第四話 夕焼け小焼け







 結局僕の怪我は、後頭部二針と、鼻骨にひびが入るだけで済んだ。真知子先生には感謝しなければいけない。あの時彼女が途中で保健室に戻ってきてくれなかったら、恐らく僕は皆森に殺されていただろう。冗談ではなく、本気で。僕は皆森が、虐めっ子の頭を釘バットで打ちぬけるのを見ていたのを忘れていたのだ。

 皆森の処分は退学勧告の一歩手前まで行ったものの、僕から喧嘩を吹っ掛けたと主張したお蔭で八日の自宅謹慎僕になった。そして僕には四日間の自宅謹慎の処分が言い渡された。僕は自宅謹慎の二日間、ゲオに行って馬鹿みたいな洋画のコメディや、下らない邦画のホラーを見て時間を潰した。

皆森が僕の家にやって来たのは、三日目の午前七時五分の事だった。





 おはようもこんにちわも、通常とも言える挨拶の形式を一切無視した皆森の第一声は、遅い、だった。僕を殴り倒した前と、全く変わらない皆森の表情に、僕は何となく安心した。

 無理やり家に押し入ろうとする皆森に、生ごみが放置されているリビングを見せる訳には行けないので、僕達は何だかんだて公園に向かった。

「はい」

 と僕は皆森にコンビニで買ったコーヒー牛乳を渡した。皆森は普段コーヒー牛乳かアサヒのビールしか飲まない。だから僕は密かに、コーヒー牛乳の生産がストップしたらどうしようと考える時がある。平日の真っ昼間の公園は、そこだけが外部の世界と切り離されたかのように、静か湿っている。リストラされた中年のリーマンも、騒ぎ立てる子供も誰一人いない砂場で、僕達は裸足になって熱された砂の上に足を置いていた。足の指と指の間に砂の細かい粒子が入り込んで、汗と共に貼り付く。乾いた唇を舐めると、何故だから分からないけど砂の味がする。

皆森は何時もの何処を見ているか分からない表情で、砂を蹴り潰しながらコーヒー牛乳を受け取った。

「で、なに」

 僕の台詞を無視したまま、そして丹念にストローの先を噛み潰しながら、皆森はぢゅーーと力を込めて砂糖の詰まった汁を啜った。半透明の向こう側に、流れていく茶色い液体。皆森の白い肌から汗が零れて砂の上に落ちる。

「あっ」

 と僕は叫んで、智彦の前に両手を差し出した。智彦の手から離れたアイスクリームが、垂直に僕の手の中に落ちる。旨い具合にキャッチできた僕は、溶けかかったアイスクリームを智彦に差し出した。黄色のTシャツから覗く智彦の腕には、大小様々の痣が色鮮やかに散っている。智彦は普段からぼうっとしていて、一日に何回も転ぶ。僕はその痛々しい腕を見て眉を顰めた。

「お前、また転んだの。今みたいにぼーとしてると、そのうちトラックに轢かれるぞ」

 智彦が驚いた表情で僕を見る。

「私はトラックに轢かれますか?」

「かもしれないから、気を付けろって事」

智彦は首を傾げながら、アイスクリームを受け取り、再び舐め始めた。

「よく分かりませんが、私がトラックに轢かれない様に注意しておきます」

智彦の白い肌から汗が毀れて砂の上に落ちる。

「美味しい?」

 と聞くと、智彦は何も返さずに、ただ黙って空を見上げた。きっとまた、空の向こう側の事を考えているのだろう。

 智彦、と名前を呼ぶと体を跳ねさせてこちらを見る。その表情があんまりにも間抜けで可愛らしいので、僕はつい笑ってしまった。

「アイス旨い?」

 智彦が手に盛ったアイスと僕を見つめて、頭を一つ下げた。僕は何だか体がそわそわとしてきて、口を開いて思いっきり歯を見せて、片手で智彦の頭をぐしゃぐしゃと回した。智彦が嫌がって僕の手を叩こうとする。それをもう片方の手で抑えながら、僕は更に智彦の髪を掻きまわした。

「また買ってやるよ」


 ジ―――――――――――--------


 蝉の音が。


「睦国」

 僕は顔を上げた。目の前が真っ暗になり、鼻の先に紙の感触が当たる。暗闇と紙が遠のいて、段々とピントが合っていく。

 手帳の白い空間の中の、『疑い』、『嫉妬』、『怒り』、、『思考』の文字。

「あ」

 と僕は声を上げた。

「増えてる」

 そう言った瞬間、皆森がストローから口を離した。

「昨日聞いたの。優しい人に、いい人だった。お花屋さんだったの、店員だった」

「また釘バットで?」

 皆森が頷く。

「今度は大丈夫。全然知らない人だったし」

 皆森が呟いた。

「こんなに人に聞いたのに、何で誰一人言わないんだろう」

僕は首を傾げた。

「何を言わなかったんだよ」

「あい」

「あい?機械の事言ってる?それとも英語のアイ?」

「心の方の愛」

 皆森は拗ねた顔をして僕を見た。

「なんかさー、どんなに良い人でも、愛って言う人誰も居なくない?嫉妬とか、怒りとかでさ、まぁ思考はまだましな方だけど、なんか悲しいよね。どうしてなんだろう」

「居る訳無いじゃん、そんな事言える人が居たら、世の中はもっとマシになってる筈だろ」

 皆森が顔を伏せながら、再びストローを齧り始めた。

「…いるもん」

「居ねぇよ」

 皆森が上目遣いでで僕を見つめた。そして人さし指で自分の頬を指さした。

「ここにいる」

 そう言って馬鹿みたいな顔で僕を見つめる。愛に溢れた人間が、果たして同級生の鼻を折れかけるだろうか。

 僕は、はぁ、と息を吐いて、すっかり忘れて温くなったコーラを開けた。大量の泡がじゃぶじゃぶと銀色の縁から波打ち溢れ、僕のシャツを汚す。むかついて、コーラーを滑り台の方へ放り投げると、泡とイソジンみたいなコーラががきらきらと光って、辺りに滴をまき散らした。皆森が突然立ち上がり、僕に向かって手を差し伸べる。

「手伝って」

「……僕と仲直りしようって事?」

 皆森は視線を横にずらした。

「分かんない」

 皆森が困った様に言った。僕は少しだけ笑って、その手を取った。

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君は笑う、僕を取り残したままで 瀬戸内海晴夫 @setonaikai

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