ジェノベーゼと二人の未来
ゴンkuwa
ジェノベーゼと二人の未来
夜の帳が下り始めていた。
昼間に比べると少し涼しくなってきたが、それでも夏の匂いを感じる夜。
もうそろそろ鈴虫が鳴き始める頃だろう、と俺は窓に目をやった。季節が変わるのを告げる空気が、部屋を涼やかに満たしていた。
台所でリゾットを火にかけながら、なぜか脳裏には屋台の焼きそばが浮かんだ。カレンダーを見ると、2020年8月。
そういえば来週末、近所で祭りがあるらしい。赤い提灯と屋台で彩られた神社の参道を、浴衣姿の彼女が「はやくー!」と手を引いていく姿を想像した。
あいつの事だからきっと、目につくもの全てに興味を惹かれ、すぐにあれを食べたいこれを食べたいと言い出すだろう。
そして、そんな彼女に「あんまり無茶すると腹壊すぞ」などといいつつ、それでもかき氷やりんご飴を手渡す自分が容易に思い浮かんだ。
皿にリゾットをよそいながら、自分の中から含み笑いが起きるのを感じる。その時。
ピンポーン
玄関のチャイムが鳴った。彼女は飛び入りで来たつもりだろうが、今日この時間に来ることを俺は事前に「観て」いた。椅子から立ち上がると、自然と口角が上がっていく。
「はい。」
インターホンのスイッチを押すと、小さな画 面に見慣れた少女が現れる。ふわふわのうさぎのようなツインテールに、野に咲く花のような可憐な笑顔。
少女から大人の女性へと変わる時期特有の輝きを放ちながらも、何も知らずにのこのこと無防備に男の家に上がり込んでしまう、考えなしなところが彼女にはあった。
彼女の姿を見て、心臓が一瞬鼓動を打つ。だが、それは場違いなものであることは自分自身がよく知っていた。少女のその手には、いつも通りマイ箸とマイ丼が握られていたからだ。
「ヨーゼフ、お腹すいたー。」
気の抜けるような声が、機械越しにくぐもって聞こえる。相変わらずな様子に、少々呆れながらもやはり口元が緩んだ。
「はいはい。」
子どもをあやすように、そう返事をした。
かつては、彼女に語尾を伸ばす癖はなかったように思う。だが、ここに来るうちにこの家では次第にこんな喋り方をするようになっていった。自分に気を許してくれているのだろうと思うと、胸が暖かくなってくる。
「りず、言っとくけど、今日は丼モノじゃないぞ。今開けるからちょっと待ってろ。」
名を呼ぶと、彼女が少し嬉しそうな表情を浮かべるのがわかった。そしてインターホンのスイッチを切り、俺はドアを開ける。全く、いつも自分は彼女を甘やかしてしまう。
「こんばんはー!お邪魔しまーす!」
満面の笑みで、当たり前のように玄関に上り込む。そして一歩進むと、部屋に漂うオリーブと緑の香りが彼女を包み込んだ。
「あ、今日はジェノベーゼリゾットね!」
うさぎの瞳がキラキラと輝いた。声も明るくはずみ、楽しそうだった。柔らかそうな、二つに結わかれた巻き毛の耳がふわりと揺れる。
「待ってて、手を洗ったら手伝うから。」
そう言うとぱたぱたと洗面所へと駆けていく。そう言われてももうほとんど終わっているんだけどな、と呆れつつも、彼女の背中を目を細めて見送る。
まったく、あいつもうちに慣れたものだ。
* * *
「いただきまーす!」
うさぎ、もといりずの声が2Kの部屋に明るく響く。事前連絡なしでなぜか2人前の料理が用意してあることを疑問に思うでもなく、至極楽しそうに手を合わせている。
「はいはい、いただきます。」
俺は彼女から1テンポ空けてから、ゆっくりと食事に手を伸ばす。するとすぐに、彼女から「おいしいー!」の歓声が発せられた。間近で聞く小鳥のさえずりのような声と、華やかな笑顔。
「夢」で観た通りの光景だ。
そもそも、初めてりずと出会ったのも「夢」の中だった。見知らぬ少女が自分に微笑みかけ、親しげに名を呼ぶ。その不思議な状況に最初は首を傾げたものだ。
だが、その断片的な続きを何度も見ているうちに、次第に彼女に惹かれていった。
彼女は美しかった。
会いたくて、気が狂いそうだった。
「ヨーゼフ、どうしたの?」
しばらく黙ったままの俺を心配したのか、彼女が顔をじっと覗き込む。その瞳にふと我にかえって、思考を今の時間軸に引き戻した。
「いや、よく食うなと思って。」
「もうっ!」
膨れっ面をしながらも、スプーンを手放そうとしないところがさすがだと思う。それだけ自分の飯を気に入ってくれているのだ。そう思うと、また自然と口元が緩んでしまう。
この時間が、彼女とこうして過ごせる時が永遠に続けばいいと、本当に心から思った。
* * *
「じゃあ今日はもう遅いから、送っていくよ。」
食事が終わり、彼女がクッションと戯れている間に軽く食器を洗ってしまってから、俺はりずにそう言った。
いつもだったら、彼女は朗らかに返事をしてすぐに立ち上がるが、今日はなかなか答えが返ってこない。
タオルで手を拭きながら様子を見にいくと、頬を染めながら下を向いている。そして、蚊の鳴くような小さな声で
「…もう少し、ここにいたいな。」
と呟いた。
初めての反応で少々驚いたが、そこは平静を装って言葉を続ける。
「けど、これ以上いたら本当に遅くなるぞ。家の人だって心配するだろ。」
「でも…」
りずはもじもじと手元のクッションをいじっている。俺が普段、彼女の代わりに抱いて眠っているクッションだ。その姿に、心臓が一つ大きく跳ねる。
「あの、私…」
顔を真っ赤にしながら、か細い声で唇を開く。
「きょ、今日は、帰りたくないな、なんて…」
驚きに、目が見開かれていくのが自分でわかった。今、なんて?りずが?帰りたくないって?それって、一体…?
