3.

 椅子が勢いよく倒れた。男は幽鬼のようにふらつく足で後ずさると、頭を小刻みに振った。


「先生……先生、もうやめよう」

「いいえ。最初の決め事を思い出して。ロールプレイングですよ。 カウンセリングが終わるまで、わたしは『あなた』、あなたは『彼女』だ。 どうしたんです、最初はなかなか乗り気だったじゃないですか」

「いやだ、もう話したくない……!」

「しょうがない。では聞いてください」


 青年は黒ぶちの華奢なメガネを外し、白いシャツの胸ポケットに入れた。


「あなたは知っていましたか。彼女のお腹に新しい命が宿っていたことを。 彼女を痛めつける時には避妊をしなかったそうですね。 愛のない暴力で出来た子どもを、それでも彼女が産もうとしていたことをあなたは知っていましたか? 子どもが生まれて父親になれば、 あなたが変わるのではないかと――あれほど虐げられていながら、なおも彼女があなたに希望を抱いていたことを知っていましたか?」


 男はずるずると床に崩れ落ち、拳でカウンセリングルームの床を何度も叩いた。 青年は微動だにせず、その自傷行為ともいえる暴力的な姿を眺めていた。

 危険は感じなかった。男の両手には手錠があるし、 襲いかかられたとしてもこの痩せ細った身体を組み伏せるのは容易いだろう。 それに、この男にはもう他人を支配することはできない。危険なのはむしろ自分の方だ、と青年は思った。


「愛していた! 本当だ!」


 唐突に男が叫んだ。 涙を流し、悲壮に顔をゆがめて。


「別れ話を切り出されると思ったんだ! そんなのは耐え切れないと思った、彼女が全てだったんだ!」


 叫び声に、部屋にひとつだけあるドアのロックが外されて看守が顔をのぞかせた。 部屋に入ろうとしたその看守に青年は少し微笑んで、大丈夫ですから、と唇の動きだけで伝えた。 看守は心配そうな顔を浮かべていたが、男の手に手錠がきちんとはめられていることを確認してから、またドアを閉めた。

 看守の足音が少し離れたのを耳で追ってから青年は立ち上がり、男の方へと歩いた。


「愛していたのならなぜ優しく抱いて、朝まで一緒に眠ってあげなかったんですか。 なぜ殴り、なぜ腎臓が破裂寸前になるまで蹴ったんです? 彼女の死体を前にしたときあなたはなぜ、 ゴミ袋につめて川に捨てるという選択をしたんでしょうか」


 男の前に屈みこむ。見上げてくる怯えきった目を見つめ返し、青年はこめかみを指先で揉んだ。押し殺した感情を細く長く、ため息にして肺から吐きだした。


「あなたのソレはね、愛とは呼ばない。よしんばそう呼ぶとしたら自己愛というんです」


 男は何かをいおうと口を開いた。しかし声は出ず、唇は魚のように無為な開閉を繰り返すだけだった。 江口さん、と青年は男の名を呼んだ。鼓膜に嫌が応にでも沁み込むように、慈愛すら感じさせる穏やかな声音で。

 江口さん。彼女はこの世で唯一、あなたを愛してくれた人間でしたね。 ご両親には勘当され、親しい友人もいない。そうですよね? あなたが今までカウンセリングで話してくれたことです。

 ねえ、わたしのいっていることが理解できますか、江口さん。 彼女をその手で壊した瞬間、あなたはこの世で誰からも必要とされない存在になったんです。もう 誰もあなたのために泣かないし、誰もあなたが全てだと欲したりしない。 まともにあなたの話を聞く人間すらいない。あなたが彼女に言ったことを、わたしからも言いましょうか。


「なんでまだ生きているんだ?」


 男の双眸が絶望の色に染まってゆくのを見て、青年は泣きそうな顔で微笑んだ。

 到達したのだ、と感じながら。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る