16:39
待機を始めてから五分が経ち、十分が過ぎた。
だが、外科医の姿は一向に捉えられない。フライビッツのセンサーに入ってくる情報は、ペナンガルとルルー由来のものばかり。その間、彼がヘキサドのハッキングを試み、一機ずつ渡り歩く形で探査の手を広げていくが、足取りはやはり掴めない。一般社員向けエリア南西部のさらに西側、外周道路に突入用ポッドの残骸が地面に突き刺さっているので、武装外科医は間違いなく到着している。〈
一六四〇、一六四一、一六四三。時間だけがいたずらに過ぎていく。
カノエの焦りを受けて〈首輪〉も様々なプランを挙げるが、要約すると以下の三つだ。
ここに留まって我慢比べを続けるか、外科医をおびき出すために移動を再開するか、追撃されるリスクを承知で逃げに徹するか。
どれも一長一短がある。最善手はない。籠城には迫るタイムリミットがあり、陽動には戦闘能力の差があり、遁走には電動四輪を失う恐れがある。
迷っていられるのも今のうちだ。ひとたび外科医に捕捉されれば、瞬間的な判断しかできなくなる。躊躇はすなわち、死だ。
自分にそう言い聞かせると、緊急回避時の行動チャートが〈右目〉上に展開した。カノエの判断が間に合わない場合、〈首輪〉がスキンスーツをどう動かすのか示したものだ。攻撃を受けた場合の対処ひとつにしても、距離や攻撃手段や自分の体勢など様々な要素が考慮されているのでバリエーションや分岐は恐ろしく多い。全部に目を通していたらそれこそ日が暮れてしまいかねない。
だが、カノエが絶対にチェックすべき項目がひとつだけあった。
「ダメ」
カノエは、とある一文に意識を向けながら頭を横に振った。
「何度も言うけど、これは絶対にダメ」
何事かと首をもたげたレイモンドの顎を撫で、カノエはなおも意識を集中させる。
――レイモンドの肉体を用いることであなたの致命傷を確実に防げる場合、これを必ず実行に移す。
こんなのは、絶対に認められない。
相手のいない睨み合いは三十秒近く続いた。
だが、結果は最初から見えていた。その一文は五秒もの時間を掛けてじわじわと消えていき、押し上がった残りの行が余白を塗り潰した。
「まったく、もう……」
実は毎回の出来事だった。隙あらば緊急時の行動チャートを見せ、レイモンドを盾に使うよう同意を迫る。
それはそうだろう。レイモンドは替えが存在するが、今のカノエにはそれがない。もしもカノエを失えば、〈首輪〉はたちまち窮地に陥るのだ。
外付けのバッテリーは搭載しているが、〈首輪〉のメイン動力はあくまで体熱発電。ヒトが装着しなくては、何のアクションも起こせない。〈首輪〉がカノエの守護に固執するのは当然の帰結といえる。
しかしもちろん、レイモンドが絡んだ以上、カノエは決して妥協しない。自分の判断ミスで何度も無駄に死なせているし、判断材料を提供しているのは他でもない〈首輪〉だ。頼りにしているが、全幅の信頼を置くとまではいかない。
〈右目〉が異変を捉えたのは、それから間もなくのことだった。
時刻は一六四五。一階に展開していた四機のフライビッツが同時に破壊された。
――光学兵器!?
カノエは覆い被さるように、レイモンドの身体を抱きすくめた。
できれば何かの間違いであって欲しい。だが、状況を見る限りでは光学兵器以外に説明がつかない。
攻撃された手段と軌跡を確実に捉えるため、つまりは同時に破壊されないため、フライビッツは一定範囲をランダムに飛び回っていた。にも関わらず、一直線に並んだタイミングを狙って撃ち落とされたのだ。フライビッツに搭載されたセンサーは秒間六十フレーム。銃弾ならば捉えられるが、光線となると運が絡む。事実、今回は空振りだった。北から撃たれたのか南から撃たれたのか、それすらもわからない。
「……どうしよう」
ただでさえ手強い外科医が光学兵器持ちとなると、状況は格段に悪くなった。スキンスーツに耐性があるので見てから回避できない点はともかく、前のレイモンドの死因はこれだ。全力で守らなくてはいけないし、外科医の姿も現在位置もまだ掴めていない。
「とりあえず……」
今は、外科医の捕捉が最優先だ。周辺のヘキサドに対象を絞った彼が、一筆書きで順番にハッキングしていく。一機ずつしかハッキングできないのは相変わらずだが、経路が確立しているので高速化は容易らしい。秒間で累計二十機を駆け回り、その瞬間の情報を素早く掻っ攫っていく。百メートル四方の探査範囲の中に入れば、即座に察知できるだろう。
ヘキサドが人影を捉えたのは、それから十秒ほど経ってからのことだった。
場所は現在地から三棟南。集合住宅同士の狭間を、北へ向けて駆けている姿だ。映っているフレーム数から導き出された移動速度は時速六十キロほど。背筋を立てたその走行フォームからは余裕さえ感じられる。
身長は武装外科医のセオリー通りに約二メートル。
しかしその体躯は、白衣に隠されてほとんど確認できない。大きな襟を立て、袖も裾も奇妙に長い。古典的な
そして、唯一露出している頭部も真っ白だった。頭髪の類は一本もなく、全体をぬるりとした質感に覆われ、眼窩や鼻梁といった凹凸が見当たらない。存在しているのは、顔の側面まで大きく裂けた口だけだ。
ヘキサドに搭載されたでは断言できないが、白い表皮は恐らくポリマー系のナノマシンマテリアル製。温度から含水量に至るまで、状態を周辺の環境に合わせることで高ベレルのステルス性を生み出すことができる。白衣の下も、恐らくは同様の素材に覆われているのだろう。
