15:40




 カノエのクールダウンが完了するまでに、八分もの時間を要した。

 加速タブレットによる思考速度の増強は〈首輪〉に繋がれているカノエにとって極めて効果的だが、その副作用はもちろん大きい。心肺能力への負荷。〈会話〉とは別種の頭痛。何より、時間の流れが元に戻るまでが長い。薬剤が脳に作用し始めるまでが三十秒、持続時間が約二分なのに対し、離脱が終わるまでに最長で十分ほど掛かるのだ。

 手持ちの加速タブレットは残り二錠。できることならもう使いたくない。

「ごめん。待たせちゃったね、レイ」

 その間レイモンドは、シールを貼り直したフライビッツのおかげで大人しくしていた――正確には、勝手に出歩かないよう彼がフライビッツを操っていた。というのも、ルルーが近くにまで来ているのだ。

 警備警戒システムが掴んだ情報はレイモンドの〈胴輪〉を経由して〈首輪〉に送られ、カノエにも扱いやすい形で〈右目〉に表れている。それによると、ルルーの現在位置はショッピングモール付近。直線距離にして約八十メートル。移動ログを見る限りでは確実に北上を続けていて、こちらに気づいた様子はないものの、それも時間の問題だろう。

 偵察ドローンヘキサドの群れもルルーの動向を捉え続けているはずだが、反応らしい反応は何も見られない。こちらの感知できていない変化がどこかに現れているのか、それともヘキサドの大量展開自体がブラフなのか。後者であれば助かるが、さすがにそれは希望的観測に過ぎる。

 現在時刻は一五四二。カノエはレイモンドを伴い、背中をかがめた体勢で集合住宅の廊下を北に進む。

 いかにスキンスーツのアシスト能力が優れているとはいえ、荷物を背負ったまま中腰で歩くのはなかなか骨が折れる作業だ。とはいえ、立ち上がり壁の陰に隠れなければヘキサドの視界に入ってしまい、足音を忍ばせなければヘキサドの聴覚に引っ掛かってしまう。

 カノエが苦労を強いられている一方で、レイモンドは普段と変わりなく、すたすたと隣を歩いている。

《集合住宅の間を跳び越えるのは簡単だね。距離は五メートル。ドローンの視界に入るのは一秒にも満たないし、ぼくもきみも負担は極小だ》

《うん》

《該当のヘキサドは自動的に掴んでいるから、きみの好きなタイミングで渡って構わないよ》

 四十メートルの廊下と五メートルの狭間を越えるのに約八十秒。時速に置き換えると二キロ弱。約七分を掛けてR01棟からR05棟を縦走すると、次なる関門は一般社員居住エリアを田の字に区切っている大通りだ。さらに北へ向かうにはこの二十メートルを渡らねばならないが、先の四十メートルに比べれば大した障害ではなかった。それでも、五分近くを無駄に費やしてしまったが。

 南東部を後にし、残る集合住宅は北東部の五棟。それを抜ければ、電動四輪エリーを停めた壁外のポイントまでは約三百メートル。加速タブを一錠使えば一気に逃げられる距離だ。

 ――何とか、なりそうかも。

 一応とはいえ見通しが立つと、カノエの思考はさらなる可能性を求め始める。この場合はつまり、より多くの成果を持ち帰る方向に、だ。

 ルルーの居場所が筒抜けになっている一方で、あの老女性の行方はまったく掴めていない。警備警戒システムは街の外側にも及んでいるが、守備範囲は塀から二十五メートル程度。その外側は別系統だ。どちらにしてもエマージェンシーハウスの周辺は圏外なので、老女性はそこに留まり続けているのだろう。

 現在時刻は一五五六。使用期限切れまでは二時間弱だが、安全性を考えれば残りは一時間半というところ。塀の外に出て、エマージェンシーハウスへ向かうだけの時間はあるはずだ。

 老女性の言葉を全面的に信じるならば、旧ハスミ生化学の事業内容とヒラサワ計画との間にはそれなりの関係性がある。今まで旅をしてきた中で、ここまでヒラサワ計画に近づいたのは始めてだ。だからこそ、千載一遇のチャンスを手放したくない。無駄に死なせてしまったレイモンドたちに報いるためにも。

