第42話 夏の庭

 その晩、ささやかなうたげが開かれた。

 大広間には各氏族のおさたちも招かれたようで、左右に三つずつ座がもうけられており、老齢の男たちが各々和やかに談笑している。

 この地は琥珀族のほかに六つの氏族たちが集まって集落を形成していることが見てとれた。

 上座の中央には琥珀族の長が座っており、その横には月詠みの男が座っている。

 どうやらあの男は高い位に就いているらしい。真正面から化物をじろりと睨みつける視線がいささわずらわしかったが、化物けものは目を合わせなかった。

 琥珀族の長の合図で化物けものの後ろにいる楽師たちが緩やかな音楽を奏で始めると、歓迎の宴が始まった。

 給仕の者たちが化物けものや各氏族の長たちの周りをせわしなく動きまわり、豪華な料理や酒がどんどんと出された。

 大広間の三方の襖は全て開け放たれており解放的で、吹き込んでくる春の夜風が心地いい。

 料理に舌鼓を打ちながら酒杯さかずきを持ち上げた瞬間、夜風に乗って舞い上がったであろうと思われる桜の花弁が一枚、ひらりと酒杯に舞い落ちた。

 見事な花見酒だ、とそっと心の内で呟いた時、バタバタと渡廊わたりろうを駆けてくる足音が聞こえて、化物けものは顔を上げた。

 すると、一人の男が息を切らしながら大広間に飛び込んできた。

「ヒョウリ様! ユク様が!」

 その叫び声で音楽はぴたりと止み、各氏族の長たちは顔を見合わせて何事かとざわめき始めた。

 しかし、琥珀族の長が一つ咳払いをしたのが聞こえると、大広間はしんと静まり返った。

「お願い出来ますか?」

 長は化物けものに向かって静かに訊ねた。

 暫くの沈黙の後、化物けものは黙って頷くと、離席の一礼をしてから大広間を後にした。

 背に多くの視線を浴びながらも、化物けものは慌てた様子の男の背を黙って追った。

 その後ろ姿を月詠みの男だけが歯痒そうに顔を歪めながら見つめていた。



 その晩から、化物けものが娘の傍付きの術師になるのにそう時間はかからなかった。

 黒蛇絞こくじゃこう夢術むじゅつは二日置き、三日置きにと徐々にその間隔を広げ、今では七日に一度ほどの頻度になっていた。

 そのおかげで娘も随分と回復した。青白かった顔にも血が通い、食事も喉を通るようになってからは、瘦せこけた身体もゆっくりと元に戻っていった。

 それから季節は夏へと移り変わり、満開だった桜はその花弁を落としきり、青々とした葉を茂らせて新しい芽をつくる準備をしている。

 そんな夏のある日、娘は縁側に腰掛けながら広大な庭を静かに眺めていた。

 娘はこの庭の景色を眺めるのが好きなようで、いつしか、化物けものはその後ろに黙って佇んでいるのが習慣となった。

 いつものようにその光景を眺めていると、娘はふと何かに気付いたように振り返った。

「術師様もいかがですか?」

 化物けものは最初、娘の言っている意味が分からなかったが、娘が板床を優しく二度ほど叩いたのを見てようやくその意味を理解した。

 化物は一礼してから娘の隣に腰かけた。

 互いに何を言うでもなく、暫く黙って庭を見つめていたが、やがて、娘が静かに口を開いた。

「術師様は私の命の恩人であらせられるお方です。良ければ名を教えていただけませんか?」

 瞬間、化物けものは弾かれたようにぱっと娘に顔を向けた。

 見開かれた化物けものの瞳に驚いた娘の顔が映る。

 娘からすれば、何故こんなにも化物けものが驚愕の表情をしているのかが分からなかったのだ。ただ名を聞いただけのはずが、何か失礼なことを言ってしまったのかと金色こんじきの瞳がおどおどと揺れ動く。

「も、申し訳ございません。私が何か失礼を――」

「ああ、いえ……」

 化物けものは我に返ったように、娘の言葉を否定した。

「こちらこそ、失礼いたしました。わたくしには……」

 化物けものは僅かに言いよどんだ後、小さく言葉を続けた。

わたくしには、名がありません」

「え……?」

「産みの親の記憶もございませんし、今まで名も必要では無かったのでそのままです」

 化物けものは景色に視線を戻しながらゆっくりと答えた。

 娘は困惑気味に眉を下げながら、おずおずと化物けものの横顔に問うた。

「では、今まで何と呼ばれていたのですか……?」

「……」

 化物けものは答えるべきかどうか思案していたが、やがて、そっと口を開いた。

「……化物けものと」

 娘はますます困惑したように顔を歪めた。

化物けもの? それが人に付ける呼び名ですか?」

――人か。

 化物けものは心の内で呟いた。

 人とは何だろうな。腐った屍の上に生まれ、うらみ、にくしみをいだきながら多くの命を狩ってきた者を、果たして人と呼ぶのだろうか。

「……人とは何でしょうか?」

 化物けものは独り言のようにぼそりと呟いて、更に続けた。

「己を人と呼べるのかどうか、わたくしには分かりません」

 娘は暫く化物けものの横顔を見つめていたが、やがて、ゆっくりと景色に視線を戻した。

「そう、ですか……私には術師様の事情を深く知ることはかないませんが、私はこう思うのです」

 その時、清涼な夏の風が娘の金色の髪を巻き上げながら通り過ぎていった。

 娘は風にさらわれた髪を耳にかけながら、少しだけ微笑んで続けた。

「人とは〈想う生き物〉だと思うのです。誰かを一心に想うこと――その想いが強くなればなるほど、時に何でも出来てしまうのが人ではないのかと。己の利だけを求めず、ただ純粋にその者の幸せを願う……そこに損得といった感情などないのです。想いが本能を超えた時、人は人に成るのかもしれませんね」

 そう言って、娘は恥ずかしそうに、ふふっと笑った。

 しかし、化物けものは娘と対照的に顔をしかめて口を結んでいた。

 娘の言葉を理解出来ずにいたのだ。

 今まで生きてきた中でそんな風に思ったこともなければ、そうして動いたこともない。仮に、娘の言うようにそれが人と呼ばれるのなら、化物はそう呼べる者に出会ったことなどなかった。

 だから、どう答えていいものか分からず、化物けものは枝から枝へ飛び遊ぶ夏鳥を黙って目で追っていた。

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