葉桜の君に

lager

第1話

 白くぼやけた青空に雀の声が滲んで聞こえる、長閑な春の日だった。

 見晴らしの良い公園。目に優しい緑の中に淡い花の色がちらほらと見え隠れし、外縁の一辺に植えられたソメイヨシノの並びも、すっかり盛りを過ぎた葉桜となっている。

 

 秋田葉太は、古ぼけたベンチに腰掛け、どこまでも柔らかな青い空気を煙草の煙で汚していた。自らの吐き出した鈍色の霞が虚空へ溶けていくのを眼鏡のレンズ越しに漫然と見送っていると、体の芯に凝った錆のような疲労が、煙と一緒に溶け出していくような感覚に落ちる。


(今週もしんどかったな……)


 徐々にニコチンが染みていく頭の奥で、きゃらきゃらと姦しくはしゃぐ子供たちの声が思い起こされ、葉太は努めて空の遠くを見ながら、意識を空にしようと試みた。

 今年でもう何年目になるのだか正確には思い出せない程度には長く中学校の教員生活を送っているが、一年の中でこの時期が一番体力を消耗させられるのは間違いない。


 あの原色の絵の具をぶちまけたようなエネルギー。それでいて紙風船のようにふわふわと落ち着きなく、少しつついただけで崩れてしまう繊細な生き物たち。

 自分にもあんな時期があったのだということが、今となってはもう夢のようだ。

 彼らと同じ空間、同じ時間を過ごしていくだけでじわじわと削れていく自分の中の何かを埋め合わせるために、いつしかこうして、休日は閑散とした公園のベンチに腰掛け、ぼんやりと時間を空費することが習慣となっていた。


(せんせぇー、結婚してないんでしょ。彼女とかいないの?)

(休みの日とか何してんの?)


 意地の悪い目をした生徒に恋人はいないのかと聞かれればいないと答えるしかないし、趣味はないのかと聞かれれば、これもまたないと答えるしかない。

 いや、本当はある。残念ながら、趣味ならばあるのだ。ただ、人には言えないというだけのこと。

 言ったところでいっとき生徒たちの興味は引けるだろうが、その後に悪い噂が立つことは免れまい。四十路にもなって何をしているのだ、恥ずかしいと思わないのか、と。そんな言葉がいつどこから聞こえるか、分かったものではない。


 いや。そもそも。

 そのにすら、最近はついていくのが辛くなってきた――。


 がさ。


 そんな葉太の夢想を打ち破るように、背後の茂みから物音がした。

 びくりと肩を震わせ、葉太は慌てて携帯灰皿に吸いかけの煙草を押し付ける。こんな場所で喫煙するなと管理人の老爺に叱責されたのは、つい先週のことだ。

 しかし、恐る恐る振り向いた葉太の目に映ったのは、パーカーのフードを目深に被った、年若い少女の姿だった。


 何故か茂みをかき分けて現れたその少女は、彼女からすれば突如目の前に現れた葉太の姿にぎょっとしたように目を見開くと、直ぐに顔を俯かせて背を向けた。

 その時一瞬だけ見えたフードの奥の顔を見て、今度は葉太がぎょっとした。

「あ、おい――」

 葉太の声を振り切るように茂みの中へと引き返した少女の背に、縺れる舌で呼びかける。

「春川!」


 もう一度肩を震わせた少女が、先程の葉太と同じように恐る恐る振り返り、改めてこちらの顔を見る。


「え、先生?」


 それは、今月から葉太が受け持ったクラスの生徒の一人、春川桜子だった。






「なんでセンセがここにいんの?」

 ほとんど無理やり座らせたベンチの端で不貞腐れたように顔を背け続ける桜子に、葉太は自販機で買ったミルクティーの缶を押し付けると、自分の分のコーヒー缶を開けながら、ベンチの反対側に座り込んだ。 


「ここ、俺んちから徒歩十五分」

「マジかよ。うわ、最悪」

「最悪ってことねえだろ。ちょいワルくらいだろ」

「ウザい。キモい」


 葉太は、この年頃の子供たちが見せる教員への侮蔑の視線を、内心で好ましく思っていた。彼らが『こいつは見下してもいい相手だ』と判断したときのスイッチを切り替えるような表情の変化は本当に見事だと思うし、そうやって虚勢を張っているその内面がどれだけナイーブでデリケートであるかを嫌と言う程見せつけられてきた側からすれば、憎たらしい態度もどこか愛らしい。

 ただ、こちらがそんなことを思っていることが相手に伝わってはどんな癇癪を起すか分かったものではないので、精一杯『生意気な子供に辟易としている大人』の演技を続けながら、葉太はベンチの端の教え子を横目で盗み見た。


