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三崎伸太郎
第1話
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三崎伸太郎 11・25・16
第一章
アメリカとメキシコの国境線の長さは約1、933マイル(3、092キロメーター)で、日本の北海道から九州までの全長3、000キロメーターとほぼ同じ長さになる。
メキシコと国境を接するアメリカの州は、カリフォルニア州、アリゾナ州、ニュー・メキシコ州、そしてテキサス州である。これら四州のボーダー(国境)は、人間を通さない鉄のフェンスで区切られているが都市部とか海岸の地域に限られていた。砂漠地帯はビークル・バリアーと呼ばれる木の角材を交錯させた柵で出来ている。水の無い砂漠のような平原地帯を歩くのは、命がけで密入国には向いていない。ボーダーの下に掘られたトンネルなども最近は地中レーダーで簡単に発見される。山間部になるとフェンスは粗末なものになるがコヨーテと呼ばれる密入国エージェントのメキシカン・マフィアが取り仕切っていた。
昨年大統領に就任したアメリカのトランプ大統領は、ボーダーの壁を再構築する選挙公約を実行するため、国境沿いに壁を作る大統領命に署名した。しかし、テキサス州選出の国会議員達は国境の壁建設に反対的な立場をとった。テキサスは、土地に対する地権者の独立性が保たれており、州法に定められている土地の所有権によって土地購入が最も難しい。
何の変化も無い、月曜日の朝。メキシコの地方都市にある古めかしい教会の裏ドアが開いた。数羽のすずめが驚いて飛び立った。一人の年老いたメキシカンを連れた若い男がドアから出てきた。そして牧師が続いた。
「では、よろしくお願いします」と、牧師が若い男に言った。
男は無言で頷いて、メキシカンと歩き始めた。牧師は、その後姿に向かって十字を切った。老人の方は無口だった。若い男も無口だ。二人は、会話する事もなく郊外への道を北の方角に向かって歩いている。5月の朝と言ってもメキシコの太陽は力強い。乾燥した空気を素通りした太陽は、赤茶けた土の道路を射ている。
「だんな・・・」先を歩いていたメキシカンの老人が後ろの若い男を振り返って
言った。
「・・・」若い男は、老人に目を合わせた。
「あんた、ほんとうにハポネス(日本人)かね?」老人が聞いた。
「・・・」男は相変わらず無口だ。
「牧師様が言ってなさった。あんたに頼んだから大丈夫だ、と。それでも、わしは心配だ。娘と孫が・・・」老人は言葉を切って再び歩き始めた。
「しんぱいするな・・・」老人の背後から低い声が聞こえた。老人の口元がかすかに緩んだ。
老人の娘夫婦はエルサルバドルからアメリカを目指したが彼達に国境を合法的に越えられる機会は無かった。トランプ政権の難民政策より、夫婦と二歳になる娘はメキシコの人道ビザで数ヶ月メキシコに滞在していた。しかし、難民を世話する教会から逃げるように国境を目指したのだ。
エルサルバドルから夫婦を連れ戻しに来た老人は、牧師から事情を聞き後を追う事にした。その時に牧師が彼への援助を求めたのが無口な日本人だった。
30分ほど歩くと、二人の男が若い男に合流した。一人はアロハを着ている。もう一人は背広だ。
「手に入れたか?」背広が若い男に聞いた。
彼は、ポケットから赤く光る石を取り出して背広の男に渡した。
「よし・・・」背広は手にしていた旅行鞄を開けた。彼は中からピストルのようなモノを三丁取り出すと若い男とアロハ・シャツに渡した。
「最新のレイザー銃だ」
アロハ・シャツが銃を遠くに向けると狙いを定めて引き金を引いた。青い光の線が的を得た。
「数百回打てる。その後は、バッテリーを交換するだけだ」
「金は?」アロハ・シャツが若い男に言った。
若い男は手にした袋を開けて見せた。メキシコ金貨が光っている。
「一掴みづつだ・・・」
アロハと背広が中から一掴みの金貨を取り出して自分のポケットに入れた。
彼達は老人を無視している。
「この山を越えるとマタモロスだ。聞いてると思うがギャングがでる」
「もう出ている」アロハが言った。
岩陰に男が座っている。
「コヨーテの監視役だ、な」