外科医は今、カノエがいる場所から二つ南の集合住宅の中にいる――はずだ。彼が周辺のドローンに対象を絞って監視を強めているが、今現在の居場所が掴めないのだ。
理由として考えられるのは、ドローンの死角を正確に把握した上で移動している可能性だ。運動性能は言うに及ばず。フライビッツを遠間から狙撃した視力があれば、その程度は容易いだろう。ドローンは向こう側の所属だが、こちらの特性を把握していればハッキングに警戒して当然だ――
しかしカノエは、その予想をすぐ覆す羽目になった。
一体いつの間に、どこから入り込んだのだろう。集合住宅の三階、三〇二号室の扉が勢い良く開け放たれ、中から外科医が飛び出てきたのだ。しかも、全身に歓喜をみなぎらせ、文字通りに小躍りし、床を転がり、壁に全身を打ち付けて。
その原因と思われるモノは、外科医の両手それぞれに山ほど握られていた。
それは、複数のパーツを縫い合わせて作られた布製品だった。
すっかり古びて色褪せてはいるものの、カラーバリエーションそのものは豊富。白やベージュといった地味なものから、赤や黒などの派手な色合いまで存在している。製品の形状はほぼ一定しているが、物理的な制約の中で魅力を生み出すため、用いられている素材や加工もさまざまだ。
画像を解析した〈首輪〉によって正体はすぐに判明したが、カノエにとってはなかなか受け入れがたい結果だった。あの布製品が〈首輪〉の言う通りのものだとしたら、武装外科医の脅威性がまったく別の物になってしまう。
しかし、続く光景を目の当たりにしては〈首輪〉の解析結果を認めるしかなかった。
ペールピンクの布製品を頭に被り、縫い合わされた継ぎ目部分を舐めている外科医。ただ舌を這わせるだけでは物足りないのか、下へ強く引いて顔面に食い込ませると、布地を口に含んでしゃぶり始める。その間、腰を小刻みに前後させ、性的な興奮を得ているのは明らかだ。
そう、外科医が手にしている布製品は、すべて女性用の下着だ。
今まで寄り道をしていたのは、下着漁りのためだったのだろう。その証拠に、翻る白衣の下にも多くの下着が見え隠れしている。左右の腕に十数枚ずつ。首にも、ネックゲイターよろしく何枚か通している。
「これは……」
実態が明らかになるにつれて、カノエの混迷はどんどん深まっていく。
外科医は己の欲望のまま、任務を無視して家探しを続けるつもりだろうか。だが、そうだとすればフライビッツを撃ち落とした理由がわからない。ただの気まぐれにしてはあまりに狙い澄まされた一射で、あれの他に射撃担当がいるのではという気さえしてくる。事実、〈火星人〉の予告に人数は含まれていない。その可能性はある――
カノエの腕に抱かれていたレイモンドが、煩わしげに身をよじって顔を上げた。
《少し落ち着いて、カノエ。口呼吸になっているよ》
《えっ》
《首輪がきみの不安を煽っているんだろうけれど、それは杞憂だ。外科医が入っていた射出ポッドは、間違いなく一人用だ。連中が複数人撃ち込まれた可能性は皆無と言っていい》
《でも》
《確かに、きみが来る前から伏せておいたという可能性は排除できない。けれど、もし伏兵を配しておいたのなら、こんな混戦状態で投入するはずがない。ぼくがマーシーだったなら、スナイパーを置くのは北側の通用ゲート。脱出する間際の、一瞬の隙を狙うね》
《なるほど》
《バアサンも見境なく暴れていることだし、余計にスナイパーの出番はない。ともあれ、外科医にどんな性癖があっても、きみが取るべき行動に変わりはないよ。速やかで、安全な離脱。それだけだ》
時間の流れが元に戻った途端、口の乾きがカノエに襲い掛かる。そればかりか全身が熱い。カノエの不安を受けて〈首輪〉が働き過ぎたせいだ。
彼のおかげで少し落ち着きを取り戻し、思考支援も自然と沈静化していく。装着者を介助しようと能力を発揮して却って窮地に陥れるこの性質は、何度経験してもうんざりさせられる。彼に頼んで〈首輪〉の動作レベルを下げてもらうという手もあるが、それではいざという時に役に立たない。〈首輪〉のお節介焼きがあっての自分の命なのだ。
と、その〈首輪〉が不意に警告を発した。外科医が動き出したのだ。ガムのように咀嚼していた黒いレースのショーツを勢いよく吐き出すと、頭を前に突き出した奇妙な姿勢で走り始める。
「は、速い……っ!」
思わず口走ってしまうほど、外科医の走力は圧倒的だった。時速は八十キロを超え、瞬く間に廊下を駆け抜けてカノエの立て籠もる棟へ。階段を四段飛ばしで駆け上がってくる。
文字通りに居場所を嗅ぎつけられたのかも――とにかく、今は逃げるのが先だ。カノエはレイモンドを拾い上げながら助走をつけると、崩れ落ちた壁を蹴って外にジャンプした。
「くっ!」
五メートルの谷間を難なく飛び越え、西隣の棟の廊下へ着地。振り返りもせずにすぐさま北へ駆け出す。置き去りにしたフライビッツが外科医の到来を告げたのだ。猶予は時間にしてわずか五秒。おまけに、レイモンドの姿をヘキサドに捉えられたらしく、ペナンガルの足音がずしりずしりと迫りつつある。方角は西北西、推定距離は八十メートル。
――このまま進めば。
ペナンガルを誘導できれば、同士討ちを狙えるかもしれない。
廊下の端に到達したカノエは五階まで階段を駆け上がり、廊下を南へ。その間〈首輪〉が残りのフライビッツを操り、グリッド状に配置して周辺の九棟を大雑把にカバーする。精度は下がるが、居場所を把握できないことには逃走もままならない。一瞬でも姿を見られたが最後、光学兵器の餌食となり得るからだ。
