16:14




『その頷き、承認と受け止めてよろしいかな?』

「どうやって視ているのか、早く教えて」

『いやいやなになに、実に簡単なことだよ』

『ナノマシンだ』

「えっ」

 カノエは思わず周囲を確かめるが、もちろん見えるはずはない。ナノマシンを検出するには専用の機材が必要だ。

『この街一帯に予め散布したナノマシン群が』

『巨大なセンサーとなって働いている。きみの』

『一挙手一投足が私に筒抜けなのも当然だよ』

「じゃあ、あのドローンは?」

『ああ、あれはペナンガルのためのものだ』

『誤解のないように言っておくと、ペナンガル』

『システムとナノマシンセンサーは全く別系統』

『の話でね。ただし今回に限って、ペナンガル』

『のガロットをトランスポンダとしている』

『きみがガロットを目視することで右目の』

『固有波長を特定し、極めて狭いレンジ』

『でこのウィンドウを展開しているわけだ』

 ガロット、とはあの首枷のことだろう。中継器トランスポンダとしても使えるあたり、ますますこの〈首輪〉に似ている。

「それで、ペナンガルって?」

『伝承上のペナンガルは知っているだろう?』

「……ボルネオ島に伝わっていた吸血鬼の一種。空を飛び回す女の首をしていて、首の下には内臓をぶら下げている」

『そうそう、そういうことだ。あの姿を表す』

『のに、ちょうどいい固有名詞だからね』

「なぜ、手足を落とす必要が?」

『それは愚問だよ。不要だからに決まって』

『いる。機械化老人と同じスキームで下半身』

『が作られているのだから、手も足も余分は』

『いらない。それに、あの老女の余命はほぼ』

『残っていなかった。日常生活を過ごせるよう』

『高度に賦活ふかつし、その代価は身体で贖って』

『もらったというわけだ。もっとも、彼女から』

『同意は取り付けていないがね』

「……それは、何のため?」

『もちろん、きみとこうしてお話をするため』

『そして、きみの殺害依頼をこなすためだ』

「わたしを、殺すため……」

 それ自体、大して驚きはなかった。自分の出自を考えれば、その動機は当然だからだ。命を狙われるのにはそれなりに慣れている。

『おっと、誤解してほしくないが、比重として』

『は圧倒的に前者だ。とはいえ私も、有用性を』

『証明し続けなくては処分される身。進退が』

『窮まれば、その時はきみを殺さざるを得なく』

『なるので予め承知しておいて欲しいね』

「……つまりこの状況は、いつでもわたしを殺せるようにするために?」

『それと同時に、殺害対象たるきみと秘密裏に』

『会話をするためでもある。何しろ私は常時』

『監視されている身でね。疑いを抱かせない』

『ための姑息な手段だ』

「もしもわたしが、ここに来なかったら?」

『脳拡張技術を甘く見てもらっては困るね』

『間違いなくきみは、ここへ来たとも』

『そう確信したからこそ、私はこの場所に網を』

『張った。そして、うまくリサイクルできる』

『老女がいたから、実証研究中のテクノロジー』

『を投入した。それだけのことだ。あの老女が』

『何者かなどと気にするのは実に無駄な行いだ』

「ひどい……」

 思わず口を突いて出たカノエの一言に再び〈火星人マーシー〉が笑った。

『っは』

『ははははは』

『はは』

『きみがそれを言うのかとおかしくて仕方ない』

『よ。あれほどに銃弾を放っておきながら老女』

『の身を案ずるとは、驚くべき面の皮の厚さだ』

『さすがは正真正銘の人でなしというところだ』

『ね。フェイズ7ことカノエくん』

 その瞬間、受けた衝撃の強さに身体がぐらりと揺れた。ありえない事態に冷や汗が吹き出て、スキンスーツの内側をべったりと濡らす。

 なぜ、どうして、それを知っている? プロジェクトナンバーはともかく、〈大姉グレート・シスター〉と〈妹たちレッサー・シスターズ〉以外にカノエと呼ぶ人はいないのに。ベンサレムを出てから、一言も口に出していない名なのに。

『ふうむ、バイタルの変化を見ると、どうやら』

『図星のようだ』

『おおっと』

『んっ、ふふ』

『いやいや、これは失礼』

『嬉しさのあまりまた少し漏らしてしまったよ』

『長きに渡る追跡調査が無駄ではなかったのだ』

『から、嬉しさもひとしおというものだ』

 カノエは恐慌に駆られ、ハンドガンを手に階段を駆け登っていた。

 これは敵だ。彼は正しかった。さっさと逃げ出すべきだった。〈火星人〉がどこまで知っているのか知らないが、予断を与えてしまった。

 この秘密を拡散されたら、外を出歩くどころではなくなってしまう。〈大姉〉に咎められれば、レイモンドを救う術はなくなってしまう。

『なるほどなるほど、ドローンを撃ち落とそう』

『という算段か。最善の手である一方で大きな』

『リスクも存在するよ。深淵を覗く時、深淵も』

『またきみを覗き見るものだからね』

 これ以上の会話は無意味だ。レイモンドと合流してここを出る以外に道はない。〈火星人〉の言葉が本当なら、散布したナノマシンの圏外に出ればこの鬱陶しさから逃れられる。

〈震源〉――ペナンガルの破壊行為は飽くことなく続き、当初より約二十三パーセントも揺れが大きくなっている。このままでは使用期限切れ前に倒壊してしまいそうだ。

 揺れる階段を一気に駆け上がり、最上階の五階へ。ヘキサドの微かな羽音が外から聞こえる。どうやら配置に変わりはないようだ。

〈右目〉が示すマーカーに従い、上半身を廊下の外に。スキンスーツに支えられた両腕が正確に狙いを付け、即座に一発。急いで身を引いた後にドローンの羽音が降下していくが、カノエの現在位置は既に送信されたようだ。集合住宅の躯体を揺るがす打撃音が、反対側の廊下の外をどんどん駆け登ってくる。