コヨーテはメキシカン・マフィアで不法な麻薬取引とか国境越えに関係している。
「・・・」若い男は無言だ。彼は、コヨーテの見張りが立っている丘の上の岩陰に向けて歩き始めた。コヨーテの見張りが口笛を吹いた。数人が丘の影から現れた。
若い男は、別に驚きもせず見張りに近づいた。
彼はポケットから写真を取り出すと、見張りに見せた。
「しらねえ・・・」聞く前に相手は言った。
若い男は、ポケットから金貨を出して相手に見せた。
「三日前にマタモラスに向かった」
若い男の手が金貨をはじくと、金貨は見張りに向かって弧を描いた。彼は、金貨を受け取ると再び口笛を吹いた。他の男達が姿を消した。
「マタモラスだ」若い男は戻ってくると言った。
彼達は歩き始めた。しばらくすると、かなり古い汚れたトラックが土埃をあげながら近づいてきた。
トラックは彼達のそばで止まった。
「なんだ? 早速ギャングかね?」背広が言った。
「やとった」若い男が言った。運転席の横には先ほどの見張りが座っている。
「なるほど・・・」アロハが頷いた。
若い男は運転席の見張りに金貨四枚を渡した。
「乗れ」人相の悪い運転手が刺青のある手をハンドルに掛けながら言った。彼達は老人を先に乗せる、トラックの後ろの席に腰を落とした。
トラックは砂埃を舞い上げて土の道を進み始めた。
「やばい連中の道案内か・・・」アロハが言った。
「急がないと、爺さんの娘達があぶない」背広が説明した。
アロハはそれには答えず、トラックの車体の一部をトラックの揺れにあわせて叩き始めた。
かすれた音だがサンバだ。
背広が上着を脱ぐと、懐からハンカチを出し額の汗をぬぐった。トラックは、ぐらぐら揺れながら山の斜面に荒削り作られた山道を一時間ほど走って止った。下方の方に町並みが見えている。
「ここまでだ」見張りが言った。
「・・・」誰も降りない。
「どうしてだ」背広が聞いた。
「料金はここまでだ」見張りが後ろを振り向きながら言った。腰のベルトにピストルが見えた。
「なるほど・・・」
彼達は車から降りた。
「爺さんの孫達は、どっちだ」
「川岸に行け。対岸はアメリカだ」
緑の向こうに川面が反射している。
彼達は歩き始めた。
「待ちな。金貨は置いていけ」後ろから声が聞こえた。振り返ると見張りと刺青の運転手の手にピストルが握られていた。
「金貨?」背広が言った。
「お前のダチに聞け」
「誰か、金貨を持っているのか? 持っているなら差し上げてくれたまえ。ズドンはゴメンだ」背広が丁寧な口調で言った。
「・・・」
誰も金貨を持っているとは言わない。
「そこの若いの」見張りが若い男を顎で示した。
「・・・」
「金貨をだしな」
「出して差し上げなさいよ」背広が若い男に近づいた。近づきながら彼は、皆さんは街(まち)のほうを見て振り向かないように。金貨で目がくらむからと言った。そして、彼は自分のかばんに手を差し入れた。
瞬時、あたりに閃光が走った。見張りと運転手が目をくらました瞬間、若い男の手がすばやく動きギャング達のピストルを奪い取った。一瞬の早業だ。
彼達はギャングを近くの潅木に括りつけると、若い男がトラックに乗ってエンジンをかけた。老人を運転台に乗せ背広とアロハが荷台の席に腰を落とした。
トラックは再びのろのろと川岸に向かって進み始めた。
アロハが荷台のふちを叩きながらボンゴのリズムを作った。
「とにかく、川岸に行こう。爺さんの娘達はまだアメリカには渡っていないはずだ」背広が言った。トラックには運転手席と荷台の区切りがない。
「・・・・・・」若い男は無言でギアを入れ替えた。登り道だった。
登り道を登りきる頃、遠くに川が光って見えてきた。リオ・グランデ河だ。雄大な流れが見える。片方にはマタモーロスの町並みが見えている。
「町にはいないね。川の北の方だろう」背広が言った。
トラックは再び方向を変えた。アロハがボンゴのリズムをつくる。しばらく走ると、刈り取られた砂糖キビ畑の入口付近に数人の人影が見えた。ギャングでは無さそうだ。鉄筋の棒を手にしている。
車を停めると、爺さんが降りて彼達に孫の写真を見せた。数人が爺さんの手にした写真に目を落とした。
「見た」と、中の一人が言った。
「どこに?」
