百万度を超える、世にも希薄なガスの層
鯰屋
ささやかな幸せ
私には、もう帰る場所がない。
一体、どんな言葉を引き連れて帰れば良いのか。ただひとつ解っていたのは、今は家に帰るべきではないということだった。
トンネルへと入るたびに短い間隔で明滅する薄暗い車内。白熱電球は切れかかり、昆布出汁のような香りが充満している。
ガタガタと揺れ、立っていることもままならない。閑散として奥まで見渡せる、童心に帰って大声で叫びながら走り出したいところであったが、一社会人として堪えた。
そも、堪える以前に、斜め向かいには乗客がいた。瓢箪のように顔のでかい男だった。一般席とはシートの色が違う優先席に悠々と腰掛けて、心地よさそうに煙草を蒸している。
上背というか、身体全体が巨大であった。まな板のような下駄を履き、大股を広げて座るものだから巨大な浴衣がはだけてフンドシが見えかけている。見たくもない。猥褻物陳列という言葉に喧嘩を売っているように思われた。
地下鉄に我々以外乗っていないという状況も一因ではあろうが、それを抜きにしても、私の視線は浴衣の大男に釘付けであった。
漂う昆布出汁の香り──男は地面へとガスコンロを置いて土鍋を火にかけていた。沸騰する湯の中で数枚の昆布が踊り、幸せそうに目を細めてその様子を眺めている。
いくら人が乗っていないとは言えど、一応は公共交通機関である。そう、公で共に使う機関なのだ。しかし、あろうことか斜め向かいの大男は愛でるように昆布で出汁を取っている。
もはや訳がわからないが、
ガスコンロに立つ青い火へと二本目の煙草を近づけ、半ば炭のようになってから一息に吸って煙を吐き出す──文庫本に目を落とそうにも、その怪人の一挙一同に目を奪われている自分がいた。
トンネルを抜け、暗闇に慣れた網膜を淡い光が捉えた。車窓越し、ほのわずかに一筋の橙を残した藍色の空が見える。ヘッドライトを点け始める車の連なる高速道路、高層ビルやマンションを縫うように光る航空障害灯の赤色、コンクリート群に阻まれる半月──
一瞬のことだった。すぐにまたトンネルがやってくる。
「君、好きなのかね」
関わらぬが吉と思っていたが、怪人の方からすり寄ってきた。そう言うと怪人は下唇を突き出して、上向きに煙を吐き出した。立ち昇る湯気を押し除け、チカチカと使い物にならない電球の周りを漂って天井に溜まる。
好きなのか、と言う怪人。私に向けての質問であることは間違いないだろう。
対して「はい?」と訊き返すのも芸がない。何を好きと問われているのか──トンネルとトンネルの間に一瞬見える夕景のことだろうか。お前に、刹那的な美しさを感じる心があるのかと問われているのであれば、静かに首肯するのは吝かではない。
「ええ、まあ……」
曖昧な返事をする。薄暗い車内ではあるが、眼前の大男の顔色が、ぱっと明るくなったかのように思われた。前世で想い女にアッパーカットを喰らった名残の如く、その顎はしゃくれている。
よしよし、良いだろう良いだろう。男は思うがままに口角を上げて嬉しそうに笑った。悲しそうに笑う人間や機会なんて稀であろうが、彼は確かに嬉しそうで、それを隠そうとはしない。
今さっき「好きか?」と尋ねてきたのは、どうやら鍋のことのようであった。今の問答で、この怪人のおおよその人となりが分かってしまいそうなものだが、口を滑らせて無粋な言葉を吐きたくはない。
「さあ、どうぞこちらへ。座りたまえよ。私の家だと思ってくつろいでくれ」
笑顔のまま煙草の最後の一息を吸い込み、下駄の底で火を消した。それから男はひらひらと手招きした。
