17:09
素肌が露わになるほどにスキンスーツが大きく脈打ち、換気と冷却を促している。早急に気密モードを再起動させなければ、臭いを追われて彼を危険に晒すことになる。
手近な集合住宅の中に入り、ひとまず階段を上に。三階へ到達した時点で体温は三六・九℃に下がり、待ちかねたように〈首輪〉がスキンスーツを操作する。気密モード起動。活動限界まで八十二秒。
体臭を断ったカノエは二階に引き返し、手近な住戸の中へ入る。
――早く、レイを助けないと。
窓際まで行って外の様子を確かめると、南南西の方向、七十五メートル先の屋上にペナンガルの姿があった。先ほどより少し沈み込んで見えるのは、床面を割り砕いたからだろうか。
ペナンガルがこのまま破壊を続けたとしても、レイモンドに危害が及ぶまでにはまだまだ猶予がある。〈首輪〉の計算では最短でも七分前後。ハチワレとにらみ合いの真っ最中なのか、単に行き場を失っているだけなのか、レイモンドの動きに特段の変化はなく、この先もしばらくはじっとしていてくれそうだ。
焦る必要はないと判断し、カノエは気密モードを継続したまま移動を再開した。
廊下へ出て中腰でひた走り、集合住宅の狭間を飛び越えて渡る。適当な住戸を見つけて中に入り、気密モードを解除して体温を下げる。
彼の元へたどり着くまでには、これを四度繰り返さねばならない。
「はぁっ……はぁ……っ」
小休止のたび、カノエは全身で呼吸をする。口だけではなく、スキンスーツも脈動して。
肉体への負荷もさることながら、外科医の追跡を避け続けるという重圧がカノエを主に苦しめていた。ここで見つかれば元の木阿弥だ。
三度目の小休止で、時刻は一七一四。タイムリミットは確実に迫っている。早く移動しなくてはいけないのに、体温がなかなか下がってくれない。
スキンスーツの呼吸に煽られ、天井から剥離したナノ建材が宙を漂っている。白い微粒子がふわふわと踊るさまは、まるで――
「マリンスノー、みたい」
実際に見たことはない。〈首輪〉が教えてくれただけだ。『肉眼で観察可能な海中の懸濁物』を表す単語。生物を由来とする微細な有機物の粒子。
なのに、なぜだろう。これを見た覚えがある――ような気がする。
「…………」
カノエはしばし、夕日の中で踊る無数の微粒子に見惚けた。
荒れ果てたダイニングキッチン。置き去りにされた家財道具の上に、ナノ建材が雪のように積もっている。西向きの窓からは沈む間際の太陽が赤い光を投げ掛け、部屋の四周に黒々とした影生み出している。
この既視感はきっと、夕暮れのせいなのだろう。日の終わりは別れの刻。そんな思いが、記憶に焼き付いて離れないせいだ。
〈首輪〉はそう結論付けたが、カノエはどこか釈然としないものを感じていた。
マリンスノーそのものではないにしても、それによく似たものを見た覚えがある。北方の植民コロニーで遭遇した地吹雪。環境ドームを埋め尽くしたカビの胞子。違う、それよりずっと前。あれはまだ、生育ポッドに入っていた頃の――
その時だった。窓の外から草むらを掻き分ける音が聞こえ、カノエは我に返る。
窓際へ身を寄せて外の様子を覗き見ると、ほとんど這いつくばるような姿勢で早歩きしている外科医の姿があった。
一応はペナンガルの元へ向かっているようだが、移動の方向も速度も一定しない。勢いよく直進したかと思えば、瓦礫の前で立ち止まって思案を巡らせたり、確信を得たように方向を変えたりと不規則だ。
どこに向かっているのだろうと怪訝に思うカノエだったが、突如現れた〈右目〉の表示に慌てて部屋を飛び出した。
〈首輪〉が示したマップによると、九十七パーセントの合致率で外科医はレイモンドの移動ルートをたどっている。
完全に判断ミスだった。すぐに追い打ちを掛け、行動不能に陥らせるべきだった。こちらの臭いを断てば追跡できなくなるものと、勝手に思い込んでいた。カノエがレイモンドに依存していることを、敵は既に嗅ぎつけていたのだ。
急がないと、人質に取られてしまう――カノエが悔やむ間にも、矢継ぎ早に挽回プランを立てていく〈首輪〉。レイモンドの移動ルートから最適と思われる急襲ポイントを算定。気密モードを作動し、外科医の嗅覚の外側から不意を突く作戦だ。その際、ヘキサドの監視網に入ることは躊躇わない。ペナンガルに追われてでも、必ず先回りして外科医に
行動限界まで六十三秒。