五階の南端まで駆け抜けると、階段を降りて四階に。廊下端の窓を蹴破って南の棟へ飛び移り、二階まで駆け下りてから廊下を走り、ドアが開きっぱなしだった二〇六号室へ。外れていた窓を抜けて空中配管伝いに西隣の棟へ渡ると、四階まで上ってから廊下を北に――
企業資産査察員として
対する外科医はといえば、カノエが通ったルートを忠実になぞる形で追ってきている。〈首輪〉曰く、ショートカットする機会が二度あったのにも関わらずだ。頭を前に突き出した奇妙な走行姿勢を見ると、嗅覚のみを頼りに追跡しているような――あるいは、久々に嗅いだ生の女の臭いに執着しているような――気がする。
――臭いに、そこまで拘るのなら。
カノエの思いつきを〈首輪〉が即座に補強するが、実行へ移すには彼の協力が必要だ。プラン通りにうまく運べば、外科医を完全に撒くことができる。
カノエはフィードバック痛の影響を最小限にするべく、五階から飛び降りざまにレイモンドの顔を覗き込む。
《そうだね。このままではいずれ追いつかれるだろうし、その選択肢は十分にありだ。ただしきみは、かなり苦しい思いをすることになるよ》
《うん》
《わかった。モーフィングのリミッターを外すけれど、ひとつ条件があるんだ》
《どんな》
《きみのバイタルがレッドに突入したら、ぼくが即座に介入して中止させる。それで構わないね》
《うん》
《プランの性質上、一度始めたら簡単には止められない。躊躇いは禁物だし、深追いも危険だ。目標を達成次第、すぐに終了させるんだ》
時間の流れが戻るにつれ、地面が急激に加速しながら近づいてくる。フィードバック痛に顔をしかめる間もなく着地し、痛みを振り切るようにカノエは走り出した。向かう先はすぐ西隣の棟。ベリーロールで廊下の立ち上がり壁を乗り越え、すぐ近くではなく遠くの階段を目指して駆ける。
――ちゃんと来てる。
外科医の追跡ぶりに変わりはない。依然としてカノエの軌跡を――恐らくは体臭を――律儀になぞり続けている。ショートカットを一切せず、わざわざ地面に飛び降り、同じ場所を乗り越え、同じ階段を使っている。
なのでカノエは、安心してプランを実行に移せた。〈首輪〉の下で滞っていたスキンスーツの生地がぞわぞわと這い上がってきたと思うと、首を包み、口や鼻を覆い、さらには後頭部にも。髪の毛を巻き込んでしまわないよう、細かく枝分かれした繊維が毛穴のひとつひとつを避けながら編み上がり、頭頂部を越えて額まで達する。その間に手首から伸びた生地が両手も覆い、ほんの五秒ほどで目元を除いた全身がスキンスーツによって覆われた。
しかし今は、身体をただカバーしただけの状態だ。機能は通常通りで、口元を塞いでいても呼吸に支障はない。
スキンスーツがその真価を発揮するのは、しかるべき位置にカノエが達してからだ。
具体的には廊下の突き当たり。なおかつ、破壊を伴わずに出入りが可能な、既に窓が破れている場所――五階まで階段を駆け上がり、曲がってすぐだ。
――行ける……!
カノエはレイモンドの身体を左脇に抱え、右腕をフリーにする。そして、破れた窓へ突入しながら下の窓縁を掴み、そこを支点に無理やり軌道を変えた。逃れる先は一階下。ここも窓が破れていて、あまり音を立てずに入り込める。ぶら下がった状態からすぐさま手を離すと、四階の窓縁を掴みながら壁を蹴って反動をつけ、鉄棒競技のように大きく回転しつつ窓の中へ。
カノエが四階の廊下の突き当たりに着地したのと、外科医が五階の廊下の突き当たりにたどり着いたのがほぼ同じタイミングだった。
カノエはぴたりと身動きを止め、直上の敵の動向に〈右目〉を向ける。
「…………」
足音が――正確には、歩行した際に生じる床のわずかな軋みが――停滞しているのが見える。ごく狭い範囲を徘徊し、戸惑っている様子が伺える。南隣の棟にペナンガルが飛び移ってきて轟音と共に集合住宅が揺れるが、外科医は動こうとしない。今までのように、カノエの後を追って来ない。
ひとまず、うまくいったようだ。
カノエが呼吸すると、スキンスーツで覆われた口元がじっとりと湿り、行き場を失った熱気が鼻の下で滞る。
全身が熱い。湿気が隙間なくまとわりつき、もう一枚の皮膚と化したよう。素肌から発散する全てが、スキンスーツの内側に封じられている状態だ。熱や水蒸気だけではなく、臭いの分子も。
そう、スキンスーツは今、気密モードに入っている。呼吸時に鼻元だけ透過率が可変するので完全とは言えないが、五階の窓から飛び出す直前に密閉することで、カノエの体臭はあの場で断ち切れたのだ。
〈右目〉の上部には抜粋したバイタルデータが表示され、稼働可能時間が刻々と減り続けている。残り百四十五秒。逃げ場を失った皮膚からの放熱に〈首輪〉の作動熱が加わって、体温は上昇する一方。分子レベルでの変形が可能なスキンスーツとはいえ、臭いだけを選択して遮るまでには至らないからだ。
これからどう動くか。どう逃げるか。迷っている時間はない。体温が上がり切って彼が介入する前に、できるだけ外科医から離れなくては。
その矢先、階上の足音がおもむろに移動を始める。どうやら外科医は来た道を引き返して階段を降りてくるようだが、足取りはやや遅い。道すがら、体臭の行方を精査しているのかもしれない。
――どうする……?
