後編

 私の家から徒歩十分の大きなマンション。

 先輩の家は思ったより近かった。

 けれど私はさっきの電話で会社の近くにいると言ってしまったので、準備と買い出しに時間をかけた。ちなみに会社は私の家から電車で二十分程の場所にある。


(ここの、九階だっけ)


 一階のインターホンで先輩に教えてもらった部屋番号を打ち込む。


「こんばんはー、森田でーす」


 どきまぎしながらスピーカーに向かって話しかけると、


『どうぞ』


 という先輩の声とともに、扉が開く音。


「おじゃましまーす」


 酔ったふり、酔ったふり……と自分に言い聞かせ、エレベーターに乗る。

 今からは実際に会うのだから、電話のとき以上に演技をしなければならない。

 先輩の部屋の前に着くと、今度はドアの横のインターホンを鳴らす。

 程なくしてドアが開き、先輩が出て来た。


「……いらっしゃい。てかお前、大丈夫か?」


 スーツのジャケットを脱いでネクタイを外した普段よりラフな格好にドキッとしたけれど、なんとか平静を装う。


「大丈夫ですよー。お酒いっぱい買ってきました!」


「程々にしとけよ……」


 と言いながら先輩は私が持っているコンビニの袋を受け取ってくれた。優しい。


「おじゃまします」


 私は脱いだ靴を揃え、先輩に続いて部屋に入った。


「うわあ……」


 先輩の部屋は広めの1LDK。家具はモノトーンに揃えられ、青いカーテンがかかっている。男性の一人暮らしという感じのシンプルで落ち着いた部屋だった。


「大したものは何もないぞ」


 と言って先輩は冷たい緑茶を出してくれた。


「ありがとうございます」


「そこ、座れよ」


 先輩が指したのは黒いソファー。その前には同じ黒のローテーブルがあって、私が買ったお酒たちが乗っている。

 私が言われた通りソファーに腰かけると、先輩は私の隣に座ってきた。

 いきなり距離が近くなって焦る。


「――じゃあ早速飲みましょ? 先輩ビール好きですよね?」


「お、おう」


 缶ビールのプルタブを開け、先輩に手渡す。自分用には桃の缶チューハイ。


「かんぱーい」


 缶どうしを軽く合わせて私たちは飲み始めた。部屋が急に静かになる。

 何か話さなきゃ、と焦って口を開いた。


「先輩は何してたんですか?」


「俺? 俺は、実は部長から急な連絡が来て、なんでも明日までに用意しなくちゃいけない資料が抜けてたとかで、対応に追われてたから……お前の電話もらったときは帰ってきたばっかりだったよ」


