第47話 化物の帰還

 伝令を受けてからの日々はあっという間に過ぎて行った。

 イファルは暫くこの地を離れることをおさに伝えると、馬を一頭借りた。

 おさは娘の身を案じていたが、もう呪術はおさまったはずだと正直に伝えた。現に、もう幾月も黒蛇絞こくじゃこう夢術むじゅつはそのなりをひそめている。

 恐らくグホンの計画は順調に進んでいるのだ、ユクに夢術をかける必要がなくなったのだろう。

 そうして、イファルは一人夜明け前の白み始めた天を背にして琥珀族の地を後にした。

 酷く静かな旅路だった。

 馬を走らせて五日ほど経った頃、前方に狩人かりびとの屋敷が見えてきた。

 昼を少し過ぎたあたりだったが、一帯に群生する大木が日を遮り、視界の先は薄暗かった。

 イファルは馬を止めて束の間屋敷の門を見上げた。

 いつか見た大きな門は、もうあの頃のように威圧感を放っていない。あれほど高く感じた板塀も、もうそれほど高いと思わなかった。

 暫く眺めていると門が内側からゆっくりと開かれた。隙間から現れた人物を見て、イファルは素早く馬から降りた。

 懐かしいと言うべきか、暫く見ない内にすっかり大人の女性へと姿を変えた妹を黙って眺めていた。

 イルはイファルの前までくると、深々と頭を下げた。

 言葉は交わさない。無駄なことはせず、黙って己の成すべきことだけを淡々と行う。それがこの地の、狩人の習性だった。

 しかし、イファルはイルに手綱たづなを渡しながら言った。

「大きくなったな」

 その瞬間、イルは弾かれたように顔を上げた。

 手から滑り落ちて受けそこなった手綱が、何度も宙で跳ねてぷらん、ぷらんと揺れている。

 イルは僅かに目を見開いてイファルを見上げた。

――信じられなかった。

 この男の口からそんな言葉が出てくるとは思いもしなかったのだ。

 人を人とも思わず、命をうその声すらも与えぬ闇より出でた化物けもの。それが兄の姿のはずだった。

 常にむせ返るような血の匂いを全身に纏い、冷めた眼光に光などなく、どす黒く渦巻く怒気を漂わせながら、決して人を近づけぬ人だった。

 そう、兄の腹の内はいつも激しい憎悪と怒りで荒立ち、決してそれが止むことなどなかったのだ。

 だが今はどうだ。纏う雰囲気は以前とさして変わりはしない。しかし、内は随分といでいるように感じた。

 それは同じ腹から生まれた者同士だから分かるのだろうか。そうであればいい……だが、そうでなければ――。

 イルの内に僅かな焦りが生まれた。

 狩人は決して顔に表情を灯さない。眉一つ動かさぬ二つの顔が静かに向かい合っている。

 しかし、二人の間に生じた揺らぎを感じ取ったのか馬が僅かに前足を上げていなないた。

 イルは宙吊りになっていた手綱をそっと手に取ると、なだめるように馬の首筋を撫でながら静かに言った。

「……兄上、ラコヤはリュカそうと似ておりますが、効果は真逆です。見かけても決して摘まぬようにご注意ください」

 イファルはイルの伏せられた目をじっと見つめた。

 イルが何を言いたいのか見当はついた。我が妹は聡い、恐らくイファルの変化に気付いたのだろう。

 ラコヤは北の地域にしか自生しない薬草の名だ。気付け薬として有名なリュカ草と見た目が似ている為、誤って施された者の身体に大きな麻痺が残ったという症例が幾つも挙がっている毒草だった。

