疫神退散記2020

アーカムのローマ人

疫神退散記2020

 この子を生みたまひしによりて……こやせり……かれ伊耶那美いざなみの神は、火の神を生みたまひしにりて、遂に神避かむさりたまひき……かれその伊耶那美のみことなづけて黄泉津大神よもつおおかみといふ……

——古事記より


 どうせ誰ともすれ違わないのでマスクはしていない。珍しいことに風から初夏の草花が香る。例年なら土曜の午前十時に国道沿いを歩けば排気ガスの臭いがするだろうが、空気は澄み渡っていた。

 同級生である鳴子なるこらんから、疫病退散を祈る特別神事で太鼓を叩いてくれという依頼があったのは四週間前だった——こともあろうに僕らが通う大学の病院から。くだんの新型ウイルスはこの赤牟あかむ市で数十名の感染者を出してはいたが、鳴子がかすれた声で陽性と囁くまで僕は真に危機を実感してはいなかった。

 

 入院自体は数日で済んだらしく、今や健康そのものの鳴子は玄関で僕を出迎え、二階の大部屋まで案内してくれた。ここで神事を行うらしい。

「神棚はないの?」

「要らないの」

「近所の神社の神事じゃないのか?」

「そうだよ。鳴子神社ってわかる?」

市内には確かにそんな神社があった。苗字からして関係者なのだろう。

 鳴子は知人である星沢ほしざわ北斗ほくとすばる夫婦と同居していて、この二人が神事の進行役だということだった。既に六人の男女が、隅の方で何やら話し合っている。部屋の中心から直径五メートル弱の空間を円陣で囲むように座布団が準備してあった。

「何があってもこの人達の言うことを聞いてね」

いつものにやにや笑いさえ封じ込めて真面目な顔で鳴子が言うので、僕も真剣に頷いた。

「一度、合奏の練習もする?」

「時間があるなら」

「北斗さんに楽器を出してもらってね。私は着替える」

 鳴子は立ち去り、北斗さんが僕を席に案内してくれた。既に宮太鼓が準備してあった。他の六人もそれぞれの席に着く。二人の男性は長い縦笛、他の四人が歌い手のようだ。このご時世に合唱はだめなんじゃないかと僕は思ったが、言える雰囲気ではない。

「とりあえず最初から合わせましょう」

笛吹きの一人が言い、僕はあらためて緊張してきた。指揮者がいないので、テンポは僕の太鼓に掛かっているのだ——

 練習時間は長くないが、短いフレーズの繰り返しなので本番も大丈夫そうだった。合唱は非常に古い言葉のようで、聞き取れたのは「ナルコ」「大神」「来ませ」「いあ」「ふたぐん(?)」くらいだ。最後の二つの意味を考えあぐね、自慢じゃないが成績は良かった古典の内容を思い出している時、鳴子と昴さんが部屋に入ってきた。

 鳴子の衣装は興味深い代物だった。基本的には巫女さんのような緋袴を基調とした装束だが白いはずの上衣が真っ黒で、その上から勾玉を連ねた首飾りを掛けているので雰囲気が随分違う。長髪はそのまま下ろし、額に第三の眼を描いていて、日本というよりはインドかどこかの神に見えた。顔立ちが彫刻のように整っているので尚更だ。

 部屋の扉が閉ざされ、全ての窓は黒いカーテンで覆われた。明度を落とした照明がぼんやりと室内を照らす。換気を良くするべきではないのだろうか。

「では、始めます」

北斗さんが静かに宣言した。まず鳴子が中央より少し後ろに立ち、全員が練習通りに座る。星沢夫婦は鳴子の前、笛吹きの二人が両横、僕は後ろで、歌い手達はその間を埋める。

 一組の男女が声を張り上げた。

「いあ!」

 それを合図に僕が叩き始めた太鼓のリズムに、しなやかに舞う鳴子の足踏みが乗る。歌い手達が低く繰り返す古代の言霊に葦笛の高音が重なり、更に北斗の朗々とした歌声が加わった。謎めいた歌詞は僕の知るどの言葉でもない。多くの音が共鳴し合い、狂おしいほどの懐かしさでもって僕を満たしていく——

 鳴子がくるりと半回転し僕と正面から向き合い、そして急に扇を取り落として崩れ落ちた。助け起こそうとばちを離す寸前、昴がきつく僕を睨みつけて制止した。鳴子の歌い続ける異郷の歌は徐々に旋律を失ったしゃがれ声になっていく。

「あなたは、誰ですか?」

昴が鳴子に問いかけた。

「私は、鳴子蘭」

「いいえ、本当は何ですか?」

「私は、私は鳴子蘭……天地あめつち大王おおきみは千のかお持てる王女ひめみこを遣わせり……ああ!よみつ いざあ なあ め いあ……ばいあぐうな!」

鳴子はうずくまってすすり泣く。それは悲しみとも痛みとも、もしかすると弔いとも解することができた。未知の言語が泣き声に割り込んで徐々に支配し始め、昴がそれに応えるように祭文を唱える。その間にも人々は異郷の歌を歌い(あの古語の合唱はいつしか北斗の歌に合流していた)、笛の中に通る息が音を立て、僕の太鼓は自ら脈打っているようだった。

 それに気がついた時、危うく手を止めるところだった。もう一つの歌声が聞こえるのだ。男とも女ともつかず、強いて言うならば若い声で、独唱というよりは全ての音が正しく響き合った結果生まれたという感じがする。

