第14話 授乳狂時代 |5-1| 牧原征爾
「おい、うちの妻がいなくなったみたいなんだ。どこにいったか知らないか?」俺は家に戻るなりサイトウに詰め寄った。眠っている赤ん坊を抱えていた彼女が「旦那様、あまり大きい声を出されると、起きてしまいます。」と、抑揚のない職務的な調子で答えた。意外なことに俺との身体の関係性が生じたことによる馴れ合いみたいなものをおくびにも出さないのだ。昨晩の紅潮した甘ったるく煽情的な表情はどこへいってしまったのか。
「とにかく、どこにいるんだ?あいつ、日中はこの家に居たのか?それとも一度も帰ってきてないのか……。なんでもいいから、知ってるなら早く答えてくれって!」俺は妻がもしかしてどこかに隠れていやしないかと部屋中をせわしく見渡しつつ、まったく慌てる様子もなく赤ん坊を抱えながら悠長に身体を揺らしているサイトウに懇願するように返事を求めた。
「奥様は、昨晩遅くに……、正確には本日の未明となりますが、この家を出ていかれました。どこに行かれたのかはわかりかねますが……。少なくともまだこの家にはお帰りになられておりません。」サイトウは俺の方を見ることもなく、手に抱いた赤ん坊に視線を落としたままなのだ。その態度は無性にこちらの神経を逆なでするものだった。どうして妻が行方不明になっているという家庭の危機的状況に直面している者に対して、機械的に報告書を読み上げるような対応ができるのだろう……、そうか、そうだった、こいつはアンドロイドなんだった。どうして、俺はそんな肝心なことを忘れていたのだろう?
「夜中に出て行った……。なんで、お前がそんなことを知ってるんだ?」
「昨晩、旦那様と私が性交をしている様子を、奥様が扉の隙間から覗いていらっしゃいました。そのあと旦那様が眠ってしまってから、奥様は簡単な荷造りをされておりましたが、しばらくして玄関の扉の開閉音がしまして、奥様が外に出ていかれた様子でしたので……。それ以後は、この家にお戻りになられていないことまでは把握しております。」とサイトウは、淡々と事実のみを伝えてきた。
事の成り行きを素早く正確に把握したかったという意味では、感情的になったり叙情的な言い回しをしない分だけ、無機質なサイトウの語り口は簡潔でむしろありがたかったと言える。ただその反面、このポンコツロボットはなにが家庭や家族にとって重要なのかといった事柄に関しては、てんで無頓着でわからないらしいのだ。むしろ徹底的に理解できないように作られているかのようだった。
「うちらがセックスしてるのを覗かれてたっていうのかよ?お前、正気か?なんでそんな重大なことを先に教えてくれなかったんだ!」卒倒しそうな気分だった。
「そのような事項に関する報告義務は課されておりませんので。」
今更になって、どうして俺はあんなことをしてしまったのか、という強い後悔の念が押し寄せてきた。しかも、こんな人もどきの欠陥品と……。ただ、欠陥品という名の物体と行った性交渉は、果たして不貞行為に該当するのだろうか?まあ、妻が愛想をつかして出ていってしまった事実から考えても、人間の感情としては立派な不倫という認識になるのだろうが。
「今後に関してですが」と暗澹たる気持ちで物思いにふけっていた俺のことをよそに、サイトウは唐突に――それこそ壊れたロボットのように――話し始めた。「奥様が出ていかれてしまった現状を
サイトウからそのように提言されてみて、俺は決定的に重大なことを見落としていたことに気づかされて唖然とした。どうして、今のいままでその一点が空白になったまま、認識されなかったのか不思議でならなかった。妻は赤ん坊を置いていってしまったのだ!そして、俺は日中、仕事があって赤ん坊の世話など出来るはずもなく、妻が戻ってくるか赤ん坊を引き取りに来るかでもしない限り、サイトウに世話をしてもらう他に選択肢がないのだ。当然ながらサイトウがベビーシッターとして居残る家に妻が戻ってくる可能性など万に一つもないだろう。もがき苦しんでも、その分だけ深みにはまっていく蟻地獄に落ちてしまったかのような絶望的な気分だった。この苦境から抜け出せる術がまったく見えてこない。
逆に俺のことを徹底的に懲らしめてやろうという妻の魂胆がよく見えるようだった。それにしても、夫に対する懲罰のために我が子を利用するなんて、人としてあるまじき行為なのではないだろうか。「人の心を持たないやつら」とアンドロイドを馬鹿にできないぐらい、血の通わない冷酷過ぎる仕打ちじゃないか……。
「契約期間終了の期日が明後日に迫っています。サービスの継続をご希望される場合は、更新の手続きを行ってください。」とサイトウとは別の機械的な音声ガイダンスが、彼女の口元から流れてきて、俺はギョッとした。
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授乳狂時代 |5-1| 牧原征爾
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