瓢箪鯰のように捉えどころのない怪人の家でくつろいでなどやるものか、心からそう思ったが、口に出すのはやはり無粋。幸か不幸か、車内に人はいないし、乗ってくることも恐らくないだろう。
半ば──もう、どうにでもなってしまえと自棄に走ったような気がしなくもない。
膝の上に抱いていた通勤カバンを持って、男の対面に座る。優先席だ。
「君、顔色が悪いな。風邪でもひいたのか。やはり、鍋の用意をしてきてよかった。何気ない瞬間のインスピレーションは大切にすべきだ」
そう言うと、男は懐から笹の葉か何かで包んだ四角い物体を取り出した。となりに住う化け物の類いからもらった木の実だろうか。
「ジブリ映画をからかってはいけない。あれこそアニメーションの到達点だ」
あくまでも柔和な笑みを巨大な顔面から溢さぬままに、男は包みを丁寧に剥がしていく。中から現れたのは豆腐であった。
笹の葉の一枚を立てて器用に四等分し、鍋へと落とした。どうやらこの怪人は地下鉄車内で湯豆腐をこしらえる気のようだ。
「昆布はそのままで失礼。一煮立ちさせよう」
「あ、はい。お気遣いありがとうございます」
なんのなんの、と男は懐から器を二つ取り出した。そこで初めて怪人はその顔を思案に歪め、しばらく浴衣の懐を探ったのち、
「いやあ……すまないね、君。恥ずかしながら一膳しか箸の用意がなかったよ」
懐から取り出した箸──それも調理用の長い菜箸を見つめて、大きな顎を撫でながら苦笑する。
「菜箸は長いです。一本をへし折って一揃いの箸としましょう」
「うむ、名案だ。荒々しい……が、それしかあるまい」
男は一頻り気持ち良さそうに笑ったのち、箸の片割れを私へと差し出した。私は会釈と共にそれを受け取り、沸騰した湯に揺蕩う豆腐と昆布を見つめた。
そう熱い視線を向けなくとも鍋は既に充分と暖まっているよ、と欠伸を噛みながら男は言った。男のフンドシチラリズムを堪能したくないというだけのことであったが、弁解するのも面倒だった。良い意味で、どうせ、この場限りの間柄である。
「本当ならば、紹介したい居酒屋があるのだが……如何せんルールというか、独特の慣習が面倒臭くてね。君のような若者と出会うと、つい紹介したくなるのだ。まあ、このご時世、好き好んで居酒屋に足を運ぶ者も少ないだろうがね」
男は、どこか寂しそうにそう言った。どうでもいいことであった。
箸を一本ずつ分け合い、豆腐へと向き合う男が二人。私と私の正面のぬらりひょんのような男。まだ豆腐は煮えていない。
○
再び暗闇を抜ける。前回の経験からトンネル明けは眩しい光に襲われると学んでいた。故に、私は目を細めていた。
結論から言えば、そんな警戒は杞憂に終わった。周囲は既に、深い青の宵に没していたからだ。青に浮かぶ雲はどこか黒く、仙人風の大男が吐き出す煙草の紫煙を思わせた。
灯りの少なくなった街並に、星々はより輝きを増している。月齢二十一、一五歳の弦月が見事であった。
「見たまえ! 素晴らしい月だ。下弦の月というやつか……?」
ごつごつと大きな手を叩き、ぬらりひょんの血を引いていそうな怪人が喜んでいる。すぐにトンネルへと入ってしまったので、男は悲しそうな顔をした。
白熱電球が過労死寸前の薄暗い車内において、卓上ガスコンロの青白い炎がその役目をほとんど引き継ごうとしていた。
私は、低く屈んで煙草に火を点けていた。葉っぱが勿体ないので、吸いながら着火したいところではあるのだが、紙巻煙草一本分の距離まで顔面を炎へと近づけるのは流石に躊躇われた。
「貧しいのは全くもって罪とは言い難いが、貧乏くさいのは考えものだよ、君」
言いながら男は笹の葉に火を移し、屈むことなく悠々と煙草に火を点けた。気持ち良さそうに瓢箪顔が煙を吐く。
