ヘッドセット女子に恋をした

柳佐 凪

第1話 ヘッドセット女子に恋をした

ヘッドセットで話しながら歩いている人って、勘違いさせるよね。



僕はある日、ヘッドセット女子とすれ違った。


駅近えきちかの路地を、両手に大荷物を持った、巻き髪くるくるツインテールの可愛らしい女の子が、僕の向かう先から歩いてきた。


駅へ向かう僕とは逆に、既に買い物を済ませて自宅へ帰るところなのだろう。


僕は彼女のヘッドセットに気がついていなかった。


髪に隠れて見えなかったからだ。


前から歩いてくる彼女は、僕をじっと見つめているように見えた。僕は、もしかしたら知り合いだったかもしれないと思った。


近づけば近づくほどに、彼女の顔立ちの美しさがはっきりとしていく。


そして、同時に、彼女の笑顔がとびきり魅力的だということも。


僕は、思わず後ろを振り向いた。


彼女が僕ではなく、僕の後ろにいる知らない誰かを見つめているのではないかと思ったからだ。


しかし、予想に反して、そこには誰もいなかった。


いつもは電車に合わせて多くの人が歩いているのに、今日に限って誰もいないのだ。


いよいよ彼女の満面の笑みが、どうやら僕に向けられているらしいという状況証拠が揃ってきた。


彼女の事を僕は知らない……いや、もしかしたら知っているのかもしれない。


幼い頃に離れ離れになった幼馴染が、とびきり可愛くなって再登場してくるなんて、漫画のスタンダードストーリーだ。


そんな都合がいいことが早々あるわけはないが、そうでもないと説明がつかない。


とにかく、僕の脳を沸騰させるほど、彼女の笑顔は美しく、キラキラ輝いていた。


僕は立ち尽くしてしまった。


間違いなく、人生初の出来事だ。


可愛い女の子が笑顔のまま近づいてくる。


僕は、ゴクリとツバを飲み込むと、まっすぐに彼女を見た。


正確には彼女の視線から目を逸らすことができずに、身がすくんでしまっているのかもしれない。


しかしそれはきっと好都合だ。


多分そうするのが正解だし、僕は彼女の魅力的な笑顔を一秒たりとも逃したくないと思い始めていた。

 

これが恋か……そう思った。


今まで生きてきた時間に比べて、恋に落ちるまでの時間がどれほど短かっただろうか。


こんなことを考える日が来るなんて、ついぞ1分前までは思わなかった。


彼女はもう、手の届きそうなところまでやってきた。


相変わらず、笑顔いっぱいで、その、愛らしい瞳は、瞳孔がハート型をしているように見える。


確実に恋に落ちた女の子の目だ。


彼女の淡いピンクの唇は、その口角を上げると静かに開き、何かを話そうとしている。


そのまま、歩くスピードを緩めることなく、僕の目の前に到着した彼女は、相変わらずの笑顔のまま呟いた。


「もうすぐ……」


彼女はそう言うと僕の視界をすり抜けた。肩をかすめた巻き巻きツインテールが、僕の鼻先に甘ったるい香りを残した。


僕は慌てて振り向いて、彼女の背中に手を伸ばし、しかし、その手を止めた。


「もうすぐ着くからね♥」


後ろから見ればすぐに気がつくことができたのだ。

 

彼女はイヤホンのワイヤーを背中に回していた。

ヘッドセットだ。


きっと彼女は大好きな彼氏のもとへ、たくさんの食材を買い込んで、今まさに到着するところなのだろう。


あふれるとびきりの笑顔は、電波に乗せて、僕を通り過ぎ、その彼氏に向けられたものだったのだ。


彼女は僕を見ているようで、見ていなかった。


僕は、好きな男に見せる女の子の笑顔には、魔法にも勝る力が秘められていると初めて知った。


彼女は去った。


僕に数秒の恋だけを残して。


それから、

どれぐらい時が過ぎたかわからない。僕は道の真ん中で立ち尽くしていた。


一陣の風が、彼女の残り香の記憶を吹き飛ばし、

僕の目を冷ましてくれた。


僕はやっと、彼女の姿が見えなくなった駅近の路地に見切りをつけて、再び駅へと向かって歩き出した。


すると、前方から、今度は楽しそうに話しながら一人で歩いてくる、寒いのにタンクトップのおじさんが現れた。


ゴツいマッチョに不似合いなニコニコした笑顔が微笑ましい。


しかし、ヘッドセットで誰かと話しながら歩いている人って、誰かに話しかけているのかと勘違いさせるからやめて欲しい。


僕は、そのせいで、たった今、一人相撲の恋に落ち、失恋したばかりだ。


すれ違いざま、タンクトップのおじさんに向かって、僕は失恋の痛手を当てこすりするように、

恨みがましい目で少し睨んだ。すると、

また、おじさんが話し始めた。


「もうすぐ……わかってるよね」


僕には、おじさんの言っている意味がわからなかった、誰と話しているのかもよく分からない。


何だか違和感が拭えない。


僕は、通り過ぎたおじさんから目が離せずに、気になって思わず振り返った。


おじさんの背中には、隆々と盛り上がった広背筋があったが、期待していたものは見つからなかった。


「ヘッドセット……してない?」


おじさんは、ただ、笑顔で独り言を言う人だったのだ。



ヘッドセットで話しながら歩いている人って、

勘違いさせるよね。

要注意人物に気がつくのも遅れるよね。


通り過ぎたタンクトップのおじさんが、振り返ってこっちを見ている。


それはそれは、とびきりの笑顔だった。

――End 

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ヘッドセット女子に恋をした 柳佐 凪 @YanagisaNagi

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