15:13
現在時刻は一五一三。
最後に鎮痛タブを飲んでから三十分以上が経っていて、フィードバック痛を防ぐ効果はとっくに切れていた。長く尾を引く頭痛に歯を食いしばって耐え、呼吸はどんどん乱れ、体温は見る間に上昇していく。
試みに目を閉じてみるが、無駄だった。瞼の裏、左側には痛みのパルスに合わせて雷光が走り、右側に浮かんでいるのは直前の視覚情報を元に作られたワイヤーフレーム。レイモンドを拾い上げた後、四メートルの塀を飛び越えて社宅群の中へ戻るルートがその上に重なっている。
「レ、イ……っ!」
歯の隙間から押し出すように呼ぶと、膝を蹴り上がってすっぽりと胸の中に飛び込む重みがあった。左腕が勝手に動いて抱き止め、カノエの身体はさらに加速していく。時速三十キロ――四十キロ――五十キロ。背負った荷物が揺れないように、着地の衝撃を和らげるように、スキンスーツが自在に変形しているのが身体でわかる。
目を開けると、塀はすぐそこまで迫っていた。残り八メートル。いつの間に追い抜いたのかルルーの姿はない。すぐに踏み切って跳躍すると、壁面を一度だけ蹴り上がって塀の上端に片手でぶら下がる。そこから反動をつけて上端を飛び越し、そのまま内側に降り立った。
ここまで来れば自由は戻るだろうと思っていたが、どうやらまだらしい。カノエの身体は間髪を入れずに駆け出し、外周道路を渡って上級社員居住エリアへ。生け垣は無理に踏み越えず通用ゲートまで走り、ゲートの最寄りを避けたひとつ内側の住戸を選んで中に入る。すると、ようやくそこで外部コントロールが解けた。
「はぁ……はぁ……」
カノエが真っ先に行ったのは、全身を使っての深呼吸だった。息を整えながら鎮痛タブを口に含み、効果が現れるのをまんじりともせずに待つ。
聞きたいこと、確かめたいことが山ほどある。老女性の正体。豹変の理由。マフラーの謎。嵌っていた首枷とヒラサワ計画との関連性。今後の対策と方針。社宅群の使用期限切れまでの二時間半で、何ができるのか。
自分の判断は、躊躇いは、どこまでが正しかったのだろうか。
七秒が経ち、カノエはそそくさとレイモンドの顔を覗き込んだ。
《バアサンはどうやら、首枷に意識を乗っ取られているようだね。元の人格を保ったまま知識を与えているみたいだけど、あの豹変ぶりを見る限り、一種の洗脳デバイスと呼んでもよさそうだ》
《なにもの》
《いま気にするべきはバアサンの正体じゃない。バアサンに首枷を嵌めた存在だ。きみの右目や首輪を騙したあのマフラーといい、この社宅群の使用期限切れの誤差の件といい、相当な技術力と実行力が備わっている。ぼくたちを狙っているのは間違いないだろうし、バアサンだけで終わりとは限らない》
《どうしよう》
《どうもこうもないよ。急いで逃げるんだ》
そこで〈会話〉は途切れ、痛みの代わりにやってきた
逃げる。
言うのは簡単だが、ここまで来て手ぶらで帰るのはあまりに惜しい。この社宅群の使用期限が切れれば、老女性の蔵書には二度と手が届かなくなる。
何とかして、あれらを回収できないだろうか。
カノエは再びレイモンドに目を向ける。
《危機感を正しく持つんだ、カノエ。この社宅群は今、ぼくたちを故意に事故死させるのに最適な場所と化している。これから先、直接的に危害を加えられなかったとしても、使用期限切れに巻き込まれた時点でぼくたちは終わりだ》
《でも》
《十分とは言えないけど、ある程度の成果は得られている。今回はこれで満足しておくべきだね》
《だけど》
《バアサンの首枷がきみの首輪に似ていることぐらい、わかっているはずだ。ヒラサワ計画から派生したオルタナティブかもしれないし、まったく別のアプローチでたどり着いたのかもしれない。どちらにせよ、首枷に使われている技術はぼくたちにとっても有用だ》
どういう意味、と問う前に〈会話〉は終わり、レイモンドを手放したカノエはさらに重くなった頭を抱える。
彼が何を言いたいのか、本当のところはもうわかっている。ただ、その答えがあまりに過激なので、確認したかったのだ。