〈首輪〉は三択を提示した。この場に留まってやり過ごすか、廊下を先に進んで住戸の内に隠れるか、再び窓から飛び降りるか。
今いる廊下の突き当たりと階段との距離は二メートル。廊下が階段の踊り場を兼ねているので、降りてきた外科医に目撃される可能性がある。その点では飛び降り案が有利だが、ペナンガルに追われるような事態になればたちどころに制限時間を食い潰してしまうだろう。
残り百三十六秒。外科医の足音はごく小さく、〈首輪〉の聴覚センサーでもほとんど捉えられない。五階の床と四階の天井は表裏一体なので〈右目〉で振動を観察できたが、今は壁に視線を遮られている。おまけに、フライビッツのセンサーからも逃れている状態だ。外科医の現在位置を正確に把握しようと思えば、〈首輪〉の処理能力を上げて別の要素から導き出すしかない。
残り百二十一秒。不安が〈首輪〉を無駄に働かせ、生まれた熱が制限時間を削り取り、さらなる不安が胸を衝く。確かに自分の体臭はシャットアウトできた。しかしその一方で、野放しになっているものもある。衣服やバックパック、レイモンド由来の臭いだ。
もしかすると外科医は、追跡の鍵を変えているかもしれない――〈首輪〉が敢えて伏せていたその仮定に思い至った途端、カノエの身体はひとりでに後方へと跳んでいた。行き先はもちろん窓の外だ。
残り百七秒。空中へ身を投げだした直後から着ている衣服が勝手に切り刻まれ、紙吹雪のように散っていく。スキンスーツが無数の刃を形成し、内側から衣服を裁断したのだ。キュイラシュやバックパックの留め具、レイモンドを抱えた腕を除いて。
もちろんこれは〈首輪〉の仕業だ。カノエの臭いを本体から切り離しつつバラ撒くことで、いい目くらましにもなる。
地面に着地してすぐ南の棟へ入り、近くの階段を静かに上がる。上下合わせて約二十六パーセントの衣服がまだ身体を覆っていて、いつ落ちてしまうかもわからない。今のところはセーフだが、切れ端を辿られる前に余分を捨てなければ。
残り八十九秒。三階に上ってすぐの住戸に入り、ドアを閉める。レイモンドを反対の腕に持ち帰ると半端に残っていたシャツの袖がたちまち切り刻まれ、それでも残っている生地をキュイラシュやバックパックの隙間から引っ張り出して捨てた。そろそろ彼の意見を聞きたいが、この状態で〈会話〉をしようものならどれだけ残り時間を削られるかわからない。それに今の彼は、見えざる手を振るっていて忙しいはずだ。
ともあれこれで、靴を除いてスキンスーツ一枚だけになった。わずかながら上昇した放熱効果や、光学兵器で衣服が燃える可能性を考えると真っ先に取るべき手段だったかもしれないが、過ぎた時間は戻ってこない。カノエは部屋を横切り、窓際に近づいて外の様子を見る。
今いるのはK07棟。南北を貫く大通りが窓の外――西側にある。道幅は二十メートル。これを渡って対岸のブロックに逃れようとすれば、地上を走っても四、五秒は掛かる計算だ。
一方の外科医は、まだこちらの足取りを掴めていないようだ。フライビッツが捉えたところによると、愚直に一階へ降りたところで大量の切れ端に遭遇し、改めて臭いを確かめているのか四つん這いで右往左往している。
――よし。
カノエは渡河を決意した。外科医とは直線距離で六メートルしか離れていないが、何枚もの壁で隔てられている安心感がカノエの決断を後押しした。それに、このままこちら側に留まっていても北へ向かうのは難しい。向こう側はペナンガルによる破壊が進んでいるが、脱出する分にはいくらかマシだろう。
残り七十五秒。静かに窓を開け、すぐ近くを走っている空中配管に降り立つ。パイプラインは二階の床レベルの高さで対岸まで続いていて、これを伝って行けば容易く移動できる。
しかし屋外は、未だヘキサドの監視下にある。やや遠ざかっていたペナンガルの足音がどんどん大きくなり、足元がぶわんぶわんと波打ち始める。
カノエは怯むことなく、〈首輪〉が指示するままパイプラインの上を駆け出した。〈首輪〉曰く、パイプラインのたわみを活かして大ジャンプを試みるつもりだ。全身運動と頭脳労働が重なり、制限時間が三倍速で減っていく。
残り三十八秒。〈首輪〉が予測した通りのタイミングでパイプラインが揺れ、前もって大きく踏み出していたカノエは、スキンスーツが強化した筋力で砲弾のように跳んだ。
「く……っ!」
〈首輪〉が予想していたより勢いがついている。地表からの高さは二十メートルを超え、大通りを飛び越すどころか、もう一列後ろの棟に落下しそうだ。スキンスーツの気密モードが解除され、溜まっていた熱や水蒸気が吹き飛ばされる。これで制限時間はリセットされた。
しかし、安心している暇はない。これから着地する屋上はペナンガルに踏み荒らされた後で、平坦な場所は見当たらない。〈右目〉がマークした予想着地点も、斜めに傾いた大きな瓦礫だ。〈首輪〉曰く、着地の勢いで崩落する確率は四十二パーセント――
