「お休みしたい」ぐらいのほんの呟きしかありませんでした。


 三人が村を出て一か月が過ぎようとしていました。

 三人はときどき顔を覗かせるお日さまの方角に向かって歩いて来ました。少しでも暖かい方へ行こうと思ったからです。

 けれど、もう前には進めません。

 なぜなら、雲を突くばかりのとてつもなく高く大きな山々が目の前に連なっていたからです。

 話には聞いたことのある雪に覆われた真っ白い峰々の連なり。初めて見るその美しくそして異様なまでに厳しい姿に、三人は声も出ませんでした。

 三人はもうずいぶんとくたびれていました。ずっと荒れ地を歩きづめだったので、着ているものもぼろぼろになってしまいました。

「もう毎日歩くのは疲れた。家の中でまた暮らしたい」

 娘はそう呟きました。

 三人はしばらくその場に座り込んでいました。吹く風は相変わらず肌寒く、もう夏の終わりを告げているようでした。

 目の前に連なる峰々、左右に広がる荒涼とした大地。

 その中に、小さな動く点が三つ。

 それはだんだん近くなり、やがて一人の男と荷を積んだ二頭の驢馬の姿になって三人の前に立ち止まりました。男は白い羽根飾りのついたキルトの帽子を被っています。

 それは、旅のキルト売りでした。

 キルト売りの男は西の大きな市で商売をしたあと、故郷へ向けて帰る途中でした。

 男は、三人のこれまでの話を聞くと、一緒に故郷へ帰ろうと誘ってくれます。

 故郷ではキルト作りが盛んで、人々はとても豊かに暮らしていると言います。

 三人は男について行くことにしました。


 キルト売りの故郷の人々は、すぐに三人を受け入れてくれました。人々は満ち足りていたので、みなとても寛大な心を持っていたのです

 初め、三人はキルト売りの男の家に、男の家族と一緒に住まわせもらっていました。が、ほどなく、その集落の長から、今は誰も使っていない家を与えられ、自由に使うことを許されました。

 冬を迎えるころには、三人はすっかり集落の一員になっていました。

 集落のみなはとても親切で、特に三人を最初に助けてくれた男の家族は、何かにつけて三人の面倒を良く見てくれました。

 人身御供に差し出されて以来、すっかり無口になっていた娘も、時にみなの話に声を立てて笑うこともあるほどにうち解けてきていました。


 そんなある日のこと。

 集落の井戸へ娘が水を汲みにくると、どこからともなく小石が飛んできて腕に当たります。

 娘が振り返るとさっと木陰に隠れる小さな影。娘は知っていました。集落の人々すべてが娘たち三人を快く思っているわけではないことを。

 小さな子どもたちは正直です。親たちが顔ではニコニコ笑いながら娘たち三人に接していても、心の中では三人を疎ましく思っている。そのことを自分たちの家族に話しているのを聞いて、その家の子どもたちは娘たちに悪意を抱くのです。

 でも、子どもたちは、娘のお父さんやお母さんには何もしません。大人にいたずらするのは怖いからです。

 だから、何も刃向かって来ない娘にだけ、こうしてときどきつまらないいたずらをするのです。これまでも、こういうことは何度かありました。

 娘は、気にしないようにしてもう一度井戸の方に向き直り、水を汲み始めます。するとまた別の方から石が飛んできて娘の頭に当たります。今度はずいぶんと大きな石です。娘は痛さに思わずその場にうずくまってしまいます。そのままじっとしていると、頭がずきんずきんと脈打って大きくなったり小さくなったりしているように感じます。石がぶつかったところを抑えていた手を見ると赤い血がべったり着いています。

 娘は何だか悲しくて悔しくて思わず涙がこぼれます。そして呟きました。

「あんな子たち、いなくなってしまえばいいのに」


 その日の夕方、集落の中は大変な騒ぎになっていました。

 子どもたちの何人かが日が暮れるころになっても家に戻ってこないというのです。

 子どもの足ではそう遠くに行けるわけもありません。ましてこの冬の近い時期、野山に子どもの面白がるようなものや動物もあまりないはずです。

 普段なら日が沈んで寒くなる前に夕食の席に一番について待っているような子どもたち。その子たちが集落の中はおろか、その回りのどこにも見あたらないのです。

 大人たちは夜遅くまで火を灯して、あたりを探し回りました。水に流されたのでは、と遠く川の方まで探しに行こうとする者もあります。

 けれど、どこにも見あたりません。そうするうちに、とうとう夜が明けてしまいました。

 そして、二日たち、三日たち…遂にいなくなった子どもたちは誰も戻ってきませんでした。


 娘はその間ずっと家の中で震えていました。

 いなくなったのは、今まで自分にいたずらをしたことのある子どもばかりだったからです。

「あんな子たち、いなくなってしまえばいいのに…」

 自分が井戸の傍らで呟いた言葉が、頭の中で何度も何度も木霊のように響いていました。


 長く厳しい冬がやってきました。

 次第に家の中で過ごす時間が多くなってきます。

 多くの家では冬の間キルト作りに励みます。

 娘たちもキルト売りの家族に習ってキルト作りを始めます。

 キルト売りの家族はことのほかキルト作りが上手で、特にキルト売りの男の妻はたいそうな名人でした。

 妻は娘たちにいろいろな技術を惜しげもなく教えました。中にはとても複雑なものもあって、なかなかすぐには身に付けることができません。けれど妻は辛抱強く何度も何度もやり方を教えてくれるのでした。