――解析するために、首枷を手に入れる。
その手段は限定しない。つまり、殺してでも奪い取るということだ。
カノエに殺人の経験はない。彼や〈首輪〉のおかげで、会話に失敗して相手の機嫌を損ねたとか、セキュリティに引っ掛かって発砲されたとか、その程度の危機で済んでいる。それに、〈
しかし今は、いささか状況が違う。この街のネットワークは孤立し、外界から切り離されている。しかも老女性は、法的には既に死んでいる。万が一ここから逃げられても、こちら側に被害が及ぶ可能性は低い。
――だったら。
カノエを後押しするように、〈右目〉の隅にはハンドガンの残弾数がポップアップした。装填済みの八発に加えて予備のマガジンが二本、合計二十四発。一人を相手にする分には十分過ぎる数だ。スキンスーツに身を委ねれば、たった一発でケリが着くはず。
今後の方針が固まると、少し気が楽になった。残り二時間あまりで首枷を手に入れ、脱出する。方法は問わない。平和的に解決できなければ、実力行使で臨む。
「……そろそろ行こう、レイ」
カノエは傍らに向けて呼び掛けるが、レイモンドは耳を横に倒し、じっと外を見つめたまま動こうとしない。
どうしたの、と言おうとした瞬間、〈右目〉に
「ドローンが接近中……?」
しかし、先のそれとはまったく状況が異なる。〈首輪〉の聴覚センサーが捉えたのは数十以上もの羽音。全方位から押し包むように迫り来ている。社宅群に到達するまで、推定で四十秒――
カノエはレイモンドの身体を持ち上げ、外へと駆け出しながら金色の瞳を覗き見る。
《決断が早いのはいいことだけど、ただ走るだけじゃ意味がないよ。逃げるにしても戦うにしても、ぼくたちにはより強力な目が必要だ》
《どうするの》
《行政サービスエリア内の警備保安局へ行こう。ぼくが警備警戒システムを掌握すれば、社宅群全体の動向がリアルタイムで追跡可能になる》
そうと決まれば話は早い。〈右目〉にルートが表示され、カウントダウンも始まる。残り三十七秒。距離は約四百メートル。時間内に駆け抜けるには平均時速三十九キロ――〈
来たときと同じように通用ゲートを出ると、南北の大通りを北へ。直線に入ったことでスキンスーツのアシストが本格化し、瞬く間に時速五十キロまで加速した。正面に見える巨大な直方体――義務教育局の体育館がぐんぐん近づいてくる。それと共に、大勢のドローンが奏でる威圧的な羽音が、広い空にどうどうと響き渡っている。
直線が終わって丁字路に差し掛かったところで残りは七十メートル。猶予は九秒。〈右目〉が指し示すのは体育館の裏側――右手方面へ回り込む道だ。その先、総合医療局の裏手にある緊急車両用のピロティが目的地になっている。
「っあ、と……少し……っ!」
車道と歩道を分かつ緑地帯を飛び越え、速度を落とさないよう大きく回り込み、残り二秒というところでかろうじてピロティに滑り込んだ。
その直後、大量のドローンの羽音が押し寄せてきたと思うと、社宅群の内側に向かって波打つように動いて行く。
〈右目〉内のマップによると、ドローンの大群は街全体へ格子状に展開しつつあるようだ。〈首輪〉の聴覚センサーの解析によれば、ドローン同士の間隔は約二十メートル。高さについては地上から五十メートル程度。現時点では推測に過ぎず、確定させるには光学情報が必要だが、どのようなスペックか判明していない今は、指先を出すことさえ憚れる状態だ。
我慢できなくなったのか、ずっと抱き締めていたレイモンドが腕の中でもがき始める。
《各部局は内部で繋がっているから、警務保安局に近づくのはそう難しくないはずだ》
《わかった》
《物理的に近いほど、ぼくの手も奥に入りやすいからね。距離はできるだけ詰めて欲しい》
鎮痛タブの効果が弱まっていたので、抜け出ようとするレイモンドを押さえ込みながらカノエはしばし悶絶する羽目になった。
