第八話
額に鈍い痛みを感じハッと目を開けると、視界が何かに塞がれていた。慌てて身体を起こしたロイは、それが、狭いベッドで一緒に寝ていたトーマスの腕である事に気がつく。
「起きたかリリー」
声をかけてきたのはジャンだった。
昨晩、自分はやる事があるからとトーマスの部屋を出ていったジャンは、いつの間にかここに戻ってきていたようだ。
ジャンは徐に、ロイの隣でイビキをかいて寝ているトーマスの襟首を掴み無理矢理起こしにかかる。
「おまえもいつまで寝てんだよトーマス!早く起きろ!」
「へ?」
「リリー、おまえもとっととベッドから出てこれを着ろ」
ジャンから渡されたのは、仕立てのいいタブレット、シュミーズ、ホーズという洋服一式。
まだ寝ぼけているトーマスや、戸惑うロイに、ジャンはてきぱきと指示を出す。
だが、その服を見た途端、トーマスは大声を上げた。
「あー!おまえそれ俺の一張羅だぞ!何勝手に貸そうとしてるんだよ!」
「仕方ないだろ、お前はこいつに、あのギリシャ神話みたいな酔狂な格好で出歩けってのか?」
「これじゃなくても他に服はいくらだってあるだろ!」
「この服じゃないとダメなんだよ、こっちも相手に舐められるわけにはいかないからな」
言いながら、ジャンは手に持っていた見るからに上等なタバードを着てみせる。
「久々に着たがどうだ?似合うか?」
ロイは素直に頷きその姿に見惚れた。ジャンには、強引で粗野な印象が強かったが、上背もあり、目鼻立ちの整った顔をしているからか、服装が変わるだけで高貴な人物に見えてくるのだから不思議だ。
「いや、そりゃ似合ってるけど、どうして今日はそれ着るんだ?」
「ベッドヴァン家の紋章が入ってる服なんてこれくらいだからな。下宿先から出て行く時持ってきておいてよかったぜ」
「ちょっとおまえの話が全く見えないんだけど。ていうかお前さ、うちや劇場に泊まってばかりいないで、いい加減家に戻ってちゃんと親と話しあいしろよ」
「ああ、今日リリーと一緒に家に帰るぞ」
「え?!」
「といっても、金を借りに行くだけだがな。幸い今父上様は、ウエストミンスターのセシルのタウンハウスに滞在中らしい。これからアポロンで話しをつけた後、母から金を借りて、戻ってきたらすぐこいつに俺が演技をしこむ」
二人の会話を聞きながら、ロイが不安気にジャンを見上げると、ジャンは不敵に笑いロイに言った。
「おまえの借金も家族のことも、俺がどうにかしてやると約束しただろう?早く着替えろ、これからアポロンに向かうぞ」
「はい!」
その言葉を聞くやいなや、ロイはすぐにジャンが用意してくれたトーマスの服を着はじめる。昨晩ジャンは、バレたら捕まる阿漕な商売してるんだから、アイツらもすぐにおまえの家族をどうこうなんてできねえよと言っていたが、ロイは一刻も早く、二人の無事を確認したかったのだ。
「おいおい、大事な服なんだから、汚したり破いたりしないでくれよ」
心配するトーマスをよそに、今まで袖を通したこともない上等な生地の服に手まどいながらも、ロイはどうにか着替え終える。長身だが横幅のないトーマスの服は、ロイが着てもそこまで違和感はなかった。
「少しサイズは大きいが、中々似合ってるじゃないか」
ジャンは、ロイの襟元からシュミーズが綺麗に見えるように服装を整え、満足気に頷きロイを見つめる。
「今日はアポロンと俺の家以外にもおまえを連れて行きたい場所があるからな、これだけ見栄えがよければ問題ないだろう」
「いやでもさ、おまえの家はともかく、アポロンにこの子まで一緒に連れてって大丈夫か?万が一交渉がうまくいかなくて、また男娼に後戻りなんてことになったらどうするんだよ」
「大丈夫です!」
トーマスの気遣いに答えたのは、ジャンではなくロイだった。
アポロンで男に襲われそうになった恐怖は、確かにまだロイの心に深く刻みつけられている。だが、もし万が一ジャンがアポロンと話しをつけられなかったとしても、今度は何があろうと絶対に逃げださないと心に決めていた。自分が店に戻ることで、母と妹が助かるならそれでいい。
「何が大丈夫なんだ?」
「え?」
しかし、なぜかジャンにきつく睨まれ、ロイは困惑する。
「おまえ、俺が交渉失敗しても、自分がアポロンに戻れば家族助けられるとか思ってるんじゃないだろうな?」
図星をさされ、ロイは驚きジャンを見上げた。
「言っとくけどな、俺はこう見えて交渉に失敗したことは一度もないんだ!」
「交渉っていうかおまえの場合脅しだよな?」
「黙れ。国同士の交渉だって、所詮は恫喝のし合いみたいなものだろうが!」
トーマスのツッコミを制し、ジャンはロイに向かって言葉を続ける。
「いいか、俺はおまえをアポロンに戻す気なんてさらさらない!おまえには絶対アリアンを演じてもらうからな!話がつかなかったら男娼に戻ればいいなんて半端な覚悟でアリアン役に挑むのは許さねえぞ!」
「…はい」
ロイのか細い返事を不機嫌な顔で受け止め、ジャンは再び視線をトーマスに向ける。
「それからトーマス、おまえは今日俺の代わりにオーク座に行ってくれ、ここに細かい演出や、それぞれの役柄の演技について書いといたから。あと、ビリーの代役は見つかったから心配しないようにオーク座の皆に伝えておいてくれよ」
ジャンは文字がビッシリと書かれた紙をトーマスに渡し、念を押すように頼むぞとトーマスの肩を叩いた。
「行くぞリリー!」
「はい!」
(リリーではないんだけどな)
昨夜から本名を名乗りそびれてしまったロイは、心の中で否定しながらも、とても今そんな事を言える雰囲気ではなく、勢いよくドアを開け出て行くジャンに慌てて着いて行った。
(この人は一体どうゆう人間なんだ?)