 おかげで娘も娘のお母さんもどんどん上達していきました。そして冬が終わる頃には、二人ともずいぶんと上手にキルトを織れるようになっていました。

 けれど、キルト売りの妻の作るキルトには何か違う…輝きのようなものがあるように感じられました。

「あなたのキルトには何か秘密があるの?あなたのように織るには、まだ私たちの知らない特別な技術が必要なの?」

 ある時、娘のお母さんがキルト売りの妻に尋ねました。

 すると、キルト売りの妻は、こう答えます。

「妖精が宿っているのよ」 

 そうして、にっこりと微笑みました。


 やがて春になり、また家の外で過ごすことが多くなるようになると、娘たちも、キルト売りの家族と一緒に野山に出かけるようになりました。

 相変わらず娘は無口でしたが、キルト売りの子どもたちとは少しずつ話しをするようになっていました。

 特に年かさの息子とは気が合うのか、よく草原に二人っきりで座っていたりするのが見かけられました。

 そんなある日のこと、みなが出払って娘が一人で家の前に座ってキルトを編んでいると、一人の老婆が近づいてきて、こう囁きました。

「知っておるぞ。子どもらが失せたのは、おまえが呪いをかけたからじゃ」

 そう言うと老婆は憎々しげに娘をにらみつけてその場を去っていきました。

 なぜそんなことを…

 老婆は知らない仲ではありません。

 よく井戸のところに水汲みに来て顔を合わせていました。

 きっとあの日…子どもたちが娘に石を投げつけた日、娘が井戸のところで呟いた言葉をどこか近くにいて聞いていたのでしょう。

 でも、悪いのは娘ではありません。石を投げた子どもたちです。それなのに…

「あんなお婆さんなんか…」

 娘は小さく呟きました。呟き声はとても小さくて、娘以外には誰にも聞こえないほどでした。

 その夜、集落の一つの家の前に、一晩中火が灯されました。それは、その家の誰かが亡くなったという印でした。


 その日以来、娘はまったく口をきかなくなりました。

 誰が何を尋ねても何も答えません。

 家から外へ出ることもなくなってしまいました。

 みなは心配してあれこれ娘に気をつかいます。

 ふさいでいる理由が分かれば、何とかしてあげることができるかも知れない…けれど、娘は何も話してはくれないのです。

 娘はだんだんと痩せて、床に就いていることが多くなりました。


 いつの間にか季節は夏を迎えました。

 野山は一面に緑に萌え、家畜たちは草原で心おきなく草をはみます。

 男たちは野山に出て一日中馬を追います。

 女たちはそろってバターやチーズを作ります。

 すべてが、活気に満ちています。

 ただ、娘の家だけは灯が消えたように沈んでいました。


 ある日のこと。

 前の晩から明け方近くまで雨が降り、朝方には草原に棚引く靄がうっすらと日の光にけむっています。

 いつもより草原もしっとりとして、夏の暑さも一段落というように感じられる気持ちの良い朝です。

 その靄の中を一頭の馬に乗った若い男が娘の家の前にやって来ます。キルト売りの息子です。

 息子は何やら娘の両親に話をすると、そのまま娘の寝ているところに行って、娘を抱えるようにして外へ連れ出します。

 そして、馬の背に一緒に乗り込むとゆっくりと草原に向かって馬を歩かせ始めました。

 最初は驚いていた娘でしたが、元から身を抗うだけの気力も体力もなく、されるがままに馬の背に揺られています。

 息子は黙ったまま馬を歩かせ続けます。

 そして、集落からずいぶんと離れたところに一本ぽつんと立っている大きな木のところまで来ると馬を止め、娘を下に降ろしました。

 二人はそこで長いこと二人っきりで座っていました。

 何かを話していたのか、それともただ座っていただけなのか、それは誰にも分かりません。

 ただ、夕方、息子が娘を連れて帰ってきた時には、少しだけ娘の表情が明るく元気になっているように見えたのでした。


 しかし、娘のつかの間の幸せも長くは続きませんでした。

 集落にこんな噂が流れ始めたからです。

「余所から来た娘は言葉で人を呪い殺す」

 その噂の出所は、どうやら亡くなった老婆の家族からのようでした。

 老婆が亡くなる直前に恐ろしげに呟いたと言うのです。

 そんなことがある訳がない。多くの人はそう思いました。

 けれど、元から娘たちのことを快く思っていなかった人たちは、そんなこともあるかも知れないとその噂を信じ始めていました。

 中には「こんな事もあった」と、娘に呪われたという話、それもあまり証拠のない話を、さも本当らしく噂する者も現れました。

 初めはただの噂でした。けれど時が経つにつれてその噂が集落全体を覆い尽くして、あたかも本当のことのようにみなの心を蝕み始めました。

 もう、キルト売りの家族以外、娘たちのところを訪れる者はいません。

 外で顔を合わせても、みな避けるようにして離れていってしまいます。

 娘のお父さんもお母さんも、どうにもいたたまれない気持ちになってしまいました。

 相変わらず娘は黙ったまま。

 このままではもうここでは暮らしていけない…

 夜、家の中、三人だけで灯した炎を囲んでいる時、お母さんが誰にともなく言います。

「元いた村に帰りたい」

 お父さんは黙ってお母さんの肩を抱きます。

 そのまま、いつまでも三人は黙って炎を見つめています。

 村に…帰れるわけはない

 でも、お母さん、お父さんだけだったら…

 明け方近く、消えかけた炎の傍らでうずくまるようにして眠っているお父さんとお母さんを見つめながら、娘は呟きました。

「お父さん、お母さんは村へ…」


 そして…

 いつの間にか娘の父親と母親がいなくなったことは、あっという間に集落全体に広まりました。

 夜逃げだ…

 いや、娘がとり殺したのかも知れない…

 またしても、いろいろな噂が人々の間を飛び交います。

 娘は家から一歩も出てきません。

 それが、ますます人々の根も葉もない噂を呼び起こします。

 噂は噂を呼んで、娘はまるでとてつもなく恐ろしい妖怪か何かのように思われ始めてしまいます。

 そして何日もしないうちに、娘を集落から追い出してしまおう、いや追い出さなければいけない、という意見が、集落全体を駆けめぐりました。

 キルト売りの家族は、そんな人々の様子を為す術もなく見守っていました。

 この娘を守ってやれるのは自分たちしかいない…

 けれど、集落の人々を止められるだけの話術も、もちろん権力も持ち合わせてはいません。

 娘は、明日か明後日にも人々の手で集落の外に捨てられてしまうことでしょう。もしかしたら、もっとひどいことをされてしまうかも知れません。

 キルト売りは妻と年かさの息子に相談しました。

 もうすぐ、夏の終わりに西の都で大きな市が開かれる。そこに出かけるふりをして荷物に紛れさせて娘を連れ出してしまおう…

 次の日の朝早く、キルト売りは息子と連れだって、大きな荷物を二頭の驢馬に積んで集落を出発して行きました。

 その日、集落では娘が消えたといってたいへんな騒ぎになったと、キルト売りはあとから妻に聞かされました。


 結局、キルト売りの家族は、集落からだいぶ離れたところ、歩けば二週間は優にかかるところにもう一つ家を建てて娘を住まわせました。

 しばらくの間は、集落では都に修行に行っているということにして、そこに年かさの息子を一緒に住まわせました。二人がお互いに憎からず思っていることが分かっていましたし、それに二人とももう十分に大人だったからです。


 ほどなく、キルト売りの他の子どもたちも、それぞれに身を立てて家族を設けられるまでに大きくなります。

 そこでキルト売りは妻と共に集落を出ることにしました。離れてひっそりと暮らす年かさの息子に子どもが生まれるからです。

 キルト売りにとっては初めての孫です。

 キルト売りはかねてから望みがありました。孫の中の誰か一人には、人々のためにこの厳しい世の中を少しでも暮らしやすくするように心を配れる立派な英雄のような人になって欲しいと。そして、その役割は、最初に生まれてくる孫にこそ相応しい、と。

 それは、都でたびたび耳にした古い時代の英雄の姿に重ねられていました。


 けれど、初孫は…女の子でした。そして、その女の子が生まれるのは、まだ先の話…


 娘は、相変わらず喋りません。

 もしかしたら、あんまり長いこと話をしなかったので、もう喋ることが出来なくなっているのかも知れません。

 でも、話をしなくても、娘もみんなも幸せです。 

 幸せは言葉でだけ、表されるものではないから…


 いつの間にか冷たい風が止んでいます

 サーシャのお母さんは、眠っている幼い娘の頭を撫でながら思います。

 この子は幸せかしら…幸せならいいのだけれど

 そして、そっとお願いをします。

「いつまでも、この幸せが続きますように…」


Ⅵ 秋


 夏も終わり近い、少しひんやりとした風の吹く日の午後、サーシャとお父さんは羊たちを追って、家の裏手にある丘を登っていました。

 いつもは、家の前に広がる、少しずつ下っていく広々とした丘の裾野に羊を放します。けれど、前の日まで一週間も降り続いていた雨のせいで、草原はまだそこかしこに水が浮き出ていて、とても歩きづらくなっていました。

 そこで、ふだんは登ることのない裏の丘へと、険しい上り坂を辿って羊たちを連れて行くことにしたのです。なにより、丘はお日さまの光をいっぱい受けて、お昼前には遠目にもずいぶんと乾いてきていましたから。

 久しぶりのお天気です。羊たちはもちろんのこと、サーシャも元気いっぱい、急な丘の斜面を登っていきます。

 振り返るとサーシャたちの家がいつの間にか親指の先ほどの大きさになっています。

 自分たちの暮らしているところが、両手を大きく広げたその中にすっぽりと入ってしまいます。

 サーシャはなんだか嬉しくなって、またどんどんと登ります。

 羊たちも登ります。もちろん、お父さんが下から、ほーいと声を掛けて追っているからですけれど。

 そして、とうとう丘のてっぺんです。

 気持ちよく晴れ渡った空の下、羊たちは思い思いにちらばって草を食べ始めます。

 見下ろすと、サーシャたちの家が、とてもとてもとても小さく見えます。

 そのままぐるりと頭を回すと、緑の丘がいくつもいくつもずーっと遠くの方まで重なり合うように連なっています。

 その遙か向こう、空に向かってそびえる白い壁。遠くにあるとはとても思えないほど高く高く突き出た白い峰々のその連なりです。その姿をサーシャは黙ったまましばらく見つめます。見つめていると、とても不思議な気分になります。

