第5話

 目を覚ますと部屋に西日が射し込んでいた。

 しっかりと寝たはずなのに身体が重い、思っていたよりも疲れていたらしい。バイトというよりは、海老名菜々子の一件での精神的疲れの方が大きいのだろう。今日バイトが休みだということが、唯一の救いだった。

 スマホを確認すると真知からLINEが届いている。

『今日は、どう?』

 真知も今日は休みのようだ。素っ気ない誘い方で、色気など微塵も感じさせない。だがその誘い文句が俺たちの関係に最も相応しいものだと思う。

『わかった。何時ごろいけばいい?』

 返信を送りスマホを閉じようとすると、すぐに既読がつく。

『8時ごろから、すこし呑まない?』

 真知からのそんな誘いなどなかったからか、すこし驚いた。真知とヤるときは最初のとき以外、いつだってシラフだったし、二人でどこかへいったことなど一度だってない。

 しかし断る理由もなく、たまには酒に酔ってからのセックスもいいだろう返信をする。

『じゃあ駅前に8時で』

 時計をみるとまだ4時半だ。机の上に無造作に置いてあった文庫本が目についた。ツルゲーネフ『はつ恋』。買ったもののまだ読まずにいた小説。時間を潰すのにはちょうどいいかと、手を伸ばした。


 ウラジーミル少年は、隣に引っ越してきた年上の美しい女性、ジナイーダに恋をした。恋することを知らなかった少年は、自分のこの気持ちがなんなのかよくわからない。

 ジナイーダは男を弄ぶのが好きな女性だった。いつも周囲に男を侍らせては、意味深な態度を向けて遊んでいる。ウラジーミル少年はジナイーダに夢中になった。これが恋なのかと初めて自覚した──

 俺は読んでいて苛立ちが募るばかりだった。ジナイーダの態度も、それでもこの女を好きになっていくウラジーミルにも。

 ジナイーダはあろうことかウラジーミルの父親と恋に落ちる。その結果、ウラジーミル一家は引っ越すことを余儀なくされてしまった。自分の生活環境をめちゃくちゃにされてまでも、変わらぬ愛を向けることなどどうしてできるのだろうか。


 駅で落ち合った俺たちは、駅前のBARへと入った。平日ということもあり客はすくない。店内には間接照明がいくつもあり、BGMで流れるジャズミュージックがナイトクラブとは違う独特な雰囲気を漂わせている。

 真知と並んでカウンターに座る。俺はソルティー・ドッグを、真知はカンパリ・オレンジを注文した。

 真知は壁棚に並ぶボトルの数々を眺めている。うっすらと肌にのった化粧。俺が部屋を訪れるときには一切の化粧っ気もないというのに、さすがにそとに出るとなるとこいつも化粧ぐらいはするらしい。

「なんだか違和感しかないな、お前とこうしてそとで呑むなんて」

「そう?」

「バイトかお前の部屋でぐらいしか会わないだろ? 俺たち」

「……」

 俺の問いかけに真知はなにも答えなかった。初めて言葉を交わしたときから不思議な女だったのだ、こんなことで驚きはしない。マスターが俺たちの前にそれぞれドリンクを置く。俺はグラスを手に取って一口呑んだ。縁についた塩と、グレープフルーツの酸味が口のなかで甘く広がっていく。

 真知は赤いカクテルを視線の高さまで上げて、漂う液体をうっとりとみている。グラスに口をつけると真知の薄い唇がカンパリの赤に染まっていってしまいそうだった。

 グラスから口を離すと、すこしつり上がった目を細め俺をみる。真知の表情には寂しいような、悲しいような感情が見え隠れしている。

「ねぇ。けいすけには、私のことがどうみえているの?」

「え、どうしたんだよ急に?」

 真知はカウンターの上に置いたグラスを覗きこみ、カクテルに写る淡い照明の明かりをみているようだった。

「私はけいすけが月のようにみえるわ。暗闇を照らす頼りない月明かりのように」

「なんだよそれ。悪かったな、頼りなくて」

 小説の読みすぎか、意味不明なことをいう真知に俺はため息を漏らす。グラスを綺麗に磨きあげる初老のマスターが、こちらに視線をやった気がした。

「そういう意味じゃないの。頼りないけど、暗闇にとってはかけがえのない光なのよ」

「わかったわかった。で、なにがいいたいんだよ?」

 訳のわからないことばかりをいう真知に呆れて、真意を問いただす。遠回しに長ったらしく会話を続けていくのはどうも苦手だ。

 真知は思い詰めたように、グラスを握る俺の手を見詰めた。

「その……私たち、そろそろ付き合ってもいいんじゃないかしら?」

 伏せ目がちの瞳はわずかに揺れている。なぜ真知は急にこんなことをいいだしたのだろうか。俺はいまの俺たちの関係を好ましく思っていた。男女の関係性として最も美しいものだと思っていた。