トーマスの家を出た後、ジャンとロイは二人でアポロンへ出向き、つい先程無事交渉が成立したわけだが、ロイは今、自分の目の前を軽い足取りで歩くジャンの後姿を、畏れにも似た気持ちで見つめている。
ジャンのやり方は、トーマスの言う通り、ほぼ脅迫だった。
『なるほど、あんたはこの子を気にいったというわけか、だが、一晩買うのとこの店から買上げるんじゃ桁が違う』
最初、二人を見るや殴りかからんばかりに激昂した店主は、ジャンがヘッドヴァン家の人間だとわかった途端、ずぐに態度を変えた。その上、ロイを買うには100ポンドかかると、とんでもない金額をふっかけてきたが、当然ロイはおかしいと反論する。そもそも父の借金だって、そんなに高かったはずがないのだ。しかしジャンは顔色一つ変えず言った。
『なるほど、ではきっちり10ポンドお支払いしましょう』
『はあ?!何言ってやがんだ!100ポンドだって言っただろう!』
『あんた何か勘違いしてるんじゃねえか?
どこの誰がおまえらの後ろ盾になってるんだか知らないが、お前達がやってることは組織的犯罪なんだよ!
俺が女王におまえらのしていることを告発し、ヘッドヴァン家が介入すれば、お前たちは一網打尽に逮捕され牢獄送りか死刑台行きだ!
それを見逃してやるどころか、10ポンドも出してこの子を買ってやろうと言ってるんだぞ!犯罪者として逮捕されるのと、金を支払われるのどっちがいいんだ!』
そこからは、全てがジャンに有利な方向へ交渉が進んでいった。ジャンは、ロイの家族に手を出さないと男に書面で約束させると、いくらか前金を渡し、当初のジャンの予定通り、そのままヘッドヴァン家へ足りない分を借りに行く運びとなったのだ。
ロイはジャンに感謝しながらも、目的のためなら、堅気ではない人間相手に怯むことなく恫喝できてしまうジャンに、底知れないタフさを感じた。シャイロットやあの店の男達のような悪人ではないのだろうが、ここまでしてもらったら、絶対にこの人の期待に応えなくてはというプレッシャーもより強くなっていく。
「ところでリリー」
「はい!」
「お、いい返事じゃないか」
ロイの心など知らぬジャンは、上機嫌で笑顔を浮かべ、信じられない言葉を口にする。
「これから俺は、日常生活でもお前を自分の女として扱う。安心しろ、俺はアポロンの客と違って男を抱く趣味はない、全ては演技のためだ。セリフを覚えるのももちろん大事だが、まずは数々の男に愛される女の気持ちを少しでも体感しろ!」
「…え?」
「えじゃない!はいだろう!」
「は、はい」
「リリー、これからテムズ川の船着場に向かいますから、どうか足元に気をつけて」
「へ?」
突然、ロイを見る顔つきや口調まで優しく丁寧になるジャンについ間抜けな返事をすると、ジャンは、だからへじゃねえよ!とすぐにいつもの口調に戻った。
だが、気を取り直すように一つ咳払いした後、ロイの手を恭しく握り、道の外側から、自らの左側にくるようエスコートする。
「リリー、こういう時は笑顔でありがとうだ。常に優雅で美しくいろ。俺がおまえをレディとして扱う事に対して、違和感を顔に出してはダメだ。女役を演じるための稽古はもう既に始まってる。わかったか?リリー」
「…はい」
優しげな笑みの中にも、有無を言わせない圧力があり、ロイは頷くしかない。
「よし、じゃあ笑顔でありがとうジャンと言ってみろ」
「ありがとう、ジャン様」
「様はつけなくていい、俺達は今恋人同士なんだ。しかもおまえは女神、人間より格上だ。あと笑顔がぎこちない、もう一回やり直し」
「…」
ロイはなんとか笑みを浮かべ、もう一度ジャンに感謝の言葉を述べたが、ジャンは全く納得せず、何度も駄目だしされ続ける。
身体を売る事からは逃れられたが、ロイは、男でありながら女性を演じるという、別の意味での茨の道へと踏み込んだ事に、今更のように気づくのだ。
(俺に本当にできるんだろうか?)
言いようのない不安に駆られながらも、ロイは、もう何度目かもわからないぎこちない笑顔を浮かべ、ありがとうジャンと呟いた。
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