「まあ゛あぁぁぁっ……てえぇぇぇ!」

 悲しげな吠え声のおかげでおおよその現在位置が把握できた。四階から五階の間の外壁。もしかすると、屋上にまで上がってくるかもしれない。カノエは迷うことなく、廊下の南端へ向かって駆け出した。ただ逃げるのではない。〈首輪〉が立案したのは、より積極的な一手だ。

〈右目〉が指し示す矢印は突き当たりの窓を貫通し、五メートル離れた隣の棟の四階へと放物線を描いている。スキンスーツのアシストをもってしても、身体の前後に荷物を下げている状態では高度を保てないらしい。

 短い助走の後に強く蹴り出したカノエは、スキンスーツに従って両手を頭の前でクロス。手首の生地が瞬時に指先までを覆って硬質化し、矢となって窓を突き破った。

「くっ!」

 フライングクロスチョップの体勢で自由落下を始めて一秒。二度目の衝撃が手先に伝わり、窓の残骸と共に廊下へ着地した。受け身を取って起き上がるとスキンスーツが大きく脈打ち、熱気を排出するのと同時に埃を吹き飛ばす。

 だが、一息つく暇もなくカノエは廊下を走る。ペナンガルは屋上へと登り、ヘキサドを撃ち落とした場所の直上で地団駄を踏んでいる状態。再びヘキサドの視界に入れば、即座に後を追ってくるだろう。

『ふむふむ、なかなかうまくやるものだ。南北』

『への移動はその要領でいいとして、東西方向』

『はどうするつもりかな』

 少し腹が立つが〈火星人〉の指摘はもっともだ。集合住宅の廊下は東に開けていて、住戸部分は西側に寄っている。廊下から住戸の窓へ飛び込むにしても、その逆向きにしても、助走を付けるのが難しいのだ。

 しかし、レイモンドは東にいる。どれだけ難しくてもやるしかない。

 廊下の外、隣の集合住宅の外壁に〈右目〉を走らせ、最も劣化している窓をマークする。それから廊下端にたどり着き、階段を上がって五階へ。折り返す形で再び廊下を走る。面倒だが、ペナンガルの追跡を考えると、移動と同時にドローンを撃ち落とす必要があるのだ。

 マークした窓まであと七メートル。ハンドガンを構え持つと、〈右目〉のガイドに従って斜めに走り、壁を蹴り、手すりを乗り越え、宙に身を踊らせながら上空のドローンに発砲した。

 集合住宅同士の間隔は五メートル。命中を確認する間もない。足先から飛び降りたカノエは、ドロップキックよろしく揃えた両足で四階の窓を破った。堆積していた剥離建材がもうもうと立ち込める中、急いで窓際を離れて戸外を目指す。というのも、ペナンガルの叫び声が上空から近づきつつあったからだ。

「……ぁああああああ!」

 廊下へ出たのと同時に背後から轟音がし、剥離建材の白い煙が爆風のように吹き出た。カノエはペナンガルを一切顧みず、次のヘキサドを撃ち落とすために走り出す。

 何が起きたのかは振り向かなくてもわかる。それより、さらに東へ向かうには今がチャンスだ。ペナンガルが追って来ようと思えば、上に登るか横から回り込むかのどちらか。うまくいけば十秒ぐらい時間が稼げるかもしれない。

『――む、他の―ノマシンでコ―――リクトを』

『起――てしまうの――瞬足り―も』

『見逃――いと―うのに―ったもの―』

 恐らく、空間中のナノマシンが必要以上に撹拌されたせいなのだろう。ウィンドウ内のメッセージに乱れが出る。思っていたより回線は細いのかもしれないが、どちらにしても鬱陶しいことに変わりはない。

 先ほどのように五階へ上がり、次のターゲットへ。フロアを一つ上げても三メートル、時間にして〇・〇三秒しか着弾は縮まらないが、すべては確実に撃ち落とすため。わずかな手間を惜しんだあまりに回避運動を許してはそれこそ命取りだ。

 何しろこの偵察ドローンたちは、社宅群の全域に渡って展開している。その数、千八百機あまり。一般社員向けエリアだけでも四百機は存在しているのだ。数機を撃ち落としたところで焼け石に水だが、ほんのわずかでも聖域アジールを作っておけば後で役に立つかもしれない。

 前回と同じ要領で助走をつけ、東隣に向けてジャンプ。銃弾を放ち、窓を蹴破って着地したその時には、既に地響きの迫る気配がした。

 彼のコントロールがうまくいっているのか、レイモンドの現在位置は一つ南の棟――いや、この棟へ移ってきた。カノエは飛び降りたい気持ちを抑えながら廊下を駆け、階段を急ぐ。