 どうにかして手土産を得られないだろうか――そう考えながら進む三メートル前を、レイモンドが何度も振り返りながら歩いている。

 彼にたしなめられそうな気がして目を合わせないようにしているが、無音で鳴き真似をしているあたり、レイモンドとしてもやや不服なようだ。カノエの隣に駆け戻ってきて、しきりにアイコンタクトを求めている。

「……ごめんね。もう少し後にしてね」

 そう囁いて頭を撫でるカノエの手に、頭を擦り付けながらまとわりつくレイモンド。その動きが唐突にぴたりと止まったので、驚いたカノエは思わず立ち上がりそうになる。

「ど――」

 どうしたの、と問い掛けようとしたが、背中を山なりにし、毛の逆立った尻尾を垂れ下がらせた姿に言葉を飲み込んだ。

 これ以上なく、警戒心を露わにしている。視線は前に。耳は真横に。先に動いたほうが負けだとでもいう風に、瞬きすらもしない。

 レイモンドは何を感じ取ったのだろうといぶかるカノエだったが、直後に〈右目〉が通知ノーティスを受信した――警備警戒システムが部分的にダウン。発生源は下水処理プラント。

「な、何が――」

 状況が把握できないでいる間にもブロック状に次々とダウン。ほんの十秒足らずの間に、社宅群の全域に渡って警備警戒システムがブラックアウトした。

「どうしたの、レイ。何かわかった?」

 呼び掛けても身体を揺すっても、警戒態勢のまま固まっているレイモンド。不安を覚えたカノエは、膝でにじり寄って彼の目線に割り込む。

《どうにもこれは、ちょっとまずいね。警備警戒システム用に分散配置されている小規模電源が、ひとつ残らず破壊されてしまったようだ。残念だけど、頼れる目鼻の復旧は無理だと思って欲しい》

《どういうこと》

《電源の破壊は同心円状に進んでいて、ケーブルを介した物理的浸透攻撃を仕掛けた可能性が高い。最初から仕掛けておいた可能性もあるけれど、いずれにしても、震源地である下水処理プラントに何かがあるのは間違いないと思う。今わかるのはそれだけだ》

《じゃあ》

《警備警戒システムは屋内にも及んでいるけれど、察知できたのはあのハチワレだけだ。マクロやトラップをあらかじめ仕込んでおいたのならまだしも、監視装置に引っ掛からない連中が待ち受けている可能性もある》

《どうしよう》

《とにかく、あのバアサンがやったのではないことだけは確かだ。十中八九、ヘキサドを飛ばした連中の仕業だろうけれど、詳しいことはぼくが近づいて調べるしかない。どちらにしても、先へ進むだけの話だ》

 慌てて〈会話〉に臨んだので、鎮痛タブの効果がすっかり薄らいでいた。カノエは四つん這いのまま頭を抱えて悶絶するが、その間はもちろん、頭痛から解放されてからもなおレイモンドは微動だにしない。鎮痛タブで痛みを散らしたカノエは、レイモンドの身体を抱えて前進を再開した。

 その傍らでカノエは、彼の承認が不要な範囲で〈右目〉の感度を上昇させていく。空気中の粒子状物質の濃度に応じて空間がカラーリングされ、床面の素材の解析が済み次第に差し込む太陽光のカロリー計算が始まり、外で揺れているイネ科の雑草の葉脈がカウントされ、〈右目〉に飛び込んでくるあらゆる要素が数値化されていく。レイモンドから発せられる熱量、毛色ごとの本数、ノミの跳躍距離、それから――

 真っ先に捉えた異変は、微細な振動だった。大気が、この建物が、鼓動めいて微かに揺れている。間隔こそ不規則だが、確実に強さを増している。

 小脇に抱えたレイモンドが不安げに見上げるので、カノエもそれに応じた。

《振動のパターンからすると、これは間違いなく二足歩行のものだ。サイズまではまだわからないけれど》

《なにもの》

《可能性として最も高いのは作業用の歩行型建機だ。この社宅群が建設された時期的に、補助として用いられたものかもしれない。ただ、警備警戒システムでは一度もその姿を確認できていないんだ》