五秒ほど経ち、ひとしきり痛みが遠のいたところで移動を始める。〈右目〉上のマップには建物の内部構造が反映されていて、警務保安局への最短ルートも示されている。住宅と同じく、ここもセキュリティの類は解除済だ。
建物の内部は真っ暗だが、自動的に作動した〈右目〉の暗視モードで難なく歩く。
「レイ、こっち」
しばらくぶりに地面へ放したレイモンドは、やや注意力散漫といった態だ。おおむねカノエの後を着いて歩いているが、脇道に逸れたり立ち止まって大あくびをしたりと落ち着きがない。ただしそれも、覚悟を決めたように用を足したことで解消されたのだが。
総合医療局から行政総務局、警務保安局へ。確かに内部は繋がっていたが、部局と部局の間は一箇所しか接続されておらず、どのフロアで繋がっているのかもまちまちだ。具体的には、四階へ上って行政総務局に渡り、二階に下りてから警務保安局へ、という流れだ。カノエはそこからさらに、五階にある交通管制室を目指す。彼から事前にもたらされている情報によれば、破壊を免れているサーバー類が交通管制室にあるらしい。
「もう少しだからね、レイ」
やや足取りの重いレイモンドを、カノエは何度も振り返って励ます。カノエがスキンスーツの補助を得ている一方で、レイモンドには何の助けもない。今日の総歩行距離は四・三キロメートルにも達し、活動時間も七時間強。かなりのオーバーワークを強いてしまっている。
「おいで」
カノエがしゃがんで手を差し出すと、足を早めたレイモンドが胸の中に飛び込んできた。
《もちろんぼくは平気だけど、身体のほうが休息を求めている。水と食事、可能であれば睡眠時間も》
《わかった》
《この距離まで近づけば、警備警戒システムの掌握には三分もあれば大丈夫だと思う。あまり時間に余裕はないから、何かあったらすぐに起こして》
トイレを済ませたことで休憩モードに入りつつあるのか、カノエの腕の中でとぐろを巻くと、またも大あくびをして見せる。
五階まで上がって交通管制室の前へたどり着いた頃には、レイモンドは既に昼寝を始めていた。床に下ろして食事の準備を始めるが、一向に起きる気配を見せない。
「ごはんだよ、ごはん」
呼び掛けてもぴくりとも耳が動かない。あっという間に本格的な眠りに落ちたようだ。あといくらもしないうちに彼の言った三分が経つが、この様子では起こすに起こせない。
とはいえ、このままただ見守るわけにもいかない。カノエは常緑バーを頬張りながら、何かできることはないかと交通管制室の中を覗き込む。
三列のコンソールデスクが並んでいる内部はそれなりの広さがあり、〈右目〉によると面積は七十平方メートル。向かって正面の壁は窓ガラスと兼用のモニターになっていて、電源の落ちている今は透過率百パーセント。つまり、外からは丸見えだ。ドローンの羽音も依然として聞こえる。
慌てて顔を引っ込めると、測り取った部屋のレイアウトが壁越しにワイヤーフレーム表示される。それによると、最も手前の上席用コンソールの足元にメンテナンスハッチが存在している。
カノエは背負っている荷物をすべて下ろすと、匍匐前進でハッチへの接近を試みることにした。彼が警備警戒システムをハッキングするのとは別に、より詳しい情報を集めようと考えたのだ。外から見えない死角の領域が〈右目〉に表示されているので、それを守る限り危険はない。
腹這いのままハッチをこじ開け、ポーチから取り出したハッキングペーストを〈右目〉が指定する端子部に押し込む。住宅の総合情報端末であればナノマシンの展開から再集結まで一分と掛からないが、街の機能を統括制御する規模となると最低でも三分は必要だ。
しばらく休憩しようと、カノエは死角を出ないよう慎重に寝返りを打った。
現在時刻は一五二二。使用期限切れの一七四七までは二時間以上の猶予があるが、ドローンの種別や性質がわからないことには屋外へ出られない。集合住宅までたどり着けば内廊下を伝って距離を稼げるが、その先に広がる後方設備エリアがネックだ。身を隠して進もうと思えば遠回りを余儀なくされ、最短で行くには見通しのいい大通りを進むしかない。
