第三話 21世紀のスキッツォイド・マン


「見た?」

 教室に入るなり黒子が僕の肩を叩いた。はぁ、と僕は息を吐いた。殆ど教科書の入っていない鞄を机の上に放り投げる。ジーーージーーーーと窓の外の木から、狂った様に煩い蝉の声が聞こえる。

「はぁ、てなんだよ。興味ねーの?犯人が捕まったのに」

「何の」

 黒子が僕の反応見て顔を顰めた。

「普通分かんだろ?バットマンだよ、暴行事件の!」

「ああ、あれね」

 黒子が小さい瞳を好奇心で輝かせながら、ひそひそと声を顰めた。

「犯人さ、近くに住むホームレスだったんだって。何か橋本の中にあったセーエキと、おっさんのセーエキが一致したらしい。ホームレスってやっぱ改めて考えると怖いよな。ホームレスとかになる奴ってさ、多分、ちょっと頭のねじはずれてるからなるんだろうな」

「…そうなんじゃない」

 頭の中に響く蝉の声が、耳の中から脳を直接揺さぶり狂わせる。脳が出血しているのではないかと錯覚してしまうほどの頭痛を、奥歯を噛み締めながら気づかない振りをする。何でこんなに煩いんだ。もうすぐ秋になると言うのに。蝉の声で、黒子が何を言っているかほとんど聞こえない。

「……から…ホ……レスはレイプしただけって…言って……でも…どーせ…なぁ………」

 蝉はきっと神様から、人を苛つかせるだけ為に作られた存在に違いない。生きても意味の無い、煩い害虫、生ゴミ、人を不快にさせる、馬鹿で屑で死

「ねばいいのにな」

 僕は顔を上げた。

「あいつらなんて必要なくね?意識不明にさせるまで殴ってレイプなんて、やばすきだよな」

 嫌悪に歪む黒子の横顔を見つめる。段々と蝉の声が遠のいていく様な気がした。

「だから俺としては―――って、うわッ」

 僕の方へ顔を向き直した黒子が、突然素っ頓狂な声を上げた。

「お前、顔色やべーぞ。ビョーキ?」

 頭が痛い。

「そうかもしんない」

 そう言って自分の頰に手を当てた。嫌な粘り気と共にぬるついた油が指の先に着く。

「保健室行ってこいよ、熱中症だったら死ぬぞ」

「死なねーよ、馬鹿………まぁ、一応、保健室行ってくるわ。ノート取っといて」

 目の端で黒子が頷く。体に纏わりつく湿気を追い払うかの様に席を立ち、僕はそのまま教室を後にした。






 頭が痛いと一言言っただけで、保健室の真知子先生は直ぐに空いたベットに僕を寝かせた。真知子先生の良い所は、大抵の生徒が何を望みに保健室にやってくるのかを知っている事だ。そして真知子先生の悪い所は、生徒の事を理解し過ぎてろくな処置もしてくれない事だ。

「とりあえず三十分ぐらい寝て、それでもまだ痛む様だったら頭痛薬を飲みましょう」

 真知子先生はベットの周りのカーテンを閉めながら、歌う様に言って、直ぐに自分の机に戻って行った。真知子先生の、掠れたボールペンが薄い紙を引っ掻く音を聴きながら、僕は白い天井を見つめた。蛍光灯の光が目に沁み瞼を閉じるものの、光は肉のカーテンを突き破り再び眼球へ突き刺さる。僕は両手で両目を覆い隠した。暗闇の中、指の間から溢れた光を僕は見つめた。体がゆっくりと硬いベットの中に沈んでいく。僕の意識はぐるぐると回り、意識は空気と混ざり合った。

 突然、暗黙を電子音が引き裂いた。息を呑み瞼を開く。強い光が目に入り、僕はもう一度目を瞑った。大きく息を吐いて、その度に肋骨から浮き出る心臓を落ち着かせる。しばしばとする瞳を瞬かせると、揺らいでいた意識が段々と元に戻っていくのを感じた。カーテンの向こう側から、真知子先生の声が漏れて聞こえる。

「はい、保健室ですが………ええ……体育館ですか?ああ…こっちは大丈夫です。生徒が寝ているだけなので。はい………ええ、今から向かいます」

 受話器を置く音がして、僕は思わず目を閉じた。ゴム製のスリッパの足音と、小さくカーテンが開かれる布の擦れた音。二秒程僕の姿を確認してから、真知子先生はカーテンを閉めた。ゆっくりと鼻から息を吐いた瞬間、隣のカーテンが開かれる音が耳に入る。僕が寝ている間に誰かが新しく入ったのだろう。

「あ」

 と、隣から小さな声が聞こえた。やけに聞き慣れたその声の主に、真知子先生が低い声で話しかける。

「皆森さん、申し訳ないけど留守番頼める?誰か熱中症で倒れたみたいで、先生行かなきゃいけないなの」

 皆森。

 僕は呼吸を潜め、体を強張らせた。

「先生は行かなきゃいけないんですか」

 皆森が真知子先生に問いかける。

「そうなの。緊急なのよ」

「………良いですけど」

「良かった、有難う。隣の子、あと十分したら起こして、頭痛薬飲ませといてくれる?机の上に置いとくから。薬飲んでも治らないなら取り敢えず寝かせといて。直ぐ戻るから」

 真知子先生は早口でそう捲し立てると、カーテンをさっと閉めて保健室を出て行ってしまった。扉の向こうから、真理子先生の焦った様なスリッパの音が遠ざかっていくのが聞こえた。

 保健室の冷房の効きすぎた空間で、薄く篭った、それでいて激しいギターの音が隣から聞こえる。こんなに音が漏れてるのに、よく本人は気づかないなと感心しながら、僕は起き上がった。ベットの脇のカーテンを開き、隣の布に手を掛ける。窓から差し込んだ逆光で、皆森とイヤホンのコードが影となって布越しに現れる。ゆっくりとカーテンを開き、読書に夢中になっている皆森の頰を僕は人差し指で突いた。

「ぬはっ」

 おっさんの様な声を出して皆森が仰け反り、驚いた表情で僕を振り返る。そして僕を見て更に驚いた様で、丸くなった目をますます丸くさせながら口を開け、口を閉じ、眉を思いっきり潜めて口を開けた。

「死ね」

 皆森が顔を背ける。想像以上の皆森の反応に若干にやつきながらも、僕は皆森に謝った。

「ごめん」

 そう言っても皆森は何も言わず、横を向くだけだった。恐らく音楽で聞こえていないのだろう。

「ごめんって」

 僕は皆森の片方のイヤホンを引っ張った。イヤホンが耳の穴から転げ落ちた瞬間、イヤホンから大音量のギターが流れた。



 デーデデデ、デッデー、デーデーデー。



皆森がずれた瞳で僕を見る。



 デーデデデ、デッデー、デーデーデー。



そして頰に鋭い痛み。



 デーデデデ、デッデー、デーデーデー。


そしてまた片方にも痛み。



 カァッツフロウ、インアクロウ。



僕は床に倒れる。



 ニューサゾォンヅ、スクリーンフォモーァ!



腹に衝撃が走る。



 アツパラノイァヅ、ポイヅンドオァー。



皆森が僕を見下ろし、拳を振り下ろす。



「ぎゃッーーーッ!!」



 トゥウェニセンフォー、スィヅォーマーン。



鈍い音、赤い血、視界が暗くなっていく。



 デーデデデ、デッデー、デーデーデー。

デーデデデ、デッデー、デーデーデー。

デーデデデー、デッデー、デーデー…デ…………。





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