17:26
突然、意識が冴え渡った。〈右目〉の
それは時間にして〇・一秒にも満たなかったが、だが、そのほんの一瞬の間に、カノエの気持ちは大きく変化していた。
これから何をするべきなのか、わかる。
もう迷いはない。今の自分にできるたったひとつの解決法を、これから試みる。
カノエの強い意思に応え、〈首輪〉が即座に反撃プランを策定する。〈奥の手〉を叩き込むには、いくつかの条件が存在するからだ。ロックオンするために〈右目〉の視界へ収めること。巻き添えを防ぐため絶縁距離を確保すること。それが難しい場合は絶縁体を着用すること。衣類や頭髪は首輪に触れないようにすること――
考える傍らから高熱で再び意識が曇り始める。時間はない。カノエは〈首輪〉の指示に従い、両方の拳で床を叩いて反動を背中に伝える。
「n、mu!?」
外科医の両腕はカノエの胴体に回されていて、簡単には抜け出せない。だが、カノエは諦めなかった。
抱え込むように膝を折り曲げてから後ろ蹴りを繰り出した。その勢いを活かして外科医ごと裏返った。上体を落としながら肘を食らわせた。それでも離れない外科医を自分の身体ごと壁に叩き付けた。
「ムダダム、ダダオト、ナシクシ、テロ」
「heha、ehehehe」
そんな嘲りとは裏腹に、外科医の両腕がわずかに緩む。カノエはすかさず背負い投げを決めるが、外科医は上腕部の伸縮機構を用い、左手首を掴んだまま離さない。
「kisaaaaaaa!」
大きく裂けた口を全開にし、外科医が起き上がりざまにもう片方の手を伸ばしてくる。〈首輪〉は右腕のスキンスーツに無数のスパイクを蠢かせて抵抗し、〈右目〉は次々に外科医の身体へロックオンマーカーを重ねていく。十箇所程度では不十分だ。多ければ多いほどいい。確実にやらなくては、確実にやられる。
しかし、活動限界はすぐそこに迫っていた。これ以上は続けられない。バッテリー過放電準備完了、接触面絶縁化完了、
「gwuooooo!」
突然、外科医の手が足元に狙いを変えてきた。スキンスーツは爪先まで覆っているが、靴を履いているせいで変形させにくい。掴まれると面倒だ。だが、逃げようにも左手首は握られたまま。もう時間がない。
カノエは〈首輪〉が命じるままとっさに前へ――外科医の頭上を越える軌道で跳躍した。そして、完全に飛び越す前に右奥歯を素早く三回噛み、きつく目を閉じる。
次の瞬間、瞼をも貫く閃光と狭い廊下に響き渡る炸裂音がした。
左手首から外科医の十本指が離れ、カノエは――わたしは、宙を飛んでいる。でも、なぜ? どうしてわたしは、目を閉じたまま飛んでいるの?
身体が落ちていく感じに慌てて目を開けると、瓦礫だらけの床がすぐそこに迫っていた。わたしは頭を抱えるのが精一杯で、横向きに床へ叩き付けられた。
「ぐぅっ!」
衝撃と痛みで息が一瞬止まった。それでも無理やり呼吸すると、強打したらしい脇腹や脛のあたりがずきずきと痛み始める。
わたしは墜落した態勢のまま、しばらく喘ぎ続けた。
痛いのはともかく、身体が火のように熱い。頭からつま先まで全身を包んでいる全身スーツは通気性が全然なく、まるでゴム製品のよう。おまけにサイズはぶかぶかで、素肌に触れている部分が汗でじっとりと湿り始める一方、首から上の部分は、まるで燃え尽きたようにさらさらと分解されていく。
わたしの身に、何が起きたのだろう。
思い出そうとするけれど、痛さと暑さのほかに喉元からの刺激臭が加わり、わたしの意識を乱す。それと右目も。まぶたは開いているはずなのに、真っ暗で何も見えていない。
「……っ、く」
痛みを我慢しながら上体を起こすと、喉元から何かがぼとぼと落ちた。四角くて金属っぽい板が全部で十枚ぐらい。どの表面にも歪みがあって、刺激臭のする白煙が薄く登っている。
恐る恐る触れた喉元には分厚いチョーカーが嵌っていて、その感触で少しだけ思い出せた。
「……レイ?」
そうだった。わたしは彼と一緒だった。ほんの短い間とはいえ、そんな大切なことを忘れるなんて。
「どこ? どこにいるの!?」
立ち上がろうと腰を浮かせたわたしは、思い切りよろめいて尻もちをついてしまう。ハーネスで重さを分散させているはずなのに、いまのわたしには背中と腰の荷物が重すぎる。少し前のわたしは、本当にこれだけの重さを運んでいたの?