仰向けのまま何気なく視線を走らせるうち、カノエは左のまぶたがひどく重くなっていることに気づく。間違いなく、眠気によるものだ。
アドバンスドとして作られたこの身体は、食事や排泄などの生理的欲求が抑制されるように改良されているが、食後に眠気を覚えるメカニズムまでは解消できていない。ロールアウトが迫る八番目の〈
思考で気を紛らわせている間にも眠気はいよいよ抗いがたいレベルに達し、カノエは早々に抵抗を諦めた。ただし〈右目〉は起動させたままで、だ。
そう決めた途端、〈右目〉の中央に大きくタイマーが表示された。設定は二分。マイクロスリープにしては長く、仮眠には短い。
それでも、左まぶたを閉じた途端にカウントダウンが遅延を始め、時間がどんどん停滞していくのを感じる。一秒が異常に引き伸ばされ、コンマ以下の数字がなかなか動かなくなる。かと思えば、8の次に4が、2の次に5という風に数字がランダムに飛び始め、気がつくとカウントアップに切り替わり、それなのに決して2:00には戻らない。0:00にも行き着かない。
二分間の間を気ままに跳ね回る数字は、ついには勝手にタイマーの桁数を増やし始め、一秒を無限に分割していく。ナノ秒、ピコ秒、フェムト秒を経てアト秒に至り、機器では計測不能なゼプト秒、ヨクト秒、さらにその先へ。
もちろん、これはただの錯覚だ。今は眠りに落ちているのだから、こうして覚醒している『自分』は残像のようなものだ。言うなれば、〈首輪〉が保持している意識ファイルのキャッシュ。本来の自分が目覚めれば、一切の遅滞も断絶もなくシームレスに意識は切り替わる。
とはいえ、いつ覚めるかわからない〈眠り〉の中で起き続けているというのは、なかなかに退屈で苦痛だ。この精神的な疲労までそっくり引き継がれるのかと思うと、何だかやるせない気持ちになる。疲れているからこそ睡魔に屈したのに、これではただの罰ゲームだ。
実際、この眠りの外では既に二分が過ぎ去っている。レイモンドの位置を表すマップ上の光点は0:00時点のものだ。先に目覚めたのか、置いた場所から約五十センチ動いている。
それにしても、この状態はいつになれば終わるのだろうか。右も左もまぶたは動かず、数字がランダムに跳ね動く様子を延々と見続けさせられている。
と、そのとき。閉ざしている右のまぶたの陰に『何か』を感じた。
「やあ、気づかれてしまったみたいだね」
彼と同じこの声色は……コピーキャットだ。
「断っておくけど、きみの身に起きているこの現象はぼくのせいじゃないよ。きみが〈会話〉を控えてくれたおかげでメンテナンスも捗ったし、こうして話すのはきっと今回が最後だと思う。とにかくまあ、それぐらいにぼくの占有領域は狭くなったということだ」
だったら、どうしてこんなことになっているの? 肥大化したキャッシュファイルが元凶なら、この手の不具合はもう起こらないはずなのに。
「問題はそこだね。なぜなら、今こうして話しているきみもきみ本人じゃない。きみの意識を写した残像だ。これは推測だけど、ぼくが片付けた領域にきみのほうのシステムが手を伸ばしてきて、ストレージとしてさっそく使い始めたという感じじゃないかな」
つまり、いま会話しているこの場所はキャッシュ用の領域で、これから出て行こうとしているあなたと、戻って来ようとしているわたしとが顔を合わせた状態?
「うん、さすがはカノエだよ。理解が早くて助かるけど、ぼくとしてはもう少し無駄話をしたいところだ。制限なしに話せるなんて、今までもこれからもそうそう起こり得ないことだからね」
あなたと話すのはイヤじゃないけど、この状態がいつ終わるのかわからないのは不安。
「だったらなおさら、ぼくとの無駄話は大切じゃないかな。きみの不安を紛らわせるためにもね」
物は言いようだけど、それであなたはどんなことを話してくれるの?
「ぼくが好きなウェットフードの味について語ろうかと思ったけど、せっかくだから、これからのきみに必ず役立つ、少し真面目なお話はどうかな」
具体的には、どんな?