「見える……」

鳴子が呻く。

「何が見えますか?」

昴が問いかけた。

「いる。冠を戴いて——ああああ!最も若き災いの王、我が身を炎で焼いて生まれ出たもの……光が!病める太陽は輝けり……にぬ かだす よみつ いざあ なあ め……」

鳴子が顔を上げた。振り乱された髪の間で第三の眼が爛々と燃えていた。鳴子を恐れる日が来ようとは思ってもみなかった。彼女は旅行とタイ料理と長い名前のアメリカ人のホラー作家が好きな、名状しがたい美貌以外はごく普通の大学生のはずだった。次の瞬間、彼女は今まで呻いていたのを忘れたかのようにすっと立ち上がると再び僕に背を向けた。

「何者であられますや?」

彼女は滔々と答えた。名乗りなのだろうがそんな神名を聞いたことはない。笛はより高らかに吹き鳴らされ、歌い手は声を張り上げる。今やその言語を理解していないのは僕一人だけのようだった。

 突然天井の明かりが消えた。閉め切られた部屋の中は闇に覆われ、手元の鼓面すら全く見えない。塗りつぶされたような黒の中で輝きがうごめいた。鳴子の正面の上空にほっそりした人影が浮いていた。子どものように小柄で、金の冠(と言ってもそれは金属を粗雑に丸めて輪にしたような代物だった)を戴き肌も髪も激しく白熱していた。目を痛めることも恐れずに見上げた時の太陽に似た輝きが周囲を照らし出す中で、鳴子の姿はただの真っ黒な影だった。人型の光と闇が向かい合う。

 冠を被った輝きが声を発した。単語の意味を解することはできないのに、その情報の連なりは僕の頭の中に入り込んできた。

 その存在は求めていた。生存と繁栄を(と言っていいのか。あれが生物であるのか僕にはわからない)、その目的のために必要な生きた細胞を——つまりは僕らを!それは寄生によって他者の力で自己を複製して増殖する存在であり、僕らのように個体の喪失という概念を持ってはいないようだった。

 そして鳴子は新たなる輝きの王に対抗する力だった。せめぎ合う光と闇を囲んで人々が歌う。彼らは原初の暗黒を称えていた。万物はその母たる混沌に回帰する、大いなるかな黄泉鳴子大神よもつなるこのおおかみ、我ら御子みこの退散を願うものなり。いあ ばいあぐうな ふたぐん……

 「御子」の眼が僕を見た。どこもかしこも輝いていながらそこだけ暗い、全き無理解の目だった。あれの認識の中で僕は天体のようなもので、利用することで害を与えるなど想像もつかないのだろう。それほど小さい、だが——凄まじい力だ。それは僕に手を伸ばそうとしていた。太陽のような恒星のような毒々しい光。僕はふと、行けるならば星々の彼方までも行ってしまいたい、どこでもいいからと願ったことを思い出した。

 ”そなた如きに渡すものか”

目の前の鳴子から闇が触手の形をとって伸び、光に絡みつくと逆さに持ち上げた。黄泉鳴子大神が自らの子を頭から呑み込もうと背を反らす。鳴子の顔面に黒々とした洞窟が口を開き、触手は光の塊をその中に送り込んでいった。闇が光を覆い、病める太陽は黒き海へと沈み、邪眼は更なる邪視により封じられ——今度こそは僕も声限りに言祝ことほいだ。

 いあ!

 そして蛍光灯が点灯した。


 「ねえ、ねえ!大丈夫?」

鳴子が眉をひそめて僕の顔を覗き込む。額の第三眼はもう光を失っていた。

「僕は平気だけど鳴子こそあんなのを……あれ何?」

僕は問いかけた。頭の中に流れ込んできた情報に裏付けが欲しかった。

「新型の災い、勝手に生まれるの」

新しいスマホが出るよ、とでも言うような口調だった。

「黄泉の女神は内なる混沌より百万の子を産み落とす、しかし子は時に母さえ喰らおうとする」

「倒したのか?」

「ただ争って元居た所へ追い返しただけ」

僕は畏怖の名残を味わいながら、座布団や楽器を片付ける皆を眺めた。

「去っただけなら、また来るかな」

「あるいは古の悪が蘇り、あるいは更なる厄災が産み出され……ごめんね、こんな時に集会なんて。守れてよかった」

もう何も言う気にはなれなかった。

「これでも限界まで人数を絞ったし、血の儀式は省略したから……あ、人身御供ひとみごくうじゃないから心配しないで」

じゃあ何の血なんだ一体というのは気になるところである。

「北斗さんがお餅を焼いたから食べていってよ」

鳴子はにやりと笑った。白い歯が光る。おお明眸皓歯!異界は既に退いていた。


 (北半球では)夏本番の世界がどうなったかは、この手記を読む皆さんにはもうお分かりだろう!鳴子はハイチに旅立ち、僕は念願の交換留学でミスカトニック大学の門をくぐり、知識を渇望し続けている。あの闇の中であったことは過去に繰り返し起こってきたという仮説にいざなわれて閉架書庫の本をめくるたび、これ以上知ってしまっていいのかという疑念が胸を打つが、指は止まろうとしない。

 今学期が終われば僕は日本に帰る。鳴子はあの、いかなる夜よりも深い笑みを浮かべて僕を迎えるだろう。黄泉大神、イザナミ、千の貌持つ混沌の一面——

 僕は起こるべくして起こるであろうことを何となく予期している。

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