「レイ?」

 カノエが呼び掛けると、かすかな返事が聞こえた。

「レイ!」

 合流を果たしたのは二階と三階の間の踊り場だった。

 階段をまっしぐらに駆け上がってくるので両腕を開いて待ち構えていると、ふとした拍子に目が合ってしまう。

《ログを見たよ、カノエ。厄介なのに目を付けられてしまったね》

《うん》

《ヤツの言い分をどこまで信じていいものか疑問だけど、それまで曖昧だった敵対存在に名前が付いたのはいいことだ》

《どうしよう》

《もちろん逃げるに限るよ。きみとの不慮の別れで、身体のほうは相当参っているからね。それに、ぼくが行動を共にすることできみの選択肢は大きく増える》

 鎮痛タブを飲むタイミングがなかったので、フィードバック痛をまともに食らってしまった。がっくり膝を突いたことで頭の位置が下がり、そこへレイモンドの身体が砲弾のように突っ込んできた。

「いたっ!」

 悲鳴を上げるカノエに対し、レイモンドは意に介した様子もない。衝突などなかったように軽やかに降り立つと、うずくまるカノエの周囲をぐるぐると回りながら頭を擦り付け、足の間に潜り込み、さらにはバックパックをよじ登って「なぁーおぅ」と耳元で鳴いた。

「うん、わかった。わかったから」

「あぉん、おぉん」

 やや不満げに強く鳴いたレイモンドは床に降り、カノエの足元に座り込んで顔を上げる。

「わぁん、うあーん。あおぉーおぅ」

 何事かを訴え掛けるような声だが、さしもの〈首輪〉もネコ語の正確な翻訳はできない。〈会話〉によってできるのは、あくまで彼との意志疎通だ。彼を住まわせているレイモンドの意思は、決して言葉にはならない。

 だが、レイモンドが恐ろしい目に遭ったのはわかる。

 目を合わせないようレイモンドを抱き上げ、頭からお尻までを大きく撫でると、少し落ち着きを取り戻したらしく、ふすーっとため息をついた。

「ごめんね、レイ。もう大丈夫だから」

 鎮痛タブを飲んで〈会話〉をしたいのだが、手を離そうとするとにゃごにゃごと小言めいた声を出し、撫でるのを止めさせてくれない。カノエはひとまず階段を下り、ペナンガルとの距離を置く。

「なっ、あ゛ぁ……あああぁぁぁ!」

 ペナンガルの叫び声は相変わらずだ。住戸に腕を突っ込んで家探しをしているのか、集合住宅全体が雷鳴のようにごろごろと轟いている。

 カノエが新たにヘキサドの視界に入らない限りは今の場所に執着し続けるのだろうが、この建物がいつまで保つのかわからない。今のうちにできるだけ距離を取らなくては。

 一階へ下りたところで廊下を北へ。この先にある二棟を抜ければ後方施設エリアだが、行く手を阻んでいるはずのフェンスはペナンガルの突撃を食らって大きく傾いている。

『もしかすると、もうお帰りのつもりなのかな』

『レイモンドくんとの合流も果たした今、これ』

『以上の危険を避けようというきみの気持ちは』

『わからなくもないが、次いつ出会えるかも』

『わからない。もう少し話をしようじゃないか』

〈火星人〉の投げつけるメッセージウィンドウが視界の右半分を遮るが、もはやカノエの眼中にはない。クリアな左目で正面を見据え、ひたすら先に進む。鎮痛タブを含み、五メートルの隙間を悠々と渡り歩いて次の棟へ。ヘキサドを撃ち落としたおかげで、この場所に限ってはペナンガルの視界から外れている。

『ペナンガルの表面温度は80度を越えてなお』

『も上昇中だ。内部はもっと高いだろうし』

『その内部と直結しているダシガラもかなりの』

『高温になっている。そう急がずとも30分と』

『経たないうちに動作を停止するだろうね』

「ダシガラって、そんな言い方――」

 カノエは思わず足を止め、どこにいるかもわからない〈火星人〉を探して視線を巡らせる。

 だが、続くはずの言葉は一向に出てこようとしなかった。自分が何に対して反感を覚えたのか、わからなくなったからだ。

 ――違う。

 本当はもう気づいている。〈火星人〉を糾弾すれば、その言葉が自分に返ってくることを。あの老女性に〈首枷ガロット〉を嵌めてコントロールユニット化する行為と、ネコにインプラントを移植して〈首輪〉内のレイモンドを展開させる行為に、大した違いがないことを。