「川・・・」太った女性が指で示した。かなり離れた丘の影にセザンヌの一枚の絵のような風景がある。
「ああ、あのあたりか・・・」アロハが頷いた。
「かなり町外れだな」背広が遠くを見つめながら言った。
「あの辺りは、密入国には向いていない」最後に写真を除きこんだ色の黒いメキシカンの男が気の毒そうに低い声で言った。
「どうしてだい?」
「川が曲がっていて、流れが速い。何人も流されている」
「コヨーテは?」
「奴らはも商売だよ。安全なところを確保しててね。通行料が掛かる仕組みだよ」
「金を払わずに、川を渡るには危険が伴うわけか・・・」
「この辺りは、何処も危険なのよ」太った女性だ。
「危険?」
「知らないの、此処を?」
「知ってるよ」
「あなた達、秘密警察?」
「一般人」
「ギャングではなさそうだけど・・・」
「ま、メキシカン・マフィヤとか警察には嫌われる人間、です」背広が言った。
メキシカン達があきれたように彼を見た。このように日常茶飯事に殺人が起こるあたりを平然と旅行している一般人は、今まで先ずいなかった。
「何者だね?」一人が聞いた。
「私はレーザーの研究者、かれはボンゴ奏者・・・もう一人は、無口なので自分が誰だかしゃべらない日本人」
彼達の目が若い男を見た。彼は平然と前方を見つめたままだ。
「ところで、貴方(あなた)たちは何をしている?」
「死体を捜しているんだ」
「死体?」
「ギャングに殺されて埋められた遺体」
「もう、何人も見つけた」
「棒でか?」
「そうだよ。これを地中に突き刺して穴を開ける。死体があると異様な悪臭が舞い上がる。霊魂が地上を求めて闇の世界から出てくるようで気色悪い。肉親を見つけるため皆、必死さ」
「悲惨だな」
「警察も頼りにならないのよ」
「そうか・・・邪魔して悪かった。皆さんに神のご加護がありますように」
「神・・・忘れるところだったわ」太った女が言った。彼女は手にした鉄の棒をドスンと草むらの中に立てて、手で十字を切った。
トラックは、教えられた方角に向かって再び走り始めた。背後で季節はずれに少し残ってる砂糖キビが風で揺れていた。しばらく走ると道は右や左に軽くカーブしていて、右前方には河川の風景が見えている。
アロハが打っていたボンゴのリズムが突然途絶えた。
車が二台近づいて来て、一台がスピードを上げて前方に回り込むとトラックの背後に一台がピタリと付いた。
「物騒な気配だ・・・」背広が軽く口笛を吹いた。
「何人だ?」運転席の男が別に驚いてもいないように聞いた。
「後ろに三人、前の車に三人・・・厄介だな。爺さんの娘を見つけるのが少し遅れる」彼達は車や金品を取り上げれるとは思っていないようだ。
「トラックも、そろそろガス(ガソリン)が少なくなってきた。丁度いい」若い男だ。
「どの様に分ける?」アロハだ。少しも驚いていない。彼達は戦うようだ。
「アロハが後ろの二人、背広は爺さんを守って一人。俺が前の三人を叩く」
「よし、やつらが発砲する前に止まろう」
「めんどくさい奴らだ・・・」
若い男は、車のスピードを落とすと道の端に停めた。これで片側からの攻撃は無い。後の車には、木に縛り付けていたギャングの二人もいる。銃を構えて下りてきた。
「やあ、先ほどは・・・」背広が声をかけた。
「ふざけるな! 舐めたことをしやがって」
「ちょっと待ちたまえ。君達のスパニッシュは酷(ひど)い。意味が分らない」背広が言った。
「くそ!いてまえ」日本語に訳すとこのような言葉で銃を向けた。その瞬間、アロハが動いていた。すばやかった。あっという間に二人のギャングは地面に倒れた。もう一人が銃を構えなおした時、背広の手からレーザーが発射された。
ギャング二人がうめき声を上げながら地上に倒れている。背広のレーザーを受けたギャングは両手で顔を覆っている。目が見えていないようだ。顔を手で覆ってくるくる回っている。アロハが落ちているギャングの銃を拾った。
背広は、手早く二人を再びロープで括ってトラックに一方の端を結んだ。男達は不思議な結び方で結ばれていて、身動きが取れない。
前の車に歩いて言った若い男が戻って来た。前方からは少しも音がしなかった。
「お客さん達は、どうした?」アロハが聞いた。
若い男が顎で一方の草むらを示した。三人のギャングが折り重なるようにして倒れていた。
