第2話

「センセ、センセ。6月23日って何の日?」

「昇龍拳の日だろ」

「しゃがんでるのに立ってるものってなーんだ?」

「F式だな」

「ガチの人じゃん!」

「その判定方式はなんなんだよ」


 まだ腫れの引かない目をきらきらと瞬かせ、桜子が葉太の隣に腰を下ろした。

 その、不健康そうな細い体から発される十代特有のパワーに、思わず葉太は身を引いてしまう。

 キャラなに使ってんの、いつからやってんの、とまくし立てるように質問する少女に、葉太は煙草の匂いと共に蘇るセピア色の記憶を反芻した。


 葉太が初めて格闘ゲームに出会ったのは中学生の時だった。

 というより、その頃に初めて格闘ゲームというゲームジャンルが日本に生まれたのだ。大した時を置かずにそれは爆発的なブームを引き起こし、当時のゲームセンターの筐体は専ら格闘ゲームが主流となっていた。各地で大小さまざまな大会が開かれては、猛者たちが覇を競っていた。


 葉太は初めからそれにのめり込んでいたわけではなかった。

 そもそも、ゲームセンター通いというのは金がかかる。中学生が趣味にするのに相応な場とは言えなかった。

 ただ、葉太の後の人生にとっては不幸なことに、彼には才能があった。

 こういう言い方をすると身も蓋もないが、格闘ゲームは才能がものを言う世界だ。勝負勘。手先の器用さ。反射神経。ゲームで勝つために必要な最低限の要素を、葉太は生まれ持ってしまっていた。

 そして格闘ゲームの対人戦というのは、最初に入れた分以外、金がかからない。なんとなく続けているうちになんとなく勝ちが続いてしまい、なんとなく最寄りのゲームセンターに通うのが習慣となってしまっていた。ただ、それも二十年以上も前の話だ。


「なるほどな。春川。お前、駅前のゲーセン行ってたのか」

「なんだよ、悪いかよ」

「それで負けが込んで泣きべそかいてたわけだ」

「そうだよ、悪いかよ!」


 今現在、格闘ゲームが盛り上がっているゲームセンターなんて、数えるほどしかない。ある程度密度のある対人戦がしたければ、なるほど、この辺りでは件の店に行くしかないだろう。

 ただ――。 


「悪いに決まってるだろ。女の子が一人で行くような場所じゃない」

「しょうがねえじゃん。一緒に行ってくれるやつなんていねえし……」

「対戦したかったらネットでいいだろ」

「それは……! そうだけどさ……」


 昔に比べればマシになったとはいえ、決して治安の良さが保証された健全な場所というわけでもあるまい。まあ、本当に、葉太の通っていたころよりは、遥かにマシにはなっているのだろうが……。

 あの時代、ゲームセンターというのは一種の野生だった。弱者は狩られ、搾取され、強者はより強い猛者に怯えながら生きている。その中の階級カーストもまた独特で、まず一番偉いのが『ゲームの上手いヤンキー』。次に『普通のヤンキー』で、『ゲームの上手いオタク』はそこに並ぶことができる。


 葉太の場合、対戦を通じて仲良くなったヤンキーのお兄さんに目をかけてもらったおかげで、かなり得をしたものだ。虎の威を借りる狐という言葉を地で行くのが、葉太の生存戦略だった。

 けれど、決してそんな世渡り上手ばかりが集まるわけもなくて……。


『絶対イヤだ。死んでも謝らない!』


 そんな金切り声が、イヤにリアルに葉太の脳裏に思い起こされた。

 不健康そうな細い体と、小さな顔。雑に結わえられた黒髪。

 そして、その全てを押しのけて爛々と輝く意思の強い瞳。


 セピア色の記憶の中で、そこだけが赤い影を伴って強く浮かび上がってくる。


 それは、目の前の教え子に瓜二つの顔をしていた、一人の少女の姿だった。





 と初めてまともに言葉を交わしたのも、そういえば葉桜の時期だったと、連鎖する記憶の紐が思い出させてくれた。

 葉太の自宅から行きつけの店までの通り道にある公園。若葉と真白のコントラストが頭上に広がるベンチの上で、そこだけ暗黒の淵が口を開けているような空気を纏い、不貞腐れて体育座りをしていた少女に、葉太は恐る恐る声をかけたのだ。


「どうしたの? 今日はゲーセン行かないの?」

「は? 放っとけよ」

「うぐ」


 言葉を交わしたのはその時が初めてとはいえ、その時二人は既に顔馴染みだった。

 当然ゲームセンターでの話だ。何度か対戦したこともある。決して攻略上手という手合いではなかったが、不思議と勝負所を抑える勘が鋭いプレーヤーで、戦績はまずまずといったところ。