すると、それまで俯いていたペナンガルの身体がこちらを向く。レイモンドを見失ってから七分余り。ターゲットを変える頃合いだったのか、地響きと共にカノエに向かって真っ直ぐ向かってくる。
しかし、カノエは慌てない。これも〈首輪〉の計算に入っているからだ。迫る轟音を尻目に半壊した屋上を駆け、五メートルを飛び越えて隣の棟に移る。
ここまでの経過時間は七秒。だが、行動限界は三十秒も減った。まるで
大ジャンプで乗り移ってくるペナンガルと入れ替わりで、隣の棟の廊下へ。手近なドアから中に入り、窓を蹴破ってさらに隣の棟へ。カノエが出す物音は、ペナンガルがことごとく打ち消してくれる。
行動限界まで十九秒。所定の位置にうまく先回りできた。そこは四階と五階の間の踊り場で、建物の角を回り込んだレイモンドがすぐ下の地面を通っている。
カノエは耳を澄ませ、外科医の現在位置を探る。相変わらずペナンガルがうるさいが、剛体を砕く轟音と地面の雑草を掻き分ける音とでは全然違う。まったく探れないわけではない。
だが、なかなか来ない。残り十四秒。あるいは外科医は、既に通り過ぎてしまった後だろうか。そんな不安が頭をかすめる。残り十秒。この下を通り掛かる直前に窓から飛び出し、スキンスーツで強化した手刀を振り下ろすプランだ。戦闘能力を奪うには一撃で大ダメージを与えるしかない。他の場所では無理だ。今いる棟の屋上では、ペナンガルがストンピングを繰り返している。
――来た!
残り三秒の時点で〈首輪〉の聴覚センサーが接近を捉え、考える間もなくカノエの身体が宙に飛び出していた。右腕を振りかざしながら、くるりと前に一回転。同時に限界を迎えた気密モードを解除し、蓄積されていた熱の排出を促す。
視線を下に向けると、今まさに外科医が通り掛かろうとしているところ。このままなら、確実に一撃を食らわせられる――
だが、その期待は裏切られた。カノエの着地点の手前で立ち止まった外科医はブリッジをし、上向きに突き上げた股間からそそり立つ『何か』を突き出させる。〈右目〉がその正体を突き止めるよりも先に高エネルギー反応を検知。〈首輪〉が急所を守るべく、勝手に動かした両腕を顔の前で交差させる。
次の瞬間、カノエの胴体を細い灼熱が薙ぎ払った。
「くっ!?」
光学兵器の一撃だ。スキンスーツで防げている。ダメージは皆無、素肌に影響はない。
着地ざまに反撃を試みるが、外科医は既に連続バク転で逃れていた。回転の途中でブリッジの体勢を取ると、股間の砲身より再び発射。それを何度も繰り返してどんどん間合いを離していく。
カノエはその間、防御に専念するしかなかった。レーザーの出力はそれほど高くはなく、スキンスーツの表面を軽く炙る程度だが、唯一露出している目元を射られればただでは済まない。顔の前で両腕を交差させたまま、わずかに開けた指の隙間から外科医の動きを追う。
それにしても、光学兵器の格納場所が股間とは思いも寄らなかった。本人の希望を叶えたのか〈
カノエは顔を防ぎながら、近くの集合住宅の廊下へ退避。外科医もカノエの後を追ってくるが、ペナンガルはその気配がない。それどころかあらぬ方向へ移動を始めていて、レイモンドがほとんど動いていないところを見るとハチワレに反応しているのだろう。レイモンドが頑張って追い払ってくれたのかもしれないが、とにかくこれで目の前の敵に専念できる。
溜まっていた分を一通り撃ち尽くしたのか、七度目の射精、もとい、射撃で外科医の砲身が股間に引っ込む。そして、たったの一蹴りで十メートルにまで開いた間合いを詰め、そのまま襲い掛かってきた。
「wo、meeeee!」
狭い廊下には逃げ場がないが、〈右目〉で捉えている限り外科医の攻撃は恐れるに足りない。独楽のように下半身が回る四連続スピンキックも、白衣の袖から突然伸びて襲い掛かるズームパンチも、軌道を予測した〈首輪〉が適切に対処してくれる。スキンスーツの動きを操り、硬さを変え、カノエ本人へのダメージは一切ない。
ただしそれは、カノエが守勢に回っているからだ。
カノエは外科医の猛攻を危なげなく捌きながら、次第に焦りを感じつつあった。
身体が熱い。スキンスーツが絶えず脈打って換気しているのに、体温がずっと高止まりのままだ。
そもそもの原因は、気密モードの行動限界ギリギリで奇襲を仕掛けたせい。しかし、それだけではない。
「iaaaaa!」