《べつもの》

《そう考えたほうが普通だね。第一、この振動は北から届いている。震源は不明だけれど、警備警戒システムへの攻撃とシンクロしているかもしれない》

《どうしよう》

《別系統で生きている水道メーターを捕まえたから、それを即席のレーダーにしよう。水道管内の水の変位で相手の動きを捉えることができるけど、外見などは判別できないから一度は目視しておきたいね》

〈会話〉が終わるのと同時に、新しい要素が〈右目〉のマップ上に現れる。埋設されている水道管の位置と、管の状態を捉えたリアルタイムデータだ。

 台風の目となって現れ出ている震源地は、下水処理プラントのさらに西にある廃棄物処理施設の付近。両者は隣接していて、強い関係性が伺える。

 振幅から推測できる速度は時速〇・九キロから四・七キロの間と安定していない。その動き方はまるで、ひとつの部屋の中で探しものをしているかのようだ。

 この状態が続くようであれば、カノエたちにとって大きなプラスとなる。廃棄物処理施設は逃走予定ルートから百メートル近く離れている上に、その間には倉庫などが立ち並ぶ。視線はもちろん通らない。

 しばらく水道管レーダーを注視していたカノエだが、〈震源〉がひたすら徘徊を続ける様子を見て前進を再開する。この状態を保ってくれれば、少なくとも脱出の障害になることはない。追加の手土産を得るのは難しくなったが、電動四輪エリーという足を得ればまた状況は変わる。とにかく今は、塀の外を目指すのみだ。

 現在位置はR08棟で、〈震源〉との距離は三百メートル超。集合住宅の廊下を北上するにつれて、〈首輪〉による解析が進む。振幅から推定できる重量は二十五トンから四十トンの間。汎用歩行型建機コロッサスなら体高五メートル級に相当する。オプション装備の有無まではまだ判別できないが、正面切って戦える相手でないのは確かだ。

 それまでと同じ要領で集合住宅を渡り進み、ついに最後となるR10棟へ。廊下の先のさらにその先にはフェンスがあり、建物とは異なる周期で振動している。〈震源〉との距離は約二百二十メートル。近場を徘徊する動きに未だ変化はない。

《ここまで来れば一気呵成だ。エリーまでの残り二百六十メートルをさっさと駆け抜けよう》

《わかった》

《この廊下を出た先にはヘキサドが待ち受けている。ヤツらの目や耳から隠れる場所はないし、ぼくが干渉しても効率は低い。つまりは強行突破しかないということだ。時間はまだあるし、準備は念入りにするべきだね》

〈会話〉が終わると〈首輪〉が熱くなり、それまでに得ていた情報を元に逃走ルートの検討を始める。とはいっても、基本的には最短距離での移動だ。後方施設エリアにも身を隠せる建物はあるが、出入口へたどり着くまでにどうしても複数以上のヘキサドに目撃されてしまう。下手に屋内へ逃げ込んで雪隠詰めにされるよりは、自由度の高い屋外を進んだほうがいい、という〈首輪〉の判断だ。それに一瞬でも〈右目〉で捉えられさえすれば、大抵の物理攻撃はスキンスーツが対処してくれる。

 ルートが決まれば、あとは身体の問題だ。距離といいヘキサドへの対処といい、大通りを渡ったときのようにはいかない。クールダウン中が無防備になるが、電動四輪エリーにはAIが搭載されている。細かな指示がなくても勝手に逃げてくれるはずだ。

 そろそろ動き出そうと準備運動を始めたそのとき、水道管レーダーに目立った反応が現れた。〈震源〉が廃棄物処理施設を出て、南東方面へ移動を始めたのだ。それも、突進と呼ぶにふさわしい勢いで。時速に換算して三十キロを越えている。

 直後、正面に遠く見えているフェンスが手前に傾いたと思うと、重量物同士がぶつかる地響きが何度も聞こえ、それが四秒ほど途絶えた後にひときわ大きな地響きが上空方向から聞こえた――集合住宅の壁をよじ登り、屋上へ跳び乗ったのだ。

 一般社員向けエリアに侵入した〈震源〉は、現在地の北西部から南東に向かって屋上を渡り走って行く。D10棟からJ06棟へ。進路はほぼ一直線で、カノエたちとの最接近時の距離は約百五十メートル。轟音にけたたましい金属音が混ざっているのは、集合住宅の上部に取り付けられた偏光パネルが落ちたせいなのだろう。

