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 老女性は話好きだった。

 空輸ドローンの着陸地点に行く道すがらも、コンテナを回収して南へ向かう最中も、延々と喋りっぱなしだった。発声した時間を単純比較すると、カノエの十四倍にも及ぶ。

 これまでに判明したことは、ルルーは半年以上前にやってきたこと。『あの人』と別れるのが辛くて、塀の外でずっと一人暮らしをしていたこと。住んでいるユニットハウスの老朽化が進んできたこと。自身を蝕むナノ病禍ハザードも進行しているので、外骨格なしではまともに動けないこと――

 今のところ、移動ルートは行きと同じだ。このまま進めば、モノレール駅の脇に設けられたメンテナンス用の出入口から塀の外へ出ることになる。

「それより、ごめんなさいね。ルルーを押し付けちゃって」

「いえ、その、こちらこそ、手伝いもせずに……」

 スキンスーツへの負荷から算出したルルーの体重は三・六九キロ。対してコンテナは、〈右目〉の計測によると約十キロ。かなり重いはずだが、老女性はあまり苦にした様子もなく持ち運んでいる。それも、衣服の下で身体を支えている外骨格のおかげだ。

 ルルーはいい子だった。さっきの荒ぶりようは何だったのかカノエに大人しく抱かれ、ゴロゴロと喉を鳴らしてさえいる。

 後でレイモンドに文句を言われそうだが、今は田中輝冠と名乗るこの老女性の機嫌伺いのほうが重要だ。何気ない会話の端々から、この社宅群のかつての姿がどんどん明らかになっていく。

「今はもう見る影もないけど、この辺は朝と夕方になるとそれはもう一般社員でいっぱいになって。ロータリーの東側、あっちのほうにポールが並んでいるでしょう? 朝はあそこに沿って、モノレールの乗車待ちをしてたの」

「つまり、職場の操業は日中だけということですか?」

「いいえ、製造部門は二十四時間ずっと動いていたそうよ。設備の維持管理にはそれなりの人員が必要らしいから、三交代制で回していたみたい」

「みたい、と伝聞形なのは?」

「それはもちろん、あの人の受け売りだから。夕方になると私はそこの歩道橋に立って、帰ってくるのを待っていたの」

 老女性が繰り返し口にする『あの人』とは、夫のことなのだろう。

「では、かつては上級職員居住エリアにお住まいだったのですか」

「ええ。そんな堅苦しい名前じゃなくて、単にアッパーって読んでいたけど」

「……こちら側が上流アッパーとするならば、一般社員のほうは下流ロウアー?」

「そうよ。普通、地図は北を上にするけど、ここで使っていたローカルマップは南側が上だったの」

 真ん中ミドルクラスが存在しない、上流階級アッパークラス下流階級ロウアークラスだけの街。モノレールの駅もよく見ると出入口が二つあり、西側のそれはペデストリアンデッキで上級職員居住エリアと直通できるようになっている。

「これよ。ここから外に出るの」

 と老女性が示したドアは、セキュリティ関係の機能が一つ残らず破壊されている。専門知識がなければ、ここまで完璧には処理できないだろう。どのような経緯があったのか好奇心をそそられたが、迂闊に問い尋ねると藪蛇になりそうなのでやめておいた。

「ところでアサコさんは、どのような仕事でこんなところに?」

「はっ、はい。あの、わたしは――」

 ドアをくぐり抜けたその先の光景に、カノエは思わず言葉を失ってしまった。

 山稜を平らに均して造られたこの台地は、わずか五メートル先で途切れていた。モノレールの橋脚をも巻き込む形で崩落し、まさに断崖だ。

 そして、その眼下に広がっているのは、どこまでも延々と続いていく山並み。手前側は崩れ落ちているものの、稜線をなぞるようにモノレールの走行路が設けられ、アップダウンを繰り返しながら右手へ――東に向かって大きく反れていく。今見えている範囲では八キロメートルほど走行路が伸びているが、駅に相当する施設はまだ確認できない。

「それで、お仕事の内容は?」

 老女性は慣れた足取りで塀に沿って右へ続く小道を進んで行き、カノエは慌ててその後を追う。

「えっと、はい、この社宅群の調査、です。地方政府から委託を受けた、企業資産査察員として」

「企業資産? こんな廃墟に、資産としての価値なんてないでしょう?」

「廃止したにも関わらず住居として使われていれば、住民税の課税対象になります。請求する先は最終的な吸収先である〈連合ユニオン〉になるので、田中さんは何も心配いりません」