 そう、両者は何も変わらない。肉体に備わっている個性ををAIの風味付けフレーバーとして用いているという点で、〈首輪〉と〈首枷〉は同一なのだ。

『いやいや愉快愉快。きみがなおも私を糾弾』

『するとは、よほどに議論を重ねたいらしい』

『うんうんもちろん歓迎するとも。私としても』

『望むところだ。この際、突き詰めた話を』

『しようじゃないか』

「……そんなつもりは、ないから」

『私にはあるさ。何しろ私の目的はオリジナル』

『のヒラサワ計画に触れることだ。もっとも』

『物理的な接触は不可能だから、きみたちの』

『稼働状況を確認するに留まる。つまり、今』

『きみと交わしている会話がそれだ。だから』

『まあ、そう身構える必要はない。私ばかり』

『得するのが癪に障るというならこうしよう。』

『会話を継続する代償として、きみの問いに』

『何でも答えようじゃないか』

 矢継ぎ早に飛び出すメッセージウィンドウで、視界の右半分はたちまち埋め尽くされる。

 その鬱陶しさに手を払うと、抱きかかえたままだったレイモンドが腕から抜け出て床に降り立つ。

《無視するんだ、カノエ。ヤツの言葉に目を奪われてはダメだ》

《どうして》

《あまりに気前が良すぎる。会話を継続するというきみのリスクに対して、得られるリターンが多いとは思わないかい? このアンバランスさが何を意味しているのか、よく考えてみるべきだよ》

《でも》

《ヒラサワ計画を知っている上に、首枷という模倣品も手掛けている。ベンサレムを出て以来、そんな人間と出会うのは初めてだよ。確かに有益な情報を得られるチャンスかもしれないけれど、ヤツ自身の言葉を信じるならバアサンを機動兵器に仕立て上げた張本人だ。決して、ボランティアなどではない。だから問題は、ヤツがきみとの会話で何を得ようとしているのかだ》

 長めの〈会話〉は、どれだけ鎮痛タブが効いていても相応の負担をもたらす。カノエはたたらを踏み、壁に背中を預けてずるずるとへたり込んだ。

 ――何を得ようとしているのか。

 ペナンガルが揺らす視界の中、彼の問い掛けが脳裏を駆け巡る。

 自分がヒラサワ計画の残滓を求めているのは、彼を延命させるため。〈妹たちレッサー・シスターズ〉の忠告に背き、〈大姉グレート・シスター〉の慈悲に縋ってベンサレムの外に出たのも、ただそれだけが理由だ。ほかの誰にも指図されてはいない。自分の意志だ。

 対して〈火星人〉は、何を求めているのだろう。なぜ、ヒラサワ計画にこだわるのだろうか。

 可能性として最も考えられるのは〈首枷〉の完成度を高めるためだ。

 老女性と出会った当初、彼女は田中輝冠てぃあらとしてほぼ完璧に振る舞っていたが、アクシデントが発生してからは人格が破壊されてしまった。ベースとなるテクノロジーやメカニズムが大きく違っていたとしても、安定して稼働し続けている〈首輪〉のユーザーは興味の対象となるに違いない。

 しかし本当に、それだけだろうか。

〈首輪〉と一体になって思考を巡らせるカノエには、ありきたりとも言えるその答えがしっくりこない。

 名前を知っていた。プロジェクトナンバーはおろか、庚子生まれ年から派生したカノエという名まで把握していた。

 だから恐らく、ベンサレムのこともある程度は知っているのだろう。自力航行可能なプライベートメガフロートが〈妹たち〉の収容施設であることも。

 島を出てから一度も戻っていないのに、彼の新しい毛皮からだは何度も迂回して送られてくるのに、それでも関係性を知っているのだとしたら、〈火星人〉は一体いつから自分たちを観察し続けているのだろう。

 そして何よりも不可解なのは、この場へ誘い込むことにリソースを費やし過ぎている点だ。殺害を依頼されたにしても、ただ殺すだけなら他にやりようがあったはず。この社宅群へ来るまでの道のりで、いくらでもチャンスはあったはずだ。〈右目〉でも捉えきれない超遠距離からの狙撃や、電動四輪でも回避できない土砂崩れを引き起こすなどして。

 多大な手間と時間を掛けて、会話をしたいという理由は何か。

 その執念深さを支えているものとは、何か。

「…………」

 カノエはふと、あることに気がついた。〈火星人〉がずっと沈黙しているのだ。カノエが考え事に耽っていた一分近く、ただの一言も発することなく。

 何が起こっているのだろうと、足元でうずくまるレイモンドに目を向けようとした刹那、カノエは唐突に悟った。そして急いでレイモンドを抱き上げ、その目元を手のひらで隠す。

 ――もしかして、彼との〈会話〉を覗き見ようとしている……?

『ふむふむ、目の付け所がなかなかいいね』

 メッセージウィンドウが久しぶりにポップする。

『きみが常に連れているネコにはレイモンドと』

『呼ばれる人格が宿り、右の義眼を介して意志』

『の疎通を行っていることを知っている。』

『技術面も含めて興味のある事例だが、私の』

『狙いはあくまできみとの会話だ。もっとも、』

『レイモンドくんとの会話を傍受しようにも』

『そこの観測ナノマシン群で捉えられなくてね』

 だが、一度芽生えた疑念は容易には拭い去れない。カノエはレイモンドの顔を隠したまま、改めて出口を――北を目指す。

『とはいえ、きみの着眼点は実にいい。それで』

『こそ、私が追ってきた甲斐があるというもの』

『だから特別に、聞かれてもいないことを教え』

『ようじゃないか』

「…………」

〈火星人〉のメッセージがしつこく追い縋るが、これ以上の会話は無用だ。そもそもの話、こちらが不用意に返事をしなければいたずらに心が惑わされることもないのだ。

 カノエは唇を一文字に引き絞り、淡々と歩み続ける。集合住宅の狭間を渡り、最後の一棟へ。電動四輪エリーまではまだ三百メートル近くあり、ペナンガルは約五十メートル後方。多少遠回りでも、ヘキサドの視界から逃れるために屋内を伝って行く必要がありそうだ。