 大通りに達した〈震源〉は地表に飛び降り、アーチ状の空中配管をなぎ倒しながら走り進む。水道管レーダーを次々にロストさせながら交差点を横切ると再び屋上へ。L05棟から、さらに南東方向へ直進を続ける。

 震源の向かう先に何があるのか、精度の下がった水道管レーダーでは何も捉えられない。だが、今が絶好の好機だということはわかる。〈震源〉はカノエたちから遠ざかる一方で、その距離は推定で三百メートル以上。仮に今すぐこちらへ向かってきたとしても、時速三十キロなら三十六秒は掛かる計算だ。〈震源〉の正体は不明のままだが、今なら間違いなく振り切れる。

 ――今なら。

 と動きかけた矢先、〈震源〉が急停止した。場所は南東部の中央付近、N07からP08棟あたり。距離は約三百五十メートル。直後に地響きがして水道管レーダーに穴が空いたので、どうやら地上に降りたらしい。さらに精度が落ちて詳細は掴めないが、出現当初のように狭い範囲を徘徊する動きを取っている。

 現地の状況が掴めない。この先の見通しが立たない。カノエは脱出を忘れて〈右目〉の中の情報に見入る。

 一見してただ適当に暴れ回っているように思えたが、その動きには明確な緩急があった。間隔こそ不規則だが、急移動と急停止の繰り返し。逃げ回っている何かを追っているかのようだ。

 そして〈震源〉の動きに、ある変化が現れ始めた。じりじりと北上しているのだ。空中配管を、集合住宅の躯体を壊しながら確実に、カノエたちの方へ近づいてきている。

「ど、どうする……?」

 水道管レーダーの虫食いは、東西方向の大通りを越えてN06棟へ。カノエの中で急速に不安と猜疑心が頭をもたげてくる。

 ややタイミングを逃した感はあるが、今すぐに後方施設エリアに向かうか。〈震源〉が真っ直ぐ移動しているのをいいことに、もう少し様子を見るか。

 カノエの気持ちはやや後者に傾いていた。N列を北上している〈震源〉に対し、カノエの現在位置はR10棟。間に三列を挟んでいるので、すぐに危害を加えられる恐れは少ないはずだ。

 現在時刻は一六〇一。まだ一時間半もある。焦る時間帯ではない。

 しかしその一方で、彼とレイモンドの意志は明確だった。フライビッツに追い立てられ、カノエの脇の下から抜け出たレイモンドは、少し歩いてから振り返り、一声鳴いた。

《これだけの距離差があれば、きみの脚力で十分振り切れる。万が一にも追いつかれることはないよ》

《でも》

《きみの懸念はもっともだ。けれど、近くに居座られる可能性だってある。余裕のある今のうちに脚力勝負に出るべきだ》

 鈍い頭痛と反発心とがカノエの動きを止めているうちに、レイモンドがもう一声鳴いてから急に駆け出した。ぶんぶんと唸るフライビッツを振り切って。

「ま、待っ――」

 カノエは慌てて追い掛けるが、本気になったネコの走りは人間の脚力を遥かに上回る。たちまち引き離され、スキンスーツのアシストを得てどうにか追いついた時には廊下の終端が間近に迫っていた。

 ――もう、このままやるしか……!

 ようやく決心したカノエは走りながらレイモンドの身体を片手で浚い上げ、さらに加速。廊下を飛び出してフェンスに向かって跳んだ。

「くっ!」

 助走が十分だったおかげで、三メートルあるフェンスの最上部に腹部が乗り掛かった。ごめん、と一言謝ってからレイモンドをフェンスの向こうに放り投げ、改めて乗り越えようとする。が、何気なく左右を確かめたその時、〈右目〉が捉えたあるものにカノエは思わず動きを止めた。

 血痕がある。場所はここから百九十メートルほど西――廃棄物処理施設の前だ。

 朝来たときには無かった。〈右目〉の見たものは逐一〈首輪〉が保存している。呼び出されたスクリーンショットに血痕は見当たらない。

 ならばこれはどういうことなのだろう。〈震源〉が血を流させた? それとも〈震源〉そのものが血を流している? 距離が遠すぎて、ヒトの血なのかそれ以外の血なのか判別できない。