「つまり、どちらにしてもセーフということね」

 小道を進むにつれて南側の土地は少しずつ広さを増し、百メートルも歩くと崩落の跡はまったく見当たらない。〈右目〉のマッピングによれば、台地が崩れ落ちたのはモノレールの橋脚付近に限られるようだ。その結果、崩落を免れた部分が半島のような形で残っている。

 小道はやがて、半島の先へ向かうようにカーブを始める。手入れのされていない針葉樹の奥にコンテナハウスらしきものが見え隠れしていて、老女性の足取りもいくらか軽くなっているようだ。

「もう少しよ。この道の先……あと二百メートルぐらいかしら」

 そう言う老女性だったが、〈右目〉の計測では百メートルを切っている。しかしカノエは指摘をせず、「そうですね」と当たり障りのない返事をした。

 この件に限らず、〈首輪〉が示す回答例はどれも無難な内容だ。その気になれば、皮肉屋を装ったり喧嘩腰になったりといくらでも外面を偽れるのだが、そのように振る舞う理由がない。とにかく今は、『余計な警戒心を抱かせずにどれだけ有用な情報を得られるか』が重要だからだ。

「……ところでこの子の名前、どうしてルルーなんですか」

「どうしてだと思う?」

 好感度稼ぎの問いを問いで返され、カノエはしばし考え込む。

 ルルーがフランス語圏の名だという知識は、既に〈首輪〉からもたらされていた。著名なところでは小説家のガストン・ルルー、音楽家ではシャルル・ルルー、モーリス・ルルー、グザヴィエ・ルルーなどがいる。

 無言で首を傾げて当惑の雰囲気を作り出すと、振り返った老女性は肩を小さく上下させながら笑った。

「そうよね、わかるはずないものね。ごめんなさい、意地悪なこと言って」

「……フランスに縁がある名前ということまでは、わかりますが」

「当たらずといえども遠からず、ね。実は、オペラ座の怪人が由来なの。あなた、オペラ座の怪人は知ってる?」

「……いえ、名前ぐらいしか」

「オペラ座の怪人というのは小説のタイトルで、その作者の名前がガストン・ルルー。それでどういう内容かというと……うーん、まあ、オペラ座の地下に隠れ住んでいる怪人がどうこうという話ね。ルルーってばここに来たその日のうちに探検に出てしまって、それからもよく歩き回るものだから」

「……つまり、屋内に入るのが好きだから、それでルルーと?」

「そうそう、そういうこと」

「……登場人物から付けたわけではないんですね」

「最初はそのつもりだったけどあまり面白みがないというか、子ネコに付ける名前じゃないような気がして。だって、エリックやラウルって感じじゃないでしょう? ああでも、女の子だったらクリスティーヌにしていたかもしれないわね」

「なるほど……」

 彼の集めた情報によるとこの社宅群に地下フロアは存在しないようだが、それでもガストン・ルルーを引用するあたり、この老女性はよほどオペラ座の怪人に思い入れがあるらしい。

 そんな飼い主とは裏腹に、当のルルーは大あくびをしている最中。何度も名前を呼ばれたにも関わらず、まるで他人事のようだ。

 そうこうしているうちに、小道には終点が近づいていた。半島の先端は小さな広場になっていて、その周囲に朽ちた丸太が何本も転がっている。

「さあ、着いたわ。むさ苦しいところだけど、ゆっくりしていってちょうだい」

 遠目からもその正体は明らかだったが、カノエが連れて来られたのはエマージェンシーハウスだった。無補給での長期生存に特化した、およそ住居とは呼べない代物だ。

 六メートル×九メートルの平屋建てに載っているのはソーラーパネルの屋根。ただし、四割ほどが破損し、外壁パネルにもひび割れや欠落が見える。稼働を開始してからかなりの年月が経っているのは間違いなく、老女性の言動を裏書きしてくれる。

「……ここにずっと、ひとりでお住まいだったのですか?」

「ええ、私が望んだことだもの。あなたが思っているほど、悲惨なものじゃなかったわ」

 老女性はそう答えたが、玄関ドアを開けた途端にアンモニア混じりのすえた臭いが漂い始めた。排泄物と生ゴミを生物分解するバイオ槽が発生源だ。バイオ槽からはメタンガスの他に可食性のリサイクルペーストを取り出すことができ、非常食として用いることもできる。〈首輪〉曰く、味も食感も粘土に酷似しているらしいが。