 怖いような?だけどちょっと懐かしいような…なんだか、よく分かりません。

 サーシャはうーんと伸びをすると草の上にごろんと横になりました。

 閉じた目の上でお日さまが影になって揺れています。

 サーシャはとっても幸せな気分になります。

 サーシャのほほをちょっぴり冷たい風がなでていきます。

 ふっとサーシャの瞼の上を薄ぼんやりとした影がよぎります。

 目をつぶったままでもお父さんが傍らに来て座ったのが分かります。

 二人はそのまま黙ってしばらく涼しい風に吹かれています。


 しばらくしてサーシャは目を開けました。

 お父さんは前を見つめています。何かをじっと考えているのでしょうか。

 サーシャは立ち上がります。横になって、また元気がでたので、丘の上を少し歩いてみようと思ったからです。 

 丘の上は思ったほど平らではありません。

 所々に少し窪んだところがあったりして、ゆるやかに波を打っています。

 その波を一つ二つと越えていくと、切り立った崖に行き着きます。

 その端の所に、誰が積んだのでしょう、丁寧に組み上げられた石の山が、崖の際を登って谷間から吹き上がってくる強い風に、小さな音をたてていました。

 その石の山には、少し傷んで色褪せた布が旗のように結びつけられて、吹く風になびいています。

 サーシャはお父さんの所へ戻ると、その石積みのことを話します。

 お父さんは黙ってサーシャの話を聞きます。そして、こう言いました。

「あれは、おじいさんの墓標…おまえの死んだおじいさんの墓だ」



 サーシャが生まれる前、サーシャのお父さんとお母さんはしばらくの間二人きりでくらしていました。

 けれど、広い草原の中、草原で生きる知恵のまだ乏しい若者が、たった二人で生活していくのはとても厳しいものです。

 やがてお母さんはサーシャを身籠もります。

 お父さん一人で、お母さんを気遣いながら日々のすべてのことをするのはとても難しい…毎日の暮らしはますます厳しくなっていきます。

 そこで、おじいさんとおばあさんが二人の家に来て、一緒に暮らすことになりました。


 それまで、おじいさんとおばあさんは、集落の人々とキルト作りをし、それを商うことで生活していました。

 けれど、集落を離れて暮らすとなると、それまでの生活を変えなければなりません。

 今までは、おじいさんたちに分けてもらった生活の品々で、なんとか暮らしていたお父さんとお母さんも、これからはそういうわけにきません。

 もちろん蓄えなら少しはあります。四人でひと冬ぐらいなら越せるでしょう。

 けれど、暖かい今のうちに新しい暮らし方を決めておかなければ、その先がどうなってしまうことか…。

 四人でキルト作りをしながら生活することは、たぶん無理でしょう。集落のみんなが、様々な役割を持って、キルトを作るために必要ないろいろなことをやっていたから、市でキルトを高く売ることが出来、みんなが豊かに暮らせたのですから。

 四人で暮らすには四人だけでやっていく工夫が必要です。

 なるべく、自分たちに必要な物は自分たちで手に入れるようにしなくてはならなでしょう。

 なにより、まず大切なのは、食べ物です。

サーシャのお母さんが生まれた遠くの北の村では川で魚を獲って暮らしていました。

 けれど、今住んでいるところの近くには魚が獲れるような川は流れていません。

 それに、おばあさんやおじいさん、そしてお父さんにも、魚を食べるという習慣がありませんでした。

 おじいさんたちのいた集落では、水の中に住む物は、何かとても神聖なものように思われていたからです。

 もちろん、狩りをして暮らすことも出来るかも知れません。商いの旅をしていたおじいさんとお父さんは、身を守るための銃の扱いなら慣れています。

 けれど、自分たちより、オオカミたちの方が、狩りは得意そうです。

 狩りだけで暮らしていけるとは、とても思えません。

 あとは、作物を作るか、家畜を…羊を飼うかです。

 作物を作った経験は誰にもありません。

 何を作ったらいいかも分かりません。

 でも、家畜なら飼ったことがあります。

 今でも馬と驢馬を飼っています。

 それに、キルトの材料は、羊の毛です。

 羊の毛を手に入れるために、羊飼いの部族としばらく一緒に暮らしたこともあります。

 羊からはミルクも取れます。

 羊なら飼える…。


 家の近くには一本、高い大きな木が立っています。

 その木を目印に、家は建てられています。

 何時の頃からか、その木に一つがいの鷹が巣を作っていました。

 父鳥はよく梢に留まってあたりを見回しています。

 その羽は、真っ白です。

 白鷹です。

 とても珍しい鷹です。人によっては、神さまの使いだとも言います。

 おじいさんは、毎日その姿を見て、何かしら心強く思います。

 自分たちは、もしかしたら特別に神さまに見守っていただいているのかも知れない。

 そんな風にも思えるからです。


 ある日のことです。

 その日は朝から雲が低くたれ込めて、北からの冷たい風が夏の終わりを告げるかのように音もなく草原を吹き抜けていました。

 肌寒さに目が覚めたおじいさんは、家を出ていつものように梢を見上げます。

 しかし、親鳥の姿が見えません。

 こんな朝早くから餌を獲りに出かけたのでしょうか。それも父鳥、母鳥そろって。

 珍しいこともあるものだ…

 おじいさんは木の側に近寄ると、巣の様子を下から仰ぎ見ました。

 雛たちは、もう目覚めて、お腹を空かせて元気な鳴き声を挙げています。

 下から姿は見えませんが、きっと大分、大きく育っていることでしょう。

 と、その時です。

 木の幹から、巣のある枝の方へ、するすると動く影が。

 蛇だ!

 おじいさんは、とっさに側に落ちていた小石を拾って投げつけました。

 しかし、当たりません。

 年をとっても目のいいおじいさんは、ずいぶん高いところの巣のある枝までしっかり見分けることが出来たのですが、そこまで石を上手に投げるのは、まして上を見上げながら投げるのはとても難しかったのです。

 おじいさんは、もう一度石を投げつけます。

 けれど、蛇はまったく気にするふうもなく、するりするりと枝を伝っていきます。

 おじさんは、小石を二つ口に含むと、靴を脱ぎ、手に唾をして、木の太い幹にしがみついて登り始めました。

 おじいさんはどんどん登ります。

 木登りはもう何年もやっていません。けれど、一度覚えた登り方は決して忘れません。

 あっという間に木の中程まで登りつめます。

 蛇はあと少しで巣に辿り着いてしまいます。

 おじいさんは、片手と両足でしっかり体を支えると、口から石を一つ吐き出して、もう片方の手にしっかり握ります。

 そして、よーく狙いを定めて、蛇目がけて、びゅっと投げつけました。

 木の中程から横様に投げつけられた石はすっと空を切って一直線に飛んで行き…蛇の這っているすぐ目の前の木の枝に当たりました。

 その音に驚いて、雛たちは一段と大きな声で鳴き交わします。

 蛇は、一瞬その場に凍り付いたようにその身を固まらせます。

 しかし、すぐさま身をくねらせると、前より、より一層素早く巣に向かって枝の上を滑り始めます。

 おじいさんは呼吸を整えます。

 そして、もう一つの石を吐き出すと、服でごしごしとぬめりを取って、しっかりと握りしめました。

 蛇の頭は、もう巣の縁にかかっています。

 おじいさんは、その頭目がけて、渾身の力を込めて石を投げつけました。

 その拍子に、勢い余って、おじいさんの足は木から外れて…

 