 唯一定かなのは、今は悠長に考察している場合ではなかったということだ。

 我に返ったそのときには、視界の右半分が警告メッセージで縁取られていた。何が起ころうとしているのか把握している暇もない。

 直後、フェンスが大きく揺れた。衝撃が左側から伝わってくる――〈震源〉が猛スピードでフェンスに突進したのだと理解した途端、身体が後ろ向きに吹き飛んだ。衝突の反動だけではない。四肢が、スキンスーツが勝手に動いている。彼の外部アクセスの仕業だ。安全に逃げられるよう、後ろへ跳躍させている――

「レイっ!」

 山なりの軌道を描いて飛ぶカノエの身体は、集合住宅の窓を突き破って二階の廊下へ。受け身を取れずに背中から落ちたが、軌道の緩さと背負っていたバックパックのおかげでほとんど衝撃はない。

 カノエはネックスプリングで跳ね起きると、ハンドガンを引き抜きながら窓際へ駆け寄る。滞空時間が長かったせいか、かなり遠くまで飛ばされてしまった。窓際まで十三メートルもある。

「今、助けてあげるから……!」

 カノエは半ば恐慌をきたしていた。納得の上で別れたのならまだしも、突発的な別れは絶対に受け入れられない。今すぐに、取り戻さないと。

 しかし、そんなカノエを諌めるように〈右目〉上へ次々に情報が展開される。レイモンドの正確な現在位置と〈震源〉のおおまかな現在位置。お互いの距離は約十五メートル。ひとまず安全だ。

〈震源〉はレイモンドが姿を消したあたりを徘徊し、破壊行動に及んでいるようだ。軽金属系の外装がひしゃげる音。石材系の塊が崩れ落ちる音。そして、人の呻きのような音。

「お、おおおぉぉぉ……こおおおぉぉぉ……」

 破壊音の合間に、聞き覚えのある声が響き渡る。苦痛や悲嘆、その他さまざまな負の感情が込められている喘ぎ声。声紋の一致率、九十八パーセントであの老女性だ。

 彼女がなぜ、こんなところにいるのかわからない。わかるのは、今すぐレイモンドを救い出さねばならないということ。

 カノエは走りながらハンドガンを構え、壊れた窓に目掛けて真横にダイブした。

「ふ……ッ!」

 ここは二階。下には壊れたフェンス。怯えてなどいられない。彼を救うためなら、少しぐらい傷ついたって構わない。

 横っ飛びしながら顔を〈震源〉の方へ向け、その姿を〈右目〉で捉える。正確な位置を把握した〈首輪〉が、スキンスーツをコントロールして狙いを補正して――

 しかし、カノエがようやく目にした〈震源〉はあまりに異様過ぎた。

 約六メートルの体高を持つ、ミキシングビルドの汎用歩行型建機コロッサス。エビのように節が八つに分かれた胴体。装甲に覆われた胸部と両腕はゴリラを思わせ、折り畳まれている脚部はウサギに似ている。

 かろうじて二足歩行の形態を取っているあたり、もはや合成獣キメラの領域だ。

 だが、それ以上に〈震源〉を合成獣たらしめていたのは、頭部だった。

 胸部に設けられたソケット状の部分に、田中輝冠てぃあらと名乗っていたあの老女性の上半身が突き刺さっているのだ。両腕を付け根から切り落とされた、文字通りの棒人間となって。

 かろうじてそれだけのことを理解し終えたときには、滞空時間が終わろうとしていた。

 カノエはハンドガンを構えたまま地面に転がって受け身を取り、片膝をついた姿勢で改めて銃口を向ける。

 集合住宅の二階からは九メートル飛び、〈震源〉との距離は十四メートル。照準を付けた頭は、地上から五・九メートルの高さ。カノエの存在に気付いていないのか、下半身の汎用歩行型建機コロッサスは破壊活動に夢中で、老女性の上半身は嘆きとも呻きともつかない声を発し続けている。