『私の最終的な目的は、クローン製造技術だ』

「……っ!」

 予想もしない単語の登場に、カノエは思わず足を止めそうになった。動揺を察知した〈首輪〉がスキンスーツを操って歩みを継続させるが、呼吸の乱れまではカバーしきれない。しゃくりあげ、咳き込んで誤魔化す。

 しかし〈火星人〉は、カノエに構うことなく続ける。

『とは言っても、きみたちから奪うつもりは』

『ないよ。求めているのは一体分の製造能力だ』

『一体だけ、私にクローンを作って欲しい』

 カノエはひたすら歩き続ける。

 否定も肯定もしてはいけない。態度に表わしてはいけない。許されるのは前へ進むことだけ。

 ふらついても構わない。よろめいても構わない。壁に手を付いたとしても、床に膝を付いたとしても。

 それでもカノエは、無視しなくてはならない。どこまで知っているのかと恐怖さえ感じる〈火星人〉のうそぶきを。

『おやおや、蛇行するぐらいに怖がらなくても』

『いいじゃないか。きみの運命は生か死かの』

『二択だ。その中間はない。きみを捕まえて』

『DNA鑑定をし、連合の最高経営責任者たる』

古泉こいずみ深夜湖みやことの関係性を開陳かいちんしようだなんて』

『これっぽっちも考えてもいないさ』

 その名を目にした途端、殴られたような衝撃を頭に感じた。思わず立ち止まってしまいそうになるが、酔漢のようにみっともなく足をもつれさせながら、カノエはかろうじて持ちこたえた。

 きっと〈火星人〉には、何もかもが筒抜けなのだろう。このまま否定を続けても無駄なのだろう。

 それでもカノエは、約束をたがえるわけにはいかなかった。

 ――私とあなたの関係を、誰にも知られることのないように。

 もしも余人の知るところとなれば、騒乱の元となりかねない――〈大姉グレート・シスター〉はそう念押しをして、自分の願いを叶えてくれた。平和の喪失は、妹たちの存在意義の消失と同じ、とも告げて。

『人間の複製は禁断の技術。倫理面ではなく』

『社会秩序の観点から禁止されている。何しろ』

『この世界は、労働資源の確保に莫大なコスト』

『を費やすことで成り立っている。年老いた者』

『や身体に不具合を持つ者。従来の社会では』

『労働資源として計上できなかった人間たちに』

『人工臓器を与え、その所有権で支配している』

『が、そんな状況に若くて健康なクローンが』

『安価かつ大量にもたらされたら何が起こる』

『のか、容易に想像できるというものだ』

 視界を埋め尽くす大量のメッセージウィンドウに屈し、カノエはついにその場へ崩れ落ちた。

 四つん這いになってなおも抗うカノエの脳裏に『貸し剥がし』という単語が浮かび上がる。

 貸し剥がしとは金融機関が融資している資金を積極的に回収することを指す言葉なのだが、この場合は資金ではなく人工臓器だ。企業の構成員にあまねく無償貸与された人工臓器には、労働奉仕という名の就労義務が課せられている。それはすなわち、労働力が不要になれば所有権を縦に人工臓器の『回収』ができるということだ。

『無論、そればかりではない。ユニオンが』

『裏切ったとなれば、残るファンドとアルテリ』

『は過去のわだかまりを捨てて即座に結託し』

『て対抗しようとするだろう。三巨頭による』

『バランスゲームは終わりを告げ、新たな秩序』

『が構築されるまで紛争なり抗争なりは続き』

『真っ先に被害を被るのは私のような弱者だ』

「じゃく……しゃ?」

『そうとも。己が垂れ流した糞尿の始末すら』

『できぬ身だ。脅迫され、幽閉され、酷使され』

『利用価値があるからと、かろうじて生かされ』

『それはつまり、役に経たないと判断されれば』

『処分されるということだ。哀れな機械化老人』

『たちとそう変わりはない。さてさて、これで』

『私が私のクローンを求める理由がわかったの』

『ではないかな』

 もちろんすぐにわかった。〈火星人〉は、今の身体を捨てたいのだ。外科的に脳を増設される前の、自力で歩くことのできる身体に。

「……そんなことの、ために?」

〈首輪〉は自重を求めていたが、カノエは言わずにはいられなかった。

「ただそれだけのために、こんなことをしたの?」

『猫の個性を何匹と塗りつぶしておきながら』

『こんなこと呼ばわりとは片腹痛いね、きみ』

 その通りだとカノエは思った。自分の行いを〈火星人〉のそれと比較しても、外道のそしりを免れることはできない。

「でも、わたしは……」

 ついに前へ勧めなくなり這ったまま喘ぐカノエを、不安げな面持ちでレイモンドが見下ろしている。手を伸ばすとレイモンドはカノエの腕に沿って身体を擦りつけ、そのまま脇の下に頭を潜り込ませてきた。