果たして、瓦礫は落ちなかった。カノエの蹴り足を受けてもわずかに揺れた程度で済んだ。ひとまず胸をなで下ろすが安心には程遠い。引き続き、ペナンガルから逃れなくては。
できれば屋内へ逃れたいが、この一帯の上層階はどれも踏み潰されている。一度飛び降りてからアクセスしようにも地上は瓦礫だらけだ。あとは、今いる屋上から隣の棟の三階へ直接飛び込むしかない。カノエは〈右目〉がマークした場所に目掛け、助走をつけて跳んだ――
だが、事は目論見通りには運ばない。
頭上に影が差したと思うや、鈍い破壊音の響きと同時に拳サイズの瓦礫が降り注いできた。
「ぐっ!」
脇腹と膝裏に一発ずつ食らい、息が一瞬詰まった。視界の外からだったのでスキンスーツの保護も及ばない。衝撃でジャンプの軌道が大きくずれ、カノエは地上に――集合住宅同士の狭間にかろうじて着地した。
「だ、大丈夫!?」
両腕の中に呼び掛けるが、レイモンドの返事は二発のくしゃみだった。生い茂る雑草の中に突っ込んだので、元より衝撃は少ない。
安堵する暇もなく〈右目〉にアラートが現れ、カノエは背の高い雑草をかき分けつつ走る。するとその二・五秒後、カノエたちの着地点にペナンガルが降り立った。衝撃で地面がぐらりと揺れ、ブロック状の人工地盤の形が露わになる。
振り返る暇はない。音でわかる。距離は九メートル前後。拳が直接届く距離ではないが、五メートルと狭い集合住宅の狭間で暴れられればどうなるか、火を見るより明らかだ。
早速ペナンガルが拳を振り回したのか、どぉん、ごぉんと背後から立て続けに響き、色々な物体が落ちてくる。崩れた壁、吹き飛んだ建具や空中配管、偏光パネルの残骸。不規則な跳ね方をした瓦礫が前方から飛んでくるが、既に〈右目〉が捉えていたので勝手に繰り出された裏拳が叩き落とした。
視界に入った分は対処できるが、それにも限度がある。とにかく、屋根のあるところへ行かなくては。
カノエは〈右目〉のガイドに従い、立ち並ぶ集合住宅の切れ間を左へ。スキンスーツのアシスト能力をフルに活かし、予備動作なしに直進からいきなり真横へ跳んだ。
図体の大きなペナンガルは急に止まれなかったらしく、地滑りめいた音と振動が背後から伝わってくる。距離が一気に開き、カノエは再び方向転換して手近な集合住宅の中へ。五十四秒ぶりにヘキサドの視界から逃れ、ようやく一息つくことができた。
まずは鎮痛タブを口に含み、手探りでレイモンドの頭を撫で、息を整えながら視線は周囲に向ける。〈会話〉はあと数秒の我慢だ。
立ち上がり壁に隠れながら廊下を進むうち、瓦礫に打たれた脇腹と膝裏の痛みが急速に消えていく。それでようやく、レイモンドの顔を見ることができた。
《うん、その調子だ。バアサンの余命もあとわずかだから、この調子で逃げ続けるんだ》
《そうなの》
《きみは気づいていないかもしれないけれど、攻撃時に発していた叫び声が約七分前から観測できていない。つまり、バアサンの体力が限界に近いということだ》
《のこりは》
《余命を探るよりも、きみが引導を渡したほうが早いと思うよ。元の人格が戻ることは決してないし、生体キーとしての役割から積極的に解放したほうがより人道的だ。それに、外科医の動きも気になる》
《どういうこと》
《きみの判断を迷わせたくないから情報を制限していたけれど、外科医は既にフライビッツの展開範囲から出ているんだ》
《いまどこ》
《周辺のヘキサドにアクセスして、大まかな位置は判明している。ただ、そこからさらに移動しているのは間違いないから、あくまで参考程度にとどめて欲しい》
久しぶりの〈会話〉は、心身ともに影響が大きかった。痛みのない激しい脈動が頭蓋を締め付ける一方、胸の奥には安堵感が広がる。彼がちゃんと考えていてくれるなら、この先も安心して動き回れる。
彼が触れた通り、外科医の移動ログが〈右目〉にオーバーレイ表示されていく。位置を最後に確認できたのは二十九秒前。カノエの現在地から東に二棟、南に二棟だ。再び追跡を開始したのか途中からカノエの移動ルートに合流し、そのままフライビッツの探査範囲から出ている。
カノエは肩越しに背後を見るが、外科医の姿は確認できない。ひとつ南の棟は崩れた壁で廊下が塞がり、射線は完全に塞がれている。遠距離からの射撃に怯えなくてもいいのは嬉しいが、逆を返せばそれだけ身を隠す場所が多いということだ。警戒を怠ると、いきなり至近距離での戦いを強いられかねない。
しかし、今優先すべきはペナンガルへの対処だ。カノエが屋内に逃げ込んでからの移動距離は十メートルほど。当然、ペナンガルはその付近を探し回り、手当り次第に拳を叩き付ける。カノエが身を潜めている立ち上がり壁も至る場所で亀裂が走り始め、いつまで保つかわからない。
カノエは改めてレイモンドを胸に抱えると、中腰のまま廊下をひた走り、五メートルの狭間を駆け抜けてひとつ北の棟へ。二階の廊下が崩れ落ちて行く手が塞がっていたので、通り抜けられる廊下を探して階段を上がる。