「さあ、中に入って。本当に狭いところだけど」

 手招きされるままに入った内部は、いわゆる1Kの間取りだった。

 短い廊下の両側にミニキッチンとユニットバスが割り振られ、その奥がメインの居室になっている。腕の中のルルーが身じろぎするので床に放すと、主人を顧みることなくさっさと居室に駆け込んで行った。

「お湯が沸くまでちょっと時間が掛かるから、好きなのを眺めて待っていてちょうだい。バイオメタンの生成量がいつもギリギリなの」

「あっ、はい」

 他に居場所もないので遠慮なく居室に足を踏み入れ、まずは何も考えずにぐるりと室内を見回す。

 広さは8じょう相当。真っ先に目につくのは、四方の壁面いっぱいに並んだラックだ。残るインテリアはベッドにサイドテーブル、旧式のメディア再生機しかなく、カノエの視線は自ずとラックに向けられる。

 ラックを埋めているのは様々な物理メディア――パルプ製の書籍、光学ディスク、不揮発性メモリドライブ、ホログラフィックキューブなど。メディアの種類別にまとめられているが並び方には規則性が見られず、本当にただ収納しているだけのようだ。最上段の一隅にはルルーがすっぽりと収まり、尻尾をだらんとさせている。

 観察を続けているうちに、〈右目〉から取り込んだ視覚情報の解析が終わった。五千点にも及ぶ中から〈首輪〉が順位付けをし、上位十点を赤く強調表示する。

 その中でも最もカノエの気を惹いたのは、カーキ色をした布張りバインダーだった。

 ――業務日誌?

 背表紙には高耐久ゲルインクでそのように手書きされていて、端々の擦り切れや汚れ具合などから、かつては高頻度で使われていたものらしい。

「…………」

 カノエはちらりと背後の様子を窺い、これが何なのかをしばし考える。

 業務日誌と題されているからには、仕事に関する記録なのは間違いないだろう。もしもこれがかつての住人の持ち物ならば、旧ハスミ生化学の業務内容がある程度は解明できるはずだ。

 思わず手を伸ばすカノエだったが、それを諌めるように〈首輪〉が警告を発する。

 ひとつは紙媒体であることの必要性。このような機密事項を紙に記録した上で残すだろうか、という点に対する疑問だ。そしてもうひとつ――この『業務日誌』のある棚だけ、埃の堆積が極端に少ない。他のラックが四週間ほど放置されているのに比べ、〈右目〉の見立てではわずかに三日だ。

 カノエは『罠』の一文字を念頭に置いて再び視線を這わせるが、見つかったのは一人分の指紋。つまり、あの老女性のものだ。

 とにかく今は、老女性の素性が明らかになるまで手を出すべきではない。光学・電子を問わず監視装置の類は〈右目〉に引っ掛からないが、老女性が何者なのかわからない間は慎重になって然るべきだ。

 そう結論づけたところで急にコーヒーの香りが強まり、カノエはそそくさとラックから離れる。

「あら、何か気を惹くようなものがあったかしら?」

「い、いえ……」

 老女性は右手に湯気の立つカップを二つ、左手には折り畳みのスツールを提げた状態でやって来た。

 カノエは片方のカップを受け取ると、手の中から立ち昇る芳香にしばらく意識を奪われる。懐かしい香り。思い出の匂い。胸いっぱいに吸い込むと、ベンサレムに暮らしていたあの頃が蘇るかのよう。

「三十年ぐらい前のドリップパックだけど、本物のコーヒーはどうかしら」

「……年代物の香りがします」

〈首輪〉の臭覚センサーは有害物質を感知しなかった。かなり劣化しているが、正真正銘の焙煎コーヒー果実抽出液だ。

「まあ、なかなかお上手ね」

 カノエは〈首輪〉からのアドバイスに従い、さらにこう付け加える。「もちろん、本物は初めてですけど」

「そうでしょうね。私が若い頃はワンコインで……コインはわかる? 金属製の物理通貨だけど、百円コイン一枚で飲めるぐらいに普及していたの。今は合成リキッドがあるし、そもそも輸入ができないでしょう?」

