第七話

 娼館、連れ込み宿、見世物小屋にパブに劇場。人間のあらゆる欲望を体現したサザークの通りを、その日出会ったばかりの2人は、固く手を繋ぎ走り続ける。

 徒弟だった頃、兄弟子達のようにサザークへ息抜きに行くことのなかったロイは、今自分がどこをどう走っているのか全くわからない。

追ってくる相手を鮮やかに巻き、確かな意思を持って走る青年に連いていくのが精一杯だった。

 やがて青年は一軒の家に入っていくと、屋根裏へと続く階段を登って行き、ドアの前にたどり着くやいなや、乱暴にノックし大声で叫ぶ。


「おいトーマス!早く開けろ!連れてきたぞ!おい!」


 すると中から、ロイをここまで連れてきた青年と同い年くらいの若い男が、うるせーと言いながらドアを開け顔を出した。


「うるせーじゃねえよ、約束通りちゃんと連れてきたんだから、お前は俺に言ったこと全部謝罪しろ」


 青年はロイの手を掴んだまま、トーマスと呼ばれる若者の部屋へズカズカと入っていく。

 トーマスはまじまじとロイを見つめ、驚愕と戸惑いが混じったような表情を浮かべた。


「どうだ、あまりにもアリアンのイメージ通りでびっくりしただろ」

「いや、確かに美少年だけど、それよりこの子なんでこんな格好してるの?ジャン、お前まさか、他の劇場で公演中の子かっさらってきたんじゃないだろうな?」

「んなわけねえだろ!この子はな…」


 トーマスに反論し、ジャンはこれまでの経緯を話し始めたが、話を聞いているうちに、トーマスの顔色はみるみる悪くなっていく。


「お前それって、劇場からじゃなくて店から勝手にこの子かっ攫ってきたってことだよな?」

「攫ったんじゃねえよ、俺はこの子が逃げるのを助けたんだ!」


 それまでどうしたらいいかわからず黙って立ち尽くしていたロイも、自分がしでかしたことの大きさに気づき、思わずジャンに縋りつき懇願した。


「お願いです!俺をあそこに帰してください!」

「は?なんでだよ?」

「俺が逃げたら、母と妹が酷い目にあう!」


 ロイの切羽詰まった声に、ジャンとトーマスは顔を見合わせ、トーマスが窺うように尋ねてくる。


「ちょっと待って、えっと、まずそもそも君は何でアポロンで働いてたの?もしかして逃げたら家族に危害を加えるって脅されてた?」


 ロイは静かに頷き、自分が売られた理由を、父の借金を返すためだと簡潔に説明した。


「おい、お前の話と違うぞ!この子演劇やりながら体売ってるんじゃなくて金貸しに騙されて売られた子じゃん!演技できる美少年じゃねえじゃん!」


 しかし、そんなトーマスの指摘などどこ吹く風のジャンは、トーマスの言葉を無視してロイに問いかける。


「でもおまえ、身体売るのどうしても嫌だったから窓ぶち破って飛び降りたんだろ?あんだけのことしといて今更帰っても絶対に許されないぞ」


 ジャンの言葉に益々青ざめ、二人に背を向け部屋を出て行こうとするロイの腕を、ジャンの力強い手が掴んで止めた。


「離してください!俺、帰ります!」

「だから今更無駄だって言ってるだろ!」

「母と妹をあんな目に合わせるわけにはいかない!」


 ジャンは一瞬目を見開きロイを見つめたが、すぐに目を伏せ嘲るように鼻で笑う。


「何を今更、そんなに家族が大事ならなんであの時俺と一緒に逃げた?どんな綺麗事言ったって、結局自分の身がかわいくなったんだろ?」

「…」

「おいジャン、幾ら何でも言い過ぎだぞ」


 ジャンの言葉に何も言い返すことができず、ロイは唇を噛み締める。

 確かにジャンの言う通りだ。家族を守るためと覚悟を決めていたはずなのに、ロイは結局アポロンから逃げだした。あの客の唇が頬に触れ、酒の匂いが鼻腔を掠めた瞬間、恐怖とも怒りともつかない感情に駆られ、どうしても我慢することができなかったのだ。


「あんたの言う通り、俺は家族より自分の身がかわいくなって逃げ出した。だからその過ちを正すために、俺はあの店に帰る」


 言いながら、母と妹の顔が頭をよぎり、ロイの目に自然と涙が滲んでくる。もし二人に何かあったら、自分は今日のことを一生後悔するだろう。そうならないためには、例えどんな目にあおうと、あの店に戻るしか道はない。

 ロイは掴まれていた手を振り払い再びドアへ向かって歩き出す。しかしジャンは、今度はドアの前に立ちはだかり、ロイの行く手を阻んだ。


「どいてください!」

「いやだね。なあ、それよりおまえ、もう声変わり終わってる?」


 突然意味のわからない質問をされ、ロイは心底不快な表情を浮かべたが、ジャンは早く答えろと威圧的に返答を促す。


「もうとっくに終わってます」

「よかった、公演中に声変わりされたら目もあてられないからな。あとおまえいくつ?」

「17です」

「よし、合格!」

「は?」


 さっきから矢継ぎ早に浴びせられる質問の真意がロイには全くわからない。


「もういいから早くどいてください!」


 ついに声を荒げ、ジャンを睨みつけるロイの目を真っ直ぐ見つめたまま、ジャンは不敵な笑みを浮かべ言い放つ。


「リリー、俺と取引しよう。俺があの店からおまえを買ってやる。母親と妹のこともなんとかしてやるよ。その代わりおまえには、今度やる舞台の、女役のヒロインをやってもらう。

あの店で家族を盾に脅されながら男に体売るのと俺に買われるの、どっちの方がましか、おまえだってさすがにわかるだろう?」


 それは、思ってもみない提案だった。

 なぜジャンは、ここまでして自分を買おうとするのか?ジャンが求めているのは、演技ができる少年じゃないのか?

 演劇なんてやったことはもちろん、まともに見たことすらない自分に、女役のヒロインなど出来るものなのか?

 

 どうすべきか迷いながらも、ロイは、ジャンの目に、シャイロットのような邪悪さも、今日ロイを買った客のような歪んだ欲望も一切ないことに気づいていた。

 強引で口は悪いが、ジャンはあの時、決死の思いで窓から飛び降りた見ず知らずの自分を助けてくれた。


(この人を、信じてみてもいいのかもしれない)

「本当に、母と妹のことも助けてくれるんですか?」


 ジャンはロイの問いに深く頷くと、これで交渉成立だなと言いながら、笑顔で握手を求めてくる。その屈託のない美しい笑顔に引寄せられるように、ロイは自分の手をジャンに差し出し、二人の手は再び強く繋がれた。


「俺に買われたからには、俺の言うこと全部聞いてもらうからな!目一杯しごいてやるから覚悟しとけよ」

「…はい」


 こうして、互いに全く違う人生を歩み、絶対に出会うはずのなかった二人の運命が、神の悪戯に導かれるように交差する。

 この出会いがもたらす未来に、一体何が待ち受けているのか、彼らを惹き合わせた全知全能の神ですら知る由はなかった。

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