「悔しいがお見事です」
愉快そうにうんうん頷く男から燃える笹を受け取り、煙草に火をもらう。吸って口に溜めてからもう一息。肺を焼くように染みていくのがわかった。ささやかな幸せだ。
──怪人が一つ食べて、鍋の豆腐は三つほど残っている。
唐突に、ギイギイと車体が軋み始めた。
しばらくのノイズの末に、次の停車駅が短く繰り返しアナウンスされる。
「止まるようだね、君。ここで降りるのか?」
いえ、と短く答える。yeahと聞こえたようで、男は悲しそうな顔をした。いいえです、とはっきりと答えた。男はうんうん頷いて満足そうに己の顎を撫でる。
咄嗟に英語が出てくるほど私は陽気な人間でもなければ、帰国子女でもないと熱弁していると、空気の漏れるような音と共に扉が開いた。
扉の向こうに立っていた人物は、スマートフォンに目を伏せたままこちらへと一歩を踏み出した。車両の中ほどまで歩いて、どうやら異変に気付いたようだ。足を止め、画面から顔を引き剥がして周囲を見回す。
「げ」
現代日本において、咄嗟にそんな感嘆を漏らす人間が生き残っていたのか。私はある種の感動を覚えて、瓢箪顔の方へと視線を向けた。男もまた、愉快そうに笑みを浮かべて、やってきた少女から私の方へと目を滑らせた。
咄嗟の口調もさることながら、古典的な造りすぎて逆に見目新しいセーラー服。校則に順守した利発そうな髪型に、髪色と同じく黒く太い縁取りの眼鏡。
この女子高生のいでたちは、どちらかというと女学生と形容するのが正しいように思えた。スマートフォンさえ握っていなければ、そんな錯覚すら覚えるほどに、古き良きセピア色の空気を纏った少女であった。
少女は、丸い眼鏡の奥で目を丸くして立ち尽くしていた。それはまさしく、不審者を見る目のそれだ。わずかにたじろいで、背後を確認する女子高生。
再び空気の漏れるような音が響いて扉が閉まった。人の少ないこともあり、よく響いた。
手に持っていたスマートフォンを我々へと向けるような挙動を見せたが、一対一で不審者へとカメラを向けられるほど豪胆にはなれなかったらしい。
ごうごうと鍋を加熱される鍋を見て、地面であぐらをかく私を見て、優先席に腰掛ける奇妙な大男を見て、それからもう一度鍋を見てから少女は少し離れたところへと座った。携帯へと目を伏せる。
「これじゃあ、まるで我々が優先席を譲られたようだね。若作りしているつもりはなかったのだが、老人に見られるとは。どう思うね、君」
「きっと、そういうことではないかと思います」
きっぱりと答えた。極めて自然な反応だったのではないかと思う。おかしいのは我々の方である。この怪人とて、それを自覚していないわけではあるまい。
下駄の歯で火を消し、吸い殻を煙草の箱へと戻すぬらりひょん。最後に吸った煙を吐き出してしばらく思案したのち、何かを思い立ったようで、男は指を鳴らした。乾いた指が擦れただけで、音は鳴っていなかった。
「君、あの子を呼んできたまえ。一緒に鍋を囲もうと誘ってくれ」
瓢箪の尻を撫でながら男は愉快そうに言った。遠くで猫背になっている女子高生を見やり、眼前の怪人へと視線を戻す。
「いやです。どうして私が呼びにいくのです」
「それは、君。私がチキンだからに決まっているだろう。女性と犬が苦手なんだ」
顎を撫でる姿勢を崩さず、男はあっけらかんと言った。開き直っているつもりはないのだろうが、逆に気持ちが良かった。
再び少女の方へ顔を向けると、少女は立ち上がってこちらへと歩いてきた。
「なんですか。わたしに何か用ですか」
少し手前で立ち止まって少女は問うてきた。それは勿論、鍋の誘いだよ──と怪人。