 カノエはうなずいでから一口すするが、酸化していてひどい味がした。老女性もそれに気づいたのか申し訳なさそうにカノエにスツールを勧め、彼女自身はベッドに腰掛ける。

「ごめんなさい。何か混ぜものがあればいいんだけど、小動物用の粉末プロテインしかなくて」

 カノエはゆるく頭を振りながら、〈右目〉内に列記されているチェックリストを確認する。


・IDの確認

・旧ハスミ生化学における最終的な身分

・社宅群の外で生活を続ける合理的な理由

・『あの人』とは具体的に何者か

・マフラーの材質


 この中で最も重要なのはIDの確認だ。何者なのか裏付けが取れない以上、この老女性は自称・田中輝冠てぃあらとして扱うしかない。だが、A T Pアンチトレーサビリティパーティから支援を受けているということは、間違いなくICチップは切除済みだ。〈再起動リ・ブート〉以降、十年ぐらいは物理媒体の身分証明書が用いられていたらしいが、そこまで期待するのは虫が良すぎるだろう。

 残りについても会話の中で探るとして、カノエが疑問に感じたのは最後の項目だ。

 ――マフラーの素材?

 見た目は本当にただのマフラーだ。端部が房飾りになった、ウール調の青い無地の襟巻き。

 しかし〈首輪〉の分析では、一貫して『使用素材・不明』となっている。

〈右目〉によると、遮熱や遮音性能、電磁波特性などに突出した数字は見られず、ごくごく平凡なレベル。カノエとしては、データベースに未収録の素材なのだろうという認識なのだが、〈首輪〉はそれが不満らしい。

 とはいえ、老女性を取り巻いているこの環境の中でマフラーだけが真新しく、奇妙に浮き上がっているのは事実だ。もちろん、週一回届けられる荷物の中に衣類が含まれていてもおかしくはないが、業務日誌の棚のこともある。このエマージェンシーハウスが屠殺場スローターハウスではないと、まだ証明されたわけではないのだ。

「……そんなに無理して飲むものじゃないし、片付けてしまいましょう」

 カノエの沈黙をコーヒーのまずさによるものと受け取ったのか、老女性は外骨格を軋ませながら腰を浮かせ、カノエの手からマグカップを回収する。が、ふとした拍子にマフラーの先端がマグカップの中に浸かってしまった。

「あっ」

 カノエが小さく声を上げる一方、老女性はまるで意に介した様子を見せない。コーヒーの雫をぽたぽたと滴らせながらキッチンに引き上げ、すぐに戻ってくる。

「あ、あの……すみません」

「何かしら?」

「マフラーが、コーヒーで汚れていますが」

 カノエが指摘すると、老女性は怪訝そうな表情を浮かべる。

「……マフラーって、これのことかしら」

 そして、頭に被っているスカーフを取り外した。

「どこも汚れていないようだけど、模様がそう見えたのかしら」

「ええと……その、わたしの、勘違いでした……」

 カノエは困惑を押し殺しながら、ひとまず引き下がった。

 ――これって、どういうこと?

 彼女は嘘をついていない。目の動向も顔筋の運動も汗腺の開口率も、『真実』であると教えてくれている。

 となれば、考えられる答えは二つだ。

 自分の〈右目〉が間違っているか。老女性の認識が間違っているか。

 前者はありえないので老女性の側の問題になるが、マフラーのことだけ意識から抜け落ちている、ということがあるのだろうか。『心因性の認識阻害症』『服薬による薬剤性特定部分健忘』『未検知の人工臓器を原因とする選択制意識障害』――〈首輪〉が様々な可能性を示唆するものの、どれも決め手に欠ける。

 しかし、こちらの勘違いで片付けた手前、これ以上の追求は好感度にも影響する。カノエは「そういえば」と話題を切り替えることにした。

「田中さんの言う『あの人』について、話を聞かせてもらってもいいですか?」

「ええ、もちろん。大歓迎よ。ちょっと変わったお墓だけど、あの人もきっと喜ぶわ」

 たちまち相好を崩した老女性は窓際に立ち、カノエを手招きする。

「この先に見えるわ」

「…………」

 カノエは今度は困惑を露わに、おずおずと窓に近づいていく。老女性の口ぶりから推測すると、墓標かそれに準ずる何かがあるのだろう。

 言われるままに窓際へ立ったカノエは、外に広がる光景に思わず息を呑んだ。

 遠くにある――約四・三キロメートル先にある山の頂に、細長い円筒がほぼ垂直に突き刺さっている。

〈右目〉の計測によれば 円筒の直径は二メートル。現在地上に露出している部分は三十メートルにも達し、上端には朽ち掛けたノズルが取り付いている。つまりこれは、ミサイルやロケットのような飛翔体だ。その証拠に、着弾点の周囲には直径百メートルを越えるクレーターが形成されていて、クレーターの外周部でモノレールの軌道が途切れている。