 どれくらい時間が経ったのでしょう。

 いつの間にかお日さまが雲の間に顔を覗かせて、真上から明るい日射しを投げかけています。

「目を覚ましたよ!」

 おじいさんが最初に目にしたのは、頬をくっつけんばかりに覗き込んでいるおばあさんの顔でした。

 その回りにサーシャのお父さんとお母さんの心配そうな顔が重なります。

 どうやら、おじいさんは木から落ちて気を失っていたようです。

 雛たちはどうなったのだろう…

 おじいさんはぼんやりした頭でそう思いました。

 その時、ちょうど横になった頭の上の方を、空を飛ぶ鳥の姿がよぎっていきます。

 日の光に白く輝く翼…

 あの父鳥です。

 父鳥はおじいさんが横になっている上を何度も行き来します。

 よく見るとその嘴には何かがくわえられているようです。

 ぼんやりして、まだ良く焦点が定まらない目で、おじいさんはその姿を追いかけます。

 嘴にくわえているのは…

 青黒くて紐のようなもの。そうです、蛇です。雛を襲おうとしたあの蛇です。

 ああ、おまえがちゃんと仕留めたんだな…

 おじいさんは、すっと気が楽になって、また意識が遠くなっていきました。


 それから、またしばらく時間が経ちました。

 夏は日に日に色あせていき、次第しだいに冬の気配があたりに顔を覗かせるようになり始めます。

 おじいさんに投げつけられた小石に当たって木から滑り落ちた蛇は、父鳥にとどめを刺されました。それ以来、雛たちを襲う物は現れません。

 雛たちもすくすく育ち、少しなら巣の回りの枝を跳び歩くことが出来るまでに大きくなりました。

 そのうち飛ぶ練習を始め、自分で餌を獲ることを覚えて、いずれは巣立ちの日を迎えるのでしょう。

 父鳥は相変わらず梢に留まって、そんな雛たちの様子を見守っています。


 草原に短い秋が来ました。

 夏の終わりに実をつけた背の低い木々が、その実を赤く色づかせています。

 そろそろ羊飼いの人々が北の高地から羊たちを追って南に下り始める頃です。

 おじいさんとお父さんは、子羊が生まれる春と、そして今頃、市で羊が売り買いされていることを覚えていました。

 二人は、この上なく上天気が続いたある朝、羊を買うために市へ向けて馬と一緒に出発します。

 おばあさんとお母さんを二人だけ残して行くのは少し心配でしたが、しかし、二人とも草原の女の人です。草原で生きていくための知恵は、おじいさんやお父さんと同じくらい…いえ、きっと、もっとたくさんの知恵を持っているに違いありません。

 おじいさんとお父さんは、家の前で手を振る二人を後に、北へ向かって市への道を歩き始めました。


 日も大分高くなった頃、おじいさんとお父さんはお昼を食べるために、見晴らしのいい丘の上で一休みしていました。

 馬の荷を解いて休ませながら、自分たちも横になって雲一つない高い空を仰ぎ見ていた、その時です。

 遠く空の上の方を、何か飛んでいるのが見えます。

 …鷹です。

 白い鷹です。

「おお、あの父鳥が見送りに来ておる」

 そう呟いたおじいさんの声は、とても嬉しそうです。


 二人は道を急ぎます。

 なるべく獣に襲われないよう安全なところ…大きな木のある森の側で夜を過ごしたかったからです。

 しばらく行くと谷へ降りていく道と尾根を伝ってまっすぐ行く道の分かれ目に差し掛かりました。

 いつも市へ行くときは、尾根伝いに丘を越えて森へと進む道を歩きます。

 そのほうがずっと近道だからです。

 ところが…

 尾根道を行こうと、ふと見上げると、空の低いところを白鷹が飛んでいるのが見えます。

 あの父鳥です。

 まだおじいさんとお父さんに着いてきていたのです。

 鷹はまるで行き先を教えるように、尾根から谷に向かってすーっと舞い降りていきます。

 おじいさんとお父さんは顔を見合わせました。

 白い鷹は神さまのお使いと言うではないか…

 二人は馬の轡を取ると、足場を選んでゆっくりと谷への道を歩き始めました。


 夜になりました。

 月明かりが二人の行く手を照らしています。

 森はもうすぐです。

 どこからともなく、遠く獣の吠える声が聞こえてきます。

 どうやら、尾根の上の方からです。

 おじいさんとお父さんは黙って顔を見合わせます。

 獣は尾根道にいます。

 …二人は無事に森に辿り着きます。

 白鷹が導いてくれたお陰でした。


 その後も鷹はおじいさんたちの行く手を、遠く高く飛び続けました。

 おじいさんたちが休む時は、いつの間にか少し離れた高い木や丘の岩場に留まって、じっとあたりの様子を見回しています。

 

 やがて市への道のりも残り少しとなりました。

 旅の疲れも心なしか軽くなったように思えるおじいさんとお父さんでしたが、鷹に導かれるままいつもより遠回りをしたせいでしょうか、持ってきた食べ物が残り少なくなっていることが少し気掛かりでした。

「狩りをするか」

 おじいさんとお父さんは、幸いにもこの旅で一度も使うことのなかった銃を取り出しました。

 あたりは見渡す限りの緑の草原です。

 鹿や猪のような大きな獲物は、こんな身の隠し所のない草原には現れません。

 けれど野兎や鼬のような小さな生き物なら、草原のあちらこちらに空いている穴の中から顔を覗かせることがあるかも知れません。

 おじいさんとお父さんは立ち止まって身を潜め、様子を伺いました

 けれど、何一つ動く気配はありません。

 晴れ渡った空のお日さまから、反対にこちらがじっと見つめられているようです。

 おじいさんたちの額には汗が浮いてきます。

 その時です。

 空の一点から白いものが草原に一直線に舞い降りて来ます。

 白鷹です。

 白鷹は草原の一角を掠めると、さっと、また空に舞い上がります。

 その足は何かを掴んでいます。

「あそこか」

 おじいさんは目を凝らします。

 緑一色の中を小さな茶色い生き物が何匹か走って逃げていくのが見えます。

 おじいさんは迷わず銃を放ちました。


 おじいさんとお父さんは、久しぶりに新鮮な食べ物を口にしてとても満足でした。

 もう夕方です。もうすぐ夜が訪れます。

 お父さんは、旅の疲れもあったのでしょうか、いつもなら食べた後はお日さまの明かりがあるうちに、夜に備えてちゃんと身繕いをするのですけれど、この時は、思わず自分でも知らぬ間にうとうとと、うたた寝をしてしまいました。

 どれくらい寝たのでしょう。

 ばさっばさっという音を聞いたような気がしてお父さんが目を開けると、夕暮れの薄明かりの中、焚き火の前に座ったおじいさんの傍らに、大きな白い鳥が翼を広げています。

 おじいさんは、恐れるふうもなく、次の日のために残しておいた肉の一切れを、鷹の嘴に差し出します。

 鷹は、その肉をおじいさんの手からついばみます。

 野生の鷹が、人の手から餌を食べている…

 とても不思議な光景です。まるで夢の中の出来事…

 その様子を見ているうちにお父さんはまたうとうとと眠くなります。

 そして、肌寒さに目覚めると…朝になっていました。

 最後の残り火が消えかけた焚き火の傍らにはおじいさんが眠っています。

 そのほかには何も変わったところはありません。残しておいた肉も、ちゃんと革袋にしまわれてそのまま…

 やっぱり夢だったのか…

 お父さんは起きあがると、明け方の空に最後に一つ取り残されて光っている星を見上げて、うーんっと一つ伸びをしました。

 明後日には、もう市に着くでしょう。


 市は相変わらず人でごった返していました。

 やがて迎える冬に備えるため、色々な地方から集まってきた様々な人々が、色とりどりの品々を互いに売り買いしています。

 いつもなら、おじいさんたちもここで売り手になってキルトを広げます。

 けれど、今日はお客です。

 これからの暮らしのために、元気な羊を選んで何頭も買っていかなければなりません。

 おじいさんとお父さんは、市の中を歩き回りました。

 売り手として来ていた時に感じていたのとは違って、思っていたより市は大きくはありません。

 それほど広くないところに、たくさんの品物と人がぎゅうぎゅうに押し込められているようです。

 けれど、おじいさんとお父さんはなかなか羊売りを見つけることが出来ません。

 人混みをかき分けかき分け、狭くて迷路のようになった市の路地をあちらへこちらへ歩いて歩いて歩いて歩いて、くたくたになって思わず道端に座り込んで一休み…と思ったその時です。