対面する優先席と優先席の間でぶくぶくと泡立つ鍋へと少女は近付いた。昆布の香りのする湯気に眼鏡が曇っていった。
あからさまに怪訝な顔をして後退り。我々が手を伸ばしても届かないくらいのところで、少女は、その場で膝とスカートを畳んで正座した。我々以外に人のいない空間だから、周囲の視線なんてどうでも良くなったのだろう。社会への迎合が早いものだ、と感心する。
男は下駄を脱いで、足の指でツマミを回した。ぽう、と火が消える。悠々と優先シートに座っていた怪人だったが、私と少女に準って地面へと降り立って胡座をかいた。
火こそ消したものの、こうして何かひとつの物体を囲んで座っているのは、農耕民族である日本人の本来の姿なのではないかと壮大なことを妄想した。原始人の食事風景と言われれば、こんな様子を連想する。
「彼もそうだが、やはり顔色が悪いな」
最も近くで鍋の中を凝視しているから、自然と俯く形の女子高生を見やって男は言う。みな風邪を拗らせているのだろうか、男は顎を撫でながら含むようにうんうん頷く。
沈黙、しばらくの間──
窓を打つ風と車輪の金属音。我々は沈黙していたが、静寂とは違った。鍋に立つ
私と瓢箪は顔を見合わせて、少女の方へ耳を寄せた。
「その……今年、大学受けなきゃいけないんですけど……受験ごとなくなっちゃわないかな、なんて」
言葉を詰まらせながら女子高生は、言語化することを躊躇うように話し出した。
顔色が悪いという男の言葉に対する答えだろう、と私は納得する。成績が芳しくないのだろうか。
鍋を覗き込み、再び曇ろうとする眼鏡を外して少女は続ける。
「え、っと……なんというか、不確かで曖昧なゴールに向かって走れるほど、走り続けられるほどわたしは馬鹿じゃないから。それでも、学歴がないと色々……大変ですよね」
最終的には、少女は自分が口にしたことを自ら否定するような調子だった。少女の言葉は何処となく厭世的なものであった。
いつ終わるやも知れん人生において、ずっと先のことを憂慮したところで、それが実際に訪れるのかは判らない。しかし、大抵の場合は不都合な杞憂に終わってしまうから、遠く曖昧な現実を見つめなくてはならない。
不確かで、曖昧なゴールに向かって走り続けられるほど──強くあれない。そんなところだろうと納得した。
例の如く、男はうんうん頷きながら愉快そうに顎を撫でて笑っている。七福神の布袋尊と重なった。
「しかし、あれだよ。学歴にこだわるのは学歴の無い人間か、学歴しかない人間だよ、君」
女子高生へと向けた言葉なのだろうが、私にも深く突き刺さった。一生涯抜けてくれないような気がしてならない。
再び卓上コンロのツマミを回して点火し、新しい煙草に火を点けた怪人は、少女へと背を向けて気持ち良さそうに煙を吐いて向き直る。
「無責任なことを言うつもりはないがね、人生どうとでも生きていけるものだよ。私の時代ならば、男が稼ぐのが当たり前だったから君くらいの年頃の幼馴染みは花嫁修行に精を出していた頃だ。時代は変わるものだね」
鼻の穴に煙草を突っ込み、もう片方の鼻腔を指で閉じて瞑目、ふんと吸う。
「ぷはぁ……。それでも、どうなったとしても人生は続くよ。楽しかろうと、寂しかろうとね」
ひとつ確かなのは、肺を壊すからヤニは吸うなということだね──愉快そうに大男は煙を口と鼻から漏らした。私も真似した。
少女は、煙を吐いて遊ぶ我々を呆然と眺めていた。呆れてモノも言えないのかもしれない。しばらくの硬直ののち、口もとを押さえてぷっと吹き出した。
「こんなにもクダラナイ大人がいるものなのですね。この国はおしまいです」
にっこりと微笑んで、少女は眼鏡を掛け直した。こころなしか、女子高生の顔色が良くなったように思われた。最も鍋に近いからだろう。