二メートルの長身から、秒速五発もの高速グルグルパンチを繰り出してくる外科医。対するカノエは、外へと受け流すように両手を回してパンチを捌くが、スキンスーツは万が一のすり抜けに備え、予想されうる場所を硬化して防御区画を形成する。
これこそが、高止まりの真の要因だ。外科医の攻撃は上半身に集中していて、スキンスーツが換気できるのは攻撃と攻撃のわずかな合間のみ。カノエの肉体と〈首輪〉から発生する熱は、体内に蓄積される一方だ。
現在、体温は三七・六℃。社宅群の使用期限切れまで三十一分。〈首輪〉のバッテリー残量が三割を切った。吐く息が熱い。
「gu、hiiii!」
突然、外科医の左腕が五十センチ近く伸び、ガードをすり抜けてカノエの右脇腹を殴る。
「くっ!」
スキンスーツが備えていたおかげでダメージはない。だが、次への反応がわずかに遅れた。〈右目〉の視界の外から外科医の右フックが襲い掛かり、動きの予測ができない――ガードが間に合わない。
「がっ!」
無防備だった左の大腿部を強打され、カノエは慌てて飛び退る。ダメージは軽微。運動機能に問題はない。スキンスーツが全身脈打ち、どうっと排気して次に備える。
しかし、外科医の追撃は予想以上に早かった。廊下の壁を蹴り上がって前にジャンプすると、カノエを飛び越えざまに後ろ蹴り。着地した時にはカノエに向き直っていて、息つく暇もなく攻撃を浴びせてくる。
「moreeee、no!」
今度は伸ばしたままの腕を振るってアウトレンジ気味に。右左と交互に繰り出してスキンスーツの硬化を誘う。まるでもぐら叩きのように排気を妨げられ、逃げ場を失った熱がどんどん内側に篭もっていく。
――こ、れって……。
高熱で朦朧とし始めるカノエの脳裏に、ある疑念が急浮上する。
――もしかして、何もかもが狙い通りだった……?
レイモンドを標的としたのも、カノエの追跡を先行させたのも、大して威力のない光学兵器を乱射したのも。熱を蓄積させ、足止めを図り、行動の自由を奪うための布石。
すべては、カノエを社宅群の使用期限切れに巻き込んで故意に事故死させるため。
胡散臭さしか感じなかった〈火星人〉の言葉が、急に現実味を帯び始める。
そしてその裏付けとなるものが、外科医の首元に隠れていた。
ネックゲイターのように嵌めていた下着からぶすぶすと白煙が上がり、内側から燃え始めている。そしてその下からは〈
ただしその外見は、より〈首輪〉に近い――恐らくは機能面でも。そうでなければ、こちらの〈首輪〉を出し抜けるはずがない。
――でも。
不思議と絶望感はない。むしろその逆だ。
――この〈首枷〉を奪いさえすれば。
外科医を無力化できる上に、これまでのミスを一気に挽回できる。〈首輪〉に似た〈首枷〉を解析すれば、きっとレイモンドの延命に繋がるはず。
そう心に定めると、〈首輪〉が即座に戦術の見直しを図る。防戦から反撃へ。より積極的に、かつ貪欲に。わずかな冷却で得られる
しかし、現実はそう甘くはない。カノエと違って外科医には制約がなく、その攻撃は苛烈さを増すばかりだった。
側面の壁を交互に蹴り上がって頭上から強襲し、着地しざまに素早く側面をすり抜け、振り返る暇も与えずに後ろ蹴りを繰り出し、かろうじて防いだカノエの腕を取ろうと身体を折り曲げ、後退した足を刈り払うべく床に這いつくばり、それも避けられればヘッドスピンから倒立して蹴りを浴びせる。
カノエはひたすら耐えた。何度かそれらしいチャンスがあったが、〈首輪〉は即座に却下した。機械加された四肢は長く、こちらの攻撃が確実に届く確証がなかったからだ。
それにまだ、外科医は本気を出していない。表面温度は平均で四十五℃。
「madaa、aaa!」
大振り気味に繰り出される旋回裏拳を硬化した手の甲でいなしながら、カノエは熱いため息を吐き出す。
燃えそうなぐらいに身体が熱い。バイタルサインも残り時間もイエローを突破し、〈右目〉に映るすべてが赤い。体温は三八・四℃。現在時刻は恐らく一七二〇。意識が朦朧とし始め、高速回転するコンマ以下の数字がどろどろに溶けて見える。
この苦しさは、一体いつまで続くのだろう。ふと芽生えた倦怠感とは関係なく、カノエの手足は休まず動き続ける。蹴りを受け、体当たりをいなし、拳を捌く――瞬間的に、意識が飛んでしまっても。カノエの身を守るため、〈右目〉は決して閉じることなく脅威を捉え続ける。
とてもよくできた、素晴らしい機能だ。何もかもを〈首輪〉に委ねれば、目指す場所まで必ず連れて行ってくれるだろう。
――でも、本当にそう?
