第46話 一つの覚悟

 月の光は眼下に佇む二つの影を静かに照らし続けていた。

 宴の賑わいを乗せた春の夜風が、大木の下に流れる静寂に吸い込まれては消えていく。

 先に口を開いたのはイファルだった。

「慕う、とは……?」

 微かに震える唇から紡がれた言葉に、ナジウは眉をひそめた。

「恋情を抱くということだ」

「……恋情」

 イファルは顔をしかめながら、口の中で呟いた。

 分からなかった。恋情という言葉の意味も、ナジウの言うということがどういうものなのかさえも。

 イファルは戸惑いの表情を浮かべながら、ナジウを見つめた。

「どの想いを指してそう言うのだ」

「は?」

「慕うとは? 恋情とはなんだ? 俺には分からない」

「それは……」

 改めてそう問われると、ナジウも戸惑った。何と言っていいものか逡巡しながら、ふむ、と腕を組む。

「そうだな……そばに居たいと願ったり、夫婦めおとになって生涯を共にしたいと考えたり、そんなところだろう」

 それを聞いたイファルは深く息を吐くと、小さく首を振った。

「なら違う。俺にはそんな感情などない」

 話は終わりだと言うように、さっと踵を返して行ってしまったイファルの背を、ナジウは黙って見送った。

(気づかぬ内に芽生えてしまうこともあるぞ……知らぬと言うのならば尚更に)

 ナジウは小さくなっていくイファルの背にそっと語りかけるように呟いた。

 そうして暫く呆然と佇んでいたが、やがて、大きなため息をついて天を仰いだ。

 晴れ晴れとした月は、我がもの顔で天に浮かんでいる。しかし、待ち望んでいたその姿を見てもナジウの心は一向に晴れはしなかった。

 問題が解決したわけではない、むしろ、複雑になってしまったようにも思えた。

(お前ではないというのならば……何だ、何が我らに迫っている)

 ナジウの問いに答える者などそこにはいなかった。



 イファルは人影のない静かな渡廊わたりろうをぼんやりと歩いていた。

 宴の賑わいが肌で感じられる距離までくると、一度そこで足を止めた。

 この先へ進めば、己を探していたというその人物と必ず顔を合わすことになるだろう。なぜだか今はそうしたくなかった。

 イファルは片手で顔を覆うと、静かに目を閉じた。

 そばに居たいとも、夫婦めおとになりたいとも、露ほども思わない。

 そもそも、己はただの間者なのだ。そして、ここに居るのは、今から影に食われようとしている者たちであり、そこに例外などない。

 あの日グホンが言い放った通り、我らが狩長かりおさはこの地に住まう者たちを一匹も取りこぼさないだろう……。

 そう思った瞬間、イファルは僅かに眉根を寄せた。同時に、脳裏にぱっと浮かんだユクの顔に驚いて素早く目を開けた。

 思わず舌を鳴らした。

 腹の底で大蛇が這っているような気味の悪さを感じて、無性に腹が立った。それは、答えることの出来ぬ問いを絶えず己に投げかけられているようなわずらわしさにも似ていた。

 苛立ちを逃がすように大きくため息をつくと、イファルは大広間へと歩きだした。

 しかし、数歩歩いたところで再び足を止めた。

 渡廊わたりろう欄干らんかんに見覚えのある小さな影が止まっているのが見えたのだ。

 イファルはすっと目を細めると、その影に近寄った。

「なぜここにいる」

 欄干の上に止まっていた鷹はイファルの問いに僅かに身を揺らすと、その大きなくちばしを開いた。

「グホン様より伝令です。今日から数えてひと月後の晩、狩人かりびとの屋敷へお戻りください」

 聞き慣れたはずの仲間の声は随分と他人行儀に聞こえた。

「……御意」

 鷹はイファルの返事を聞くや否や、その大きな翼をさっと広げて闇へと消え去ってしまった。

(……いよいよ動き出すのか)

 イファルは鷹の消えた闇を見つめながら心の内で静かに呟いた。

 その時ふと、パタパタとこちらに駆けてくる足音が聞こえて、イファルはそちらに目をやった。

 衣装の裾を軽く持ち上げながら近づいてくるユクの姿が目に飛び込んできてぎょっとした。

 ユクはイファルの前までくると、満面の笑みを浮かべながらイファルを見上げた。

「どちらへ行かれていたのですか? 探しにいこうと思い、宴を抜けてきました」

 慣れぬ酒のせいだろう、うっすらと頬が赤い。薄く染まった朱色のおかげか、金色こんじきの瞳が一層際立って見えた。

みなが心配いたします、どうかお戻りください」

 イファルは静かにユクを促した。

「いいえ、よいのです。風に当たりたかったというのも本心ですから」

 ユクはふわりと微笑んで身体を庭の方へ向けた。

 その時、ユクの耳元にはめたられた金色の耳飾りが灯籠の灯りを受けてきらりと煌めいたのが見えた。

 暫くして、ユクはじっと庭先を見つめながら、静かに語りだした。

「私はずっと暗い闇の中を彷徨っておりました。それは痛く、苦しく、日ごとに増していく終わりの見えぬ闇でした。私は何かしたのだろうか、知らぬ間に罪を犯しただろうかと自問自答する日々でした」

 イファルは微かに眉を揺らしたが、すぐにいつもの表情へと戻した。

「幾人もの薬師くすしに会いました。しかし、みなが一様に首を振るのです。ああ、もう全て諦めてしまおうかと思っていたところに、イファル様が現れたのです。白い煙の向こうに光を見た気がしました」

 ユクは照れくさそうに一度笑ってから、更に続けた。

「ナジウ様の言うようにだとしてもよいのです。闇より救い上げていただいた恩があります。それに、私はイファル様が災いだとは到底思えぬのです」

 イファルは僅かに目を見開いた。

みなはイファル様のことを仏頂面だと言いますが、内に秘められた優しさに気付いていないのです」

 イファルは戸惑ったように話を遮った。

わたくしは優しさなど持ち合わせてはおりません」

と申したはずです。ご自身もお気付きではないかと思いますが、私が庭を眺めている時の邪魔せぬ静けさも、無愛想に見えて相手の話を最後まできちんと聞かれるその姿勢も、先ほどのように事が起こる前に忠告してくださる先読みも、人は全て優しさと呼びますよ」

 それから、ユクは少しだけ声を落として呟いた。

「それを私は知っているのです」

 ユクはちらとイファルを見て微笑んでから、再び庭に顔を向けた。

「……」

 イファルは何も言えずに、ただ呆然とその場に立ち尽くした。

 何かが胸の内に広がっていくのが分かった。それは、今まで感じたことのないものだった。

 嫌なものではなかったが、いいものかと問われれば簡単に首肯出来るものでもないような気もした。

(まったく、ここに来てから奇妙な体験ばかりする……)

 イファルはユクの横顔をじっと眺めながら、心の内でぼやいた。

 それと同時に最も奇妙な思いが、イファルの胸に込み上げてきた。

――そばに居たいとは決して思わない、けれど、生きて欲しい。と。

 例え、己がそれを見れずとも、ここではない何処か別の地でこの笑顔が続くのならば、それでいいと思った。

 イファルはそっと目を閉じると、ユクに気付かれぬように静かに息を吐いた。


 これから己が成そうとしていることの無謀さも、愚かさも、全て承知の上で、今この瞬間にイファルは一つの覚悟を決めた。

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