第ニ話

「くっそ、ムカつく!」


 トーマスへの申し訳なさなどすっかり消えうせ、ジャンは険のある表情を浮かべたまま、人々が行き交うロンドンの街を足早に歩き出す。


 時はエリザベス一世統治下のイギリス。不穏な情勢が続くヨーロッパで、40年以上安定した統治を行ってきた女王にも、死の影が少しずつ近づき始めていたが、この時代、イギリスでは多くの芸術が花開き、中でも演劇は、シェイクスピアやベンジョンソン、マーロウといった才能溢れる劇作家達がロンドン市民を熱狂させていた。


 ジャンとトーマスも例に漏れず演劇に魅せられ、オックスフォード大学在学中から文筆活動を始めた、所謂、大学才人と呼ばれる駆け出しの劇作家だ。

 だがトーマスの言う通り、中流家庭出身が多い劇作家達の中、ジャンの家柄は一際特殊といえるだろう。


 ジャン、ことジャン・フィリップは、初代イングランド王ヘンリー7世の時代から続くヘッドヴァン伯爵家の次男である。

 若い頃から外交官として活躍し、今もエリザベス女王の側近を務める父フランシス。毛織物で財を成した資産家、リチャード・ジークの娘で、少々世間知らずではあるが、優しく慈悲深い心を持つ母リディア。

 そして、品行方正頭脳明晰、女王からの覚えもめでたく、ヘッドヴァン家の至宝と言われた非の打ち所のない兄アラン。


 そんな、家柄も財産も申し分ない、輝かしい貴族の家系に産まれたジャンは、次男とはいえ、ヘッドヴァン家の息子として恥じることのないよう、兄と同じく一流の家庭教師に英才教育を受け、貴族がこぞって入る名門イートン校からオックスフォード大学へ進学。

 14の時にはすでに、貴族の嗜みと高級娼館で女を覚え、お金で買えるこの世の贅沢を全て知り尽くしてしまっていた。側から見ればジャンは確かに、全てを手にして産まれてきたと言っても過言ではないだろう。

 ただ一つ、ジャンが持っていないものをあげるとするのなら、それは、父からの愛情だったのかもしれない。



『なぜアランなんだ!せめてジャンなら』


 悲痛な記憶が蘇り、ジャンは首を振って父の言葉を頭から追い出す。


(俺は貴族だからって、お遊びで演劇をやってるわけじゃない!)


 裕福な貴族や商人の息子達ばかりのオックスフォード大学で、貧しい庶民から奨学金で大学に入ってきたトーマスは、ジャンにとって尊敬できる、数少ない気の合う友達の一人だったが、今回ばかりは自分が招いたヒロイン不在の窮地を棚に上げて、腹の虫が一向に収まりそうになかった。



「ジャン!不機嫌そうな顔してどうしたの?せっかくのハンサムが台無しよ。嫌なことがあったなら今晩どう?久しぶりに遊んでかない?」


 と、怒りのまま脇目も振らず歩いていたジャンに、街頭で客引きしていたエマが、突然声をかけてくる。最近は高級娼館よりも、演劇仲間と気軽に飲めるパブに足繁く通うようになっていたジャンは、深い栗色の髪と、同色のくっきりとしたアーモンドアイを持つ、美しい騎士然とした眉目麗しさにそぐわぬ気さくさと金払いの良さで、この界隈ではすっかり馴染みの人気者になっていた。


「やあエマ、相変わらず綺麗だね。せっかくだから遊んで行きたいのも山々なんだが、実は今とっても忙しいんだ。俺の舞台のヒロインをやってくれるはずだった子が役を降りてしまって、代わりに演じてくれる絶世の美少年を探してるんだけど誰か心当たりはない?」


 ジャンは苛立っていた気持ちをすぐ切り替え、エマの肩に親しげに腕を回し尋ねる。


「あら大変、できることなら私がヒロインやってあげたいけど、女は舞台に出ちゃいけないのよね。でもなんでなのかしら?男がやるより女が女役やる方がよっぽどいいわよね?」

「俺も心からそう思うよ。ピューリタンの説教師やロンドン当局の人間達によると、演劇は人々を堕落させるいかがわしいもので、そこに女を上げるなんて神をも恐れぬ愚行なんだとさ。こんな美しい女性が目の前にいるのにヒロインを頼めないのはとても歯痒いけど、俺もロンドン塔送りにはなりたくないからね」


 互いにひとしきり軽口を叩き合い、じゃあまたと手を挙げ立ち去ろうとすると、エマが興味深いことを口にした。


「そういえば、バンクサイド通りにアポロンっていうインがあるの知ってる?あそこには美少年が沢山いて、中には演劇やってる子もいるって聞いたことあるわよ」

「え?」

「大きな声では言えないんだけどね、どうやらあのインでは、10代の少年達が男相手に売春してるらしいのよ」

「それ、本当?」


 ジャンが足を止め、信じられないと大げさに眉をひそめると、エマは噂よ噂と言いながらもどこか楽しげに言葉を続ける。


「しかもかなり儲かってるっていうんだから、女の私の立つ瀬がないわよね」


 エマの言葉に思わず笑ってしまいながら、ジャンは、ありえないことではないなと、自分のパトロン、エドワードとの出来事を思い出していた。 


 エドワードは世間体のため結婚しているが、男色趣味があり、線の細い美少年よりも、背が高く逞しい彫刻のような体型の青年を好んでいる。ジャンはその点でもエドワードのお眼鏡にかない、あらゆる意味でお互いの利害が一致して親しくなったわけだが、元々神への信仰心も薄く、男色に偏見はないものの、男を抱く趣味のないジャンが、エドワードと関係を持てるはずもなく。

 だが実は一度だけエドワードに、君が男娼を抱いてるところを見たいと提案をされ、男と寝たことはあるのだ。


 エドワードには色々と支援してもらっているので無下に断ることもできず、なんていうのは建前で、高級娼婦からパブの女まで、あらゆる女を抱いてきたジャンは、単純な興味本位と好奇心で、その申し出を引き受けてしまった。

 結果、相手が慣れていたおかげで思ったよりスムーズにはいったものの、特に良くも悪くもなく、我ながらバカな事をしてしまったと今は後悔している。

 その時、相手の素性が気になったジャンが冗談で、あんたの少年劇団の俳優かと聞いたら、エドワードは途端に烈火のごとく怒り激昂したのだ。


『うちをその辺の貧乏劇団と一緒にしないでくれ!こんな淫乱が我が劇団にいたらすぐに追い出してやる!』


 あまりのキレっぷりに驚愕しながらも、その言葉でジャンは、食べていけない俳優の中には、身体を売っている者もいる事を悟った。


 今回はジャンが、エドワード推薦の少年をやめさせてしまった手前、彼にまた代役の少年を探してもらうのはさすがに気が引ける。

 オーク座にオリヴァーという、まだ女役もできそうな若手の俳優もいるが、彼にはすでに重要な役を与えているし、アリアンのイメージではない。ジャンがアリアンに求めているのは、奔放でありながら、胸の内には一人の男への熱い情熱を秘める、闇に光る月のように背徳的で繊細な美しさ。

 アポロンに行ったからといって、そんな少年がそう簡単に見つかるとは思えないが、行くだけ行ってみる価値はあるのかもしれない。


「エマ、面白い情報ありがとう!これ少ないけどお礼」

「いいの!やった!」


 気前よく渡された小銭を受け取り喜ぶエマに今度こそ別れを告げ、ジャンはアポロンへ向かった。


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