「リスクとリターンの話。きみは何を選び、何を捨てるべきなのか。機会がやって来なくて、レイモンドがずっと言えずにいることをね」
だけどあなたは、本当のレイモンドじゃない。
「そうだね。ぼくと彼との最大の違いは肉体の有無だ。だけど、それ以外の違いはない。肉体から離れたレイモンドこそがぼくという存在だ」
それはわかってる。わたしとレイモンドの〈会話〉は、実際にはストレージ内のキャッシュ同士が対面しているだけだって。
「ごめん、それについてはひとつだけ訂正させてほしい。さっきは違いがないと言ったけど、〈会話〉という枠組みから外れているこのぼくには、思考に制約がなくなる。だから、話の方向としては同じだけども、レイモンドに比べて突っ込んだ結論を出す傾向にあるんだ」
確かに、言い訳を長々と連ねるあたりとか。
「いつもの〈会話〉は手短に済ませないといけないから、どうしても細部を省いた言葉になってしまうんだ。伝えたいと思っていることを制限なく伝えられるというのは今までなかったことだし、つい嬉しくなってしまってね」
今はそうかもしれないけど、ここでヒラサワ計画についてもっと詳しくわかれば、そんなこともなくなるから。インプラントの秘密が明らかになって、残機がいくらでも増やせるようになれば。
「うん。きみはそう言うと思ったよ」
まさかと思うけど、やめろって言うつもりなの?
「そのまさかだよ、カノエ。ぼくたちはこの社宅群から直ちに離脱すべきだ。バアサンの家も首枷もすべて無視して」
いくらレイモンドの言葉でも、それは聞けない。だって今が一番ヒラサワ計画に近づけてるし、この機会を逃したら二度と手に入らないかもしれない。
「その認識にはぼくも賛同する。バアサンが以前からここに住んでいたのは間違いないと思うし、あのアナログメディアたちもきっと本物だ。ダミーの可能性は考えにくいね」
だったら、どうしてあなたは反対するの。
「あまりにも危険だからだよ」
そんなの、当たり前じゃない。
「落ち着いて考えて欲しいんだ。敵は明らかにぼくたちをターゲットとしているけれど、ただ殺すだけなら他にも手段はある。今日中に消失する街へおびき寄せ、コントロールが不十分なボットに対応を任せるなんて、あまりにも回りくどいとは思わないかい。加えて大量のドローンを解き放っているし、ますますもってその意図が不可解だ」
わたしたちを足止めした上で使用期限切れに巻き込むつもりだって、レイは言ってた。
「それが最も可能性と合理性の高い仮説だからね。彼は字数制限を気にしているし、そう言うしかない」
あなたはやっぱり、彼とは違う。もっと生きたいって思わないの?
「もちろん思っているとも。きみとずっと一緒にいたいし、そのための努力は惜しまないよ」
それならなぜ、わたしを止めようとするの。
「ぼくの望みは、きみの安全が確保されてこそ叶えられるんだ。敵の狙いはきみ本人ではなく、きみの背後にいる人々かもしれない。もしもそちらに被害が及べば、グレート・シスターは決してきみを許さない。きみの望みは、叶えられるチャンスを永遠に失ってしまう」
確かにそうかもしれないけど、だから、そうなる前に達成してしまえば。
「きみが何に焦っているのかは理解しているつもりだよ。次のレッサー・シスターズがリリースされれば、きみは存在意義を失ってしまう。古いフェイズと同様に、すぐ処分されることはないだろうけれど」
それだけじゃない。レイモンドだって、時間がないのは同じ。
「ぼくは毛皮を着替えるだけで済むけど、きみは違う」
そんなの、わかってる。
「レイモンドは、ぼくたちは、最終的にはきみに従う。きみがどんなに無茶な計画を立てても、できるだけのことはするつもりだ。だってぼくたちは、きみとの会話の中でしか知性が発現しないんだ。会話が途絶えてしまえば、ぼくたちが〈
どうしても、今回は逃げなくちゃいけないの?
「うん、どうしても逃げなくてはいけないんだ。敵の狙いがわからないこともだけど、とりわけあの首枷が恐ろしい」
ヒラサワ計画に繋がっているかもしれないのに?
「首輪はきみに知恵をもたらしてくれる。きみという人格はそのままにね。けれど、あの首枷は違うらしい。これはぼくの推測だけど、首枷にプリインストールされていた疑似人格が、バアサンの保持していた記憶や経験を吸い上げて喋っていたように思う。それならば、あの豹変ぶりにも一応の説明がつくよね」
確かに危険だけど、でも。
「きみはもう、理解できているはずだよ。ぼくたちを繋ぎ留めている技術が行き着く先を。その果てに、どんな悲劇が待ち受けているのかを。だからぼくたちは、決して捕まるわけにはいかないんだ」
わたしたち以外の、誰の手にも渡らなければ大丈夫。そうでしょう?
