君に会いたい

「桜前線は平年通りに上昇しています」

 テレビの中でお天気キャスターがそう言った。近所の桜の木ももうすぐ咲きそうだったな、と出かける準備をしながら思い出す。

 いつもよりしっかりとメイクをして、薄手のコートを羽織って玄関の外に出た。

 太陽の光が柔くなって、空にはふわふわとした綿菓子みたいな雲が流れている。少し甘い暖かい風が吹いて、春の匂いがした。

 耳の中に突っ込んだイヤホンから流れているのは君がよくカラオケで歌っていた曲。最後に君が歌っているのを見たのは、もう、二年も前のことになるけど。

 向かった先は近くの川。

 今日は大切な約束があるのだ。私は、昔君と話すときに使ったベンチに腰をおろした。

 背後の道を半袖短パンの練習着姿の学生たちが走っていく。自転車に乗り始めたばかりであろうピンクのヘルメットをかぶった女の子が、父親と一緒によろよろと自転車を漕ぐ練習をしている。目の前の河川敷で男性が飼い犬のリードを外して走り回っている。野球バッドを担いだ泥だらけのユニフォーム姿の少年が二人、笑いながら土手を駆け上がってくる。

 ここにはそんなありふれた日常が広がっていた。

 冬の間背を低くして寒さを乗り越えた、たんぽぽやシロツメクサがうんと背伸びをしている。枯野色だった地面が優しい萌黄色に染まり始めている。川の流れは穏やかで、紺碧の空と向こう岸の街並みを鏡のように映している。風がひゅうっと春を歌う。

 ガラガラ、と、コンクリートの上で何かを転がしているような音が近づいてくる。

 君だ。

 すぐに分かった。だけど、振り向くのが怖かった。

 君が旅に行っていた二年間で、私は君が好きだった私から変わってしまったかもしれない。そうして君に拒絶されるのが怖かった。あんなにも君に会いたかったのに、怖くなってきた。

 私の背後で音が止まった。

 とん、と肩に手が置かれる。ゆっくり振り返る。

 君がいた。

 君を見た瞬間、不安は全部どこか遠いところへ飛んでいった。安心感と喜びで、胸がいっぱいになる。何から話せばいいかわからなくなって、頭の中が白くなる。周りの風景が滲んで、君しか見えなくなる。温かいものが両目から溢れ出してくる。

 目の前に差し出された君の手を取って立ち上がる。

 君は私をそっと抱き寄せて、頭をなでた。

「ただいま」

 落ち着いた低い声で、君が言う。

「おかえりなさい」

 私は強く君に抱きついた。

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君に会いたい 天野蒼空 @soranoiro-777

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