唐突に暗闇を抜けて、豊かな光が車内へと流れ込んだ。白む空に、オレンジの筋がほの僅かに残っている。日差しは暖かいが、空気は冷たいだろう。
少女は、スクールバックから可愛らしい風呂敷に包まれた弁当箱を取り出した。一緒に束ねられていた箸を取り出して、
「ひとつ、いただいてもいいですか?」
と尋ねた。
少女の視線は私へと向いていた。私は少女の正面に座る海坊主のような男を手で示す。私の手の動きに合わせて少女の目線が動き、丸眼鏡に瓢箪が写り込んだ。
「ああともさ。
「いただきます」
箸を揃えて丁寧に合掌しお辞儀して、少女は鍋から豆腐の一片を掬い上げた。マスクを下ろし、ふうふうと左手で受け皿を作って口へと運ぶ。
それはどこかの怪人の如く、少女は満足そうにうんうん頷いて咀嚼。
「ご馳走様でした」
再び丁寧に箸を揃え、合掌してお辞儀。風呂敷を畳んだ。
少女が言い終わるのに続いてトンネルへと差し掛かり、車内は暗闇に包まれた。
○
ギイギイと車体が軋み始めた。
しばらくのノイズの末に、次の停車駅が短く繰り返しアナウンスされる。
私と男は目を合わせて互いに首を振った。まだ、降りない。対して少女は畳んだ風呂敷を鞄へと仕舞って立ち上がった。どうやら、この駅で降りるようだ。もう、鍋からは湯気が立っていない。
「それ、その……一本もらって言ってもいいですか」
まだ食べ足りないのだろうか。豆腐の数え方は一丁、二丁だが……一本とは。
少女の言葉に、我々は顔を見合わせた。少し、いやかなり長い沈黙。
「よしておきなさい。肺を壊す」
怪人がいち早くその意味を理解したようで、巨大なかぶりを振って諫めた。しかし、怪人は、懐から煙草の箱を取り出して蓋を開けてみせる。
列車が止まり、女子高生の背後で扉が開く。
「このご時世……お利口なだけじゃ生きていられないかな、って。それに今更、肺が壊れたってどうとでもなりますよ」
お世話になりました──深々と頭を下げて、蓋の開かれた箱から一本煙草を抜き取った少女は、私と男それぞれに会釈して振り返ることなく出て行った。
点灯と消灯を繰り返す蛍光灯の下、青白いガスの火も心許ないものとなっていた。男は、ツマミを出来る限り十二時に近づけて弱火で延命を図る。
扉が閉まった。ガラス越しに見える、手提げ鞄を背負った少女の背が、大きく左へと流れていった。
男は大きく息を吐きながら、ふと立ち上がった。下駄の歯も助けになってのことだろうが、地面に座っている私には本物の巨人に見えた。
「いよっこらせ」
しゃくれた顎に伸びた髭を撫でて、男は優先席へと横になった。当然、身体が大きすぎるので、足は飛び出していた。
列車が地下を抜けて、また明るくなった。太陽は空の頂まで昇り、引き込まれそうな群青が広がっていた。切った爪みたいな三日月が浮かんでいる。
あともう少しで、電車を降りなくてはならない。気が重い。憂鬱だ。
一体、どんな言葉を引き連れて帰れば良いのか。ただひとつ解っていたのは、今は家に帰るべきではないということだった。
なぜ、この列車はレールの上を走っているのか。そして、なぜ我々はそれに乗っているか。決められた場所から場所へ行ったりきたり、あるいはぐるぐると回るだけだというのに、一体全体なにゆえ我々は、こんな箱に詰められているのか。
我々の背中には翼こそ無いものの、どこにだって歩いてゆける脚があるというのに、なにゆえ錆臭い箱に押し込められているのか。
しかし、今は──好きで乗っているわけでもない地下鉄に、しがみつこうとしている。
どんな顔ならば、家族に見せても良いのだろうか。
「顔色が悪いままだぞ、君」