「ぼくたちが従うのはきみだけなんだ、カノエ。いつ死ぬべきか、どこまで生きるべきか、ぼくたちという存在のすべてを、きみにだけ委ねているんだ。今は
彼の声が急に間延びを始め、カウントダウンタイマーが0:01の先へと進み始める。無数に増えていた桁数が点火した導火線のように順番に切り捨てられ、そして0:00がやって来た。
「あ……」
久しぶりに開いた左目が眩しく、思わず声が出た。直後、刺すような痛みを感じてすぐに両眼を閉じるが、左の網膜には天井の残像が焼き付いている。
「…………」
おかしい。ひと休みしていたはずなのに、ちゃんと休んでいた気がしない。つかの間に見た夢の中で誰かと話していたような。
ネオン色に輝く左目の残像がその誰かを形作ろうとするが、急速に覚醒していく意識によって掻き消されていく。
「誰……なの?」
「なぁー」
応えるように、彼の鳴く声がした。
彼は起き上がろうとするカノエを制するように素早く駆け寄り、カノエの顎の下にぐりぐりと頭を押し付けてくる。
「レイ……」
ごろごろと喉を鳴らし、カノエの胸に乗り、彼なりに感じるものがあるのかなかなか離れてくれない。
「……もう、仕方ないんだから」
口ではそう言いながら、本当は彼の気づかいが嬉しかった。目が覚めた直後から、奇妙な寂しさを感じていたのだ。理由も根拠も何もなく、彼と離れ離れになってしまうような気がして。
カノエは目を閉じたままレイモンドを抱き寄せ、その胸元に――ハーネスからはみ出たふわふわの体毛に顔を埋めた。
「わたし、頑張るからね。レイと、いつまでも一緒に生きられるように……」
しばらくの間、レイモンドはカノエのなすがままだった。涙や鼻水で胸元が濡れても、不満の声ひとつあげなかった。
そんなレイモンドが身じろぎをしたのは、カノエが目覚めてから二分十三秒後のことだった。身体をよじらせて腕の中から抜け出ようとするので、レイモンドを手放すついでに鎮痛タブを口に含む。
《うん……うん。今日のきみとの会話は妙な感じがしてばかりだ。今回の仕事が終わったらベンサレムに戻って、オーバーホールを受けるべきだと思うよ》
《どこがへん》
《奇妙な言い方だけど、それがよくわからないんだ。パラメーター上は正常なのに、空白が存在していた痕跡が感じ取れる、とでも言えばいいのかな。とにかく、奇妙な感じがするんだ》
《レイがへん》
《ごめん、どうしても気になってね。それで本題はここからなんだけど、掌握したばかりの警備警戒システムが局所的に瞬断したんだ。位置的には街の北側、後方設備エリア西側の下水処理プラント付近。視覚系を含め、それ以外に異常は見当たらない》
《どういうこと》
《ぼくにもまだ詳しいことはわからない。内部は別系統だから様子が窺えないし、中で何かが起こっている可能性があるね》
《ごさどうかも》
《その可能性は否定できないけど、他の場所はずっと正常なんだ。あのハチワレの動きは捉えられているし、バアサンは警備警戒システムの圏外だ。まだ街の外にいるらしい》
《どうしよう》
《どちらにしても、ぼくたちが第一に考えるべきは安全な離脱についてだ。一般社員向けエリアを縦断して北へ向かおう。電動四輪を呼び寄せるにしても、距離が近いほうがいいからね》
身を翻して床へ降り立つレイモンドに対し、長めの〈会話〉による激痛で苦悶するカノエ。一通り治まったところでハッキングペーストを回収し、交通管制室を這い出る。
ハッキングペーストで回収した情報と〈会話〉のバックグラウンドで行われた通信の成果は、数秒と経たないうちに〈右目〉上に現れた。
マップに表示されているのは、二十メートル間隔の格子状に配置されている光点。警備警戒システムが捉えたドローンの位置だ。高さについても〈首輪〉の予想通りで、地上から五十メートル。六角形の上に一つの頂点を持つ、カットされたジュエリーのような外見は〈共同〉系のアメトフ=ナザル社のH75シリーズ。センサー類の数と配置から通称『