すっかりぼやけた頭の中で、誰かが疑問を投げ掛ける。意識がなくても身体を動かしてくれるのなら、自分という存在は何なのだろうか。スキンスーツの内側に詰まってさえいれば、誰の肉でもいいのだろうか。
これでは、ペナンガルの上部に突き刺さっている老女性と同じだ。〈首輪〉自身が動くための
――どこまで、信じていいの?
確かに〈首輪〉は自分の身を守ってくれる。けれどもそれは、〈首輪〉自身が己の存在を守っていることに他ならない。
もしも〈首輪〉に意思というものがあるのなら、いつか道を違える時が来るのだろう。そしてその時は、力づくで決別を図るのだろう。例えば今のように、内側に詰まった肉を蒸し焼きにして。
とりとめなく続く被害妄想にピリオドを打ったのは、背後から突然聞こえたネコの鳴き声だった。
「っ!?」
レイモンドの声だ。〈右目〉内の判定を見るまでもない。
カノエはとっさに振り向こうとするが、外から固められたように首が動かない。間違いなく〈首輪〉の仕業だ。目視は不要、ということだろうか。
だが、その代わりに外科医の顔が動いた。臭いを嗅ぐように、顎がわずかに上を向いたのだ。
〈首輪〉はそれを、千載一遇の好機と見做したらしい――というのは、カノエが考える前に身体が動いたからだ。素早く踏み込みつつ腹部に掌打を入れ、反動で下がった頭部にアッパーを叩き込み、そのまま頸部を掴んで壁に叩きつけ、さらに床面へ引きずり倒す。
しかし、床に頭がぶつかる直前で外科医は立ち直った。カノエの両腕を外側から掴み、大きく身体を反らせて抵抗する。
「qwo、ooo!」
「くっ、うぅぅ……っ!」
ブリッジで耐える外科医を、力づくで抑え込もうとするカノエ。まるでレスリング競技だ。フォールを取っても勝ちは決まらないが、この拮抗状態から抜け出さないことには〈首枷〉を奪うどころではない。
「がっ、あぁっ! ぐうぅぅぅ……っ!」
カノエの口から苦悶の声が漏れ出る。スキンスーツは筋力のアシストに回り、換気が止まったことで体温が急上昇する。〈右目〉の数字が見えない。文字がわからない。何もかもが融けていき、ただ耐えることしかできない。このまま押し込むか、撥ね返されるか、それとも――
すると突然、カノエの全身から力が抜けた。
――レイ……!?