「……あれは、何ですか?」

〈首輪〉は既にその正体をカノエに告げていたが、敢えて素知らぬふりをした。〈右目〉の捉えた情報が正しければ、あれはユルバン・アビアシオン社がかつて開発した精密誘導式地中貫通弾道弾スレッジハンマーだ。

「墜落したロケットのように見えるでしょう? でも、そうじゃないらしいの」

「……では、不発ミサイル?」

「聞いた話では、新型の地中貫通ミサイルだったそうよ。地球上のどこからでも、狙った建物を簡単に壊せるという触れ込みの」

 どこからでもというのはさすがに誇張だが、それ以外は合っている。やがて来るであろう労働資源枯渇時代に向けて開発された、大規模建築物の解体及び破壊に特化したミサイルだ。従来の工法では膨大な労働資源が費やされるが、このミサイルならばボタン一つで片付いてしまう。

 だが、省力性ではさらにその上を行くナノマシン・マテリアルが爆発的に普及したことから、長期的な需要は見込めないと判断。本格的な量産は見送られた、と〈首輪〉内のデータベースにある。

「……放っておいてもよさそうなのに、ここまでする価値があの場所にあるんですか?」

「そうね、私もそう思うわ。研究内容が丸かぶりしているとわかっていたのなら、どうしてエリオズネストと合併する前に手を打っておかなかったのかしら」

 いきなり出てきた企業名にカノエは一瞬目をみはるが、何事もなかった風に老婦人を振り返り見る。

「つまり……合併して設備が重複したから、それで処分したと」

「乱暴な話よね。でも、会社としては何としても片付けたかったみたい。あなたはもちろん知らないでしょうけど、ここが現役だった頃には軍用の改造イルカを研究していて、でも、山の中にあるから出荷するのが大変でしょう? それで、エリオズネスト側に拠点を移すことになったとか」

「はあ……」

 カノエは曖昧な返事で態度を保留し、再び窓の外に目を向けた。

 地方政府が保有している情報によれば、旧ハスミ生化学を吸収合併したのはルイナー・テクニカル社だ。義肢の製造から制御までを一手に扱っていたメーカーで、後にリリースされた製品には薬剤による神経制御技術が組み込まれている。

 だが、実際のところは違う。この老女性が言うように、エリオズネスト社が真の買収先だ。ハスミの吸収合併を機に半機械化汎用イルカフォルネウスを完成させ、生体兵器メーカーとして飛躍的な発展を遂げ、三巨頭が熾烈な買収合戦を繰り広げた果てに〈連合ユニオン〉の傘下へ入っている。

 この老女性がどこまで知っているのかはわからない。しかし、その身の上話については信頼できそうだ。

「……こんな山奥で、イルカを飼っていたんですね」

 感心した風につぶやくと、背後から鼻をすする音が聞こえた。

「まるで水族館のようだって、あの人は言ってたわ。イルカ以外にもシャチとかアシカとかの海獣がいて、円筒形やリング状の巨大水槽が何層にも渡って貫通していて、運動性を確かめる試験プールの中には人間用の通路が何本も走っていたって」

「……田中さんの伴侶の方は、研究者だったんですか?」

 振り返ってカノエが問い掛けると、老女性はゆっくりと首を横に振った。

「ただの警備主任よ。正確には施設部維持管理第三課主任。より正確には、他の人に比べてイルカへの思い入れが強い人」

 老女性のその言葉で〈首輪〉がおおよそのあらましを伝えてきたが、カノエは慎重を期して問いを重ねる。

「……あの場所で、何かあったんですね」

「逃がそうとしたの。カウントダウンは絶対止まらないって、わかっていたはずなのに……」

 嗚咽を漏らしながら老女性は言い、予想通りの答えにカノエは口をつぐんだ。

「……本当に馬鹿な人。顔も名前も思い出せないぐらい耄碌してしまったのに、あの日起きた出来事はどうしても忘れられないの」

「…………」

 カノエの〈右目〉の隅には、このような概要が浮かび上がっていた。

 ――自称田中輝冠の伴侶とされる人物は、飼育中の海獣ごと施設を処分するために発射された精密誘導式地中貫通弾道弾スレッジハンマーが迫る中、海獣を逃がすために施設へ留まった、もしくは赴いたものと推測される。