肘を立て頭を支え、
「仕事、クビになったのかね……」
と、柔らかな上がり調子で問うてきた。別に隠すことでもない。しかし、ずっと黙っていたことだ。家族にすら言えなかった。否、これから言うのだ。だから、気が重い。
「……そうです」
しかし、そう答える他なかった。膝の上に肘を置き、俯いたまま顔を上げることができない。
男は、ふむふむと唸り、何度も頷いてから巨大な身体を起こした。わかるわかるぞ、と重い嘆息混じりに言う。
「私も──中学生のころ、親に黙ってゲートボール同好会を辞した時は、後ろめたさと申し訳なさで家に帰れなかったものだ」
そのまま石橋の下で一夜明かしてやり過ごそうかと思ったほどだ、と続ける。
一緒にするな。心からそう思った。しかし、その言葉が、私の臓物の更に奥底のどす黒い泉から飛び出すことはなかった。
世の中には、こんなにもクダラナイ人間がいるのか。それはある種の安心であり、安らぎのようでもあった。
『下を見て安心するな、より上を目指せ』と、往々にして叫ばれる。が、なんだって良いじゃないかと叫び返したい。
何が何でも生きているのだから、それで良いじゃないか。
何を失おうとも、何を患おうとも。これからも、どうとだってなるはずだ。
前を見て、歩き続ける必要などない。振り返って、後悔して、囚われても良いのだ。
自分の後ろ暗い過去から目を背けるのではなく、それと目を合わせたままゆっくり後退りすれば良い。そうすれば、未だにやって来ない未来へは近づいていけるはずだ。
ずっと前に怪人から受け取った菜箸の片割れで、豆腐を刺して掬い上げた。マスクを下ろして口へと運ぶ。
すっかり冷めて、
訳もわからず、ボロボロと食べていた。瓢箪のような顔をして、ぬらりひょんの血族のようでありながら海坊主のような男は、しゃくれた顎を撫でて愉快そうに、うんうん頷きながら私を見ていた。
群青。焦燥。情動。
太陽の周囲に光の輪ができていた──否、溢れた涙で太陽がぼやけていた。暖かい季節だ。
車体が大きく揺れる。少し、咳が出た。昏いトンネルへと突入し、気圧に鼓膜が押さえつけられる。音が籠り、空気が震え、鍋が静かに揺れた。
しばらく暗闇を走ったのち、停車駅が繰り返しアナウンスされる。怪人は組んでいた長い足をゆっくりと伸ばして立ち上がる。
中吊り広告に顔面をぶつけて、ああ痛いと声を漏らした。屈んで卓上ガスコンロの火を消し、
「私からの
そう言うと、怪人はすっかり冷えた土鍋を手に取って私へと差し出した。
鍋にはすっかり味の抜けた昆布と、四分の一の豆腐がぷかぷかと浮かんでいた。手土産には、あまりに不細工だった。しかし、これ以上の物を、今の私は用意できない。
私は土鍋を受け取り、トンネルの壁の流れる様が緩やかになっていくのを眺めた。壁が無くなり、コンクリートの地面──駅のホームが見える。
怪人は再び優先席へと座り、浴衣の襟を正した。私は懐から煙草を取り出して、箱ごと彼に差し出した。
地面に転がる卓上ガスコンロを拾い、ツマミを捻って着火。瓢箪顔が咥えた煙草に火を点けた。
男は、幸せそうに胸を膨らませて煙を吸った。瞑目してしばらく噛み締めたのちに、盛大に吐き出す。
列車が止まり、それに続いて大男の身体が傾いた。空気の漏れる音、扉が開く。私は大きく一歩を踏み出した。
怪人が私の方へ振り返ることはなかった。私は、己の顎をうんうん頷きながら撫でた。
──帰ろう。
ガラス越しに見える怪人の背が、大きく右へと流れて行った。
百万度を超える、世にも希薄なガスの層 鯰屋 @zem
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