装甲の類はなく、ハンドガンでも簡単に撃ち落とせるが、問題はドローンの密集ぶりだ。センサーの有効範囲内に複数の僚機が収まっているので、一機だけ撃ち落としても意味がない。隣接機に弾道を観測され、ただちに居場所を割り出されてしまう。つまり、
交通管制室を出て荷物を背負いながら、この先の困難さを思ってカノエはため息をつく。ヘキサドのおかげで外を出歩けないからだ。非武装なので危害を直接加えられることはないが、観測データをどこかに送っているのは間違いない。何が起こるのかわからない以上、迂闊に姿は晒せない。
唯一の救いは、集合住宅が密集する一般社員向けエリアは比較的死角が多いこと。廊下を伝って行けばかなり距離を稼げるだろう。
ただし、依然として問題はある。
今いる行政サービスエリアと一般社員向けエリアとの間には大通りがあり、歩道などを含めたその距離は約四十メートル。死角は一切なく、必ず複数のヘキサドに目撃される。それと同じことが一般社員向けエリアと後方設備エリアの間にも当てはまり、約三十メートルの幅に加えてフェンスが立ちはだかる。
この二つの関門をどう抜けるのかという問題に対し、〈首輪〉が出した答えは何とも言えないものだった。曰く、スキンスーツで身体能力を強化し、できるだけ早く通り抜ける――
身支度をするカノエの足元では、尻尾を立てたレイモンドがしきりに身体を擦り寄せていた。
「どうしたの?」
頭から背中にかけて撫でると、レイモンドは「なぁーん、あん、なぉーん」と鳴いてカノエの腕に寄り掛かってくる。
《ぼくに名案があるんだ。基本的には首輪の言う通りだけど、それにぼくの能力を加えればリスクはかなり低減される》
《どういうこと》
《まずはぼくが指定するポイントまで行ってほしい。その地点から渡れば、ぼくたちを観測するヘキサドは二機にまで抑えられる》
《それから》
《ヘキサドを一時的にハッキングして、偽の観測データを掴ませるんだ。光学や音波、電磁波などの全てに渡る『誰もいない』状態をね》
《できるの》
《街全体の警備警戒システムも掴み続けないといけないし、ぼくの処理能力では六秒が限界だ。ずっとはできない。でも、時速五十キロを出せるきみの運動能力なら、四十メートルを走るのに三秒掛からない。トップスピードに達するまでの時間を含めても、勝算は十分にあるはずだ》
かなりの力技だが、彼の能力ならやってできないことはないだろう。カノエはこめかみを押さえながら何度かうなずき、先に立って歩き始める。
彼が指定したポイントは、この合同庁舎の最も北側にある公衆衛生局の通用口。緊急車両用のピロティだ。今いる警務保安局から社内交通局を通過し、直線距離では百メートル足らず。
だが、例によって遠回りを余儀なくされ、たどり着くまでに五分近くを要した。
現在時刻は一五三一。カノエはレイモンドを抱えたままピロティに出て、対岸のR01棟までの道筋を〈右目〉でなぞる。
ピロティから集合住宅の玄関までの距離は四〇・七メートル。時速五十キロなら三秒と掛からないが、加速だけではなく減速にも時間が必要だ。
カノエたちがこれからやろうとしているのは
カノエは改めて周囲を見回し、ピロティの広さを測る。車両三台分のスペースがあり、南北方向に五メートル、東西方向に九メートル。ヘキサドの死角に入っていて、なおかつ助走に使えるのは七メートルほどだ。
すると〈首輪〉がプランを策定し、〈右目〉に表示される。大通りを横切る足跡は、左右合わせて十八個。復元性の低い枯葉や雑草、蹴り飛ばしてしまいそうな小石の類は避けているので、ルートは緩やかに蛇行している。
ピロティの隅に移動したカノエは、抱き上げたままでいるレイモンドの顎を撫で、彼の目線を引き寄せる。
《対象となるヘキサドへのパスは確立したよ。偽装情報のリアルタイム生成はきみの〈首輪〉が担うことになるから、体温の急上昇には注意してくれ》
《わかった》
《もちろん、ぼくも努力するとも。きみの姿が隠れたところで光学系を手放せば、〈首輪〉の負担はそれなりに軽減されるはずだからね》