「なぁーおん」
そのとき、どこからかネコの鳴き声がした。
「……レイ?」
「あーおぉん、なぁーおぅ」
鳴き声のする方向に首を向けると、壁や天井が崩れた瓦礫だらけの廊下の先に彼の姿が見えた。
「レイ!」
名前を呼んだ途端、彼は矢のような速さで駆け寄ってきて、わたしの身体に頭をこすりつけ始める。
「……よかった。どこに行ってたの? 怪我はない? ごはん食べる?」
わたしの問いに、もちろん彼は答えない。その代わりに「なうぅ、あぅ、なぁう」とお小言のように鳴きながら、自分の匂いをわたしに移していく。五秒も十秒も、飽きることなく。
「うん、ごめんね。わたしが悪いって、もうわかったから」
彼は抱き上げようとするわたしの手をすり抜けると、やって来た方と反対側へ行こうとする。
「ま、待って」
彼は手の届かないぎりぎりまで離れてから振り返り、短く鳴いた。
「あぉん」
まるで、ついて来てと言っているみたい。思わず彼の顔を見ると、わたしの目を見つめ返してもう一度鳴いた。
「……わかった。だから、ちょっと待ってて」
荷物を背負ったままのわたしは壁際まで這って動き、壁に身体の側面を押し付けながらゆっくり立ち上がる。試しに壁から離れると、よろめきながらどうにか自力で立てた。少し前のわたしがどうやって動いていたのか不思議だけど、とにかくゆっくりなら歩けそうだ。
視点が高くなって真っ先に目に飛び込んできたのは、五メートルぐらい先に転がっているヒトだ。全身が機械化されていて、着ている白衣の胸元が焦げていて、そこから何本もの白い煙が登っている。
「なぁーん」
立ち止まったままのわたしに、彼が鳴いて急かす。わたしは腰に提げていたマチェットの存在を思い出し、それを握り締めながらヒトの隣を通り抜けようとする。
遠目に見た限り、そのヒトはもう死んでいる。ぴくりとも動かないし、彼も気にした素振りを見せない。転がっている隣を平然と通り抜け、問題ないよと言いたげに振り返った。
「そうは言うけど……」
怖いものは怖い。一歩一歩近づくにつれて詳細が明らかになってくるけれど、安心できる要素が見当たらない。
スキンヘッドでのっぺらぼうの顔にあるのは、鼻筋と側面まで大きく裂けた口だけ。胴体に目を向けると、身体の継ぎ目のあちこちに髪の毛のように細い針が突き刺さっている。きっと、それのせいで死んだのだろう。
彼は死体に見向きせず、そのすぐ隣を平然と通り抜けていく。なのでわたしも、おっかなびっくりでその後に続いた。
「あーおぅ」
死体を通り過ぎたところでまた鳴いて、今度は「急いで」の意味かもしれない。急に小走りになってわたしを慌てさせる。
「ちょっ、ちょっと待って」
あたふたと追い掛けたわたしは、自分がどんな場所にいるのかようやく気がついた。
どうやらここは、住宅団地らしい。五階建てのマンションがどの方向にも延々と立ち並んでいて、そのほとんどが壊れている。壁が剥がれたり窓が外れている以外に、大穴が空いたり途中の階が丸ごと崩れ落ちているところも。巨大な何かが暴れ回ったとしか思えない。
まだ近くにいるのかもと思って耳を済ませると、聞こえるのはマンションのさらに上を飛んでいるドローンの羽音だけ。少し安心したわたしは、不満げな顔で振り返っている彼の元に急いだ。
マンションとマンションの間は草むらになっていて、大小さまざまな瓦礫で足の踏み場もない。その辺の事情がちゃんとわかっているのか、彼が進むのはマンションの廊下だ。廊下にも瓦礫は落ちているけれど、歩けないほどではない。
だけど今のわたしには、背中と腰の荷物が重すぎる。できることなら置いていきたいし、置いていけるものもあるはずだ。
「大丈夫、ちゃんと歩いてるから」
彼はいつになくわたしに厳しい。ちょっとでも立ち止まろうとするとすぐに振り返って、じっとわたしを見てプレッシャーを掛けてくる。荷物は重いし、スキンスーツは暑苦しいし、彼がどこに行こうとしているかもわからない。
でも、この街を出ようとしているのは間違いないはず。
だって今は、夕方だからだ。
目に見えるすべてが、傾いた太陽に照らされて赤黒く染まっている。とても懐かしい色。まるで、ベンサレムにいたあの頃のよう。
ここがどこだかまだわからないけど、彼が案内してくれるのなら安心だ。
わたしたちは、必ず家に帰っていた。
だから今回も、必ず家に帰る。帰れるはず。
やっとの思いでマンションの廊下を通り抜けると、今度はフェンスが邪魔をしていた。ただし、そのほとんどは倒れたり壊れたりしていて役に立っていない。