「お、おおおぉぉぉ……こ、おぉ……ど、こおぉぉぉ……」

 照星の先に老女性の横顔があるが、新たに被せられているゴーグルマスクが鼻から上を覆い隠し、表情はわからない。例の首枷は健在で、腕の切断面はケアフィルムによって止血処理されている。体温は三六・九℃から三七・七℃。最も高いのは生身と機械の接合部で、潤滑油の代わりのように血が滲んでいる。バイタル総合評価:重篤。推定余命:約二時間――

〈右目〉を流れたステータスを見て、カノエは即座に引き金を引いた。最速のタイミングで三度。発射の都度にスキンスーツが構えを微調整し、三発の銃弾は間違いなく命中した――はずだったが、簡単に防がれてしまった。胴体が風車のように回転し、振り回された両腕がすべて弾き飛ばした。

「くっ!」

 カノエは怯むことなく、今度は首枷に狙いをつける。あれは恐らく〈首輪〉のオルタナティブ。〈右目〉によれば、カノエが引き金を引いたのとほぼ同時に防御に動き出している。具体的な手段はわからないが、こちらの動きを観測し続けた上で即座に対応したのだろう。

 直後、それまであらぬ方角を見ていた老女性の頭が突然カノエに向き直る。〈震源〉は身体を前傾させて両の拳を地面に付けると、胴体を蛇腹状に伸ばし、拳を交互に動かして這いずり始めた。地響きと共に迫りくる巨体に気圧され、カノエはじりじりと後退する。

「お、おおおぉぉぉ……」

 ぽっかりと開いた老女性の口からは絶えず呻き声が漏れ、無機質なゴーグルマスクと相まって人間らしさは感じられない。田中輝冠てぃあらを名乗っていたあの人格は、既に失われてしまったのだろうか。

 そう思った矢先に〈震源〉が歩みを止め、首を傾げた老女性が唇の端を吊り上げたと思うと、

「い、いぃ……たっ!」

 唸り声を金切り声に変えて、〈震源〉が猛然と突っ込んでくる。「そこ、っこにいぃぃぃ……っ!」

 カノエは顔に向けて応射しながら突進を避けるが、銃弾は一発も当たらない。ことごとくが巨腕で防がれてしまう。

 突進を躱された巨体は、驚くべき身軽さを発揮して跳び上がると、空中で向きを入れ替えてカノエに正対した。

 その間合い、約十五メートル。真正面から捉えた首枷のインジケーターが青く光り、まばたきをするように点滅する。

 その瞬間〈右目〉の視界に小さくノイズが走ったと思うと、目の前にメッセージウィンドウが飛び出た。

『勇敢なのは大いに結構だが、きみのそれは』

『もはや蛮勇の粋に達しつつある。この場は』

『ひとまず引くべきだと、助言させていただくよ』

 四隅を丸められた長方形のメッセージウインドウが三つ、立て続けに現れてカノエの視界を遮る。

「な、なにこれ!?」

 払い除けようと手を振り回すカノエだが、メッセージウィンドウはするりするりと掻い潜り、視界の右側に留まり続ける。

『いやいや、それは得策でないよ。私やこれの』

『正体も含めて説明するから、まずは安全を』

『確保することだ。このままペナンガルに叩き』

『潰されては苦労した甲斐がないというものだ』

 それまでの三つと入れ替わりで、新しい四つが順番にポップする。視界はさらに遮られ、今は生身の左目が頼りだ。

「……引けば、説明してくれるの?」

『ああ、もちろんだとも』

 得体の知れない相手だが、このまま〈震源〉を相手もしても銃弾を無駄にするだけだ。

 カノエが踵を返して走り出すと、〈震源〉が悲しげに吠えながら後を追ってくる。

「まあ゛あぁぁぁってえぇぇぇ!」

 何が何だか訳がわからない。エマージェンシーハウスにいたはずの老女性がどうしてこんな場所に、すっかり変わり果てた姿で現れたのか。いや、今考えるべきは安全な逃げ場所だ。巨体ゆえの直線的な動きを逆手に取るしかない。

 そこでカノエが逃げ込んだのは、集合住宅の廊下だった。造りの簡素な建物では壊されてしまうが、集合住宅には屋上へ上がられても壊れない堅牢さがある。

 時速四十キロでP10棟の廊下へ駆け込んだ二秒後、時速五十キロまで加速した〈震源〉が集合住宅に激突した。轟音と共に建物全体がぐらりと揺れ、天井から剥離した建材で視界が白く曇る。

