そこに確かに存在していたはずの煙
北見 柊吾
そこに確かに存在していたはずの愛
将来、結婚しても離婚だけはしないと決めていた。娘には離婚を経験させたくない。あんな惨めな負の連鎖は自分までで充分だ。そう思っていたはずなのに。目の前で起こっている事はなんだろう。緑の線の内側はもうほとんど埋められている。親の離婚の際、そして自分が結婚する際、あれだけ強く抱いた誓いは、ゆらゆらと捉えようのないものへと姿を変えていた。
由美は僕より先にこの喫茶店に来ていたが、かたくなに何も頼もうとしなかった。僕は、ホットの珈琲を注文する。特段、好きなわけでもないし、むしろ僕は体質のせいかカフェインが利きすぎてしまうから珈琲の類いをあまり頼まない。ただ今は、何か二人の間に挟めるものが欲しかった。
「調子は、どう?」
「あなたと余計なおしゃべりを楽しむ気はないの」
他愛ない会話は、切れ味のいい由美の言葉が無駄なく
「あなたの名前と、ハンコを押して」
由美は淡々としていて市役所の職員のような対応をした。何も言い返すことができずに、差し出されたボールペンを動かす。
あぁ、とだけしか声は出せなかった。僕は抵抗できずに離婚届を完成させた。氏名を書いてハンコを押すだけでは、牛歩もできない。由美は、僕が書き終わるとすぐに紙を引き寄せてふっと笑った。
「ありがとう、お疲れ様」
僕はあくまでも冷静さを保って尋ねる。
「いつ提出するんだ?」
「早ければ、明日にでも。そんなことをあなたが気にしてどうするの」
返す言葉もなく、蚊帳の外で冷めてしまった珈琲に視線を逸らす。
「そうか」
「えぇ、お疲れ様。あなたには、もう用事はないわ」
由美が席を立つ。言葉を挟まなければ、と思った。何か言わなければ、と思って「相手はどんな人なんだ」と言った。
「だから、それを聞いてどうするの?」
わざわざ立ち止まった由美は、自分の顔に呆れたと書いていた。
「相手のことを聞いて恨みでもするの? 怒りでもするの?」
由美の声が荒くなる。
「反省して、また学習するの? 僕はここが悪かったって言って、それでどうにかなるとでも?」
「そう言いたいわけじゃない」
「じゃ、なによ。彼女を僕に譲ってくださいなんて、言いに行くの?」
「まさか、そんなことしないよ。僕は言ってみれば敗北者だ」
もう、負けを認めるしかない。僕は彼女を満足にしてやれなかったのだから。彼女を満足させられる力は僕にはなく、他の男が彼女を満足させられた、ということが事実としてあるのみだ。僕のこの思考回路を「開き直り」と世間が呼ぶことには、気が付かないふりをする。
由美は溜息をついた。同時に強く力を込めて閉じられた瞳は、僕がいる世界を見たくないと主張しているように見えた。
「あなたのそういうところよね」
「なにが?」
「私が好きになって、嫌いになったところよ」
うまく言葉をつなげずに、僕は「そうか」となんにもならない言葉をテーブルに置く。珈琲に混ぜるには苦々しいが、横に添えておくにはちょうどいい気がした。
「あなたは、誰かの為に踊るのが好きなんかじゃない。誰かの為に踊る自分に酔っているだけよ」
それじゃあね、と言って由美は颯爽と帰っていった。その後ろ姿は凛としていた。まるで、出逢った頃のように清々しかった。あの背中に抱きつきたい衝動を堪えるくらい、僕にも造作はない。しかし、本能は由美を求めているのだ、と僕は他人事のように考えた。本能で彼女を求めようにも、理性は彼女を求めていない。運命の赤い糸でつながっていたと思い込んでいたが、どうやら糸クズだったらしい。肩を払えば、簡単に落ちて見えなくなった。
「そうですか」
僕は呟いていた。誰に聞かせるためでもなく、ただに自己満足のために僕は呟いた。
残された珈琲と僕は、お互いを見つめ合う。時間はただ過ぎていき、まわりの客の入れ替わりが僕にそれを知らせてくれた。
舞香のことは、これから由美が育てていくことで落ち着いた。僕は、お金のことだけを負担する。舞香にこれから会うことはできるのか確認しようと思っていたが、結局聞きそびれてしまった。とにかく、それで合意した。
不満はない。だが、僕と由美はどうしてこうなってしまったのだろう。敗北者の僕は、すっかり冷めた珈琲を冷ましながら思いを巡らす。脳漿を絞ってみるが、はっきりとした答えは出なかった。考えつく理由のすべてが朧げな形をして、重力を失ったように風に吹かれて揺らいでいた。僕に非はあったと思うけれど、たいしてこれが、というものもない。蓄積というものなのだろうか。由美も、同じように考えてるんだろうのだろうか。由美には、決定打となるこれというものがあったのだろうか。
あれだけ愛しあっていて、永遠を誓ったにもかかわらず、いつしかうまくいかなくなった。由美は、何を考えていたんだろう。僕は、ふと考える。このタイミングにならないと、愚鈍な僕はそこに考えが至らなかった。失って気付くとは、このことだ。しかし人並みに喪失感を感じるには、失ったものが大き過ぎた。
こういう時に、大人の男性なら煙草に火をつけて、一服して体面だけでも冷静を整えるのかもしれないが、生憎生まれつき喘息を抱えた僕が煙草を買うことはなかったし、由美が座っていたこの席は禁煙席だった。僕も由美も、煙草は嫌いだった。高いというのもそうだが、なによりも健康上の理由で由美は煙草をひどく嫌がった。
「一人で肺を悪くしているんなら勝手にすればって思うけど、副流煙でこっちが迷惑するから嫌」
いつの日か、路上ですれ違った喫煙者を睨みながら由美が言っていたことを思い出す。
ほら、また由美だ。目眩いがした気がして、僕は視界の情報を遮断する。
僕はドラマで見た喫煙シーンを思い返しながら、人差し指と中指で煙草を持つ手を作ってみる。唇に押し当てると唇の先にできた風の通り道に、なにか足りないような感覚を覚える。
肺から吐き出したはずの煙は僕の指の間からゆらゆらと揺れながら立ち上っていったが、いつのまにか消えていた。その境目はすでにひどく曖昧で、僕の目では捉えられなかった。
そこに確かに存在していたはずの煙 北見 柊吾 @dollar-cat
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