「けど、仕方ないわ。あの人ひとりのためにミサイルの発射を遅らせるよりも、私に支払う遺族給付金のほうがずっと安いというだけ。職務を逸脱した行為だから労災なんて下りるはずもないし、損害賠償を求められなかっただけありがたいと思わなきゃ。それでなくても私は、大した社会貢献もできずに生きてきたのだもの」

 ひとりごちる老女性の口ぶりは諦めに満ちていて、長い孤独の中で何度も自分に言い聞かせてきたのだろうと推測した。

「……だからここに、留まっているんですね」 

「だってあんなに大きなもの、プライベートボックスに入り切らないでしょう? どうしてもあの人を置き去りにできなくて、だから私は、ここに置き去りにしてもらったの」

「……それは具体的に、どのようにして?」

「多分きっと、そんなに難しいことじゃなかったと思うわ。あの人の同僚や部下の方々に、便宜を図ってもらっただけ」

 これ以上の深追いは無用――〈首輪〉がそう判断したので、カノエは「そうですか」と言って窓の外へ視線を逃がした。

 かけがえのない存在と共にあり続けるための選択。こんな辺境に住み暮らす理由としては十分だ。その心情も理解できる。

 もしも自分が、レイモンドを置き去りにしなければならない状況に陥ったとしたら。そのときはきっと『一蓮托生』という選択が頭をよぎるだろう。

 彼の残機をいたずらに潰し、無駄死にさせてしまったことへの罪悪感。失われた命をどうやっても取り戻すことができない無力感。

 そして彼は、こう言うだろう。きみだけでも生き延びろ、と。きみが生きていなければ、着替えて戻ってくる価値はないのだから。

 そのとき不意に、ある光景がカノエの脳裏をかすめた。

「……田中さんは、似顔絵をご存知ですか?」

 打ち捨てられたプライベートボックスの中に、ただ一つ残されていたもの。

 転勤という名の強制移住には付き添わせず、置き去りにされていたもの。

「居住者の痕跡を探す中で、偶然に見つけたんです。恐らくは似顔絵ではないかと思われる、画用紙にクレヨンで描いた」

 ひとり言めいた問いを背後に投げ掛けながら、垂直に突き刺さったミサイルを遠くに見ながら、カノエは強く感じた。

 二度とは戻って来れないけれど、墓参はできないけれど、それでもあれは、きっとお墓だったのだ。

 カノエが脳内で連想ゲームを繰り広げる一方、背後にいる老女性は何の反応も見せない。

「…………」

 もしかすると、暗に告白した家探しスカベンジングが気に触れたのだろうか。それともあの似顔絵には、もっと別の意味があったとか。

「その……す、すみません。調査の一環として、屋内への立ち入りが必要だったので……」

〈首輪〉の用意した文言を口にしながら向き直るカノエだったが、老女性の様相に思わず半歩後ずさった。

 先ほどまでの快活さが嘘のような悄然とした面持ち。背中を丸め、虚ろな目は床に向けられ、半開きのまま口は動かない。その姿は、機能凍結フリーズを起こした機械化老人そのものだ。

「……あ、あの?」

 恐る恐る声を掛けるが反応はない。〈右目〉で捉える限り心臓も呼吸も正常なのに、意識だけが飛んでしまったようだ。

「ど、どうしよう……」

 カノエは迷った。〈右目〉には介抱の手順が映し出されているが、他人の身体に触れるのは抵抗感がある。かと言って、意識が戻るまで様子見するのも何か違う気がする。

 答えを探すように部屋の中を見回すが、やはり気になるのは例の業務日誌だ。

 ――輝冠さんの意識がない今なら、盗み見してもバレないのでは。

 一度よこしまな考えが頭をよぎると、カノエの気持ちは大きくそちらに傾いた。ここで有力な情報が得られれば、自分たちのこれからは大きく変わる。彼を危険な目に遭わせなくてもよくなるかもしれない。