 ただ、葉太にとって何よりも印象的だったのは、その餓えた獣のような瞳のぎらつきだった。


『私、ハメなんて使ってない。そっちが下手くそなだけでしょ!』


 対戦後、高校生と思しき男子数人に取り囲まれても、一歩も引かずにメンチを切っていた場面を見たときは、他人事ながらにぞっとしたものだ。

 そして、ブチ切れた相手の男が手を挙げた瞬間に響き渡った防犯ブザーの爆音。

 慌てて駆け付けた店員のうんざりした顔は、彼女の起こしたトラブルが一度や二度ではないのだろうことを容易に伺わせた。


 そして――。


「もうゲーセンは行かない。ていうか、行けない」

「なんでさ」

「出禁くらった」

「あああ……」


 そんなことを続けていては、そうなるのもむべなるかな。

 死にそうな顔で呪詛のような声を漏らす彼女の横に葉太は座り込み、話を聞いた。

 その時は一体どんなトラブルを起こしたのか、今となっては記憶が定かでない。記憶にないということは、それまでのそれと大した違いはなかったのだろう。


「私はただ、本気で対戦したいだけなんだよ。互いに全力でぶつかり合って、心の底から熱くなれるような、そんな対戦がしたいだけなんだ」

「うん。わかるよ」

「適当こいてんじゃねえよ、クソが」

「えええ」


 格ゲーを本気でやることの厄介なところが、だ。

 例えば、サッカーでも野球でも、囲碁でもチェスでも、あるいは美術や吹奏楽だって、本気でやるということは他人の目で見て分かりやすい。

 きちんと場を整えられた試合なり大会なりで技を競えるし、真剣に取り組むという行為自体が理解されやすい。


 ただ、格ゲーなんていうのは、結局のところただの遊びゲームだ。

 そこに端を発している以上、競技者自身にだってどこか遊びの雰囲気が伴うし、実際のところ大半の人は遊びのつもりでプレイしてる。

 自分がどれだけ本気で真剣に取り組んだところで相手にその気がなければ意味がないし、それどころか「なに本気になっちゃってんの?」なんてことを言われたりもする。それが対戦に負けたことへの悔し紛れの捨て台詞ならば気にすることではないが、格ゲーのことをよくわかってないような周囲の人間に対して、自分が真剣に取り組んでいることを理解してもらうのは、不可能に等しい。


 サッカーならば、本気でやれば褒められる。

 けど、ゲームは本気でやると馬鹿にされるのだ。


 先の彼女のセリフの奥に込められた悔しさと憤りを、自分も理解できるなどと葉太が思ってしまったのも、決して不遜なことではなかっただろう。

 当時の葉太にも、同じようなところがあった。

 中学のクラスにはなかなか馴染めなかった。入部したバスケ部は先輩のいびりがひどくて、三週間で辞めた。空いた放課後の時間をだらだらとゲーセン通いで空費しているうちに、いつしかそこが葉太の居場所となっていた。


 そこに集まっている人間のプライベートな事情を、実のところ葉太はよく知らない。何度も対戦してすっかり顔馴染みとなっているのに、互いの本名すらよく知らない相手というのもざらにいる。そして、ゲーセンというのは、それでいいのだと葉太は思っていた。

 学校にも家庭にも居場所がなくて、でもあの薄暗くて煙草臭くて喧しい不健康な空間だけは、自分がいてもいい場所なのだ、と。たとえそれが、周囲の人間からは理解されず、それどころか馬鹿にされるようなことであったとしても。


 だから、そんな場所からさえも爪はじきにされてしまった目の前の少女に、ちょっとお節介を焼いてあげたいと思ったのも、そう不自然なことではなかった。


「じゃあさ、隣町のゲーセン行こうよ。あっちも結構賑わってるって、トモさん言ってたし。なんかヤバいダル使いがいるんだって」

 そんな葉太の言葉に、地の底に向けて呪いを吐くように俯いていた彼女が、恐る恐る顔をあげた。

「でも……私……」

「その代わり、防犯ブザーは無しな」

「は? なんであんたにそんなこと――」

「代わりにほら、なんかあったら、その、俺が……アレするから」

「……きも」


 そうして葉太は、彼女の手を引くようにして、隣町のゲームセンターへと繰り出した。

 それは、二人が幼いながらに男女の仲になる半年ほど前のこと。

 そして、喧嘩別れの上、もう二度と会わないと誓いを立てる、ちょうど四年前のことだった。



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