彼の仕業だ。目視はできないが、〈首輪〉に介入できる範囲に入っているらしい。
スキンスーツが強制的に排気を開始し、アシストを失ったカノエは文字通りに跳ね飛ばされる。
「yosiii!」
すかさず飛び掛かってくる外科医から逃れようとするが、高熱に苛まれた肉体はまるでカノエの言うことを聞かない。腰を上げるどころか這いずることさえできず、うつ伏せの状態で床に組み伏せられた。
「haa、gat! aaaaaa!」
「ひあっ!?」
うなじのあたりに生温かな吐息を感じた途端、熱くのたうつ何かを押し当てられる。その何か――恐らくは人工舌――は蛇腹構造を伸ばしながらカノエの首に巻き付き、呼吸するスキンスーツの上から舐めずる。
「やっ、止め……っ!」
嫌悪感のあまり咄嗟に背後へ肘打ちするが、バックパックを背負っているせいでそもそも届かない。
冷却の妨げになるという警告を無視してなおもジタバタしていると、ノイズ混じりのごく小さな囁きを〈首輪〉の聴覚センサーが捉えた。
「オトナシ、クアジワ、ワセロ」
発生源は背後だ。怪物めいた吠え声と同じ場所から、違う周波数で聞こえてくる。
「……わ、わたしを、どうする気?」
試しに問い返すと、その声は即座に答えを寄越した。
「オレノイ、ウトオリ、ニスレバ、クルシマ、ズニスム」
「どうしてこんなこと」
「ジユウ」
「……自由?」
「イライヲ、ハタセバ、ジユウガ、エラレル」
「…………」
体温は少し下がって三八・二℃。複雑な思考は依然難しいが、〈首輪〉のおかげで疑問だけが次々に湧き起こる。依頼したのはどこの組織なのか。その〈首枷〉はどういうものなのか。いま会話をしている主体は何者なのか――
「……レイモンドを狙ったのは、なぜ?」
カノエの口を衝いて出たのは、それだった。「危害を加える対象は、わたしだけのはずでしょ?」
「アノネコ、ノコトカ」
無機質な囁きに、嘲りのようなものが感じ取れた。
「オマエイ、ガイコロ、スナトメ、イレイサ、レテイナ、イカラナ」
「殺すつもりだったの!?」
「アイツラ、ハオレノ、カラダヲ、スキニイ、ジッタダ、カラコン、ドハオレ、ノバンダ」
「sou、oooooo!」
賛意を示すように叫び声が重なり、棒状の何かがカノエの臀部へ押し付けられる。例の光学兵器の砲身だ。それはおもむろに前後運動を始め、暴発を警戒したスキンスーツが付近一帯を広く硬化させる。
「キョウフ、トイカリ、ノニオイ、イイニオ、イダガマ、ダモノタ、リナイナ」
「離して!」
「イヤダネ」
「使用期限切れに巻き込まれて、一緒に死ぬつもり!?」
「モンダイ、ナイオレ、ノカラダ、ハヨユウ、デタエラ、レル」
「niz、eeeeee!」
「ソレマデ、ナマミノ、オンナノ、ニオイヲ、ジックリ、タンノウ、サセテモ、ラウゾ」
そう言うが早いか、外科医は五本の指を十本に分割し、さらには伸縮機能を使ってカノエの胸元に両手を差し込んでくる。
「……っ!」
「ハジライ、ノニオイ、モカクベ、ツダナ」
それまで順調に下がっていた体温が、一転して上昇に転じる。羞恥心のせいだ。自分の意思を無視しておもちゃにされるのは、記憶にある限りこれが初めてだ。悔しくて、情けなくてたまらない。〈首輪〉と〈右目〉のおかげで、この手の暴行はずっと防げてきたのに。
「イイゾイ、イゾソウ、デナイト、ナオレハ、オビエル、オンナノ、ニオイガ、ダイスキ、ナンダ」
「hi、iaaaaaa!」
嘲笑めいた叫びがカノエに追い打ちを掛ける。どこで間違ったのか。何が悪かったのか。〈首輪〉は物理的な被害を防いでいるが、行為そのものを止めているわけではない。この状況から脱しなくては、待ち受けているのは確実な『事故死』だ。
「は、な……してっ!」
「イヤダト、イッタハ、ズダゾ」
羽交い締めから逃れるため〈首輪〉が複数の行動プランを示すが、どう動いても成功率は一様に低い。腐っても外科医だけあり、解剖学に基づいた巧妙な拘束を施しているからだ。
「くっ、うぅ……!」
身じろぎをすればするほど、全身の関節部に負担が掛かって動きにくくなっていく。生身ではまず脱出不可能だ。
となればスキンスーツに頼るしかないが、今の状態では早々にリミッターが発動してしまう。出力全開で臨んだ場合、稼働可能時間は最長でも六秒。首尾よく拘束から逃れられても、その後が続かなければ意味がない。
とにかくカノエの熱が下がらないことには始まらないのだが、状況は確実に悪化の一途を辿っていた。体温が再び上昇を始めているのだ。
外科医の暴行にスキンスーツのリソースが割かれ、冷却効率は四十七パーセントの減少。身じろぐほどに苦しくなる体勢も呼吸を妨げ、これも体温の上昇を招いている。
現在の体温は三八・四℃。焦りの臭いを求めているのか、外科医の手が胸以外の全身に及び始め、カノエの視界が赤みを増していく。
「ノコリニ、ジュウサ、ンプンマ、ダマダジ、カンハ――」
耳鳴りがし始め、外科医の肉声が次第に聞こえなくなる。息苦しい。熱い。〈首輪〉がスキンスーツを固め、身動きを禁じる。頭が動かない。〈右目〉だけを動かし、救いを求める。彼の姿を探す。けれども見当たらない。ついさっき、鳴き声が聞こえたはずなのに。後ろにいるの? どうすればいいの? 彼ならきっと、正解を知っているはず。
「それは少し買いかぶり過ぎだよ、カノエ」
変だ。姿は見えないのに、彼の声がする。
「ぼくにできるのはアドバイスぐらいなものだ。それを元に決断するのは、きみの役目だからね」
コピーキャット? あなたは確か、もう消えたはず。
「ぼくもそのつもりだったよ。ストレージのクリーニングも済んでお払い箱になったと思ったのに、こうしてまだ意識を保っていられるなんて」
何があったの?