 人混みの向こうから「メェ~」という鳴き声が聞こえてきました。

 二人は疲れも忘れて急いで鳴き声の方へ歩を踏み出します。

 すると、人混みの向こうに広々とした草原が広がっていました。

 どうやら、市のはずれに出てしまったようです。

 そして、そこには、いま正に旅立とうとする羊飼いと羊の群が、押し合いへし合いして一塊りに固まっています。


 おじいさんとお父さんは、なんとか羊を買うことが出来ました。

 値段は思いの外安いものでした。おかげで、考えていたより多くの羊を手に入れることが出来ました。


 おじいさんとお父さんは羊たちを追いながら、手を振って羊飼いたちから離れていきます。

「…あんな安い値段で売ってしまってよかったのか」

 年若い羊飼いが低い声でもう一人に問いかけます。

「ああ。どうせ俺たちが持っていたって、何頭かは必ず獣に食われてしまうんだ、冬になる前にたらふく食べておこうと必死になってるやつらにな」

「…あのじいさんたちが持っていたって、そりゃ同じ事だろう」

 年若い羊飼いがもう一度問いかけます。

「ああ。でも、俺たちがただで獣に食わせてやるよりは、ずっといいと思わないか」

 年若い羊飼いは、口をつぐみます。

 二人の羊飼いは、去っていくおじいさんとお父さんの後ろ姿をそのまま黙って見送っていました。


 おじいさんとお父さんは、羊のほかに、冬の間必要なものを市で買い揃えます。

 そして、それらを馬に積むと、羊たちを連れて市をあとにしました。

 気がつくと、行く手には、また白い鷹が先導するかのように舞い飛んでいます。

 おじいさんたちはその姿に勇気づけられ、踏み出す足に力が漲るのでした。


 おじいさんたちの足取りはとても軽やかです。

 けれどその歩は、羊たちのせいで、とてもゆっくりとしたものでした。

 もちろん、休むところもしっかりと選ばなければなりません。

 身の寄せどころのない草原の真ん中で夜を迎えたりすることのないように、道のりを計りながら歩きます。

 人に慣れている羊たちは、羊を追うのに不慣れなおじいさんとお父さんの言うことでも、それなりに聞いて、群を崩さずに歩き続けます。

 けれども、時折、一頭、二頭と群から離れがちになるものがいます。

 そんな時、どこからともなく白鷹がさっとその羊を掠めるように舞い降りてきて、羊を群に追い立ててくれるのでした。

 こうして、旅は何ごともなく続いていきました。


 あと一日で家に着くという日の朝が来ました。

 草原の彼方に昇り始めたお日さまは、まだ半分薄暗がりに包まれている空の端の方を真っ赤に染めて、一日の始まりを告げています。

 おじいさんもお父さんも、おばあさんとお母さんの喜ぶ顔が早く見たくて、朝ご飯もそこそこに身支度を整えると、羊たちを追い立てるようにして歩き始めます。


 やがて道は二手に分かれます。

 おじいさんとお父さんは市に行く時にも通ったあの谷間の道を行こうと思っています。

 羊の群を連れて行くには少し窮屈ですが、回りから獣に襲われる心配が少なかったからです。

 おじいさんたちは、広い草原の方へ行こうとする羊たちをどうにか谷間の道へ導こうと群を追います。が、なかなかうまくいきません。

 いつの間にか、群はずいぶんと広がってしまいました。

 と、その時、突然一匹の羊が「メェー」と一声悲鳴を挙げると群から離れて草原の中へ走り出して行ってしまいました。

 その声に驚いたのでしょうか、ほかの羊も次々に悲鳴を挙げるとちりぢりに群から逃げ去って行きます。

 お父さんは慌てて逃げ出した羊たちを追いかけます。

 おじいさんも、荷物を載せて牽いていた馬の背に跨ると、大きく乱れてしまった羊たちを纏めるために最初に千切れた群の端にぐるりと回り込むようにして駆けつけます。

 と、いきなりです。

 「シャーッ」という気味の悪い唸り声とともに、一本の青黒い紐が地面から宙を跳んでおじいさん目がけて飛びかかって来たではありませんか。

 とっさにおじいさんは馬の背に括ってあった銃を引き抜いて、その柄でその紐を払いのけます。

 ところが紐は銃に絡みついて、また「シャーッ」と唸りを挙げています。

 蛇です。

 いつか白鷹の雛を襲おうとしていた蛇と同じ模様の蛇です。

 あの時、あの蛇は鷹が仕留めたのではなかったのか…

 そう思う間もなく蛇は銃の柄を伝って今にもおじいさんに咬みつこうと頭をもたげています。

 おじいさんは思わず銃を投げ捨ててしまいまいした。

「オオカミだ!」

 振り向くと逃げ出した羊を追っていたお父さんが、こちらへ転がるように戻ってきます。

 うしろには、丘の端から何匹ものオオカミが赤い舌を口から垂らしながら襲いかかって来ています。

 ふだんは夜しか動き回らないオオカミたちなのに…そう思って油断していたことをおじいさんは悔やみました。

 逃げ遅れた羊はもうとっくに引き裂かれて、草原に横たわったままオオカミ食われています。

 おじいさんは銃を取り戻そうと馬から身をかがめます。

 しかし、銃には蛇が巻き付いたままで、離れようとはしません。

「乗れ!」 

 おじいさんは駆け寄って来たお父さんを馬の背に引き上げると、羊たちを谷間の道へ追い込むようにしながら、羊の群の回りを馬で駆け回ります。

 その間にも、オオカミは次々と羊を食い殺していきます。 

 羊たちは怯えてますますちりぢりになろうとします。

 それでも何頭かは谷間の道へと走り込んで行きます。

 おじいさんはぎりぎりまで羊たちを谷間の道へ追い込むと、その後を追って馬を駆ります。

 うしろからはオオカミたちが羊を襲う唸り声と、咬み裂かれる羊の悲鳴が幾度となく聞こえてきました。


 羊たちはのろのろと谷間の道を下って行きます。

 おじいさんはうしろから大声を挙げて羊たちを急かします。

 オオカミたちはまだ追ってきません。谷の入り口のところで、獲物にした羊たちを奪い合っているのでしょう。

 残った羊たちを連れて、何とか家まで無事に辿り着きたい…

 おじいさんもお父さんも心からそう願っていました。


 下っていた道はやがて登り坂に変わりました。

 頭の上から照らしていたお日さまも、いつの間にか谷の端を掠めて斜めに差し込んでくるようになりました。

 この坂を登り切れば家まであとほんの一息です。

 おじいさんは一声大きく羊たちに声をかけます。

 ところが、その声に応えるように聞こえてきたのは…遠くうしろから迫ってくるオオカミの低い唸り声でした。

 お父さんがさっと振り向きます。

 まだ距離は大分あります。

 けれど…

 羊たちの歩では、逃げ切れるかどうか分かりません。

 羊たちを捨てて逃げるか…

 しかし、道幅は人一人、馬一頭がやっと通れるほどの幅しかありません。

 とにかく前を行く羊たちを急がせなければ…

 おじいさんは懸命に声をかけて羊たちを追い立てます。

 羊たちは互いに押し合いながら坂を登っていきます。

 そして、その間にもオオカミはどんどん近づいて来ていました。


 やがて谷間の道は尾根に上がるために、カギ型に折れて反対に方向を変えます。