 被ったままのフードから零れる雑に結んだお下げ髪。細い体をだぼだぼのパーカーとスウェットに包み、足元にはぼろぼろのスニーカー。ここに来るまで走ってでもいたのか、軽く上気した肌。

 そして――。


「そんな目ぇ真っ赤に腫らした奴に凄まれてもなぁ」

「うっさい」


 まあ、こんな仕事をしていると、よく見る顔といえばよく見る顔だ。ただ、一体何があったのかは知らないが、こんな校区から四駅分も離れた寂れた公園で中学生の教え子が泣き腫らしたそんな顔をして現れれば、いくら勤務時間外とはいえ引き留めないわけにもいかなかった。

 ましてや、目の前の少女は、葉太にとって、ある意味特別な生徒だった。

 フードの奥からちらりと見えただけで顔を判別できたのも、普段から無意識に気をかけていたからに違いない。


「なあ。親御さんはお前がここにいること知ってんのか、って聞いたら怒るか?」

「コロス」

「殺すなよ……。早まるなって。人生大事にしろよ」

「知らねえし」


 その「知らねえし」は先の自分の質問に答えたのか、それとも彼女らがよく使う教員への返事の定例句の一つなのか、判然としないまま葉太も適当な言葉を続ける。

「こんな白昼堂々殺人はまずいぞ。すぐ捕まっちまう」

「本気にしてんじゃねえよ。キモイんだよ」

「知ってるか、桜の木の下には死体が埋まってるって話」

「知らねえし……え? なに、死体!?」

「へいへーい。本気にしてんじゃねーよー」

「きっも! マジできっも!」


 およそ適当な会話を続けることにおいて、国会議員と教職員の右に出るものは中々いないと、葉太は思う。

 この状況と表情を見れば、何か桜子にトラブルが起きたのは確かだ。だが、それがどの程度深刻なものなのかは検討もつかない。ならば桜子本人から聞き出すしか法はないが、女子中学生の男性教諭に対する心のガードはイージスの盾よりも固い。


 心を閉ざした相手から本音を聞き出す方法は二つ。一つはとことん親身になって『この人になら話してみてもいいかも』と思わせること。そしてもう一つは、とことんどうでもいい相手になって、『こいつになら別に聞かれてもいいか』と思わせること。葉太が得意なのは、後者のほうだった。


「キモイのはおじさんの特徴の一つなんだよ。ああ、そうだ。なんか困ってることがあるなら相談に乗るぞ?」

「雑! 聞き方! 雑!!」

「雑なのはおじさんの特徴の一つなんだよ」

「じゃあ聞くけど!」


 そう言い放つと、桜子はミルクティーの缶を乱暴に置き、立ち上がった。

 パーカーのポケットに両手を突っ込み、一歩だけ葉太に近づいて声を荒らげた。


「画面端のベガが固め技押し付けてきて全然逃げれなくて、こっちが暴れるとガードされるし、垂直はヘップレされるしで全然勝てないんだけどどうすればいい!?」

「…………はあ?」


 呆気に取られた葉太の顔を見て、桜子の表情がくしゃりと歪んだ。

 どうしたものかと、葉太は迷った。

 それは、子供たちがよく大人をからかうときの手法だ。自分達にしか分からない言葉を一方的に捲し立て、当惑するこちらをそんなことも知らないのかと馬鹿にする。

 そんな、よくある悪戯。


 本来なら、お作法通りに困惑し、彼女の自尊心を満たしてやるのが正しいことなのかもしれない。

 けれど、その時の桜子の顔は、どこかそれとは違っているように思えた。


 諦めの顔だ。行き場のない憤りと悔しさが、その小さな顔の奥に渦巻いているようだった。ポケットに突っ込まれた両手が、中で布地を強く握り締めている。きつく引き結んだ口元が、ぷるぷると震えて――。


「分かんないでしょ。分かんないならほっといて。どうせ――」


 だから――。


「いや、そんなの画面端いかなきゃいいだろ」

「…………は?」


 ぽかん、と。桜子の口が開いた。


「足の遅いベガ相手に端に押されてる時点で負けてんだよ。どうせ中央でも固め技に手ぇ出してクラカン喰らって運ばれてんだろ? 問題なのは中央での間合い管理と差し合いだろ。まあ、ベガ戦はどんだけ白ゲージ背負えるかの勝負みたいなところあるから――」

「ち、ちょっと、ちょっと待って!」

「あん?」


 しばし呆けた顔をしていた桜子が我に帰って葉太に詰め寄った。

 当然だろう。こんな専門用語を使いこなせる人種は、一つしかない。


「……先生、格ゲーやってんの?」

「悪いか?」


 悪いに決まってる。


 四十路にもなって、唯一の趣味が格闘ゲームなんて、人に言えるわけがなかった。

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