「そ、そうだったんですか。お忙しいときにごめんなさい」


 申し訳なさを感じて缶に目を落とすと、先輩はいや、と笑った。


「お前が来るまでの間に飯は済ませられたし、俺も久々に誰かと飲みたかったしな」


 はっと横を見ると、先輩は私を見て微笑んでいた。

 先輩の不意打ちに心臓を撃ち抜かれたと思った。


「もう一缶もらうな」


 顔が火照ってきたのはお酒のせいか、先輩のせいか。

 当の先輩は平気そうな顔で、もう最初の一缶を飲み終わったのか、新しい缶ビールを開けようとしている。


「あ、暑いですねー」


 そう言いながら、私は着ているブラウスの第二ボタンを開けた。普段は開けても一番上のボタンだけだ。

 先輩は私の方を振り返り、珍しく少し焦ったような顔をした。


「お、おい、森田……」


 六月半ばなので夜はエアコンをつけるほどの暑さではないけれど、お酒を飲むと体温が上がった気がして暑く感じる。

 ……というのもあるけれど、本当は、先輩をその気にさせたいからで。


「せんぱい……」


 私は胸元まで伸ばした髪を耳にかけ、ソファーに両手をつき、先輩に顔を寄せた。そのまま上目遣いで先輩の顔を見つめる。


「私、もう終電逃しちゃって」


 誘っている風を装いながら、内心は恥ずかしくて死にそう。

 だって、本当は酔ってないんだもん――


「おい、何やってんだ!」


 急に出された大きな声に驚いてびくっとした。


「先輩……?」


 先輩はあまり見たことのないような怖い顔をしていた。


「お前、今日はもう帰れ」


「えっ――?」


 唐突に拒絶され、ショックで動けなくなった。

 そんな私の目から、熱いものが零れ落ちる。


「森田、ごめん――」


「私、そんなに魅力ないですか?」


「森田……?」


「私より、冴島さんの方がお似合いなのは、わかってます」


「……」


「でも、私の方が、先輩のこと、ずっと好きで……」


 喋るうちに涙はどんどん止まらなくなっていって、しゃくり上げてしまってうまく喋れなくなってしまった。

 痛いくらいの沈黙に耐え切れず俯く。


「森田、お前……」


 先輩もきっと困ってる。

 これ以上迷惑をかける前に帰ろうと、立ち上がりかけたとき。

 私は先輩の胸に抱きしめられていた。


「そうか、だから様子がおかしかったんだな」


「先輩……?」


「言っとくけど、俺は冴島と付き合ってるわけじゃないぞ」


「えっ?」


 だって、日曜日に会う約束してたじゃないですか。

 そう言うと先輩は、あれ聞かれてたのか……と溜息をついた。


「あれは、別にあいつと二人で会うわけじゃなくて……東京こっちにいる高校の同期五、六人で会おうって話だ。冴島とは高校が一緒のただの腐れ縁だ」


「そうだったんですか」


 先輩と冴島さんがそんな関係だったなんて。勘違いしていたのが恥ずかしい。


「それよりお前、俺のこと好きって言った?」


 続く先輩の言葉に動揺する。


「いや、あの、それは——」


(勢いで言っちゃったけど、どうしよう――)


「俺も、同じなんだけど」


「……はい?」


 言っている意味がわからない。


「だから、何度も言わせるなよ」


 先輩は私を抱く腕の力を強めた。


「俺も、お前のこと好きだったって言ってんの」


「――!?」


 驚いて先輩の顔を見ると、一瞬目が合った先輩は照れくさそうにそっぽを向いた。


「……嘘」


「本当だって。まだ信じてくれないんだったら……」


 先輩は私の両肩を掴み、そっと顔を寄せ……私の唇は、先輩の唇に塞がれていた。


「――んっ」


 少し触れ合った後、先輩が顔を離す。


「これで信じてくれた?」


 みんなの憧れの先輩が、私のことを好きなんて。

 到底信じられる事実ではないけれど、ここまでされたら信じざるを得ないのかな。


「はい……」


 返事をすると、先輩は優しく私の頭を撫でてくれた。


「……さて、お前にはお仕置きが必要だな」


「……へっ?」


 お仕置きっていったい何?

 訳が分からない。

 嫌な予感がして先輩から距離をとろうとすると、先輩は私にゆっくりと接近し、結果私はソファーの端に追い詰められてしまった。

 先輩は眼鏡を外してテーブルに置くと、私に顔を近づける。


(先輩が眼鏡外したところ、初めて見た……)


 もっとゆっくり見ていたかったけれど、先輩はどんどん迫ってくる。

 切れ長の瞳にじっと見つめられ、目を逸らすことができない。


(なんか、いつもと違う!)


「あの、先輩――」


「お前、本当は酒強いだろ? 飲み会で何度か見てるから知ってるぞ」


「あ……」


 先輩はソファーの肘掛けに右手をついた。私の肩のすぐ横だ。


「全然酒の匂いとかしないみたいだし。それにお前の家はこの近くだろ? 終電なんてないくせに」


「う……」


 全部ばれていたなんて。

 どう弁解しようかと口をパクパクさせていると、先輩は私の右耳に顔を寄せ――


「この俺に嘘ついた、お仕置き」


 耳元で囁いた。


「――っ!」


 熱い息が耳にかかってぞくっとする。変な声が出てしまいそうだった。


「先輩――ひゃっ!?」


 今度こそ変な声が出てしまったのは、先輩に耳を甘噛みされたから。

 先輩はそのまま私の耳を舐め始めた。

 耳元で水音が響く。ぞわぞわして、身体が勝手に火照ってくる。


「んっ、先輩、やだ……あっ……」


 ひとしきり舐め終わると先輩は顔を上げた。


「やだってお前、最初からそのつもりで来たんだろ?」


 そう言って、私がさっきボタンを開けたブラウスの胸元に指をかける。


「こんなかわいいの覗かせちゃって」


 先輩が見ているのはたぶん、私が今日のために新調した、胸元にレースがついたかわいい下着のこと。

 改めて言われると顔から火が出そう。


「うう……」


「お前、今日は終電逃したんだよな」


 それは嘘だって、先輩もわかってたでしょう?

 と言おうとしたけれど、先輩の瞳に囚われて何も言えなかった。


「ここじゃ狭いから、続きはあっちで……な」


 そして先輩は私を横抱きにして運んでいく。


「ちょ、先輩、どこ行くんですか」


「どこって――ベッドだけど」


 先輩の言葉で私は、今日はもう帰してもらえないことを悟ったのだった。

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今夜だけは…… 海月陽菜 @sea_moon

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