 今まで道の両脇にそびえていた斜面の、その片側に、尾根に向かう道が斜めに細く削り取られるようにして造られています。

 羊たちの進み具合は、そこで急に遅くなります。

 斜面に造られた道は一方が急な崖になっているものですから、それを恐れて、先を行く羊がなかなか前に進もうとしないからです。

 それを見てお父さんは馬を降り、突き出た岩を頼りに崖を斜めに突っ切って、先頭の羊のところまでなんとか辿り着くと、その首を掴んで引きずるようにして前へと歩かせます。

 うしろの羊もおそるおそるその後に続きます。

 そして、最後の一頭が道を折れて斜面を登り始めた時…我先に道を駆け上がってきたオオカミの最初の一匹が、羊めがけて跳ねるようにして襲いかかって来ました。


 その時、おじいさんの目の前を白い固まりがさっと横切り、オオカミめがけて体当たりしました。

 オオカミは跳ね飛ばされて、後から来た仲間の上に転げ落ちます。

 白鷹です。

 白鷹が助けてくれたのです。

 鷹は身を翻すと鋭い足の爪を広げて、再びオオカミたちに襲いかかります。

 けれど、よく見れば、鷹の姿はひどい有り様です。

 翼の羽はずたずたに裂け、胸のあたりは流れ出た血で真っ赤に染まっています。

 そうだったのか…

 おじいさんには分かりました。なぜ、オオカミがすぐに追いかけて来なかったのか。

 鷹が、谷間へ下る道の入り口のところで、その身を犠牲にしてオオカミたちを食い止めていてくれたのです。

 そして最後の力を振り絞って、ここまで飛んできてくれた…もう一度オオカミと闘うために。

 けれど、もう鷹にオオカミと闘うだけの力は残っていそうにありません。

 おじいさんは荷物にくくりつけてあった鉈を引き抜くと、馬から飛び降り、オオカミめがけて斬りかかっていきました。


 それから後は、オオカミも人も羊も、もう、もみくちゃになって…


 どれくらい時間が経ったのでしょう。お父さんはぼんやりとしたまま目を開けました。

 上下が逆さに見えます。頭がひどく痛んでごーんごーんと中の方が大きな音をたてているように感じます。

 目の端の方で、飛びかかってきたオオカミを座ったまま鉈で切り払うおじいさんが見えます。

 おじいさんの服は赤い色…赤い色…

 羊たちはどこへ行った…自分はどうなってしまったんだ…

 背中の向こう、見えないところからオオカミの唸り声が聞こえます。

 「グルグルッ」と押し殺したような唸り声です。

 すると、おじいさんの声が聞こえます。

「気がついたか…見ろ、やつら怖じ気づいてもう襲ってこれなくなっている。まあ、こっちも大分やられたがな」

 あたりの空気がひんやりしています。

「もっとも、もうすぐ夜になる。そうしたら、また…」

「ブルッ」と馬が鼻を鳴らす音がします。お父さんの背中の向こうです。どうやらお父さんは馬の背に仰向けに乗せられているようです。

 お父さんは体を起こそうとします。けれど、頭が朦朧として身動き出来ません。

 そうしているうちにあたりは見る見る暗くなっていきます。

 斜面を背に寄りかかって座っているおじいさんは、お父さんをじっと見て笑いかけます。けれどその顔はひどい傷で笑っているのかどうかも分からなくなっています。


 おじいさんはそのまましばらく黙ってお父さんを見つめています。

 そして、言葉を選ぶようにして、お父さんに語りかけます。

「死ぬことは恐ろしくはない…覚えておくといい、恐怖というのは人の心に宿る幻だ」


 そこへ、ばさっばさっと羽音をさせて大きな鳥…赤い鳥が舞い降りてきます。そして、おじいさんの肩に留まります。

「こいつが残った羊を尾根まで追い上げてくれた」

 鳥は頭を挙げ一声「ピィー」と鳴きます。もたげた頭の下に白い羽毛が見えます。

 白鷹…

 気がつくと周囲は真っ暗な闇の中。

 そして、その闇の中に光る青い目、目、目…

 暗闇の中からおじいさんの声が聞こえます。

「今は、俺がおまえを守る…おまえは家族を守れ」

 そう言うとおじいさんは思い切り馬の尻を叩きました。

 馬は見えない道を駆け上ります、お父さんをその背に乗せたまま。


 その後のことをお父さんはあまりよく覚えていません。

 再び気がついた時は朝になっていて、家のすぐ側の丘の上で草原に横たわっていたのでした。傍らには疲れ切った様子の馬、そして何頭か羊と共に…。


 サーシャは、おじいさんのお墓の横に立って、そこから見える谷間を見下ろしました。

 谷の底から気持ちを高ぶらせるような強い風がサーシャの髪を耳許へ吹き上げます。

 そこへお父さんがやって来ます。

 そしてそっとサーシャの肩に手を掛けます。


 二人は遠く広がる草原を見渡しました。

 すると遙か彼方、青い空の真ん中へんに何か白い物が光ったように見えます。

 それは大きく空に輪を描くと高く高くどこまでも高く、空へ昇って消えていきます。

 サーシャはお父さんに寄りかかると一つ小さく息を吐きました。

 サーシャは、その背中いっぱいに、お父さんと、そしてその回りのすべてを包みこんでいる大きな優しい力を、いつまでも感じていたいと思いました。


Ⅶ 再び春


 冬がやって来ました。

 お日さまは雲の向こう側にいることが多くなりました。

 時折降る雨に冷たい滴が混じり、それが雪に変わるのももう間もなくです。

 草原は少しずつ緑の面を失い、やがて巡り来る春に備えて、土の下に身を潜めます。

 羊たちを草原へ連れ出すことはもうしません。

 干して蓄えた草を餌にして冬を越すのです。


 雪が降ればもう外には出られません。

 家の中で、ひたすら春が来るのを待ち続けます。

 来る日も来る日も。

 家族三人で。

 羊たちも柵の中でじっと寒さを我慢しています。


 そんなある日のことです。

 めずらしく雪がやみ、青空が顔を覗かせます。

 雪に覆われた草原が緩やかにうねりながら白く連なっています。

 サーシャは久しぶりのお天気にうれしくなって若い羊と一緒に家の回りを駆け回ります。

 何もない雪の上にサーシャと羊の足跡がばつぼつと穴を開けます。

 サーシャは何度も何度も踊るようにして家の回りを走り回ります。

 サーシャと羊の足跡が幾重にも重なりあって、家の回りの雪の上にちょっとゆがんだ黒い円が出来上がります。

 いつの間にか羊たちは駆け回るのに飽きて、群の中に戻って干し草を食べ始めています。

 さすがにサーシャも疲れて、思わず雪の上に仰向けにひっくり返ってしまいました。

 毛皮の服をたくさん着込んでいても、何もつけていない頭の後ろからひんやりと雪の冷たさが伝わってきます。

 ちょっとの間、その冷たさは火照った体に心地良く感じられます。

 けれどすぐさまぞくぞくっとした寒さにとって変わろうとするので、サーシャはパッと飛び起きました。

 目の前にはどこまでも白一色の世界が広がっています。

 と、その時、ずーっと遠くの丘の端で、黒い小さい物がちょっと動いたのが見えます。

 鹿でしょうか、熊でしょうか、それともオオカミでしょうか。

 サーシャはじーっと見つめます。

 どうやら、その黒い点はこちらに近づいて来ているようです。

 獣にしては、歩がゆっくりです。