倒れたフェンスの上を渡ると、次は倉庫街だった。屋根の潰れた大きな倉庫が目の前にあって、彼はそれに沿って夕陽とは反対方向へ――東へ迷わず歩く。まるで、この街の地図が頭に入っているかのよう。開いたままの倉庫の扉には目もくれない。
しばらく歩くと大きな地割れがあり、中からコンクリートっぽい材質の箱が姿を見せていた。中は筒状になっていて、これと同じようなものが南北方向に続いている。どうやらこれは、地下通路のようだ。
どこへ続いているのは少し気になったけれど、彼はこれを見せたかったわけではないらしい。何度も何度も振り返り振り返りしながら、道の先にある丁字路へわたしを導いていく。
「どこに連れて行くの?」
「なぁーん」
もちろん本当は違うと思うけど、わたしの耳には「出口だよ」と聞こえた気がした。
丁字路に到着した彼はようやく立ち止まり、一度わたしの顔を見上げてから北を向く。わたしもつられて北を見ると、広めの通りの突き当たりに塀と門が見えた。
「あれ、出口だよね」
「なぅ」
彼は短く返事をして、少し早足になって歩き始める。出口までの距離は百メートルぐらい――二百メートルかも。右目はまだ見えなくて、遠近感があやしい。
とにかく、もう少しだ。通りの両側にも倉庫が並び、長い影が落ちてかなり暗い。シルバーマッカレルタビーの彼の身体が輝いて見えるぐらい。
でも、あの頃はそうじゃなかった。彼はシルバーマッカレルタビーじゃなかった。どんな色だった? どんな柄だった? ずっと一緒に過ごしたはずなのに、うまく思い出せない。どうでもいいことなのに、気になって仕方ない。
ふと足が止まったわたしに対し、彼がくるりと回ってこちらに向き直った――と思った次の瞬間、彼の身体が消えた。
「え……っ?」
本当に一瞬の出来事で、何が起きたのかわからない。
「レ、レイっ!?」
名前を呼ぶと、彼のものとは違う声が右側から聞こえてきた。意味のある言葉というより、まるで機械の動作音のような――
「g、go……u、guuuuo……」
恐る恐る向き直ったわたしは、思わず息が止まりそうになった。
立ち並ぶ倉庫の薄暗がりから現れたのは、廊下で死んでいたはずのあのヒトだった。
何かの間違いだと思いたかったけど、全身から立ち昇る煙や焼け焦げた白衣や口しか開いていないのっぺらぼうの顔は間違えようがない。
「hie、he、heeee……」
肩を揺すって笑うそのヒトの手は、ワイヤーで巻き取った彼の首を鷲づかみにしていた。
これから何をするのか。どうしてここにいるのか。少し前のわたしが原因かもしれないけれど、わからないことが多すぎる。
けれどもこのヒトが、わたしに敵意と悪意を持っていることだけはわかる。彼の首に掛かる機械の指が、もったいぶるように少しずつ食い込んでいく。
「そ、その子を、レイモンドを――」
わたしのお願いは、彼の悲鳴で掻き消された。
「に゛あ゛ぁぁぁっ!」
何が起きたのか、すぐにはわからなかった。彼のお尻からぼたぼたと血が落ちてきたのを見て、ようやくわかった。
尻尾が、ちぎられている。
「wh、heheeee……」
見せつけるように高く上がったヒトの左手には、ちぎられた尻尾が握られている。それを無造作に投げ捨てたあと、左手は痛みで暴れる彼の右足を掴んだ。
次に何をするのか、今度はすぐにわかった。
「くっ!」
わたしはとっさに、手にしていたマチェットを投げつけた。彼が傷つくかもしれないと思ったけれど、何もしなければもっと傷ついてしまう。
でも、その心配は杞憂だった。わたしが力いっぱいにぶん投げたマチェットは思い切り左に逸れ、ヒトにはかすりもしなかった。
そして、彼の右足が折られた。
「ぎあ゛あぁっ!」
全身を仰け反らせながら、身の毛もよだつ声で鳴き叫ぶ彼。
まだ無事な手や足が繰り返し宙を引っ掻き、そのうちの何発かがヒトにまぐれ当たりする。けれどもヒトは全然気にしない。歯を剥き出しにして笑いながら、彼の右足に触れた。
「な゛お゛おぉっ!」
折れた足が力なくぶら下がる。
尻尾の付け根から血が滴る。
失禁した尿で湯気が立ち昇る。
開いたままの口から泡が吹き出る。
わたしはただ、彼が痛めつけられ、死に近づいていく様子を見ていることしかできなかった。
がくがくと足が震える。立っていられなくなる。その場にへたり込む。
何もできない。何も思い浮かばない。
わたしは、何をすればいいのかわからない。
彼の命を救う方法。
敵を打ち倒す方法。
わたしが生き残るための方法。
どれを優先すればいいのか、それを判別する方法。
今は、何が正しいの?