「殺したのか?」
「生きている。ギャングは出来ない」
「なるほど。気の毒に。彼達も運が悪かったな」
「失業保険をとるしかない」背広が言うと爺さんを車から降ろした。「爺さん、大丈夫か?」メキシカンの爺さんは、両手を胸に合わせて祈っている。
「祈りは短くお願いします」
爺さんは、倒れているギャングたちに眼をやるとゴクリとつばを飲んだ。
「彼達は、昼寝中だ」
「あんたたちは、怖くは無いのかい?」
爺さんがかすれた声で言った。
「怖い?ああ、小便をちびったよ」アロハが言った。
「さて、やつらの車を使おう。俺は爺さんと後ろのSUV車だ。君達は前方の車で走ってくれ。少し遅れている。急ごう」
二台のSUVはスピードを上げて走り出した。車は、ギャング達が旅行者から脅し取ったものに違いない。ダッシュボードにはアメリカ人の名前のある車両保険の領収書が入っていた。
彼達は、町外れの小さな教会の前で車を停めた。
教会の外れに「All That Heaven Allows(天はすべて許し給う)」と書いた汚れた看板が無造作に乾燥した赤土の上に置かれていた。古い映画の看板だ。映画スターらしき名前が端の方に書いてあったようだが半分ほど朽ちていて分らない。「Heaven」と書いてあるので、誰かが教会に持って来たに違いない。
「少し、聞いてみるか・・・」
「それしかないな・・・爺さん、写真を貸してくれ」背広が爺さんから写真を受け取って教会の方に歩いた。彼が教会のドアを開ける前に、数人の男女が中から出てきた。移民のようだ。背広を見た瞬間、彼達の目に恐れの表情になった。違法移民捜査官と思ったようだ。
背広は得意なスパニッシュで「君達、私も仲間だ。この知人を探しているんだが見なかったかな?」と、写真を見せながら聞いた。
彼達は少し、穏やかな表情になり代わり代わりに写真を除きこんだ。一人が早口のスパニッシュで「みたよ。川岸にいた」と言った。
「何処の川岸だか教えてくれないか」
「向こうにある道を真直ぐ行って、橋の手前を右に曲がったあたり・・・だったと思う」
「渡りやすい場所はコヨーテが仕切っているんだ。金が無かったら、別の場所に移動しているかもしれない」誰かが言った。
「そうか、ありがとうよ」背広は車に戻った。
「川岸らしいぜ。この道を真直ぐ言って橋の手前を右に行った辺りにいたらしい」
「良く分ったものだ・・・」
「子供のはいていたピンクのズボンと、父親の青いズボン、こんなとこが目印だ」
「爺さんの娘は?」アロハが助手席の爺さんを振返って聞いた。
「当然一緒だ。彼達は三人いたと言った」
「よし、急ごう」
「偶然でも、意外に早く見つけられるかもしれない」
二台の車は、教会の前で見守っている移民達を尻目に、川岸に続く道を橋の方角に向かった。
この辺になってくると、ぞろぞろ歩いている移民目的の集団が道のあちこちに見られる。
彼達は意外と明るい表情だ。メキシコには違法で入っているが未だ法的には厳しく無い。問題は、メキシコからアメリカにどのようにして進入するかだ。不法移民でもアメリカには夢があった。
一人の移民が大事そうに手に持っていたのは、アメリカのスーパー・マーケットの広告のチラシだ。豊かな食材や生活必需品が写真で載っている。アメリカは豊かだ。お金も稼げる。密入国でも、一旦入国すると慈善団体が助けてくれると、彼達は教えられていた。
メキシコとテキサスを繋ぐ国境の橋は28を数える。すべての橋にはメキシコとアメリカ税関の検問所がある。ビザのない難民達はこれらの橋を利用できない。検問所近くは、税関と国境警備局パトロールの監視の目がある。それでも、難民達はコヨーテと呼ばれるメキシカン・マフィャ目の届かない検問所近くを、密入国する為に選んだ。ギャングが少ないのと、万一捕まえられても比較的安全だと聞いていた。検問所が近いということからか意外に盲点で、定期的に警備隊のパトーロール船が行き来しているぐらいだった。そして、市街であることも一つの条件だ。直ぐに、街の人々に紛れ込める。
「メキシコとアメリカの検問所の手前で、右に行こう。爺さんの娘達は、そこから1、2マイル(1.6KMから3.2KM)の辺りにいたらしい」アロハが言った。
