第15話 授乳狂時代 |5-2| 牧原征爾
「奥様がいらっしゃらないと、母乳の生成に必要な血液採取が出来ないのです。契約を更新される場合は、登録された母乳の成分情報を含め、記録されたすべてのデータが引き継がれますが、一度契約を解除されてしまうと、アンドロイド及びニューテック社のデータベースに保存されていた内容はすべて消去されてしまいます。そうなってしまっては、旦那様が非常に困るのではないでしょうか?」そのように話す声音は、サイトウのものに戻っていた。そこに俺は一筋の安らぎの光を見出した気分だった。ただ語られた内容は、消費者側に対してひどく不利な条件に思われた。更新を半ば強制的に促すためにデータを人質に取った悪徳な商法の気配がした。
「いくらなんでも、そんなの都合が良すぎないか。それじゃあ、まるで……」と俺は言葉が続かなかったが、サイトウはその意味を汲み取った様子で「ご迷惑お掛けして申し訳ありません。ただ我が社がベビーシッター業界へ参入したのはつい最近のことでして、同業他社に比べてかなり後発組という事情があるのです。そのためサービスのリリースを急いだこともあり、基幹システムに関して未開発ともいえる部分が多々あるのが実情でございます。お客様のデータ保管に関しても制限がある状態での運用となっているため、心苦しい限りではございますが、ご利用を継続されているお客様のデータの保持を優先させて頂いております。重ねてご迷惑お掛けしていることをお詫び申し上げます。」とサイトウはすらすらと定型文のような文言を言って、すまなそうな表情を浮かべているのだが、俺は謝罪されている気分にはまったくなれなかった。更新期における顧客の成約率がもっとも高まる謝り方としてプログラムされた内容……、そんな感じだった。
「つまり君の契約更新をしなかったら、赤ん坊にあげる母乳がなくなってしまうということなのか?」
「奥様がご帰宅されない限りにおいては、おっしゃる通りです。」
「どうして、そんな……。君らの会社のウェブページにはいろいろ書いてあるじゃないか!」俺はほとんど取り乱していた。
「ニューテック社の主力商品はセクサロイドであることは、旦那様もご存知でいらっしゃるかと思います。」サイトウの声がにわかに遠のいたような気がした。いま、セクサロイドと言ったのか?いや、そんな気がしただけで聞き違いかもしれない……、でも確かにサイトウはセクサロイドと言った気がする。夢の中のような不明瞭な声で放たれた現実味のない単語……、俺は次の瞬間に悪夢から目覚めてすべての厄介ごとから解放されたりしないのだろうか?
「ベビーシッターじゃないのか?」
「……私の本来の目的は、お客様を性的に満足させることなのです。そのための業務用セクサロイドとして開発されているのですが、現在では需要の高まりに応じる形として、赤ん坊やお子様のお世話をしたり、高齢者の介護をするためのプログラムも併走しています。」
唐突に今朝の同僚の浮かべていた表情が思い出された。あのとき、去り際に「うちのはニューテック社製だ」と伝えた瞬間の、あいつの虚をつかれたような表情。あいつはニューテック社の製品がどんなものなのか知っていたわけだ。「ベビーシッターを頼んだつもりなのに、やってきたのはセクサロイドだったんだぜ。あいつ、いったいなんの世話をしてもらうつもりなんだろうな?」と俺の失態はちょっとした小噺のネタにされて、「ハハハッ!」と快活に下卑た笑いと共に他の同僚たちへと共有されることになるのだろう。しかも妻が失踪したことがいずれ知られることになったら、「あいつは家から奥さんを追い出してセクサロイドを招き入れた変人だ」などと尾ひれのついたあらぬ噂をたてられることになるかもしれない。そのせいで俺自身が職場で肩身が狭くなって、今後の出世を期待するどころか閑職としての居場所すらなくしてしまい自主退社を余儀なくされるような事態にでもなったりしたら、それこそ笑えない話になってしまう。
窓の外が稲光で一瞬真っ白になったかと思うと、すぐに爆発音のような雷鳴がかなり近いところからとどろき地響きが起こった。サイトウに抱かれていた赤ん坊が、その轟音に驚いて泣き始めてしまった。俺は久しぶりに赤ん坊の泣き声を聞いた気がして、ある種の懐かしさを覚えた。
「そろそろ寝る時間だったのです。お部屋の照明を少し落としますので。」とサイトウがなぜか弁明がましく言う。そして薄暗くなった室内で、彼女は着ていたVネックのニットセーターを胸元までまくり上げて乳房を赤ん坊の口に含ませた。大理石を思わせる彼女の乳白色の肌が薄暗い室内にあって、ぼんやりと浮き上がって見えた。
妻のこだわりでもあった「授乳」をしないで済むなら、サイトウとの契約を更新する必要なんてないのではないか?母乳をあげなくたって粉ミルクに切り替えて、別の業者のベビーシッターを頼めば急場はしのげるはず。別にこっちはアンドロイドにこだわりがあるわけじゃないんだ、割高になったって人間のベビーシッターを頼むことだってできる。その間に、俺は妻の居所を探し出して、家に戻ってくるように説得してみよう。仕事の方は有給休暇をとってしまえば済むはずだろう、なんせこれまで仕事人間としての本分をまっとうしてきたのだから、たっぷりと休暇は申請できるはずなのだから。
「赤ちゃん、寝てくれましたよ」とサイトウが静かに言った。いつもより、その声が艶めかしく感じられた。赤ん坊をベビーベッドへと静かに置いた瞬間に、室内が白い光で照らされ雷鳴が響いたが、眠り込んでいる赤ん坊が起きることはなかった。
「継続してサービスをご利用されるかの判断は、まだ明後日まで時間があることですし、とりあえず今はゆっくりされたらどうですか?」
俺はベビーベッドの転落防止用の柵に両手を添えて、薄暗い室内で妻を呼び戻す方法を思案しつつ赤ん坊の寝息に耳を傾けていた。すると、サイトウが俺の横に静かに寄り添ってきた。
「旦那様……」と彼女は小さく俺の耳元で囁いた。俺の肩に手を掛けて自身の胸元に引き寄せると、赤ん坊が飲んでいた方とは逆の乳房を俺の口にあてがった。躊躇することもなく、俺はそのことをごく自然なこととして受け入れた。彼女の手が俺の頭を優しく包み込むように撫でつけていて、もう片方の手は俺の股間をゆっくりと丁寧な動作でさすることで性的な刺激を誘発していた。
まだサイトウの契約更新の期日まで丸二日も時間があるじゃないか、妻をどのようにしてこの家に呼び戻すかの方法を考えるのは、その後からでもいいのではないだろうか?いままさに激昂している真っ只中にあるはずの妻の方も、二、三日後には怒りが幾分か収まっているかもしれないし、冷静になってくれていた方が説得もしやすい可能性だってある。それに、せっかく支払ったサイトウへの利用料が無駄になってしまうのも面白くない。そうだ、残りの二日間も有給休暇を取得してしまおう。サイトウの身体を時間が許す限りじっくりと堪能して……、それからすべてを考えたって遅くないじゃないか。
(了)
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授乳狂時代 |5-2| 牧原征爾
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授乳狂時代 牧原 征爾 @seiji_ou812
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