 業務日誌を取る前にもう一度〈右目〉を走らせ、罠の有無を確認する。何度見ても同じだ。埃が拭い去られている以外に不審はない。老女性も依然として凍り付いたまま。ルルーもこちらを見ていない。外へ行きたいのか、なぉんあぉんと鳴きながら玄関ドアの前を右往左往しているところだ。

 ――よし。

 カノエは意を決し、業務日誌を手に取った。緊張で胸が高鳴り、震えそうな手をスキンスーツが強固に支える。

 業務日誌の中身はルーズリーフ規格のノート用紙で、黒いゲルインクで手書きの文字が綴られている。筆跡は背表紙と同一人物だ。内容は後で確認すればいいので、〈右目〉に収録することを意識して機械的にページをめくっていく――が、その手が急に止まった。

「ひっ」

 カノエは小さく悲鳴を上げた。なぜなら、枯れ枝のような老女性の手に、右腕を掴まれていたからだ。

「ごっ、ごめんなさ――」

 とっさに謝罪するカノエだったが、すぐにその表情を凍りつかせた。老女性の握力が異常に強いのだ。スキンスーツ表面の計測で七十キロ。しかも、まだ上昇し続けている。七十五キロ――八十キロ――八十五キロ――スキンスーツが硬化してカノエの腕を守る一方、骨と筋ばかりの細い手からはみしみしと嫌な音がする。

 だが、それ以上にカノエを怯ませたのは、虚ろなままの老女性の表情だ。体温の上昇傾向がわずかに見られるだけで、変わらずフリーズし続けている。

「あなた、メロン体ってご存知?」

 唐突に老女性の口が開き、それまでと同じ穏やかな声色が流れ出た。「ハクジラ亜目に属するクジラやイルカの頭部に備わっている脂肪組織で、主にエコーロケーションで用いられる器官なの」

 自然な抑揚には感情が込められ、にも関わらず老女性の顔には一切の感情が現れていない。まるで、仮面を被せられたように。

 カノエが対応に迷っているとと、おもむろに老女性の顔が持ち上がった。

「それって、何かに似ていると思わないかしら?」

「え……?」

 老女性が何を言わんとしているのか、〈首輪〉がすぐに教えてくれた。

 レイモンドの脳に施したインプラントにより、発振装置と化した眼球内のタペタム層。彼との〈会話〉を成り立たせている技術――つまり、ヒラサワ計画との関連性だ。

「……何を、言っているんですか?」

 カノエはひとまず否定した。老女性がなぜ豹変したのか、その理由なり原因なりがわからない以上は迂闊に反応できない。

 この状況は、間違いなく誰かが糸を引いている。仕組まれている。陥れようとしている。そうでなければ説明がつかない――

「し、らない……」

 突然、老女性の口から苦しげな呻き声が漏れ出た。「知らない……知らない、知らない、知らないわ。そんなもの、私は知らない……のに」

 老女性の顔には一転して恐怖が現れるが、目はあらぬ方を向いたまま。カノエを掴んでいる手も、緩むどころかさらに力を増している。

「わ、私……どうなっているの? まるで私が、身体が、乗っ取られて……」

「田中さん!」

 だが、田中輝冠てぃあらと思われる人格の露出は数秒にも満たなかった。

「私は、わた、しは、わたし、はわ、た、しは、わ、たしは、わたし、はわた、しはわ、た――」

 恐怖に顔を歪めたまま絞り出される、奇妙な抑揚とイントネーションの繰り返し。〈首輪〉は即時退去を強く促してくるが、老女性の指は固く食い込んで離れてくれない。

「く……っ」

 彼女の身に危害を加えていいのなら話は簡単だ。方法はいくらでもある。暴力的かつ効率のいいプランを〈首輪〉が次々に提案してくれる。

 けれども、最終的に決断するのはカノエだ。彼が近くにいない今、無数に存在する選択肢の中から自分の意思で選び出さねばならない。

 カノエを躊躇わせているのはルルーのことだ。彼には甘いと言われるかもしれないが、ルルーをひとりぼっちにさせたくはない。

 なおも迷うカノエを見かねるように、〈右目〉が経穴の位置を示す。経絡へ刺激を与えれば、老女性の筋力を一時的に奪えるかもしれない。カノエは業務日誌を手放し、早速このプランに飛びついたが――