 ずいぶん長い時間をかけて、その黒い点は二つの揺れる影になります。

 さらに眺めていると、それは、一人の人間と、連れられている驢馬に変わります。

 人間は、サーシャを見つけると、大きく手を振ります。

 サーシャも立ち上がって負けずに両手で力いっぱい手を振ります。

 そして、家の方に元気な声で叫びます。

「お父さん、お母さん。お客さん!」


 その夜、サーシャは久しぶりに家族以外の人と一緒に夕食のお鍋を囲みました。

 料理はお客様のためにお母さんが特別にこしらえたものです。

 やって来たのは、若い旅の唄歌いです。

 村から村、市から市へ、旅をしながらいろいろな唄を人々に聞かせるのです。

 英雄の話、普通の人の話、大きな災いの話、不思議な話…古い話も新しい話もみんな唄にして、弓という楽器を片手に、歌います。

 その晩は、泊めてもらったお礼にと、夜が更けるまで、いろいろな唄を歌って聞かせてくれました。

 サーシャは、初めての経験に、いつもならとっくに寝ている時間を過ぎても、ちっとも眠くなりません。

 不思議な唄は、いつまでもいつまでも続いていきます。


 夜が明けました。

 昨日とは打って変わって外は大変な吹雪です。

 旅慣れた若者といえども、この吹雪の中を歩くのはとても無理です。

 唄歌いは、もう一日、吹雪がやむまでサーシャの家に留まることになりました。

 薄暗い家の中で、炉を囲みながら、四人はいろいろな話をします。

 唄歌いは遠い国のめずらしい話を。お父さんは家族の話を。

 唄歌いは、お父さんの話すおじいさんの話、おばあさんの話、そしてお母さんの生い立ちの話に、とても興味深げに聞きいります。

 そして、一日かけて聞き終わると、唄歌いは、弓を取り出して、さっそく唄を歌います。それはおじいさんの闘いのことを歌った唄です。

 サーシャたちは、その出来映えに聞き惚れます。

 お父さんなどは、思わず涙をこぼしそうになってそっと後ろを向いています。

 気がつくと、夜はまた大分更けています。

外では、ようやく治まった風に物音一つたてず白い雪が、灰色の丘の上に深々と降り積もっています。


 翌朝は、雪は未だに降りしきっていましたが、嵐は去り、若者の足なら十分歩けるほどに天気も回復していました。

 唄歌いの若者は、干し肉とバターの固まりを少し分けてもらうと、サーシャたちに元気良く手を振って雪の中へ驢馬と一緒に歩き出していきます。

 唄歌いと驢馬は一歩一歩ゆっくりと雪の上を踏みしめて進みます。

 足跡が降りたての雪の上に深い穴を開けます。

 一面の白の中にその足跡の窪みが続いていきます。

 その先に見える小さな二つの影。

 やがてその影は降り続く雪の中に淡く沈んで見えなくなります。

 あとに残される足跡の窪み。

 それもすぐに降り積もる雪に包み込まれて消えていきます。

 そしてまた、サーシャたちの家はどこもかしこも白一面の景色の中にそっと置き去りにされます。

 雪はまだ降り積もります。

 深く白く、白く深く…


 唄歌いは旅を続けます。

 北へ北へ。

 寒さはどんどん厳しくなり、そして雪は日に日に深くなっていきます。

 森は白一色の景色の中に沈み、生き物に行き会うこともありません。

 それでも唄歌いは旅を続けます。

 何日も何日も独り雪の中。

 そして、時折出会う、人の住む小さな村。

 人の温もり。

 唄歌いは旅を続けます。

 冬の天幕に覆われて寒さに震える小さな集落を結ぶ一本の線のように。


 そうして旅を続けるうちに、冬は、ある日突然、その終わりを告げるのです。

 それは、雪の原の隙間に顔を覗かせた小さな雪解けのせせらぎ…雲の切れ間からきらきらと射し込んでくるお日さまの光…そんな小さな事だったりします。

 けれど、うっかりそれを見落としてはいけません。

 さもないと…


 唄歌いは、丘のふもとを歩いていました。

 吹雪はずいぶん前やみ、朝からお日さまが雪の原をまぶしいくらいに照らしています。

 あたりは音もなく、自分と、驢馬が雪を踏みしめて歩く音だけが聞こえます。

 その時です。

 突然、ドッと地鳴りがして、ゴォッとお腹の底を揺するような響きが足の下から伝わってきます。

 唄歌いは丘の急な斜面を見上げます。

 雪の固まりが、いえ、雪の壁が、まっすぐこちらへ向かって、雪煙を上げて落ちてきます。

 唄歌いと驢馬は、あっという間にその中に飲み込まれてしまいました。


 どれくらい時間が経ったのでしょう。 

 唄歌いは暗闇の中で目を覚ましました。

 真っ暗で何も見えません。

 もしかしたら目が見えなくなってしまったのか。

 それとも…


「やあ、気がついたかね」

 頭の上の方から声がします。

「もう少しで、死んでるとこだったな」

 唄歌いは声のする方へ首を回そうとします。

 でも、うまく回りません。

「まあ、ゆっくり寝てろ。…ああ、それから、おまえの驢馬な、助けられなかった」

 声の主はそう言うと、どこかへ行ってしまいました。

 どうやら、自分はまだ生きてるようだ…

 唄歌いは、そのまま、また眠ってしまいました。


 唄歌いは狐狩りに来ていた猟師に運良く助けられたのでした。

 冬の終わりの晴れ間には、なんとか冬を越した動物たちが、巣穴から顔を出します。

 猟師はそれを狙って狩りに出ます。

 目のいい猟師は遠くの獲物も見逃しません。

 少しでも動く物があれば、狙いを定めて…

 

 おかげで、唄歌いは、雪崩で埋まった雪の下から、掘り出してもらって、命拾いすることが出来たのです。


 昼でも薄暗い猟師の狩り小屋で、唄歌いは何日かを過ごしました。

 雪に埋まって押しつぶされて、あちこち痛んだ体も、ほどなく元にもどりました。

 けれど、助けてくれた猟師に何のお礼も出来ません。

 連れていた驢馬は雪の下で死んでしまい、積んでいた荷物もほとんど雪の下に埋まってしまって見つけることができません。

 結局、唄歌いは、いつものように唄を歌って聞かせるしかありませんでした。もちろん楽器はありません。使い慣れた弓も雪の下に埋まったまま。

 それでも、猟から戻った猟師に、毎晩、旅の途中で仕入れたお話を唄にして、語って聞かせました。


 ある晩、唄歌いは、サーシャの家族の物語を歌います。

 猟師はたいそう喜びました。

 サーシャと迷子の子羊の冒険の話にドキドキ、おじいさんと白鷹の話にハラハラ、おじいさんとおばあさんの出会いの話にちょっぴり羨ましそうに聞き入ります。

 そして、お母さんの話…

 初めは黙って聞いていた猟師でしたが、やがて何やらブツブツと言い始めます。

「いや、まさか…。そんな…でも…」

 唄歌いは、歌うのを休みます。猟師はじっと考え込んでいます。

 やがて猟師は唄歌いに言います。

「その女…娘のこと、俺はよく知っている」


 猟師は、唄歌いに、自分がサーシャのおかあさんと同じ村の出であること、サーシャのおかあさんとその両親が村から逃がれた後、ほどなく、村は大きな洪水に見まわれて、ほとんどの村人が川に押し流されてしまったこと、自分はその数少ない生き残りであることをぽつりぽつりと話し出しました。