「まっで、まっでまっでま゛っで、まあああ゛っでぇぇぇっ!」

 巨腕が前に出ていたおかげか、老女性の本体は無事なようだ。狭い戸口に無理やり片腕が差し込まれ、もう片方は外壁を壊そうとしているのだろう。短い揺れが立て続けに壁や天井を揺らし、メッセージウィンドウが浮かび出る。

『悠長に振り返り見ている場合ではないよ』

『事故を防ぐためにも、まずはこの建物の端だ』

『ただし、ヘキサドに見つかってはいけない』

『あれこそがペナンガルの目だからね』

「…………」

 カノエは不満も露わに鼻を鳴らしながら、廊下の立ち上がり壁に沿って中腰で歩き始める。背後からの破壊音は絶えることなく続いていて、突然の破裂音に振り返ると、板状の建材が床の上で粉々に砕けていた。

『やあやあ、危なかった危なかった』

『きみのその素晴らしい装備品をもってしても』

『ヘルメットの代わりにはならないだろうしね』

 カノエはメッセージウィンドウを黙殺し、ひとまず状況の把握に努める。

 真っ先に行ったのはハンドガンのリロードだった。スライドが後退したまま戻らず、〈右目〉の残弾カウンターを見るまでもない。弾倉を交換してスライドロックを解除すると、残弾カウンターが更新される。装填数は十二、残り弾倉は一。あの〈震源〉を相手とするには、かなり心もとない。

『ふむふむ、そんな豆鉄砲でペナンガルが』

『傷つくとでも? 悪いことは言わないから』

『さっさと捨ててしまうことだね。さもないと』

『咄嗟の判断を間違えてしまいかねない』

『きみには生き延びてもらいたいからね』

 それが終わると、レイモンドの正確な居場所を確かめる。落ち着いてマップを見る暇がなかった上に、メッセージウィンドウが邪魔だったのだ。

 彼は一般社員向けエリアに戻っていて、東に二つ、南に三つ離れた集合住宅――R07棟の中。移動履歴とカノエの時系列とを合わせると、カノエが〈震源〉と向かい合っていた時にすんなりと南へ逃げている。

 どうやらあの〈震源〉は、一度に認識できるターゲットが一つだけに限られているようだ。一度狙いを定めると執拗に追い回す反面、見失っている最中に新しい動体を見つけると即座にターゲットを切り替えるらしい。

 廊下の端までたどり着いたカノエは、〈震源〉を視界に収める位置で壁際に座り込む。

『私としては垂直方向への避難をおすすめする』

『がね。まあ、どうやらきみは相棒くんと合流』

『したいようだから、そこに留まるのも仕方が』

『ないか』

 メッセージウィンドウが指摘した通り、カノエは彼との合流を目論んでいる。しかしそれには〈震源〉をいかに引き離すかが問題だ。何の策もなく外へ出れば、たちまちのうちに嗅ぎ付かれて追い回されてしまう。

 対策はいくつかあるが、最も有力なのはヘキサドを使用不能に陥らせること――メッセージウィンドウの言葉を信じるなら、あれこそが〈震源〉の目だという。

『ほほう、仕舞ったはずのハンドガンを手に?』

『なるほど、私の何気ない一言を覚えていて』

『くれたようで嬉しい限りだ。さすがは私が』

『見込んだ通り。多大なリスクを冒してきみと』

『のチャンネルを開いた甲斐があったよ』

「うるさい!」

 さしものカノエも、視界を狭める一方のメッセージウィンドウに我慢ができなくなった。少しでもヘキサドに近づこうと階段を登っていたが、二階三階間の踊り場に仕方なく腰を下ろす。

