4.

 抜け殻のように項垂れた男をしばらく見下ろしてから青年は立ち上がり、 テーブルの上に置いてあったICレコーダーをスーツのポケットに入れた。最初から録音ボタンは押していなかった。

 ドアをノックすると、先ほどの看守がやってきてロックを外す。 中年のその看守は、部屋の中をちらりと覗いてから「大丈夫でしたか?」と気遣わしげに尋ねた。


「あの受刑者はとても先生を信頼しているようだったので、驚きましたよ。 今日はどんなカウンセリングを? いつもより長かったみたいですが」

「今日は少し立ち入った話をしまして」


 青年は、誠実そうな眼もとをほんの少しだけ細めた。


「大丈夫、患者が叫んだり取り乱すのはよくあることなんですよ。 むしろそうやって心の葛藤や鬱憤なんかをぶつけてくれるようになったのは、こちらに心を許している証拠ですから」


 メンタルヘルスについて何の知識もない看守は訳知り顔で、なるほど、と頷いた。


「いやあ、それにしても頭が下がります。月に一度とはいえ、ボランティアで受刑者たちのカウンセリングをするなんて、なかなかできるもんじゃありません」

「いえ、わたしもまだ精神科医として若輩者ですから。経験を積ませてもらえて有難く思っています。 これを機に国が受刑者の心のケアを重視してくれればいいのですが」

「まだお若いのに大したものですなあ。うちの娘に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいもんです」

「そういえば娘さんの受験、どうでした? もうそろそろ結果が出た頃ですよね」

「それが受かっちまったんですよ。四月から東京だって、今から浮かれてます」

「それじゃ寂しくなりますねえ」

「やかましいのが居なくなって落ち着きますよ。 ただねえ、アレは家内に似て面食いだから。悪い男に騙されるようなことだけは勘弁してほしいもんです」

 青年は一瞬息を詰めたが、すぐに親身な様子で頷いた。

「そうですね。ええ、本当に」

 ではまた来月に、という看守の言葉に彼は首から提げたIDカードを軽く掲げ、愛想よく会釈を返した。





 刑務所から出ると、春一番の風が勢いよく青年の髪を掻き揚げた。 思わず風の後を追って空を仰ぎ、その眩しさに目を細める。本当に、うららかな日だった。 近くの小学校では授業開始のベルが響いており、それは平和の象徴のように思えた。

 バス停へと歩きながら青年は思い出していた。数年前、恋人との写真をメールで送ってきた彼女の笑顔を。 お腹に赤ちゃんがいるの、と電話ごしに幸せそうにいった彼女の声を。

 あのとき、どうして気づかなかったのだろう。不審な点はあった。 真夏なのに長袖を着ていたこと、電話がいつも自宅からでなく仕事帰りにかかってくること、 他にもサインは腐るほどあったはずだ。なのになぜ、気に留めることができなかったのだろう。

 あのとき気づいてさえいれば、こんなことには。


「――…姉ちゃん」


 刑務所の外塀によりかかり、呻くように青年は涙を流した。嗚咽が漏れないように片手を強く口に押し当てる。 それでも咽喉は痙攣を繰り返し、指の震えは永遠に続くように思えた。 姉がこの世を去ってからというこの五年間、厳重に凍らせていた悲しみが一気に融解して、その濁流に飲みこまれる。

 幼いころに両親が離婚し、それでも姉との絆は断ち切れずにいた。 戸籍上の苗字は変わっても、身体に流れる血は変わらない。誰よりも幸せになってほしいと望んでいたのに。 なぜ彼女があんな目にあわなければいけなかった?

 押し寄せる感情を堪え、必死になって青年は十数分前のことを思い起こした。

 出る間際、男の手にそっとカミソリを握らせた感触を。 陽光を反射し、鈍く光る銀色。それを魅入られたように見つめる、男の黒々とした双眸を。


 やがて落ち着いてきた青年はスーツの袖で涙をぬぐい、首から提げていたIDカードを歩道の脇を流れる下水に捨てた。

 そして歩き出した。今までと同じように。これからも、そうであるように。







- Fin -


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