運転をしていた若い男は右に曲がると少しスピードを上げた。
道は舗装されていたが、少し離れたメキシコ側には、短く刈り取られた枯れ草のあちこちに、剥き出しの赤茶けた土が見え隠れしている。
少し走るとリオ・グランデ川の河岸の緑が川面を隠し、道も次第に細くなった。やがて舗装が途絶え土道に車が入ると、リオ・グランデ川は時々、木々の途絶えた狭い空間に流れを見せた。良く見ると、今日の川面は増水している。流れも速い。リオ・グランデ川は長さ3030キロメーターだ。コロラド州南西部のサンファン山地辺りから流れ出てニューメキシコ州、テキサス州、エルパソからはメキシコとの国境を分けて流れている。
お金のある移民は、コヨーテのもつゴムボートや大きいタイヤのチューブで出来た筏(いかだ)で川を渡る。経済的に余裕の無い移民は自ら川を泳いで渡る。川は余り深くは無い。しかし、中央辺りは大人の背丈以上に深く、流れも速い。泳いで渡る移民は、このあたりで水の重たさを身を持って知ることになる。
「爺さん、娘さんたちは金を持っていたか?」背広がメキシコの爺さんに聞いた。彼は、小さく首を横に振った。
「そうか、金が無いということはコヨーテの渡し舟を使わない・・・。すると、移民の連中より離れた場所から対岸に泳ぐだろうな」背広は前を走っているアロハと若い男の車をクラクションを鳴らして停めた。
「どうした?」アロハが車から降りて、歩いてくると背広に聞いた。
「北だと思われる」
「北? どうしてだ。他の移民はこちらの方で爺さんの娘たちを見たと言ってたぜ」
「泳いで渡るには川幅が広すぎる。北のほうに狭い流れがある」
「なぜ知っている?」
「地図さ」背広が車の中から一枚の地図を取り出して見せた。
「なるほど。何処で買った」
「車の中で見つけた。メキシカン・ギャングか、この車の持主だった人物のモノだろうけどね」
アロハは背広から地図を受け取ると広げて眺め、位置を確認するようにあちこち遠方を見渡した。
「なるほど・・・北か。よし、引き返そう」
二台の車は音を響かせて急転回すると北に向けて走り始めた。
直ぐに税関のある橋が右前方に見え始めた。
ゲートウエイ・インターナショナル橋は、メキシコのマタモロスという工業地域からテキサスに並列で二本架かっている。運送トラック等の往来が多かった。橋の両方にメキシコとアメリカの検問所がある。この橋を渡るなら、十分ほどで両国を行き来できる。
「川を渡るなら・・・」背広は、誰に言うとも無くつぶやいた。
「人の余りいないところ・・・か」
河岸に沿って走る道の川岸近くには、時々移民達がいた。数人とか多いときには数十人ほどのグループだ。密入国に適した場所と時間を摸索しているに違いない。
やがて道は川に沿って大きく左に曲がり始めた。
背広が車を停めた。アロハと若い男の車が続いて止まった。
「ここのあたりだ。ここから北に行くと川幅は急に広くなる。川を渡るならここまでだ」背広が車から出て後ろの車に来て言った。
「じいさん、行くぞ」背広が老人を車から降ろした。
このあたりに、老人の娘親子がいるとは推測できたが範囲は広い。川岸には数十メーターほど潅木が生えて川の流れを見えにくくしている。時々潅木が途切れて川の流れが見える辺りには数人の移民が佇(たたず)んでいた。
若い男女であれば服や手荷物をゴミ袋に入れて括り、川を泳いで渡る。
多分老人の娘親子も泳いで渡るつもりだろうが七歳になる娘が一緒だ。
背広が一組の集団に近づいて写真を見せた。中の数人が一斉に指で方向を示した。
背広は、車の方に引き返しながらポケットに手を入れて古いメキシコ金貨に触った。ひやりとした重たい感触だ。背広はレザー開発のためにニューメキシコ州のアルバカーキにある米国国防省のエネルギー・レーザー技術局で働いている。
アロハはCIA職員。問題は得体の知れない若い日本人だ。背広もアロハも、彼を詳しくは知らない。
「もう少し南のほうだ。歩こう」と、背広が言ったとき女性の声が聞こえた。「たすけて!」と叫んでいる。移民達も何事かと木立の間から声の方を見た。
誰かが川の真ん中で溺れていた。
若い日本人の男が服をすばやく服を脱ぐと川に飛び込んだ、