わたしの問いに、誰も何も答えてくれない。
その間にも、ヒトの手は恐怖と怒りで横になった彼の耳を引っ張り上げる。まるで、次はここだと言いたげに。
わたしはすがるような思いで彼の目を見た。わたしを助けてくれるのは、いつだって彼だった。彼に従っていれば、間違いはなかった。今までも、これからも、きっと。
すると突然、右目が見えるようになった。
いきなり開けた視界に文字や記号が浮かび出て、何かのタイマーらしい数字が七分を切って、数字化された彼の健康状態がみるみる減っていく。
そしてその向こうに透けて見える、彼の目と視線が合った。
だけど、光の速さで返ってきたのは鈍器で殴られたような激痛だった。
「ぐぅっ!」
わたしはとっさに右目を押さえ、うずくまった。まるで、彼の苦痛が流れ込んできたように感じたからだ。
でもそれは、半分ぐらい正解かもしれない。
手で暗くなった視界の右半分を、無数の文字列が流れ落ちていく。
『痛い痛い痛い痛い苦しい痛い痛い苦しい苦しい助けてせめて殺して
助けて痛い殺して殺して助けて殺して助けて苦しい痛いだから早く
早く早く早く殺して逃げて早く助けて殺して逃げてどうか逃げて
助けて痛い早く早く早く逃げてもうすぐ早く早く逃げて来る早く来る
逃げて逃げて逃げてどうか早くどうか逃げて来る来る来る早く逃げて』
これはきっと、彼の声だ。
そう理解した瞬間、わたしは背中を向けて逃げ出していた。
彼はいつでも正しくて、わたしはいつも間違っているから。
だから逃げた。後ろから彼の悲鳴が追い掛けてきたけれど、振り返らなかった。ぶかぶかのスキンスーツで足をもつれさせながら。転びそうになりながら。必死で走って逃げた。
それから何秒かして、空気がびりりと震えるのを感じた。それはだんだんと大きくなり、地鳴りとなって次第に近づいてくる。
そしてさらに数秒後、ひときわ大きな轟音と共に地面が揺れ、足を取られたわたしは思わず転んだ。
這いつくばったまま振り返ったわたしは、自分の目を疑った。そこにいたのは、手足のないおばあさんの身体が突き刺さった鉄巨人だったからだ。
その鉄巨人はゴリラのような腕で白衣を着たヒトを引きずり倒すと、虫を相手にするようにポキリと両腕をもぎ取った。
「ta、tiiiiii!」
オレンジ色の血で染まっていく白衣の下から新しい機械腕が飛び出したけれど、五メートルはありそうな鉄巨人には勝てなかった。勢いをつけた両手で胴体ごと挟まれ、あっさり握り潰される。
「ngo、ooooou!」
鉄巨人の蹂躙はそれで終わらなかった。ヒトの上半身を挟んだまま拳を握り締めると、大きく振りかぶってから地面へ叩きつけた。
「f……g、f……ufuu……」
鉄巨人の握りこぶしの中から、くぐもった悲鳴とおぞましい破壊音とが聞こえてくる。
ぐしゃり。めぎょごぎょ。べきり。
金属と金属以外の物質が一緒くたに押し潰され、ねじ曲げられ、折り込まれていく音。
ぎぎりぃ。ぐじゅぶ。げぐぐっ。
アーカイブで見たモチツキの記録動画のように何度も何度も繰り返し叩きつけると、今度は下半身の番だった。足で押さえて膝を逆側に折り曲げ、それをさらに二つ折りにして。ぐちゃぐちゃの塊になった上半身と一緒に、念入りに踏み潰していく。
「……a、ca……u……aa……」
万力へ掛けられたように左右から押し潰されても、飴細工のように棒状へ長く引き伸ばされても、泥団子を作るように丸く握られても。視界の右半分に映る数字は、ヒトがかろうじて生きていることを示している。
ヒトがなかなか死ねないのか、鉄巨人がなかなか殺さないのか。わたしにはわからないし、もはやどうでもいい。
今はただ、待つことしかできなかった。わたしの元へ突然降りてきた『機械仕掛けの神』が、わたしたちの敵を滅ぼすまで。
だって彼は、もう死んでいるから。振り返って鉄巨人を見たときには、首の骨が折られてしまっていたから。