「あなたは一体何なの? ウイルス?」

 カノエの問い掛けに〈首輪〉が即座に反応するが、ハードウェアスキャンの結果はグリーン。メッセージの主は、自分の外側に存在するということだ。

『いやいやまさかまさか。このような迂遠な』

『手段を用いるしかないが、実体は存在して』

『いる。若干改造されてはいるが、ただの人間』

『だよ。きみとは違ってね』

「……名前は?」

 最後に出たウィンドウから目を逸らしながら、カノエは問いを重ねた。「それから、何者なのかも答えて」

『いいともいいとも。お安い御用だ。何しろ』

『私は、きみと話がしたくてたまらなかった』

『秘匿性を確保するために制限事項ばかりだが』

『私ときみは今この瞬間リアルタイムで言葉を』

『交わしているからね。どうしても口数が多く』

『なってしまうが、そこは勘弁して欲しい』

『きっと、きみの助けになるはずだから』

「…………」

 右の視界を埋め尽くすウィンドウに、カノエはひとまず沈黙を返した。

 一つのメッセージウィンドウにつき最大で二十文字。制限があるのは本当のようだが、ひとつの真実だけで全てを信じるわけにはいかない。

『おおっと、すまないすまない。何しろ私は』

『自力での排泄すらままならない身体だ』

『食事はペースト。全裸で車椅子。常に監視』

『され、私の言葉はは思考転写型ワードプロ』

『セッサで紡がれている。もっともきみの反応』

『については問題なく受け取れているので安心』

『して欲しい』

 カノエがなおも沈黙していると、空気を読んだのかメッセージウィンドウの更新がしばし停滞した。

『ふむ』

『マーシーだ。そう呼んで欲しい』

「マーシー?」

『そう、マーシーだ。だが、慈悲ではないよ』

『MARCYではなく、MARTY』

『火星人、といった意味で捉えてくれ』

『真面目に読むとマーティーだが、まあ』

『それはそれとして、だ』

「……どうして、火星人?」

『きみはH・G・ウェルズを知っているかね?』

「H・G・ウェルズ……」

 オウム返しにつぶやくと、頭の中にすぐイメージが湧き起こる。宇宙戦争、三本脚の戦闘機械トライポッド、タコ型宇宙人――

「……触手のように細い手足と、極度に肥大化した頭部」

『うんうん、いい反応だ。ストレージ内の知識』

『をシームレスに展開してみせるとはね。いざ』

『目の当たりにすると軽く感動すら覚えるよ』

「感想はいいからちゃんと答えて」

『これはこれは悪かった。ほぼ正解だから』

『必要ないかと思ってね。そう、おおよそは』

『きみの言った通り。手足は萎えて車椅子に』

『縛られ、頚椎を固定せねばならないほどに』

『脳が肥大化させられている。より正確には』

『人工培養脳の生体増設だがね』

「……ブレイン・エクステンド・オペレーション」

 即座に〈首輪〉がもたらした言葉を何気なく口にすると、メッセージウィンドウ――〈火星人マーシー〉が笑った。

『は』

『ははは』

『っはははははは』

『はあ』

『あぁ、これは失礼』

『嬉しさのあまり少し漏らしてしまったよ』

『まったくまったく、実に素晴らしい体験だ』

『よくぞ知っていてくれた。闇に葬られた物』

『同士だけある、ということかな。さすがは』

『ヒラサワ計画だ』

 その名を目にした途端、カノエはハンドガンを引き抜きながら壁際に寄る。

「姿を見せて!」

『怖がらせてしまったことは謝るよ。しかし』

『その反応はいささか興醒めだ。脳拡張技術が』

『どのようなものか本当に知っているのならば』

『私が人前に出られる状態ではないとわかって』

『いるはずだよ』

「じゃあ、どうやって私を視ているの!?」

 そう叫んでおいてから、カノエはようやくこの疑問を自覚した。

 ヘキサドの視界からは間違いなく逃れているのに、こちらの一挙一動はおろか声までが〈火星人マーシー〉に届いている。

 そのひとつに気がつくと、今まで無意識のうちに抑え込んできた疑問が一気に吹き出た。

「田中輝冠てぃあらさんをあんな風にしたのはなぜ? 誰が処置したの? ペナンガルって呼ぶ理由は? ヒラサワ計画をどこで知ったの? それが欲しくてわたしたちを襲うの? あなたの最終的な目的は、何?」

 次のメッセージウィンドウが開くまでに、少し間があった。

『さて、きみの疑問に答えるのはやぶさかでは』

『ないが、少しばかり長い話になる。お時間に』

『余裕はあるかね?』

 現在時刻は一六一四。あと一時間はある。カノエは無言で首を縦に振った。

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