 真知もそう思っていると、俺は勝手に思い込んでいたのかもしれない。

「なにか、あったのかよ?」

 俺の言葉に真知は静かに首を振って答えた。

「もし付き合ったとしても、私たちの関係が大きく変わることはないと思うわ。けれどそれだけで体裁が保てるのなら、それが一番いいと思うのよ」

 なるほど、そういうことか。真知も俺が狛江にいわれたようにして、誰かに俺との関係性を非難されたのだろう。「ちょっとは人の気持ちも考えろよ」と、憤っていた狛江の言葉が耳に残っていた。他人に俺たちのことをとやかくいわれる筋合いはないが、たしかに形だけでも付き合ってしまえば、この先そういった面倒事からは逃れることができる。

「まあ、それもありか……」

 俺の呟きのような一言に真知は一瞬驚いた様子をみせたが、やがて微笑んだ。

「良かったわ」

 いつも感情を表に出すことのない真知の、その不意討ちのような笑顔に、思わず鼓動が高鳴る。この動揺を悟られまいと、俺は再びグラスを口に運ぶ。すぐに呑みきってしまい、マスターに同じものを頼んだ。

 付き合っても関係が変わることはない。それはその通りだと思う。そもそも体裁を保つためだけの表面上のものに過ぎない。真知が必要以上に俺に入れ込むことはないし、逆もまたしかり。この場であっても互いにそれといった会話もなく、ただ個々でカクテルを楽しんでいる。

 一時間ほどはそうしていただろうか。いま呑んでいるものを最後にしようという話になった。店内にはちらほらと客も増え始めている。

 真知よりも先に俺のグラスが空になった。とりあえず会計だけ済ませようかと財布を開いていると、懐かしい香りが俺の鼻腔をくすぐる。ココナッツのような甘ったるい匂いだ。

 月明かりだけの薄暗い部屋を思い出す。いまにも消えてしまいそうな横顔で、膝を抱えてタバコの灰を落としている。俺はただ部屋の隅に突っ立って、床に座る彼女を見詰めていた。彼女は、何者も写っていないような瞳で、月を見詰めている。

「……みちる?」

 香りのする方を振り向くと知らない女の二人組がいた。一人がタバコを咥えて、隣の女と笑い合っていた。カウンターのうえにはカクテルグラスとライター、そしてBLACK DEVILココナッツフレーバーのパッケージ。

「どうしたの?」

 真知が不思議そうに俺をみている。

「いや、なんでもない」

 とっさにそう誤魔化して、俺はマスターを呼んだ。

 いま一瞬だけみた光景に胸が締め付けられた。あれはちょうど三年前の記憶だ。あれからもう三年もの月日が流れてしまったのかと思うと、感覚が麻痺してしまいそうだった。

 冷たい指先でかろうじて財布からお札を抜いた。マスターから受け取った釣り銭の感触がわからない。それほどまでに俺は彼女のことばかりを考えていた。

 真知と二人して店を出た。秋雨がポツポツと降ってきていた。真知の住むマンションまでさほど離れているわけではなかったし、雨も強くはない。俺たちは冷たい雨に身を濡らしながら、街頭に照らされた道を歩いてゆく。街路樹が紅く紅葉し始め、雨の雫に輝いていた。

「けいすけ、さっきから変じゃない?」

「え……そうか? そんなに呑んだつもりはなかったけどな」

 真知のマンションにたどり着くと、階段で3階まで上がっていく。真知がバッグからキーを取り出して、部屋の鍵を開けた。玄関のスイッチで、暗い室内が明るくなった。何度も訪れた真知の部屋。

 俺は玄関に入ることができなかった。

「どうしたの?」

「悪い、今日は帰るよ。悪酔いしてるみたいだ」

 いってみたものの、悪酔いどころかむしろ冷静だった。彼女の記憶が、真知の部屋へと入っていくことを拒んでいるみたいだった。

「すこし寝ていけばいいのに」

「……いや、いいよ。帰って寝るから」

「……そう」

「悪いな……」そういい残し、俺は真知の部屋をあとにする。二人で上った階段を、二人で歩いた道のりを、俺は一人でたどっていった。

 雨は上がっていた。空を仰ぐと、雲の隙間から月がみえている。

 満月の夜だった。彼女と最後に過ごした日の夜空にも、陰りのない丸い月が浮かんでいた。

 ──生田充瑠。

 大学生三年のときに出会い、すぐに付き合い始めた女だ。

 一つ歳上の彼女は、俺の目からは大人びてみえた。いつも憂いを帯びたような表情をたたえ、口元だけで笑みを作っていた。ミステリアスでいて、普通の人々とは違う何かを持っていた。

