第三話

 目の前にあるのは、昔からロンドンに見られるごくありふれたイン。ジャンは、はやる気持ちを抑え、意を決してアポロンの中へ入っていく。


「いらっしゃい」


 しかし、中へ入ってすぐにジャンは拍子抜けした。客層は多少、ジャンがよく行くパブに比べて裕福な者が多そうだが、それ以外特に変わったところもなく、聞いていた少年達の姿も見当たらない。

 違う店に入ってしまったのかと戸惑いながらもカウンターに座り、一人キョロキョロと店の中を見回していると、店の主人が訝し気に尋ねてくる。


「お客さん、注文は?」

「あ、とりあえずビールで」


 主人は淡々とビールをグラスに注ぎ、ジャンの目の前に差し出した。


(どうする?この男に直接聞いてみるか?だが非合法な少年売春をしている店が、そう簡単に教えてくれるとも思えないし)


 ジャンが悶々と悩んでいると、一人の客が主人の元へやってくる。


「今日は泊まっていきたいんだが」

「かしこまりました。今部屋に案内致します」


 主人と客の会話を何ともなしに聞きなら、ジャンは改めて部屋の内装を見渡す。

 一階がパブで、二、三階が宿泊施設になっているインはどこにでもあり、二人の会話はごくありふれたものだった。ジャンもしこたま飲んだ後、店の女とそのまま二階の部屋へ行き、行為に及んだことがある。だがそこまで考えて、ジャンは初めてこのパブの唯一の違和感に気がつく。

 階段がないのだ。正確に言えば、パブから直接二階へ上がる階段が見当たらない。一体どこから二階へ上がるんだと客と主人の様子をうかがっていると、二人はパブの隅にあるドアの奥へと入っていき、しばらくすると主人だけがカウンターへ戻ってきた。


(そういうことか)


 おそらくあのドアの向こうに、二階へ繋がる階段と、少年達のいる部屋があるに違いない。そうとわかれば話が早いと、ジャンは主人に声をかける。


「主人、俺も今日泊まらせてくれ」

「悪いね、さっきのお客さんで部屋全部埋まっちゃったよ」

「そこをなんとか、金はいくらでも払う!」

 

 ジャンは必死に食い下がるが、主人は首を縦に振ろうとはしない。 


「あんたもしつこいね、他にも沢山インはあるだろ?」

「ここじゃなきゃ意味がない、ここにいる少年達に会いたいんだ!」


 そう言った途端、主人の顔色が変わった。ジャンもつい口を滑らせたことに気づき、慌てて取り繕う。


「どうか誤解しないでくれ、俺はここを告発しようなんて全く思ってない、ただ……」

「お客様、何の話でしょうか?ここはごく普通のインで少年なんておりません」


 丁寧な口調と裏腹に、主人の目は明らかにジャンを警戒し威嚇している。


「いや、だから俺は、舞台で女役ができる少年を探してて」

「おい!」 


 突然主人が凄みのある声を出すと、先ほどまで何食わぬ顔で飲んでいた、見るからに屈強な男二人組が、ジャンの両脇にやってくる。


「こいつをここから摘み出せ!」

「ちょっと待ってくれ!俺は本当に!」


 ジャンの叫びも虚しく、二人の男になすすべもなく店の外へと連れ出され、ジャンは乱暴に道へ放り出された。


「二度と来るんじゃねえぞ!」


 男達は脅すようにジャンを睨みつけ、再び店の中へと戻っていく。


「話くらい聞いてくれてもいいだろ!」


 ジャンは地べたに尻餅をついまま大声で文句を言ったが、固く閉ざされたドアからは何の反応もない。


「クッソ」


 舌打ちしながら立ち上がり、服についた泥を払っていたその時、突然頭上からガシャンという音が響き渡った。

 驚いて見上げると、夜になってもまだ太陽が沈まぬロンドンの空を背に、窓から身を乗り出して地面を見下ろす一人の少年の顔が、はっきりとジャンの目に映し出される。

 

 黄金色に輝く髪と透けるように白い肌、憂の宿る、深く碧い切れ長の瞳。

 その瞳が強い光を湛えた次の瞬間、少年は窓から飛び立ち、真っ白な羽を持つ大天使の姿と重なった。それほどまでに、ジャンは一瞬にして彼に心を奪われたのだ。


 だが、飛んだように見えた少年の身体は、羽が溶けたイカロスのようにあっという間に地面に堕ち、ジャンの目の前で膝をついて倒れこむ。それでも、今時珍しい、古代ギリシャ人の着るキトンに身を包んだ、神話に出てくる少年のような姿はどこか現実離れしていて


「お前、人間?」

「え?」


 思わず出た疑問の言葉に、少年は怪訝な表情でジャンを見上げる。少年の不信感を拭う暇もなく、店の中から先ほどジャんを追い出した主人が走り出てきた。


「リリー!お前!」

(リリーか、この子にあったいい名だな)


 緊迫した状況をよそにそんなことを思っていたジャンだったが、少年の怯えた表情を目にした途端、衝動的に身体が動く。


「行くぞ!」


 ジャンはリリーの手を強く握りしめると、そのまま全速力で走り出していた。




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