 そんなレイモンドの姿に、カノエは少しだけ救われた気持ちになった。

「わたしは、大切にしている……はず。この、彼のことを。彼のためならわたしは、なんだって、やる……」

 そう言いながら、ひどい自己弁護の言葉だとカノエは思った。

 彼がそうしてくれることを望んでいるから、自分はそれをやる。

 でもそれは、ただの欺瞞ぎまんだ。彼を今のカタチにしたのは自分で、そのカタチでなければ彼は生きられない。

 だから彼は、決してカノエに異を唱えることはないのだ。

『なるほどきみは余計な巻き添えが多いと』

『その視点で私を糾弾するわけか。ああ、うん』

『そこを突かれると実に痛いな。だが』

〈火星人〉の反論が急に途切れ、脇の下から抜け出たレイモンドがあらぬ方向を見る。

 その二秒後、〈首輪〉のセンサーが高速飛翔体の接近を感知した。

『時間切れだ。協力に礼を言わせてもらうよ』

「どういうこと!?」

 カノエの耳ではまだ捉えられないが、レイモンドや〈首輪〉には飛翔音が聞こえているようだ。方位三四七――北北西から全長三メートル程度の紡錘形。フラップか何かで空気抵抗を作り、落下軌道を調整しているようだ。推定速度は時速九百キロ。着弾まで約二十五秒。

『私としてはきみに生きていて欲しいのだが』

『所詮は雇われの身。最低限の仕事はやらねば』

『ならない。申し訳ないが、どうにかしてその』

『鉄火場を凌いでくれ。ちなみにだが、今から』

『そちらにお邪魔するのは武装外科医だ』

「あ、武装外科医アームド・サージョン……!」

『おや、知っていたのなら好都合。厄介極まり』

『ない相手だと思うが、今回派遣された個体は』

『飛び抜けて個性的でね。婦女暴行犯罪者を』

『素体としているから、きみのように可憐な』

『少女が相手だと必要以上に張り切るんだ』

 着弾まで残り十秒。カノエの耳にも、飛翔体の生み出す風切り音が届き始める。着弾予想点はまだ不明。

『おっと、これ以上は盗み見がバレてしまう』

『名残惜しいが、これにてしばしのお別れだ』

 カノエはレイモンドを抱えて飛び起き、北に向かって走り出す。が、すぐに停止を余儀なくされる。ペナンガルもなぜか北上を始めたのだ。

 何かを追っているようにまっしぐらに地響きが迫り、壁と住戸を隔てた西隣で止まったかと思うと建物全体が轟音と共に大きく揺れる。

 なぜ、ここに狙いを付けたのだろう――訝るカノエの足元に、小さな影がまとわり付いてきたのはその時だった。

『くどいようだが、ドローンはペナンガル用だ』

〈火星人〉の一方的な別れなど、もはやカノエの目に入っていなかった。なぜなら足元にいたのは、建材ですっかり白くなったあのハチワレだったからだ。

「ル、ルルー……!?」

 思わず名前を呼ぶが、相変わらずそれには反応しない。壁の向こうの破壊音に合わせてびくっと身体を震わせ、それでもカノエの脚を登ろうと必死だ。レイモンドはそれが気に食わないらしく、たちまち唸り声を発して威嚇を始める。

「ちょっ、ちょっと待って、わかったから」

 着弾予想時刻からは既に十秒近く過ぎている。ペナンガルの生み出す轟音に掻き消されて着弾点は絞り込めず、いつ外科医が襲ってくるかもわからない状況だ。

 カノエは、腕の中でもがくレイモンドを無理やり自分に向かせる。

《まったく、こいつはとんだ疫病神だ。個人的にはさっさと叩き出して欲しいけれど、使い方次第では福の神にもなりうる。しばらく手元に置いておこう》

《どういうこと》

《まだ確定したわけではないけれど、バアサンが執着し、追い掛けている対象こそがこのハチワレだ。ぼく単体に反応した点から見ても、その可能性はかなり高い》

《でも》

《どれだけ観測精度が高くても、情報を受け取る側に問題があっては宝の持ち腐れだ。毛色はかなり違うけれど、今のバアサンにはハチワレもマッカレルタビーも区別がつかない、ということだろうね》

《ひとは》

《それについてはまだ何とも言えない。ネコと関連付けて反応するかもしれないし、空気のように扱うかもしれない。もしも後者であればきみ単体の移動に制限がなくなる一方、外科医もスルーする可能性が高い。とにかく、ぼくやハチワレをヘキサドから見えないように運べばいいということだ》

「そんなこと、急に言われても……」

 フィードバック痛に顔をしかめながら、カノエはしばし困惑する。緊急避難用にルルーを確保しておけというアドバイスはもっともだ。しかし、彼の身体のほうは今にもパンチを繰り出しそうなほどに敵愾心剥き出しで、同時に連れて歩くのは難しい。あるいはそれぞれを両脇に抱えれば何とか運べるかもしれないが、両手が塞がったままというのはあまりに危険だ。

 とはいえ、ここで迷ってはいられない。上階がペナンガルによって塞がっている以上、この場には留まれないからだ。

 脱出口に近い反面、平面的にしか動けない後方設備区画――北に向かうか。

 スキンスーツが生み出す瞬間的な機動力を活かすため、敢えての後退――南へ向かうか。

 カノエの判断は――

「……ごめん!」

 足にすがりつくルルーを片手で強引に引き剥がすと、首輪を掴んで廊下の外――立ち上がり壁の向こう側に放り投げる。そして自分は両手でレイモンドを抱え、一目散に南へ駆けた。まずはルルーを引き離そうと考えたのだ。頭上の轟音が一瞬静まり返り、凄まじい地響きが足元を揺るがす。