「え、お前、それ」
やっとの思いで口を開く。その声は、心なしか少しうわずった状態で響いた。彼女は顔を隠すように下を向いたまま、
「お、おばあちゃんにも、今日は帰らないって、言ってきたの。…ちゃんと、意味分かって言ってるよ…!分かってるもん…」
クッションをぎゅっと握る。その手元が小さく震えているのが、俺のいる位置からもはっきりと見てとれた。
一歩、二歩、彼女に近づく。そして彼女の目線に合うようにしゃがんで、その瞳を見つめた。その目は潤んでいた。
「…本当に、いいのか」
問いかけるとりずは小さく、けれどはっきりと頷いた。そんな彼女が愛らしくて、思わず強く抱きしめる。りずは、涙を浮かべながら微笑んでいた。
きっと不安で、彼女なりにたくさん悩んで、そして勇気を振り絞ったのだろう。
彼女はただ一生懸命で、そして純粋なのだ。
りずの髪を撫でようとして手を伸ばす。すると、いつもの感覚が頭に訪れた。脳が夢の中に吸い込まれるような「夢」の前触れ。
「来た…」
喋っている自分の声が、どんどん遠退いて聞こえる。そして完全に現在の感覚がなくなった時、俺は別の時間と空間に立っていた。
* * *
「ほらー!こっちこっち!」
小鳥のさえずりのような声がして振り返ると、浴衣姿のりずが遠くを指さしている。背景では、屋台と提灯が華やかに夏の夜を彩っていた。
「この奥で花火が綺麗に見えるんだって!もうすぐ始まっちゃうから急ごう!」
「あ、ああ。」
ヨーヨーと焼きそばとりんご飴を持ちながら、反対の手で俺の袖を強くひっぱる。彼女の進むままに駆け上がっていくと、それまでの狭い道からやや開けた場所に出た。
「あ、始まった!」
空を見上げると、光の筋がまさに夜空を登っていくところだった。そして、大きな音とともに大輪の花が天高く開く。
「すごーい!綺麗ー!」
彼女が隣で無邪気にはしゃいだ。テンションが上がっているのか小さくぴょんと跳ね、彼女の二つのツインテール耳もふわりと揺れた。
「ねー!すごいね、ヨーゼフ」
花火の光に照らされたりずの顔を見ているうちに、胸の中にどうしようもなく彼女を愛しく思う気持ちが込み上げてきた。そして、彼女がこちらに振り向いた瞬間、
彼女の唇に自分の唇を重ねていた。りずは驚いて目をまん丸くしている。背景では花火が夜空に舞い上がり、その快い破裂音が耳の端に遠く聞こえていた。
* * *
「…ゼフ、ヨーゼフ。」
りずの声にはっと我にかえる。見ると、周りの空間は見慣れた自分の部屋に戻っていた。
「『夢』だよね。…大丈夫?」
心配そうに俺を見つめる。今の感じだと、自分はおそらく5分ほどフリーズしていたに違いない。
「ああ、大丈夫だ。いい未来だったよ。」
ふわりと彼女の髪を撫でる。りずは「よかった」と安心したように柔らかな笑みを浮かべた。先程の夢のせいで、つい口元に目が行ってしまう。そんな自分を誤魔化したくて、軽口を叩いた。
「…お前、相変わらずよく食べるな。」
「えっ?」
「冗談。いや、本当だけど。まあでも、そこがお前のいいところでもあるよ。」
「褒めてなーい!」
さすがにからかいすぎると可哀想なのでフォローを入れたが、彼女はぷくりと頬を膨らませた。
それにしても、今夜はこれからどうしようか。時間はたっぷりあるし、一緒に映画のDVDや深夜番組を見てもいい。
それに、冷凍庫の中にフィッシュアンドチップスが入っているから、それを夜食として振る舞うのもありかもしれない。
そんなことを考えながら俺は、彼女の額に軽く口付けた。唇に暖かな温度と感触が伝わってくる。そして、りずが潤んだ上目遣いでこちらを見つめているのが見えた。
「あ、あの…」
「大丈夫。今はここまでにしとく。続きは、後で。」
こちらがにっこりと微笑みかけると彼女は、頬を赤らめながら、それでも可憐な笑みを浮かべてくれた。
窓の外には、名も知らない星が瞬いていた。初めて二人で過ごす、夏の夜。
そんな今夜にぴったりな、まだ小さいけれど明るい、そしてきらきらとした希望に満ちた光だった。
二人の未来は、まだ始まったばかりだ。
ジェノベーゼと二人の未来 ゴンkuwa @Gonzaleskuwawa
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