「それはわからない。抜け目のない彼のことだから、ぼくというキャッシュの存在に気づいて、削除スケジュールを強制的に遅らせたのかもしれないね。今のような非常事態に備えて」
助けてくれる?
「もちろんだよ。ぼくも彼だからね。ともあれ、きみが置かれている状況はとても良くない。ぼくという存在が顕在化しているということは、きみの意識レベルの低下を意味しているわけだから」
これからどうするの?
「結論から先に言うと、ぼくたちには奥の手がある」
奥の手?
「外科医の拘束から逃れられる確率は九二・三パーセント。そればかりではなく、ほぼ確実に外科医へダメージを与えられる」
どんな方法?
「きみは知っているはずだけれど、ああ、なるほど、そういうことか。首輪がきみの記憶に蓋をしたみたいだね。使用後にブラックアウトを迎えるから、首輪としてはできるだけ避けたい選択肢だし」
そんなにハイリスクなの?
「予備も含めた全ての電力を使うから、首輪はもちろん右目も一時的に機能を喪失してしまう。生体発電層によって自動的に充電されるけれど、再起動までには最低でも十分は掛かるだろうね」
それ以外の方法は?
「残念だけれど、他に有効な手段はないんだ。今のきみは物理的に拘束されていて、まずはこれをどうにかしないことには話が始まらない。だからこその奥の手だ。これだけ接近していれば防がれる恐れはないし、確実に決まるはずだよ」
それって確か、バッテリーの残量が重要なはず。
「うん、率直に言ってやや消耗し過ぎている。確実な殺傷は期待できないかもしれない。けれど、アームドサージョンはほぼ全身を機械化しているから、間違いなく一定以上の効果が得られる」
どうしても、奥の手じゃないとダメ?
「きみの躊躇いは理解しているつもりだよ、カノエ。率直に言って、ぼくも不安だ。首輪のサポートを失ったきみは彼と会話できないし、故にとても脆弱な存在だ。この街からの脱出には、きみ本来の賢さと聡明さに掛かっているのだからね」
そんな、どうしよう。
「迷っている時間はないよ。こうしている間にもきみの体温はゆるやかに上昇を続け、奥の手すら使う余裕がなくなってくる。それともきみは、こんな場所で死ぬつもりなのかい?」
それは……。
「酷い事を言うようだけれど、バアサンもサージョンも所詮は不良在庫だ。マーシーはいい機会とばかりに、処分を兼ねて投入しただけに過ぎない。だけどカノエ、きみはそうじゃない。やがて廃棄品となる定めだけれど、己の運命を粛々と受け入れることを拒んだ。そしてそれは、彼も同じだ。五十年以上生きることも夢ではないのに、きみと一緒にベンサレムを出る道を選んだ」
レイは、後悔しているの?
「それこそまさかだよ。きみの右目と視線が合った瞬間に、きみがレイモンドと呼ぶパーソナリティは生まれた。だから、きみの行くところならどこへでもついて行くよ。何度でも言うけれど、きみという存在があって始めて、レイモンドも存在できる。もしもきみがいなくなれば、彼は五年と生きられない欠陥生物と成り果ててしまうからね」
ありがとう。同じことを何度も言わせて、ごめんね。
「きみを助けることがぼくや彼の喜びであり、存在意義でもある。だから、きみを生き延びさせるために全力を注ぐよ。あとはきみの決断だけだ。この先どう動くのかはぼくが段取りをつけておいたから、心配はいらないよ」
わかった。もう迷わないから。だから、お願い。
「それじゃあ、このぼくとは今度こそお別れだ。けれど、ぼく以外のぼくはいつだってきみの傍らに存在しているから、何があっても生き延びるんだ。たとえ、今の彼を見殺しにしてでも――」
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