彼の背は刺青に覆われていて、鯉が泳いでいる。鯉は急流を力強く押しのけ溺れておる男の方に近づいてゆく。溺れているのは男と小さな女の子だ。老人の娘の亭主と子供に違いなかった。
「鯉だ!」難民達の口から次々と声が上がった。日本人の男が泳いでいると水の中に緋鯉が泳いだ。日本画の中で跳ねている鯉のように、水しぶきをあげながら溺れている親子に近づいて行く。
「奴は、何者だ?」アロハの口から言葉が漏れた。
「ヤクザだろう。刺青がある」背広が言った。
「それにしても、教養がある」
「見事な泳ぎだ」
鯉が親子に近づくと飛び跳ねるようにして水中に消えた。
「どうした・・・」
溺れている親子が水中に引っ張られた。急流の川面が渦をまいた。まるで、川の主が人間を懲らしめるように。しかし、鯉は再び川面に現れた。溺れていた親子を引っ張りながら見事な泳ぎで川岸に近づいてくる。移民達の何人かが川の浅瀬に入って助けようとした。
若い男は、親のほうを彼達に任せるとピンクのパンツをはいて上半身が裸の女の子を抱えて岸に上がった。足を掴んで逆さまにすると、女の子は水を吐き出した。彼は、直ぐに自分の服の上に女の子を寝かし軽く蘇生の処置をした。女の子が目を開けて泣き始めた。
「だいじょぶだ・・・」若い日本人の男から無愛想なスパニッシュが出だ。
老人が近寄ってきて女の子を抱きしめた。
全身刺青の日本人の男は、すらりと立っている。彼の背後には大きな赤い鯉が木立を通して射してくる陽の光を受けて映えた。
見事な彫り物だった。
背広が車の中で見つけた毛布を彼に差し出した。
「いや、未だだ・・・」
「?」
若い日本人が指で対岸を示した。女の子の母親で老人の娘が胸に手を合わせてひざまずいている。
「浮き輪、貸してくれ?」難民の一人が浮き輪を持っていた。相手は彼に手にした浮き輪を差し出した。
刺青の鯉は再び急流に泳ぎを見せ始めた。
彼が女の子の母親を浮き輪に捕まらせて対岸から連れ戻るのに時間はかからなかった。背後の木々の梢がざわざわと音を立てている。移民達の顔が皆同じように男に注がれていた。
鯉は水をはじきながら女の子の母親を連れて岸に上がってきた。
母親は女の子近寄るとしがみついた。女の子の父親が若い男に向かって両手を合わせた。
若い男は浮き輪とゴミ袋を移民から数枚の金貨で買った。移民の手に二個の「勝利の女神」金貨が光った。彼は一枚づつをすべての移民、十人ほどに与え三枚を女の子の両親に与えた。
鯉の刺青が梢から差し込む光を受けて、躍動している。
若い男は自分の持ち物をゴミ袋に積めると浮き輪に括りつけた。
そして、ニコリと微笑むと背広とアロハに「さよなら。お世話になりました」と日本語で言い、川に入って行った。
緋鯉がしぶきを上げて川面を流れに向かって泳ぎ始めた。まるで、長さ3030KMのリオ・グランデ川の上流まで泳いでいくように見えている。紐で引っ張っている浮き輪がすごい勢いで川面を滑って行く。
「誰なのだ、彼は?」アロハが背広に聞いた。
「しらない。しかし、日本のやくざが全身に刺青をしているのは聞いたことがある」
「ヤクザはギャングだろう?」
「彼はギャングではなさそうだな・・・」
「見事な鯉だった。まるで、鯉の化身だ」
「上手い発想だね。神秘的だ」
「奴は、泳いでアリゾナに行くのかもしれないな」
「鯉は滝を昇って龍になるらしい」
「龍?」
「ドラゴン」
「ドラゴン・・・か。奴に、似合っている」
二人は、女の子の両親に車のキーを与えた。そして、老人と彼達の感謝の言葉を背後にしながら、車で橋の方に走り出した。
「どれ、アメリカに帰ることにするか」
「そうすることにしよう。面白い体験をさせてもらったので、再び苛酷な研究生活に耐えられるよ」背広が言った。
「ま、そんなとこだな」
「CIAはどうだ?」
「苛酷だ」
「だろうね」
「しかし、今回は予想外の体験だった」
「ボンゴ奏者か・・・」
「趣味だよ」彼は、自分の両膝をたたき始めた。背広が苦笑して車のスピードを上げた。
前方にはゲートウエイ・インターナショナル橋の税関の建物が見えていた。
了、4月12日、2020年
ボーダー 三崎伸太郎 @ss55
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