 唄歌いはその話をサーシャのお母さんの話と一緒にして、また唄にすることにしました。

 それにしても思わぬところに思わぬ縁があるものだ…唄歌いはそう思いました。


 そうして、唄歌いがしばらく猟師と一緒にいるうちに、そこここで春が芽吹き始めました。

 雪は解け、大地が面を表します。日は輝き、凍てついた空気が緩んでいくのが分かります。

 唄歌いは、猟師に別れを告げて、もう少し北へ旅を続けます。

 春の訪れと共に一番北で開かれる市を目指して。

 その市のために、一年かけて南の土地を巡って物語を集めてきたのですから。

 年に一度、北の果てまで春が訪れたことを祝って、唄歌いすべてが集まってその芸を披露する北のその市に参加するために。


 雪解けでぬかるんだ道の先に市はぽつんと開かれています。

 市の開かれる北の果ての村は、普段は何もない貧しい村です。

 村人たちは市を開くために一年間一生懸命働きます。

 まるで、春を告げる市を開くことがその村がそこにある理由になっているかのようです。

 市は村人の生きる糧…生きるための目的になっていました。


 小さな村には市のためにたくさんの人が集まっています。

 なかには、大勢の召使いをつれたどこかのお金持ちもいます。

 遠くから馬に乗ってやって来た兵士のような出で立ちの人もいます。

 綺麗な衣装をつけた踊り子たちが市のあちこちで舞を舞っています。

 魔術のような不思議な技を見せる奇術師の前には、黒山の人だかりです。

 そして、各々得意の楽器を携えた旅の唄歌いたち。

 それぞれが自分の芸を披露して、市に集まった人々に見せ、そして、あわよくばどこかに雇われて、つかの間の安住を…一所に住む安らかな日々を得るのです。


 市は三日三晩休みなく続きます。

 唄歌いの若者は、歌う場所があれば、どこででも歌います。

 舞台の上、広場の隅、見物に来た人に招かれたテントの中…

 弓はなくしてしまいましたが、自慢ののどは誰にも負けないつもりです。

 そうして、三日間はあっという間に過ぎていきました。


 四日めの朝が来ます。

 残念なことに唄歌いの若者は誰からも雇われることがありませんでした。

 大勢の唄歌いが市に集まっています。だから、若者より芸の優れた唄歌いなどいくらでも居るのです。

 唄歌いの若者は旅の仕度を始めます。

 雪崩に飲み込まれて大した荷物もなくなってしまっていましたが。


 朝まだ日の昇らないうちに、唄歌いは荷を背負い、市を離れ、何もない大地を南に向かってしばらく歩きました。

 すると、どこからともなく人の呼ぶ声が聞こえます。

 どうやら、唄歌いを呼び止めているようです。

 唄歌いは足を止め、振り返ります。

 遠くの方から、人影が二つ追いかけてくるのがぼんやりと見えます。

 追い剥ぎの類ではなさそうです。

 もちろん取られて困るほどの荷物も持っていません。

 もしかしたら、唄歌いを雇おうという人かも知れません。

 唄歌いは人影が追いついてくるのを待ちました。


 追いかけてきたのは、年老いた男女でした。

 二人は、唄歌いに、市で下働きをして暮らしている夫婦だと言います。

 一日の仕事が始まる前に唄歌いと話そうと思って探していたら、すでに旅立ったあとだったので慌てて追いかけてきたと、少し息を切らしながら話します。

 着古された衣服を着けた二人の貧しげな様子を見て、唄歌いは、雇ってもらうのは少し無理そうだと思い、心の中でそっと溜め息をつきます。

 二人は、唄歌いの唄にとても心を動かされたと言います。

 特にサーシャの家族の物語に。

「言葉を喋らなくなった娘の話は、本当の話なのかい」

 年老いた男が尋ねます。

「ああ本当だよ。その娘はずっと南で家族と暮らしているよ」

 年老いた男と女は顔を見合わせます。

「あの…」

 男は何か言いにくそうに口を開きます。

「俺たちをその娘の所に連れていってもらうわけにはいかないだろうか」

 そして男は、唄歌いに身の上話を始めたのです。  


 男と女は、その娘の両親だと言います。

 不作に見まわれた村のために、娘が人身御供になったこと。

 それがうまくいかずに、村を娘共々追われるように逃げ出したこと。

 道中、キルト売りの親切な男に助けられて、その男の住む村で暮らし始めたこと。

 ところが、その村にも住みづらくなってしまったこと。

 みな、唄歌いの物語のとおりです。

 そして、男と女は、ある朝気がつくと、不思議なことに、何日も何日も歩かないと辿り着けないはずのもと住んでいた村に舞い戻っていて、ほどなく大きな洪水で村は全滅。命からがら逃げ延びたこの市で下働きをして暮らしている…娘とはもう何年も会っていない。

 雪崩から助け出してくれた猟師のことを唄歌いが話すと、二人はその猟師の男の名前を懐かしそうに口にします。

 唄歌いは思います。

 それにしてもつくづく不思議な縁だと。


 唄歌いと老夫婦は南に向かって旅をします。

 南に行くほど春は進み、三人の行く手はそれほど厳しいものではありません。

 三人は、ほとんど荷物を持っていませんでしたから、その歩みは思いの外速いものでした。

 その一方で、何も持っていないばかりに、食べる物にはずいぶんと不自由をしました。

 小さな木の芽を分け合ったり、やっとつかまえた小さな動物を、ほとんど生のまま食べたり…

 夜が冬のように冷え込まないのだけが救いでした。


 そうして、何日かが過ぎました。

 あと十日ほどでサーシャたちの所に着きます。

 けれどその前に一つの厳しい試練が待ちかまえています。

 目の前に、真っ白な雪に覆われて見上げるように高く険しい岩の丘がそびえています。

 三人は春になっても雪の降り積もったままの北の斜面をゆっくりと登っていきます。

 雪はとてももろくて滑りやすくなっています。

 一足一足十分に気をつけて雪を踏みしめながら登ります。

 おかげで丘の稜線を越える頃にはすっかり日も沈み、すぐに夜の寒さがあたりを包み込みます。

 三人は急いで雪の中に寒さよけの穴を掘ると、身を寄せ合うようにして夜を明かしました。


 夜明けです。

 遠く空と地面の境が赤く染まり、藍色の空にちりばめられた星々を蹴散らして、真っ赤なお日さまが力強く昇ってきます。

 寒さで一睡も出来なかった三人は、早々に雪の穴から抜け出すと、お日さまに照らされて、朝の空気の中、ちりちりと音をたてんばかりに銀色に輝いている雪の斜面をそっと降り始めました。

 唄歌いは少し急ぎます。

 南の斜面の雪は崩れやすい、お日さまに照らされる時間が長くなるほど雪は緩む。

 雪崩に巻き込まれたあと、唄歌いは助けてくれた猟師から、いくつか知恵を授かっていました。

 できればお昼前までにふもとまで辿り着きたい…

 慎重に、でも心持ち少し急ぎながら、三人は斜面を下っていきました。


 ちょうどお日さまが目の高さまで昇って来た時でした。

 三人は、少しだけ休もうと、雪の斜面に突き出している岩に腰掛けました。

 目の前にはふもとまでゆるやかに斜面が広がっています。

 あと少しです。

 昼前にはふもとまで降りることが出来そうです。

 三人は気持ちを取り直して立ち上がり、次の一歩を踏み出しました。

 ところが…


 気がつけば目の前には岩の割れ目がざっくりと口を開けています。

 唄歌いと老人は岩の端から落ちかけて宙ぶらりんになっています。

 三人が腰掛けていたのは、雪の斜面に突き出た岩ではなくて、雪の斜面に開いた裂け目の縁だったのです。

 そして、冬の間に固まった雪がまるで蓋のように覆い被さってその狭い裂け目を隠していたのでした。


 唄歌いは右手で必死に岩の縁に掴まります。

 左手は、落ちかけている老人の手をしっかり握りしめています。

 けれど、身動き一つでもしようものなら、あっという間に二人とも裂け目の底に落ちてしまいそうです。

 運良く岩に取り付いて落ちるのを免れた老人の妻は、おろおろするばかりで役に立ちません。

 時間だけがどんどん過ぎていってしまいます。

 岩に掴まった唄歌いの手がしびれてきます。

 その時です。

 老人が腰に下げていた大きな鉈を、唄歌いの握っている手とは反対の手に持ちます。

「何をする…」

 老人は、それに答えることなく、鉈を振り上げると、ざっと打ち下ろしました。


 唄歌いは、そのあとのことを余りよく覚えていません。

 というより、本当のことだったのかどうか、あとになっても今一つ信じることが出来なかったのです。

 唄歌いの頭の中に残っているのはこんな光景です。

 …打ち下ろされた鉈は老人の手をばっさりと切り落とします。

 切り落とされた老人の腕から真っ赤な血が滴り落ちて…その先に人影がずっとずっと下まで小さくなりながら落ちていく。

 その落ちていく人影の、その顔が、なぜか笑っているように見える…

 見えるはずがないのに…


 唄歌いは、この時のことを、その先何年あとになっても、どうしても唄にすることが出来ませんでした。


 唄歌いと老人の妻は、日が沈む頃に、やっと丘のふもとに辿り着きました。

 二人は、そのまま何日も口をきかずに、ただ黙々と歩き通しました。

 老人の妻は、着ていた服を切り裂いて作った布きれに包んだ物…それをずっと胸に抱えたまま歩き続けました。


 それから十日たった日の昼過ぎ。

 二人は新しく芽吹いたばかりの緑の丘の、その連なりの向こうに、小さな家を見つけます。

「あれが、娘さんの家だよ」

 唄歌いが低い声で老人の妻に語りかけます。

 老人の妻はその場に立ちつくしたようになってじっとその家を見つめます。

 二人はその場所でしばらく春の風に吹かれています。

 老人の妻の乾いた髪が風になびきます。

 その目は何を見ているのでしょう…


 その時、家の中から、小さな女の子が出てきます。

 その頭にはよく目立つ赤い帽子がかわいらしくのっています。

 女の子は二人に気がつくと、大きく手を振ります。

 唄歌いもそっと手を挙げてそれに応えます。

 女の子は家の中に声を掛けます。

 中からもう二人、人が出てきます。

 お父さんとお母さん。

 お父さんも手を振ります。

 お母さんはすこし大儀そうです。

 どうやら、少し太った…いいえ、お腹が大きくなっているようです。

 もうすぐ…赤ちゃんが産まれるのでしょう。


 女の子が走り出します。

 どうやら唄歌いのことが分かったようです。

 赤い帽子が緑の草原を元気良く近づいて来ます。

 その後ろで見守るお父さんとお母さん…


 唄歌いはそっと横を見ます。

 老人の妻の目は、まっすぐに赤い帽子の少女を見つめていました。


 唄歌いはこのことを唄にします。

 そして、次の年、北の市で、遠くの都から来た王様に気に入られて雇われることになります。

 けれどそれはまだ先のお話です。


 サーシャはどんどん駈けて来ます。

 顔中ほころばせて、ニコニコしながら。

 真っ赤な帽子に白い羽。

 緑に萌え出た草の原。

 そして、その向こうには、真っ青な空が、どこまでもどこまでも広がっています。


 遠く空の彼方から、高く鷹の鳴く声が聞こえる…

 唄歌いはサーシャの物語をここで終わることにしています。


 ですから、サーシャのお話も、ひとまずこれで、おしまいとすることにいたしましょう。

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赤い帽子のサーシャ 捨石 帰一 @Keach

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