 つまり、イルはこう言いたいのだ。――琥珀族と狩人は相容れぬ、決して触れるな、と。

「馬を頼む」

 イファルは静かにそう告げると、イルに背を向けて屋敷の門をくぐった。



 イファルがグホンの前にひざまづいたのは、夕をとうに過ぎた夜更け前の頃だった。

「光を食らう手筈は整った」

 グホンは二段ほど高くなった上座からイファルを見下ろしながら言った。

 部屋の四隅にしつらえられた背の高い燭台の灯りがグホンの顔に影を落としている。

「今日より七日後、我ら狩人がになう世が誕生する。さあ、時は満ちた、狩るぞ」

「御意」

 イファルは床に視線を落としたまま静かに答えた。

「お前が言っていた月を詠むという得体の知れぬ男のことだが、そいつは時も詠むのか?」

「……いいえ、恐らくはこれから起こることのみかと」

 グホンは鼻を鳴らした。

「まあ、時が分かったところで何も出来まい。奴らと我らでは数も戦力も圧倒的に違う」

 言いながら、ふと思いついたようにイファルに目をやった。

「お前が救ってやった娘は無事に成人の儀を迎えたそうだな。太陽神の加護を受けた矢先に影に食われるとは、なんとも滑稽なことだ」

 反射的にイファルの眉がぴくりと動いた。

 言葉を返すことはしなかった。ただ黙って床を見つめていた。

 グホンはすっと目を細め、僅かに片眉を上げた。

「なんだ、情でも移ったか?」

 グホンの嘲笑にも似た冷めた声にイファルはぐっと奥歯に力を入れた。

 その反応にグホンは僅かに目を見開いた後、ゆっくりと口の端を持ち上げた。

「ほう、化物けもののお前に情をやれた女とは一体どんな――」

 言い終わらない内にイファルは怒りに任せてグホンの胸倉に掴みかかった。

 二つの影が宙を飛ぶ。次の瞬間、ドンっと壁に背を叩き付ける鈍い音が響いた。

 二人の視線がぶつかった。

 しかし、グホンは動じることなくイファルを静かに見下ろしながら、息を吐くように言った。

「……己もそうだと錯覚したか? 共に暮らす内にお前も奴らと同等だと?」

 何かが割れる音がした。

「屍の上で生まれたお前がか? 化物けものだとさげすまれたお前がか?」

 血が、凍っていく音がする。

「その両の手に染みついた数多あまたの血を忘れたか?」

 頭の中に、狩られる前の悲痛な表情を浮かべた幾人もの顔が通り過ぎていった。

 心の臓がしぼんでいく。己が消えていく音がする。

あるじを間違えるな。これまでお前がやってきた狼藉ろうぜきは決して消えはせぬ」

 甲高い耳鳴りの音が警鐘のように鳴り響き、身体は痺れたように動かなかった。

 やがて、イファルの目から涙がこぼれ落ちた。それは、あとから、あとから溢れ出し静かに頬を濡らし続けた。

 熱く充血した目には、もうグホンは映っていない。ただ、光を失った虚ろな目がそこにあるだけだった。

「肝に銘じろ。己は化物けものなのだと。穢れた血濡れの化物けものが高貴なものに触れようなどと決して思わぬことだ。それがお前に出来る唯一のことだ」

 胸倉を掴んでいた腕が力をなくしてだらりと垂れた。

 イファルはただ茫然と虚空を見つめながらその場に立ち尽くした。

「まあ、よい。お前にも会わせておかねばならぬ者たちがいる」

 グホンは何事もなかったかのようにイファルの横を通り過ぎると、ゆっくりと元の位置に腰を下して廊下に繋がる襖に向かって声をかけた。

「入れ」

 イファルは抜け殻のようにゆっくりと後ろを振り返り、ぼうっとグホンの視線の先を目で追った。

 しかし、開かれた襖の向こうに現れた者たちを見て、目をむいた。

(なぜだ、なぜここに琥珀族がいる……いや、違う)

 髪の色や体格、容姿はそっくりだったが、彼らと琥珀族の間にははっきりとした違いが一つだけあった。

 イファルは僅かに眉根を寄せながら彼らを見つめた。

――目の前に佇む彼らの瞳はあおかった。

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