今夜だけは……

海月陽菜

前編

 プルルルル……プルルルル……


 私は耳に当てたスマホを両手で握りしめた。


 プルルルル……プルルルル……


『はい、松川ですけど……森田?』


 コール音が突如として止み、よく知っている低い声がスマホ越しに耳に流れ込んできた。


「は、はい……!」


『こんな時間にどうしたんだ?』


 そう言われて机の上に置かれた時計を見ると、もうすぐ十時半になろうとしていた。


「あの、せんぱい……」


 私はいつもよりちょっとだけ甘めな声を出して、ゆっくりと喋る。


「今から、会えませんか……?」


『なんだ、お前酔ってるのか?』


 そう、私は今酔っている。

 正確には、酔ったふり・ ・をしている――。



     *   *   *



 なぜ私が先輩相手に酔ったふりをしているかというと、私――森田綾はずっと先輩のことが好きで、つい最近失恋したから。

 松川祐輔先輩。

 同じ会社の総務部に勤める三つ年上の先輩で、仕事ができる。課長よりもできるんじゃないかっていう話もある。

 そしてすごくイケメン。少しだけ茶色がかった地毛は短めに整えられ、毎日セットされている。黒縁眼鏡に二重だけど切れ長の目。アイロンのかかったシャツにしわのないスーツ。

 普段はクールなんだけど、同期で仲の良い男性社員とは休憩時間や仕事終わりに思いっきり笑っているときがあって――そのときの先輩はすごくかわいい笑顔をしていて、私はいつもギャップにやられてしまいそう。

 もちろん先輩は見た目だけでなく中身もイケメン。後輩や同期への面倒見がよく、上司にも気に入られている。何かあったときにさり気なくフォローを入れてくれることもある。

 そんな先輩だから、当然モテないわけがなかった。同じ総務部どころか他の部署の女性社員からも人気を集めていて、密かに彼を狙っている人も多いみたい。

 私もその一人だった――昨日の昼までは。


 昼休み、飲み物を買いに休憩スペースの自動販売機に行こうとしたら、非常階段の方から先輩の声が聞こえて来た。


『……じゃあ、今週末の日曜日に、駅前で』


 少し離れていてもわかる。この声は先輩のだ。間違いない。


『ええ、楽しみにしてるわ』


 そう先輩に応えていたのは、先輩の同期で営業部の冴島さんの声だった。

 思わず足を止めてしまう。


(えっ、冴島さん――?)


 今週末の、日曜日? 駅前で?

 なんで、先輩と冴島さんが……?

 気づいたら目から涙が零れていて、私は慌ててトイレに駆け込んだ。


(あの二人、まさか、付き合ってるの……?)


 でも、わざわざ会社が休みになる日曜日に、しかも駅前で会うなんて。多分、これは付き合っている男女の行動に違いない。

 確かに冴島さんは美人だし仕事ができるし、先輩にはきっとお似合いなんだろうな。

 それでも入社以来――そろそろ二年になる片想いだったから、簡単に諦めきれるわけもなく。

 私はその日の昼休みを、自分を落ち着かせるために丸々費やした。

 結局、飲み物は買えなかった。


 それで結局のところ、なぜ酔ったふりをしているかというと、先輩と付き合うのは無理でも、せめて一晩だけなら……と考えたから。

 自暴自棄になっているのは否めない。

 でも、先輩と何もないまま終わってしまうのはつらすぎる。

 せめて私という存在を、ちょっとだけでいいから先輩の中に刻み込んでほしかった。

 そんな風にいろいろと考えた結果、次の日が休みとなる金曜日に私は動くことにした。

 もちろん素面で彼氏でもない男性に迫るなんてできないから、お酒の力を借りる。……のだけど、実は私はお酒にそこそこ強い。それなりに強いものを飲まないと、大胆になれるほど酔えない。

 でもそんなこと、先輩は知らないと思うから……かわいく酔ったふりして会いに行くの。



     *   *   *



「――ちょっと飲みすぎちゃいましたあ」


 えへへ、と笑ってみると、スマホのスピーカーから溜息が聞こえてきた。


『お前、今どこにいるんだ?』


「会社の近くですー」


 嘘。本当は自分の家にいる。

 だけど、会社の近くで飲んでいたことにしよう。


『わかった。迎えに行くから――』


「先輩の家、行ってみたいです」


(言っちゃった!)


 つい勢いに任せて言ってしまった。いや、元々そのつもりだったけれど、実際口に出してみるとものすごく恥ずかしい。


『おい、お前何考えてるんだ……?』


「今日だけでいいので……お願いします……」


『……すぐ帰るんだぞ』


「ありがとうございます。お酒買っていきますね」


 おい、お前まだ飲むつもりかよ。というあきれた声と先輩の住所を聞き、私は電話を切った。緊張して強張っていた体の力が抜けていく。

 酔った後輩の演技をしている間、心臓はずっとうるさく鳴りっぱなしだった。


(私、変じゃなかったかな?)


 でも、とりあえず第一段階は成功した。

 うれしくて胸の鼓動が高まるのを感じながら、私は早速先輩の家に向かう準備を始めた。

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