 確かに彼の身柄は役に立つ。ドローンの視界に入れれば、即座にペナンガルが反応する。外科医に向かって投げつければ共倒れも狙えるかもしれない。

 だがそれは、言うまでもなく諸刃の剣だ。それでなくてもこちらにはレイモンドがいて、誤認の危険性もある。

 カノエは一気に二棟を駆け抜け、階段を駆け上がる。北ではなく敢えて南を選んだのは、ルルーから確実に逃れるため。そして、ペナンガルの鉄槌から身を守るためだ。後方設備区画の建物は比較的脆弱な造りで、逃げ込んだはいいものの屋根ごと踏み潰されてしまいかねない。

 さっきまでペナンガルが暴れていた棟だけあり、薄く降り積もったナノ建材で足跡ができてしまう。ルルーはともかく、外科医に見つかるとかなりまずい。これ以上足跡を残さないよう身体能力を活かすことも考えたが、カノエは思い留まって階段を登り続ける。己の残した足跡にも気付かないヤツと、敢えて侮らせるのも一つだと思い直したのだ。

 四階に達したところで廊下に出て、派手に崩壊した壁の隙間から住戸の中に入る。

 まず目に飛び込んできたのは、ほとんどが崩れ落ちた西側の壁だ。かろうじて残っている柱も無数のひびが入り、床は内側へ吹き飛んだ建材の塊で足の踏み場もない。

 ひとまずキッチンカウンターの陰に隠れて白く煤けたレイモンドの頭を払うと、カノエの手のひらへ押し付けるように彼の頭がぐりんと回った。

《うん、その判断で構わないと思うよ。バアサンとアームド・サージョンの共倒れを狙う必要性はないし、きみが優先すべきはこの街からの安全な離脱だ》

《ありがとう》

《これだけ大掛かりな舞台を設定してまで、ぼくたちへのアプローチを試みたんだ。あのマーシーとかいうヤツは再び接触を図ってくる。問い質したいことがあるのなら、その時まで待とう》

《わかった》

《差し当たってぼくたちがやるべきことは、偽の居場所の構築だ。逃げるにしても、まずはアームド・サージョンの現在位置が判明しないことにはね》

 彼の追認を得たことで、気分的にはかなり楽になった。カノエはフィードバック痛で震える指先をポーチに突っ込み、フライビッツを封じたシールを取り出す。残っていた三枚全てだ。

 通常、フライビッツはシールを貼った対象の周囲を飛び回るように設定されているが、コマンドの書き換えは比較的容易だ。〈首輪〉が一瞬で済ませたのでシールを剥がし次第、豆粒サイズの極小ドローンが集合住宅内に散らばって行き、即席の警戒網を形成する。

 そもそもが調査用なので、本体サイズの割にフライビッツの動体検知能力は広い。普通の人間ならば、静止状態で約五十メートルというところだ。

 しかし、今回ばかりはそうもいかないだろう。静粛性は言うに及ばず、ステルス性や機動性では図抜けた相手なのだ。十メートルまで近づかれても察知できるかどうかわからない。

 武装外科医アームド・サージョンはその名の通り、武装した外科医だ。

 そもそもは、企業の重役たちにはべる医師たちが雇用先の確保と忠誠心の誇示のため、自発的に身体改造を行ってボディーガードを兼ねたのが始まりとされている。技術系の新興企業が星の数ほど存在していた時代、物理的な企業乗っ取りはそう珍しいことではなかったのだ。

 それから時代が下るにつれて――三巨頭による企業争奪戦が本格化するにつれて、全面対決を引き起こしかねない荒事は忌避されるようになり、代わりに求められたのは暗殺業務。それも、病死や事故死を装ったものが強く望まれた。不慮の死であれば、表向き穏便に事を済ませることも可能だからだ。

 そして三巨頭の上層部たちが目をつけたのが、影のごとく傍らに控えている武装外科医だった。外科医としての知識と機械化された身体を用いれば、自分たちが希望する死因の通りに殺せるのではないか――

 こうして武装外科医には、企業のお抱え暗殺者という新たな属性が付け加えられることになった。

 今回投入されたのもその中の一人なのだろうが、〈火星人〉の話を鵜呑みにするならば、最初から暗殺者として改造された個体の可能性がある。医師という貴重な労働資源を性犯罪ごときで死蔵させておくのは採算に合わないという、そんな企業論理が成り立つからだ。

 いずれにしても、カノエが正面から戦って勝てるような存在ではない。

 こちらの武装はハンドガンとマチェットだけ。ペナンガルには老女性の肉体というわかりやすい弱点があるが、武装外科医は例外なく全身を機械化している。もちろん、機械化老人フィーターズたちに充てがわれた粗悪品とは次元が違う。個人の嗜好に合わせたワンオフが基本だ。

 スキンスーツのアシストをフル活用すれば、外科医の動き自体にはついていけるだろう。だが、持久戦にもつれ込んだところで事態は決して好転しない。酷使した〈首輪〉の過熱で自滅するのがオチだからだ。