当面の目的地は最北端に位置する通用ゲート。距離は約三百メートル。後先考えずに全力を出せば三十秒ほどでたどり着く計算だが、そこへ向かうにはまだまだ布石が必要だ。老い先短いペナンガルはともかく、活動限界が長そうな外科医は確実に撒かなければ。
現在時刻は一六五九。使用期限切れまで残り一時間を切った。余裕があるとは言い難いが、まだ慌てるような時間ではない。そのはずだ。
五階まで上がったカノエだったが、結果として一階にとんぼ返りする羽目になった。空中で〈右目〉を走らせたときにはわからなかったが、近くで見るとおよそ通り抜けのできる状態ではなかったのだ。無理に先へ進もうと思えばヘキサドの視界に入ってしまう。
二分を無駄に費やし、時刻は一七〇一。ついに一七時台だ。残り四十六分。カノエは焦燥感めいたものを胸に覚えながら、周囲へ油断なく視線を配る。
来た道を戻るか。無理やり突き進むか。あるいはそれ以外の方法か。思考を巡らせるカノエに呼応して〈右目〉の情報レベルが上がり、〈首輪〉がじわじわ加熱を始める。
そのとき不意に、視界の右半分に矢印が現れた。
「……上?」
〈首輪〉によると、ペナンガルを一方的に観察できる場所が三階にあるらしい。
どうすべきか迷ったのは数瞬だけだった。カノエは階段を駆け上り、ヘキサドの視界に入らないよう半壊した壁際に這い寄る。
その壁は上からの圧力を受けてくの字に折れ曲がり、下部に隙間ができていた。外側へ突き出た部分が
久しぶりに〈右目〉が捉えたペナンガルは、完全にドローンの操り人形と化していた。
〈右目〉によると、体表の平均温度は三八・二℃。目視できる範囲でも百箇所を超える打撲傷があり、まだ生きているのか不思議なぐらいだ。恐らくは両腕を切断したついでに強化を施したのだろうが、処理内容がわからないので〈首輪〉が算出した推定余命にもバラつきがある。最短は二十秒後。最長は三十七分後。持久戦に持ち込んだとしても時間はギリギリだ。
――だったら。
カノエの行動は早かった。腹這いのままホルスターからハンドガンを引き抜き、セーフティを解除する。慎重を期して両手で構え、銃口を老女性の頭へ向ける。背中も腰も荷物は背負ったまま。いい狙撃姿勢とは言えないが、そこはテクノロジーがカバーしてくれる。
なおも暴れ回るペナンガルの動きを〈右目〉が追い続け、〈首輪〉がスキンスーツを操って狙いを定める。距離は三十六メートル。着弾まで〇・三二秒。銃声が聞こえてから反応するのは、あの巨体では難しいはずだ。振り回される巨腕が邪魔でなかなかその瞬間はやってこないが、撃てば間違いなく当たる。
カノエに躊躇いの感情はなかった。
田中
つまり、どうあっても老女性に希望はないのだ。故に、この一発は慈悲足り得る――
しかしその一方で、ルルーと名付けられたハチワレの存在に考えが及ぶと、気が沈み込むのを感じる。
置かれた境遇は飼い主とほぼ同じだ。棲み家も遊び場も失い、飼い主はもうじき死ぬ。昨日までの生活は決して戻らない。
ルルーという名は恐らく、〈首枷〉の田中輝冠が勝手に付けたのだろう。老女性の呼び掛けに対して素っ気なかった理由もそれで説明できる。
旧ハスミ生化学第四号社宅群の使用期限はあらかじめ定められていて、これは誰にも覆せない。建材に含まれたナノマシンを一斉に書き換えるのは不可能だからだ。
だが、自分がここを訪れると決めなければ、〈火星人〉が目を付けることもなかった。街の崩壊は避けられないが、本来の田中輝冠と共に生き続ける未来があったはずだ。
――あの子はこの先、どうなってしまうのだろう。
そんなことを脳裏にふとよぎらせた刹那、〈右目〉に
「レイっ!?」
仰向けに転がって上体を起こすと、まっしぐらに廊下を駆け抜けていくレイモンドの後ろ姿が見えた。階段に差し掛かったところで姿は消え、カノエは慌てて起き上がる。
直後、ペナンガルの足音が一直線に迫ってきた。地響きが次第に加速を始めるので近くの階段へ逃げ込むが、足音はカノエの近くを素通りしていく。
「……ど、どういうこと!?」
カノエの疑問に〈首輪〉が応え、スキンスーツが勝手に身体を動かし始めた。ヘキサドの観測範囲を無視し、外へ出てレイモンドとペナンガルを追うコース――つまり、ペナンガルのターゲットがカノエ以外に移ったのだ。
「く……っ!」
三階から地上へ飛び降り、瓦礫から瓦礫へ飛び渡りながらペナンガルの踏み荒らした跡を追うカノエ。何が起きたのか、視界の右下隅でプレイバックがスロー再生される。
崩れ落ちた壁の上を、飛ぶように走るレイモンドの四肢。大きく膨らんだ尻尾は明らかに怒りを示していて、レイモンドが向かうその先には別のネコの姿。白と黒のツートンカラーは、間違いなくあのハチワレのものだ。
それで納得がいった。レイモンドは、ハチワレを追い払おうとしたのだ。
――でも、だからって……!