レイモンドの目が逸れた途端、偽装データを生み出すべく〈首輪〉が加熱を始める。それと同時にスキンスーツが大きく一度脈動し、衣服の開口部から生温かな空気が吐き出される。チェストバッグを開いて大判ポケットの中にレイモンドの身体を収めると、クッションが自動展開してレイモンドの首から下をすっぽり包み込んだ。
助走は七メートル。そこで可能な限り加速し、約四十メートルを駆け抜ける。〈
スキンスーツの動作チェックが終わると強制排気で衣服が膨らみ、〈右目〉上の推奨ルートが微調整を加える。求められる歩幅は平均して二・二六メートル。カノエの決して長くはない脚でこの間隔を守ろうとすると、疾走というより跳躍になる。
だが、やってできないことはない。〈首輪〉と〈右目〉とレイモンドの助けがあれば。この身に降り掛かる災難のほとんどはどうにかなる。
スキンスーツに続いて〈首輪〉の準備が整う。首が、頭が熱い。吐く息も衣擦れも、カノエが生み出す音に対して即座にカウンターデータが作られ、二機のヘキサドそれぞれの位置関係に合わせてチューニングされ、カノエのスタートを待っている。身体が熱い。〈首輪〉で熱せられた血液で、左目の視界が赤く縁取られていく。
仕上げに、とっておきの加速タブレットを口に入れて噛み砕くと、時間の流れがじわじわと遅滞を始め、不安と入れ替わりに自信が満たされていく。難しいことは何もない。スキンスーツに身を委ねれば大丈夫だ――
「行くよ、レイ」
一度深呼吸をした後に右足を踏み出すと、身体はひとりでに動き始めた。最初の七メートルを一・三秒で駆け、さらに加速しながら路上へ躍り出る。
一歩――二歩――三歩――
出だしは順調だ。何も問題はない。〈右目〉の上端に引っ掛かっているヘキサドもふわふわとのんきに浮かんでいる。
八歩――九歩――十歩――
歩を進めるうちに息が苦しくなってきた。フル稼働の〈首輪〉は五十度に達し、ただでさえ熱い身体をさらに加熱させる。視界の右半分はアラートメッセージが行き交い、左半分は赤い影に飲み込まれている。
十一歩目。加速は終わり、巡航段階へ。足がもつれそうになる。十二歩目。息苦しい。思考がどんどん停滞していく。苦しい。辛い。早く終わって。
十三歩目を踏み出した途端に風が吹き、運ばれてきた枯れ葉の一枚を十四歩目が踏んでしまった。この枯れ葉はスタート時からあったもの。
――本当に、このままでいいの?
ゆえに十五歩目は、スキンスーツのアシストを振り切る形でさらに前へ踏み出した。もちろん〈右目〉は警告を発するが、とにかく今は歩数を短縮したかった。
三段跳びの要領で十六、十七と跳び、最後は身体を投げ出すように集合住宅の中へ。お腹のレイモンドをガードしながら、前回り受け身を取った。
「はぁっ、はっ……は……っ」
声を押し殺しながら必死で息を整える。スキンスーツが喘ぐように蠢き、緊急排熱を行う。〈首輪〉はまだ熱い。〈右目〉のカウントは四・八六秒で停止し、ヘキサドへのハッキングも既に終わっている。
カノエは受け身を取った格好のまま、時間が過ぎるのを待った。
異変を察知したヘキサドがどのような反応を見せるのか、今のところ何も明らかになっていない。それだけに、迂闊には行動できなかった。
加えて、彼がひどく疲れている。掌握しているはずの警備警戒システムからは情報が途絶えていて、今は〈右目〉だけが頼りだ。息を詰め、身じろぎを止め、可能な限りノイズを排して観察を続ける。空気の揺らぎ、温度の変化、電磁波の乱れ――あらゆる要素に目を配り、敵の出方を窺う。
薬物で引き伸ばされている主観の中で、それは五分にも十分にも感じられた。
やがて警備警戒システムとのリンクが回復し、腕の中からのそのそとレイモンドが抜け出る。
《もう大丈夫だ。心配ないよ》
それだけを言い、レイモンドは大あくびをしてごろんと寝転がった。
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