手五里てのごり……陽谿ようけい陽谷ようこく……曲池きょくち

 カノエの突いた場所を老女性が正確に読み上げ、すぐさま手を引っ込めた。

「こ、れって……?」

 老女性の握撃に変わりはない。抗議の声を上げるでもなく、ただカノエの腕を握り続けている。

 この、ヒューマンビートボックスじみた挙動は何なのだろうか。老女性の身に、何が起きているのだろうか。

 得体の知れない不安におののく一方で、老女性のある変化を〈右目〉が感じ取っていた。老女性の体温がじわじわと上昇を続けているのだ。それも、首から上の頭部に掛けて。

 その刹那、漠然と存在していた不審が確信へと凝集した。

「……田中さん。そのマフラーの下を、見せてください」

 言いながら、空いている左手を老女性の喉元へ伸ばしていくカノエ。だが、あと十センチにまで迫ったところでいきなり手刀を入れられた。もちろん老女性の手だ。カノエの右腕を離し、今度は左腕を掴み上げる。

「た、田中さんっ!」

「……ここには、置き去りにされてしまったものが多すぎるでしょう? 家族写真や日記や、思い出の詰まっていそうな品がたくさんあるし、あのまま放っておくのも忍びなくて、だからこうして」

 骨を軋ませ、渾身の力でカノエの手を防ぎながら、脈略なく話す言葉はあくまで穏やかだ。痛覚のないゾンビのような――いや、自分の推理が正しければ、これはむしろ機械化だ。

「お願い……です、から!」

「ルルーは私の家族なの。ルルーは、ええ……だけど、ルルーはそんな、確かに違うけど、だってここには、もう覚えていなくて。忘れるはずなんてないのに、でも……ああ、どうしてかしら。ルルーじゃない、私には、もう……」

 二人の力比べは表面上拮抗しているが、実際には圧倒的にカノエが優勢だ。リミッターが外れているとはいえ老女性は自分の身体しかなく、スキンスーツを着込んでいるカノエが負ける道理はない。骨折させてもいいのであれば、勝負は一瞬で決まるだろう。

 しかし、カノエはそうしなかった。〈首輪〉の出したプランに従って一度手を引くと、老女性が力を緩めた隙を狙って足払いを繰り出す。そして、身体がぐらついて体勢を崩したところで素早くマフラーを奪い取った。

 次の瞬間、複数の出来事が同時に発生した。

 マフラーで隠れていた老女性の首には、五センチ幅の首枷が嵌っていた。

 首枷の表面温度は五十度にも達し、全方位に向けて強力な電磁波を発していた。

 マフラーはひとりでに発火し、一秒と経たないうちに跡形もなく燃え尽きた。

 レイモンドを示す光点が、突如としてこのエマージェンシーハウスの外に現れた。

 スキンスーツが外部コントロール下に入り、カノエの身体が勝手に動き出した。

「ま……待って!」

 起き上がろうともがく老女性を正面に捉えながら、両足がひとりでに後ずさりを始める。いま自由に動かせるのは、スーツに覆われていない〈首輪〉から上の部分だけだ。

「レイ! 逃げるのは、まだ――」

 居室を出たところで身体の向きが反転し、玄関に向かって駆け出す。背後を振り返り見ると、操り人形めいた動きで立ち上がった老女性が追いすがる気配を見せていた。床の業務日誌を踏みつけにしながら。

「まだ全部、取り込んでないのに……!」

 しかしカノエの身体はドアノブを回し、屋外へと躍り出ていた。

 足元に何かの気配を感じたので下を向くと、ルルーがカノエを追い抜いていくところだった。その向かう先には小さな影が――レイモンドの姿がある。

《言いたいことはあるだろうけれど今は非常事態だ。すみやかにあのバアサンから物理的な距離を取る必要がある。しばらくの間は、ぼくの指示に従ってもらうよ》

《でも》

《荷物を背負ったままだった点は高く評価するよ。もしも下ろしていたら、五秒は確実にロスしていただろうからね》

 しばらくぶりの〈会話〉が終わった途端、頭蓋を割らんばかりの激痛がカノエを襲った。

「っぐ、ああ゛ぁっ!」

 無理やり走らされ続けるカノエは、声を出して苦痛を発散するしかなかった。

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