咎めるわけにはいかない。レイモンドを繋ぎ止める手間を惜しんだ、自分のミスだ。
スキンスーツが助けてくれていることもあり、ペナンガルの背中はすぐに捉えられた。距離は既に十五メートルを切り、撃てば確実に当たる間合い。〈首輪〉と〈右目〉、両者のアシストがあればなおさらだ。
だが、チャンスがなかなかやってこない。ペナンガルは相変わらず最短距離を取りたがり、つまりは立体的な移動を多用するからだ。ペナンガルが廊下に脚を蹴り込むついでに軽々と屋上へ跳び上がる一方、こちらは遠回りを余儀なくされる。
「レイ……!」
レイモンドとの距離は直線で二十メートル。現在位置は常に把握できている。基本的には集合住宅の内部を進み、猛ダッシュと小休止を繰り返している。逃げているというより追っている動き。
今のところレイモンドは安全だが、カノエの不安は募る。追われていることを忘れて暴走しないか、それも気掛かりだ。
しかし、それ以上にカノエの心を乱していたのは、ひたひたと押し迫る夕暮れだ。空を覆う一面の赤は、別れを強く連想させる。
ここは
それにしても、懸命に走っているはずなのになかなか追いつけない。ペナンガルのおかげで屋外は障害物だらけだ。整然と立ち並び、ある種の美しさと静謐さをたたえていた廃社宅群が、無差別爆撃に遭ったかのよう。被害を免れた建物はひとつもない。まっすぐに進めるのは長くても三メートル程度で、飛び越えるか迂回するかだ。
ようやく射撃のチャンスを得たのは、レイモンドがいる集合住宅の屋上にペナンガルが着地したときだった。階下のレイモンドを掘り出そうとするように、両腕を交互に足元へ叩きつけ始めたのだ。
西の空。夕日を背負い、逆光で影となった異型の巨人の小さな頭に、〈右目〉がターゲットマーカーを設定する。〈首輪〉がスキンスーツを操る。
カノエとの距離は三十四メートル強。仰角は四十六度。赤く表示され予測軌道がごくわずかに弧を描き、銃口とターゲットマーカーとを橋渡しする。
この距離なら問題はない。あとは〈首輪〉の判断に身を任せ、トリガーを引くだけだ。
――いまっ!
人差し指が動き、銃弾は放たれた。〈右目〉には予想軌跡が赤く表示され、黄色く強調された弾丸がその上を正確になぞっていく――はずだった。
「……えっ?」
何が起こったのかを理解する前に身体が勝手に動く。ハンドガンを放り投げながら後ろへ飛び退り、瓦礫の影にしゃがみ込んで身を隠す。直後、ハンドガンが破裂して部品や弾薬が飛び散った。
――追いつかれた!?
ほかに原因は考えられない。
予想攻撃位置を元に安全圏が三段階で設定され、〈右目〉内にオーバーレイ表示される。グリーンは今いる瓦礫の陰のみ。それ以外の物陰はイエローで、屋内外を問わず残り全てがレッドだ。
ペナンガルのターゲッティングがいつ変わるかも知れないので、できれば屋内へ逃げ込みたい。しかし、いま恐れるべきは長射程の光学兵器だ。気密モード用に全身をスキンスーツに覆われたままだが、頭部を撃たれていたらただでは済まなかっただろう。
ハンドガンを貫いたのはただのミスなのか、それとも――
そのとき、ひとりでに身体が動いた。奇妙な風切り音を耳で捉えたのは、前回りで受け身を取っている最中だった。勢いがついたまま起き上がると、さっきまでいた場所にワイヤーが突き刺さっていた。
カノエは即座に反転し、長く伸びた影を追って走る。
外科医が頭上を飛び越したのはすぐにわかった。だから、狙うのは着地際だ。ここまで接近を許した以上、背中を見せて逃げるのは不可能だろう。手傷を負わせて自ら退かせるか、さもなくばここでケリをつけるか。
カノエは〈首輪〉が命じるまま次々に瓦礫を蹴り渡り、外科医の胴体を狙って飛び蹴りを放った。
「gu、ooo……!」
横に大きく裂けた外科医の口から、奇妙に捻れた声が飛び出す。
予測も動作もうまくいった。靴底全体に重い感触があった。だが、鳩尾を狙ったはずが、やや上にずれている。
〈首輪〉が瞬時に熱を増し、近接戦闘に備えて処理速度を上げる。この先、一瞬たりとも気が抜けない時間だ。
二メートルもの巨体を大きく仰け反らせた外科医は、運動エネルギーに身を任せる形で後ろに二回転し、両手を大きく横に。次の瞬間、カノエの左足が強い力で引っ張られ、全身が地面に叩き付けられた。
「ぐぅっ!?」
その原因は〈右目〉が捉えていた。外科医の人差し指から射出された捕縛用ワイヤーだ。足首に絡みつき、外科医がカノエを手繰り寄せる動きとは無関係にどんどん這い上がってくる。