 カノエは〈右目〉内のマップに気を配りながら、崩れた壁の向こう側――西隣の棟をぼんやり眺めた。ペナンガルが暴れたせいで上部に取り付けられていた偏光パネルが宙吊りになり、やや赤みを帯びた陽光をこちらに投げ掛けている。夕暮れが、すぐそこにまで来ているようだ。

「…………」

 レイモンドを胸元へ抱き寄せたカノエは、物憂げにため息をついて外界から目を逸らす。

 夕焼けは、家に帰る合図サインだった。彼と出会ったばかりのあの頃は、ベンサレムの表側が遊び場だった。日々入れ替わる一般客に紛れ、夜ごと入れ替わるハリボテの街で毎日を過ごした。

 もう戻れないあの頃。戻ってはいけないあの場所。〈楽園ベンサレム〉に留まっていればと、何度考えただろうか。

 けれど、もう遅い。彼の寿命を伸ばそうという試みは、自分の歩みは、もう止められない。たとえ、彼を何度死なせることになっても。歩み続けたその果てで、彼は無限に生まれ変わることができるから。

 ――でも。

 それは、彼が望んだことなのだろうか。身体を換えて永遠に生き続けることが、本当に幸せなのだろうか。

 労働力として社会から求められることもなく、老人たちのように延命処置を施されることもなく、〈大姉〉の望みが叶えられれば直ちに処分される〈妹たち〉。

 だから、勘違いをしてしまったのかもしれない。何が何でも生き続けることがとても素晴らしいことだと、思い込んでしまったのかもしれない。初めて〈首輪〉を付けた、あの時の自分は。

 あの瞬間に訪れた感情は、今でも強く心に焼き付いている。あれは、自分が初めて感じた『自信』だった。漫然と抱いていた未来への不安が〈首輪〉に蓄えられていた知識によって払拭された刹那、心は揺るぎのない万能感に支配された。

 ――彼を待ち受けている運命を哀れに感じたのなら、助けてあげればいい。そして、それができるだけの能力が自分たちにはある。

 ――ヒラサワ計画は未完成の技術。そして〈楽園ベンサレム〉の外には、企業遺跡とでも呼ぶべき廃墟が多く存在している。

 ――まだ時間はある。でも、急がなければならない。新たな〈妹たち〉がリリースされる前に。用済みと見なされる前に。

 ――急がなければ。急がなければ。部位パーツごとに切り刻まれ、〈大姉〉の身体を彩る前に。

 ――何も成さないまま、消えたくない。

 頭の中を駆け巡ったいくつもの声が、その後の運命を変えた。

 願いは〈大姉〉に聞き届けられ、生まれ育った〈牢獄ベンサレム〉を後にした。彼は既に三回死に、本来生きられるはずだった十三年五ヶ月もの時間を無駄にした。

 この〈首輪〉は、自分をどこへ連れて行こうとしているのだろう。

 不意に腕の中から温もりが抜け落ち、カノエは我に返った。

 顔を上げると、レイモンドが自分の首輪を後ろ足で掻いているところだった。

「レイ?」

 呼び掛けを無視して執拗に首を掻き続けるレイモンドだったが、ピタリと止めて立ち上がったと思うと、尻尾を垂直に持ち上げながらカノエの周囲をぐるりと回る。ちょうど一周したところでカノエの膝に乗り、無音で鳴き真似をした。

〈首輪〉の知識をもってしても、ネコのボディランゲージを正確に捉えるのは難しい。しかし今の場合は、スキンスーツの作動ログにヒントがあった。

「……ごめんね。きつく抱きしめちゃって」

 そう謝って顎の下を撫でると、レイモンドは頭の重みを乗せるように身体を預け、ぐるぐると喉を鳴らす。どれぐらい言葉を理解しているかはわからないが、ひとまず許してもらえたようだ。

 しかし、カノエの気が晴れたのもほんの一瞬だけだった。

 まだ、何の結果も得られていない。ヒラサワ計画に繋がる物証と遭遇したのは今日が初めて。このままでは、インプラントの複製など夢のまた夢だ。

 しかもそのキーパーソンたる〈火星人〉は――向こうの言い分を信じるならば――こちらからのアプローチが難しい。再び接触を図ってくるのは間違いないだろうが、慎重に慎重を重ねる相手のこと。その時には、レイモンドの毛皮の色が変わっているかもしれない。

 ――だったら、今のうちに少しでも手掛かりを掴んでおくべきなのでは?

 ――あの〈首枷〉の一部でも手に入れれば、そこから何かわかるのでは?

 湧き上がる内なる声が、カノエの脳裏に響き渡る。

 現在時刻は一六二九。社宅群の使用期限切れまであと一時間ほど。まだ焦るような時間ではないし、今日の日没は一九〇二とかなり先だ。駐在地への帰路も問題はないだろう。

 そう、これは〈首輪〉の声だ。あの時もそうだった。〈首輪〉はいつも、必要以上に自分の心を駆り立ててくる。

 これ自体、いいも悪いもない。この声がなければ〈牢獄ベンサレム〉の外は歩けないのだから。

 でも、気を付けなければならない。慎重で冷静な彼のアドバイスがあって初めて、バランスが取れているようなものだ。

 理性に偏れば時間が損なわれ、熱情に拠れば命が失われる。

 カノエは苦しまない程度までレイモンドを強く抱き締め、〈右目〉上のマップに変化が現れるのを待った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る