視界の右側がわたしに――カノエにそう伝えた。再起動を果たした〈首輪〉がバイタルを分析し、武装外科医もペナンガルも直に活動限界を迎えることを。
カノエは、目の前のすべてが死に絶えるのを待った。
とても悲しいはずなのに、カノエはひどく冷静だった。
もちろんそれは〈首輪〉のおかげだ。本体残バッテリーは四・三パーセント。スキンスーツがアシストを再開し、身体にぴったりと貼り付いて動揺を抑え込む。機能を限定したセーフモードであっても、カノエの心身に与える影響は大きい。
今ここで死んだのは五体目のレイモンド。インプラントは残り四本。次の六体目は、このシルバーマッカレルタビーよりもうまくやってくれるはず。だから大丈夫。絶望しなくていい。嘆く必要もない。そんなことより、期限切れが来る前に急いで後片付けをしなくては――
やがて動くものがなくなるとカノエはレイモンドの元へ歩み寄り、下ろしたバックパックの中から金属質のシリンダーを取り出す。
これは、レイモンドの棺桶だ。技術と秘密の漏出を防ぐため、レイモンドを構成していたモノは一片も残さずに回収しなくてはならない。
飛び散った肉片を〈右目〉が捉え、〈首輪〉がスキンスーツを操る。レイモンドだった物体を素早く集め取りながら、カノエの左目だけから涙が溢れ出た。
レイモンドを失って、悲しくないはずがない。自分の判断ミスで、またしても無駄に死なせてしまったのだから。
彼の助言通りに動いていれば、変に欲張らずさっさと撤退していれば、〈
けれど、そうはならなかった。〈右目〉は冷静かつ冷徹に、血塗れの現実を見つめる。
使用期限切れまで残り七十三秒。通用ゲートまでの距離は八十七メートル。今度こそ本当に時間がない。敵対勢力の壊滅を確信したらしい〈首輪〉が、街の外で待機していた
するとそのタイミングで、十メートル手前で前後を反転させた電動四輪がドリフトしながら五十センチ手前までやってきた。
シリンダーを抱えてすかさず飛び乗ると、あらかじめ展開させていたマニピュレーターでバックパックを拾い上げながら電動四輪は自動で発進。インジケーターパネルの下からケーブルが伸び、〈首輪〉と物理接続して急速充電を始める。
『お迎えにあがりました、マスター』
制御AIの女性ボイスがそう言い、加速度を増した電動四輪はすぐに最高速度へ。残り二十七秒。通用ゲートはすぐそこだ――
とその時、電動四輪の前を小さな影が横切り、緊急回避した車体は激しくスピンして止まった。
『申し訳ありません。直ちに再発進します』
「待って!」
横切った影の正体は〈右目〉が捉えていた。すっかり薄汚れたハチワレ柄のネコ――老女性にルルーと呼ばれていた個体に間違いない。轢かれそうになったことで警戒しているのか、車止めのポールの陰に隠れながらこちらを見ている。
「おいで」
カノエはレイモンドの入ったシリンダーを左腕で抱え、レイモンドの血で汚れた右腕を差し出した。
「ここはもう、終わりなの。だから――」
残り十五秒。痺れを切らした〈首輪〉が、ハチワレを回収して通用ゲートへ向かうルートを設定して電動四輪を操る。カノエは曲芸乗りよろしく地面ギリギリまで身体を乗り出し、右腕を真横に伸ばした。
高速で自分に向かって来る電動四輪が怖いのか、ハチワレは腰を浮かせて今にも逃げ出しそうだ。言うまでもなくチャンスは一度きり。捕まえられなければこのハチワレは確実に死ぬだろう。その辺は〈首輪〉も承知していて、指先のスキンスーツを網状に再構成して射出すると、踵を返したハチワレを背中から絡め取ってカノエの手元に引き寄せた。
「急いで!」
カノエが命じるコンマ数秒前から電動四輪は急加速を始め、理想的なコーナリングで再び通用ゲートへ。残り四秒。
八時間五十七分ぶりに社宅群の外へ出たところで、カウンターの数字が全てゼロになった。
最初に感じた異変は、遠雷にも似た轟きだ。時速九十キロで遠ざかっているのに轟音は大きくなる一方で、やがて地面までもが揺れ始める。
運転を制御AIに任せて振り返ると、あらゆる構造物から霧のようなものが立ち昇っていた。それは、夕暮れの赤い空を覆い隠す勢いで発散を続けていて、次の瞬間、遠くに見える五階建ての集合住宅たちが崩壊を始めた。
屋上から。中ほどから。側面から。
崩れる場所はさまざまだが、崩れ方は同じだ。霧の発生した場所が脆くなり、地上へ落ちる間もなく形をなくし、塵となって降り落ちていく。
その現象が、社宅群全体に及び始めていた。塀が蒸発するように消えて棒立ちのペナンガルが露わになったが、背後から襲い掛かってきた真っ白な津波に飲まれ、すぐに見えなくなった。
社宅群を形成していた全てが、その形をなくそうとしている。
構造物から発生していた霧は、建材から遊離したナノマシンが再凝集したもの。あらかじめ設定されていた時間が来ると、分子間引力を発生させていたナノマシンが機能を停止し、結合を解かれたマテリアル基材が崩壊していく。
つまりはこれが、使用期限切れだ。撤去に掛かる膨大なリソースを省くため、計画段階から仕込んでおいた時限式解体装置。〈首輪〉の知識にはあったが、実際に目の当たりにしたのはこれが初めてだ。〈右目〉が捉えた分だけでも、概算で約五百八十八万立方メートル――四・七四
「もっと急いで!」
電動四輪は道路を外れ、麓までの最短ルートを選択。手入れのされていない樹林帯を時速百二十キロオーバーで駆け下りている。
だが、雪崩と化した元社宅群はそれ以上の速さで迫る。お互いの距離は約四十メートル。このままの速度なら、十三秒で追いつかれる計算だ。運転を〈首輪〉に任せて現状を維持するか、危険を承知でさらに加速するか――
「……ごめんなさい」
カノエの口から、ひとりでに漏れ出る言葉があった。
彼は、生き延びろと言った。きみが生きている限り、ぼくは生き続けるとも言った。
しかし今、その望みは薄い。あまりの規模の大きさに〈首輪〉は生存確率を割り出せず、かろうじて立っていた樹木を巻き込みながら雪崩は質量を増していく。
何度も苦境を乗り越えてきたけれど、今度こそ駄目かもしれない。
あのときは彼がいた。あのときも彼がいた。
だけど今は、彼がいない。
「……ごめんね、レイ」
すると突然、腕の中から鳴き声がした。
「にゃう」
「…………」
カノエが黙って視線を向けると、ハチワレは不思議そうに首を傾げてカノエを見つめ返した。
「……あなたは、ルルーでしょう?」
「…………」
「レイモンドじゃな――」
「なぁーうー」
どうやらこのハチワレは、レイモンドへの呼び掛けを自分に向けたものと勘違いしていたらしい。ルルーという呼び名には徹底して無視を決め込んでいたのに、だ。
「どうしよう……」
困惑する一方で、カノエは新たな希望をこのハチワレに見出していた。
だが、〈首輪〉は即座に否定的なニュアンスを返す。カノエと阿吽の呼吸で動いてもらうには最低でも半年の訓練が必要で、そのためにはもっと若い頃から始めなくてはならない。推定で生後一歳一ヶ月のハチワレだが、要は歳を取り過ぎているということだ。
「…………」
しかし、カノエの心はもう決まっていた。
あの時、脱出を遅らせてまで救った命を、意味あるものにしたかった。
彼の死を、老女性の死を、無意味なものにしたくなかった。
「……行くよ、レイ」
「にゃーう」
ハチワレが元気よく返事をし、ハンドルを握ったカノエはアクセルを全開にした。
白煙に包まれた道なき道を、ひとりの少女と着替えを済ませたネコが駆け降りていく。
キャット・アイ・ゲイザー ~END~
キャット・アイ・ゲイザー 坂島電線 @kari_densen
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