しかし、カノエは慌てない。残った右足で起き上がりざまに右手を一閃。指先までを覆ったスキンスーツが瞬時に鋭刃化し、文字通りの手刀となってワイヤーを断ち切った。そしてその勢いのまま間合いを詰め、外科医に近接戦闘を挑む。
「n……Oooou、f!」
意表を突かれたのか外科医が口を一瞬閉じたが、すぐに歯を剥き出して応戦する。
はためかせた白衣の陰から鋭く手足を繰り出してくる外科医に対し、バックパックを背負ったままのカノエはフットワークを重視したアウトボクサースタイル。〈右目〉が捉えて〈首輪〉が測り、最適な動きと硬さをスキンスーツに与えて外科医の四肢に抗する。
外科医の変則的な後ろ蹴りを払い除けて回り込み、振り下ろした右手は上半身を直角に折り曲げて避けられ、そのついでに射出されたストレートをクロスした両腕で防ぎ、即座に外科医の腕を掴んで捻り上げようとしたが、逆らわずに全身をひねって流体のごとく相殺しながらスピンキックを放ち、その蹴り足を横合いから叩いて落としてから肘を見舞うと、今度は逆に手首を掴み返されてから身体ごと振り回されそうになり、即座にしゃがみ込んで重心を落としざまに水面蹴りを放つと、外科医が連続バク転で逃げながらワイヤーを撃ち、それを切り落としながらカノエが追い掛ける。
その間、わずか六秒。攻撃は本体へ届く前にことごとく防がれ、共にダメージは皆無だ。
ほぼ全身を機械化している外科医に対し、こちらは生身。〈首輪〉のおかげでうまく戦えているが、持久戦は望ましくない。処理速度向上の副作用に激しい全身運動が加わり、カノエの体温は急激に上昇。〈首輪〉曰く、今の調子で戦えるのは最長でも三分二十七秒だという。
――この状況、どうやって打開する……!?
外科医の攻撃をひたすら捌きながら、カノエは思考を巡らせる。
当面の勝利目標は、外科医を追跡不能に陥らせること。手足の一本でも折りたいところだが、即座に返し技を繰り出してくるのでかなり難易度が高い。関節技に持ち込むという手もあるが、いかにスキンスーツのアシストが強力とはいえ〈右目〉の外側からの攻撃にはまったくの無力だ。視界を広く保たねば、外科医の可動範囲に対応し切れない。それに何より、背負ったままのバックパックが邪魔だ。外せば大幅に運動量を増やせるが、置き去りにしてしまった際のリスクが大きすぎる。彼のためにも、これは絶対に手放せないのだ。
カノエが考えている間も〈首輪〉は身体を動かし続けるが、消極的な思考が行動に現れてしまう。次第に後手へ回るようになり、外科医があからさまに距離を取り始める。
敵の狙いはワイヤーだ。三メートル以上離れた途端、次々に射出してカノエの手足を封じようとしてくる。
「くっ!」
斬り落とすのはそう難しくない。だが、一度手足に絡みつくと、切断してからもしばらく動き続ける。それが一本や二本なら問題はないが、数本まとまると別個の対処を余儀なくされる。具体的にはスキンスーツの変形だ。刃を作り出して絡みついたワイヤーを切り刻むのだが、それによってカノエ本人の動きが阻害され、外科医にワイヤーを撃たせる隙を与えてしまう。
このままではジリ貧だ。しかしカノエは――〈首輪〉は、そこに突破口を見出していた。
――異常性癖者だけど、武装外科医としての役目には逆らえていない。
致死性の攻撃を控えていることも、光学兵器でハンドガンを狙ったことも、カノエを無傷で拘束し、使用期限切れに巻き込んで故意に事故死させるため。
であれば、カノエにも打つ手がある。
「siii!」
集めた下着を白衣のポケットから落としながら、通算して十八回目のワイヤーを飛ばす外科医。例によって右手を振り回すカノエだったが、手の形がそれまでと違っていた。手刀ではなく平手――開いた手でワイヤーを掴み、すかさず手前に引っ張った。
「n、ou!?」
ワイヤーはすぐ切れたが、外科医はやや前のめりになってバランスを崩す。〈首輪〉曰く、復帰までは推定一・四秒。カノエは即座に大きく前へ右足を踏み出した。
「はぁっ!」
スキンスーツがどくんと脈打ち、効率よく増幅された運動エネルギーが、続けて繰り出した右の掌底に集中する。
その威力は覿面だった。
打撃の余波がスキンスーツの表面を駆け抜けた次の瞬間、ずぉん、と地鳴りめいた音と共に外科医の身体が大きく吹き飛ぶ。
「ga……!」
いつもなら速度や軌道を〈右目〉で計るところだが、今はレイモンドが気掛かりだ。即座に踵を返して彼の元へ走った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます