商人の我輩、模様のない満月につぶやく。
我々の星の満月には模様がない。だが我々は模様のある満月のことを知ってる
「お客さん、本当にここでいいんですか?」
タクシーの運転手の男が、後ろを振り向いてまで確認をしてくる。
一応、我輩も確認しておくことにしよう。
横にある窓をのぞくと、暗闇の中にポツンと街灯が道路を照らしている。
その道路は街灯の部分で分かれ道となっており、
一方は坂になっている。
あの先は、山道へと続いている。
「ここであっている」
我輩がそう知らせると、運転手はあきれたようにため息をつく。
「肝試しの時期はもう過ぎてますよ?」
「……さっきから言っているだろう、我輩は仕事で来たのだ」
料金メーターを確認し、財布から紙幣を取り出す。
「一応、もう一度だけ忠告しますよ」
運転手は険しい表情で紙幣を受け取った。
「ここの山には、“変異体”が出ると言われています。実際に目撃証言だってあります。やめておいた方がいいですよ」
続けて言葉を言う必要はない。
我輩はビジネスバッグと懐中電灯を手に、車から降りた。
「忠告しましたからね!!」
その声とともに、タクシーが走り去る音が聞こえてきた。
あの運転手の忠告ももっともだ。
変異体とは、“突然変異症”によって体が変化した元人間のことを言う。
その変化した部位を普通の人間の肉眼で見ると、本能的な恐怖を呼び覚ましてしまう。その上、変異体が人を襲う事件も後を絶たないため、普通の人間は変異体を恐れるのも無理はなかった。
だが、我輩は仕事で来たのだ。引き返す訳にはいかないのである。
そう心の中でつぶやきながら、足を止めてビジネスバッグから手鏡を取り出す。
鏡の中には、アイスのバニラ&ソーダを思わせる顔つきが映っている。
セミロングの前髪が少しだけ雑にはねていたので、ちゃんと直しておこう。
今回のお客は年頃のお嬢さんであるからな。
満月をバックにそびえ立つ看板。
黄色い背景に黒いウサギが描かれている。
いわゆる、野生動物の飛び出しを注意する看板だろう。
あれが、目印の看板である。
その側の崖に懐中電灯を向けると、そこに小さな穴が空いてある。
我輩は穴にスマホを近づけて、音を鳴らした。
「“
スマホを穴から遠ざける。
しばらくすると、「チョットマッテ-」と甲高い声が帰ってくる。
この間に、我輩はビジネスバッグからゴーグルを取り出し、装着する。これがなければ今回のお客とは顔を見合わせることすらままならない。
「ヨイショット……オマタセ!」
穴から出てきたのは、クレヨンとスケッチブックを持ったウサギだ。
ただのウサギではない。体を包む毛はなく、白く岩のように光る肌に所々にくぼんでいるクレータ。まるで、月の石でできたような体だ。
彼女は変異体である。我輩がゴーグルをつけていなければ、今頃我輩は叫び声をあげていただろう。
「もう準備はできているのか?」
我輩が確認すると、ウサギの変異体は鼻を動かしてうなずく。
「1カ月カラ準備シチャッタ! ネエ、早ク連レテイッテヨ!」
「まあ、そうせかすな」
内心依頼をしてから間もない期間で準備を完了していたことに驚きつつ、我輩はビジネスバッグから小さな箱を取り出した。
小動物1匹が十分に入る大きさの箱。
そのふたを開けると、ウサギの変異体は箱の中で丸くなった。
パシャッ
ん?
「今、シャッター音が聞こえなかったか?」
「キ……キノセイダヨ……」
震え声のウサギの変異体の手には、我輩が渡したスマホがある。本来は遠く離れた変異体同士で情報を交換しあうための、変異体専用とも言えるスマホだ。
「ソンナコトヨリモ、早ク閉メテ、オ月様ガヨク見エル所ニ連レテッテ!」
「……まあ、いいか」
我輩は箱のふたを閉じ、山道の登りの方向に歩き始めた。
「今日ハ本当ニアリガトウネ」
歩いている途中に満月を見上げようとした時、箱の中から声が聞こえてきた。
「突然、どうしたんだ?」
「商人ノオジサンガ、アタシノオ願イヲ聞イテクレタカラ。オ父サンニチャントオ礼ヲ言ッテオキナサイッテ、言ワレタノ」
箱の中からは、声とともに何かを書いている音がする。
「一体何を書いているのだ?」
「モオ……ソコハ普通、『俺ハ仕事ヲシテイルダケダ』ミタイナ、カッコイイセリフヲ言ウトコロダヨ」
「そういうものか?」
箱の中から、「ソウイウモノダヨ……」と、ため息交じりの声が聞こえてきた。
そうしているうちに、目的の場所に到着した。
そこは、ベンチがひとつだけある小さな公園。
ここが、もっとも月が奇麗に見える場所である。
我輩はベンチに腰掛ける。
「もうついたぞ」
「ホント!?」
箱を空けると、ウサギの変異体は箱から顔を出した。
「ワア……本当ニ、何ノ模様モナイ……」
ウサギの変異体は、模様のない満月を見て感激をし、すぐさまスケッチブックにクレヨンで書き込んでいく。
「商人ノオジサン、オ月様ッテ、ドウシテ模様ガナイノ?」
ウサギの変異体がクレヨンを動かしたまま、我輩にたずねる。
「この星の月はいわゆる人工衛星である。クレーターの模様まで再現することができなかったのだ」
「本当ノオ月様ハ、模様ガアルノ?」
「ああ、貴様がよく聞いたであろう絵本の物語に出てくる月に模様があるのは、この星のモデルとなった“地球”から見える月のイメージが存在するからである」
「ソレジャア、オ月様ニウサギサンガ住ンデイルオ話モ、地球カラ見エルお月様ガ元ナノ?」
月のウサギのことか。
「月の模様が、一部の地域から見るとウサギが餅をついているように見えることから生まれた伝説である」
「ウサギガ見レタノハ、地球ノ限ラレタ場所ダケ?」
「ああ、だが、他の場所ではカニだったり女性の髪に見えたりしたと、聞いたことがある」
「ヘエ……知ラナカッタ」
……
「商人ノオジサン、ドウシタノ?」
「ん? ああ、なんでもない」
少しの間黙ったのは、月の模様の話は驚かせる自信があったのだが、思っていたよりも反応が薄かったために落胆していただけである。
「ヨシ! カケタッ!!」
ウサギの変異体はスケッチブックを天に掲げた。
メインとなる満月。
そのバックにある夜空。
その下に立ち並ぶ、街の建物。
クレヨンで描かれていくその絵は、独特の空気が感じられるほど、美しい。
「見ないうちに上達したな」
お世辞にも聞こえる言葉をかけると、ウサギの変異体は照れているように体を揺らす。
「商人ノオジサンガ、絵ヲ書クタメノ道具ヲ売ッテクレタオカゲダヨ」
「礼なら貴様の父親に言ってくれ」
普通は買ってくれた人の方に感謝を述べるのが先だと思うからこう言ったが、ウサギの変異体は耳をピンと立ち上がらせて、「ソウソウ、ソウイウセリフ!」と答えた。
おそらく、ここにくる途中で言っていた『俺ハ仕事ヲシテイルダケダ』の続きだろうか? 別に意識して言ったわけではないのだが……
「ネエ、“化ケ物バックパッカー”サンモ、キット褒メテクレルヨネ?」
化け物バックパッカーとは、我輩が変異体専用スマホを渡した別の変異体のハンドルネームである。変異体専用スマホには、一般的なスマホとはつながらないSNSのアプリが搭載されている。
「ああ、彼女は絵や写真よりも実際にその場所に訪れることを好むが、この絵は彼女がそこに言ってみたいという意欲をかき立てられるだろう」
そうコメントをすると、聴いたウサギの変異体はいきなり飛び上がった。
「ヤッタ! ヤッタ!」
「……別に必ず喜ぶとは言っていないのである」
「デモ、オジサンガ褒メテクレタカラ、絶対喜ブ!」
……我輩はそんなに彼女と似ているのであろうか?
街の明かりが、少しだけ消えていくころ、
スケッチブックを抱えて、ウサギの変異体は月を眺めていた。
「化ケ物バックパッカーサンガイナカッタラ、アタシ、多分絵ヲ書イテイナカッタト思ウ」
「なぜだ? 昔から絵を書くのは好きだったであろう」
「ウン……ダケド、コノ姿ニナッテカラハソンナコト思ワナクナッチャッタ……デモ、オジサンニスマホヲモラッテ、化ケ物バックパッカーサンガ撮ッタ写真ヲ見テ、ソノ写真ヲ絵ニ書イテミタイ……ソウ思ウヨウニナッチャッテ」
「影響を受けた、というわけか」
「ウン。ダカラ穴ノ中ニヒトリボッチデイテモ、今度引ッ越ス場所デモ、モウ怖クナイヨ」
「そうか……もうすく引っ越すのだったな」
ウサギの変異体がこの山に住んでいる。そんなウワサが、既にこの街で広まっていたのだ。
そこで彼女の父親は、別の街に引っ越すことを判断、最後の思い出に満月の月を娘が書きたがっているから、我輩に書ける場所まで連れて行くように頼んだのだった。
「父親は元気か? 風邪を引いたとは聞いたが」
帰り道の坂道で、我輩は箱の中のウサギの変異体に聞く。
「熱モ下ガッテ来タトコロダカラ、明日グライニハ元気ニナルッテ。元気ダッタラ送ッテアゲタカッタミタイ」
「それなら、数日後にはここを出発することになるな……おっと」
危うく、この子の今までの住処である小さな穴の前を通り過ぎようとしていた。
我輩が箱を開けると、ウサギの変異体は立ち上がって我輩を見た。
「サッキモ言ッタケド、今日ハ本当ニアリガトウネ」
「ああ……それでは、また用事があればスマホで連絡してくれ。ただし、我輩も世界のあちこちを旅している身だからな。今回はたまたま近くの地域にいたから数日ですんだが、だいたいは数年ごしに……」
「ワカッテルヨ。ソンナコトヨリモ、オ得意様ノ新シイ引ッ越シ先ヲ聞カナクテモイイノ?」
「……あ」
「引ッ越シタラ、コノスマホデオシエテアゲル」
そう言い残して、ウサギの変異体はスケッチブックとクレヨンを手に、箱から穴へとジャンプをして、穴の奥へ消えていった……
かのように見えたが、穴の入り口で立ち止まっていた。
手にあるスケッチブックを、じっと見つめて。
何かの決断を、悩んでいるように。
「……どうしたのだ?」
「……ナンデモナイッ!!」
なぜか声を荒げて、ウサギの変異体は穴の奥へ消えていった。
下る坂道を歩いて、ゴーグルを外しながら、ふと満月を見上げる。
「あの満月は、なぜクレーターの模様を作らなかったのだろうか」
この星は、地球をモデルとして開発された。
今は無き、地球のとある時代の姿を、モデルとして。
それなのに月の模様が再現されていないのは、
まったく同じ模様を作ることが、当時の技術では難しかったのだろうか。
ならば、いずれあの月は、新しいものに取り換えられてしまうのだろうか。
それとも、そのままあの月がこの星の月だ、という認識で放置されるのだろうか。
後者ならば、もはや地球の再現という、この星の本質から離れてしまう。
このまま、この星は地球からかけ離れてしまうのだろうか?
「いや、どうでもいいことか」
もともと変異体という存在がいる時点で、地球とは違うのだから。
仮に変異体と呼ばれる者たちが絶滅したとしても、
彼らの存在は誰かの記憶に残り続ける。
本当に恐ろしいのは、その記憶が消えてしまうこと。
だが、記憶を半永久的に消えない方法を、人々は無意識的に所持しているのだ。
「ん?」
背中に何かがあたったような気がして、後ろを振り向く。
地面に紙飛行機が落ちていた。慌てて作ったのだろうか、ところどころにシワがついている。
拾ってみると、画用紙の質感とともに、人のアゴのような模様があることに気づく。
頭の中にスケッチブックが思い浮かび、思わず紙飛行機を広げてしまう。
「……仮にこの画用紙を子孫に残したとしても、我輩の記憶は受け継がれるだろうか?」
画用紙に描かれた、少女漫画のように美化された我輩を見ながら、思わずつぶやいてしまった。
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