 俺と彼女は似た者同士だった。孤独を愛し、馴れ合いを嫌った。そのくせどこかで温もりを求めていた。

 彼女が誰かと一緒にいる姿などみたことがない。俺の部屋にいるときは、ほとんどの時間を窓辺から空を見上げて過ごしていた。

 彼女は学生というわけではなかった。高校を中退し、ずっと夜の街で働いていたらしい。なにをしていたのかなんて、詳しく聞いたことはない。家庭環境がそうさせたのか、彼女は自分の身の上を話したがらなかった。俺もむやみに彼女のことを詮索しようなんて思わない。ただ俺は、彼女がそばにいてくれるだけで、それだけで良かったんだ。

 人を愛するということがどういうことなのか、いまの俺にはよくわからない。

 この行き場のない感情を愛と呼ぶのなら、俺は彼女を愛していたのだろう。

 本当の意味での大切さなんてものは、失ったときに初めて気づくものなのだと知った。

 厳かに濡れたアスファルトが、街の明かりを映している。しだいに晴れていく空は、月明かりで淡い濃紺に染められていく。俺は彼女が同じ空の下にいることを願い、月を見上げた。

 ウラジーミルはどうなったのだろうか。『はつ恋』の続きを俺は知らない。苛立ちにまかせ、読むのを途中で辞めてしまった。一度放棄した小説をまた読もうとは思わないから、俺が彼らの行く末を知ることはもうないだろう。

 ウラジーミルがジナイーダと離ればなれになってしまってからの物語を想像する。俺がウラジーミルだったらジナイーダに会いにいくだろう。そこにいけば会えるとわかっているのならば。

 二人がまた出会えることを切に願った。

 街頭が俺の影を薄く、長く、伸ばしている。厭に重たい身体をずるずると引きずるように歩いていると後ろから誰かがぶつかってきた。俺は2、3歩たたらを踏んで後ろを振り返る。

 狛江が立っていた。なにか声をかけようとしたが、みたことのない狛江の形相に言葉が喉の奥で詰まった。街頭の下に立った狛江の表情は怒りに満ちている。手にはひときわ目立つナイフがあった。先端から黒い雫が滴っている。

「……え?」

 背中が熱い。

「お前は最低な男だよ、佳祐。お前が生きているだけで、たくさんの女の子が不幸になっていく」

 雨とは違う暖かいものが、背中を濡らしていった。

「痛いか? 苦しいか? なあ、佳祐。どうなんだよ? お前に罵倒されたときのなななちゃんの苦しみはこんなものじゃなかった!──」

 狛江の声が遠くなっていく。身体から重さがなくなっていく。かわりに力が入らなくなっていった。目蓋が重くなり、狛江が近づいてくるのが微かにみえた。

 腹部への衝撃に、俺は仰向けに倒れてしまう。アスファルトに頭をしたたかに打ちつけてしまったが、不思議と痛みは感じられない。狛江が何かをいっている。耳鳴りのような静寂が、彼の言葉をさえぎる。狛江は俺から目を反らすと、遠くの方へと走っていった。

 冷たい彼女の肌は柔らかく、きつく抱き締めると暖かかった。

 ──ケイスケ。

 「……みちる………」

 甘いタバコの煙が、彼女の匂いだった。

 俺は彼女の一部だった。彼女は俺の一部だった。俺たちには目にはみえない繋がりがたしかにあると信じていた。

 俺の前から彼女は消えた。

 あの日から俺は彼女を探している。彼女が暮らしていた夜の街を歩いて、彼女の面影を、彼女の温もりを、探していた。

 俺はいまでも待っている。同じ場所で、彼女が帰ってくることを。

 眼前に広がる景色は彼女とともにみたものによく似ている。木々の葉が紅く、深紅に、染まってゆく季節。雲から覗く満月が綺麗だった。

 いっだって彼女は、俺の隣で空を見上げている。

 「…………みちる……」

──ケイスケ────

 彼女の声がする。みちる、そこにいるのか?

 俺は暗闇のなかへと手を伸ばす。彼女の温もりをたしかめるために。暗闇にたたずむ彼女は夜を見上げている。やはり彼女には夜が似合った。

 そして彼女は月夜に笑う。

 彼女が消えた理由を、俺はいまも考え続けている。

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そして彼女は月夜に笑う 小玉 幸一 @ko-ichi-kodama

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