第41話 黒い瞳の男

 おさが住む主殿へと続く長い渡廊わたりろうを歩きながら、化物けものはちらと横に現れた庭に目をやった。

 主殿に近づくにつれて、淡い桜の香りが徐々にその濃さを増していくのを感じていたが、この景色を見て納得した。

 春のうららかな日差しに照らされて、満開の桜が一面に咲き乱れ、はらり、はらりとその花弁を優雅に舞わせている。

 横風が吹くたびにさあっと舞い上がる花吹雪が化物けものの視界をかすませたが、それは濁るどころか一層景色を春めき立たせているようにさえ思えた。

 広大な庭池には散った花弁が幾つも落ち泳ぎ、淡く光を放つ桃色の水面みなもを作り出している。

 加えて、穢れを知らぬ澄んだ空気が充満し、ここがいかに清浄な地であるかを物語っていた。

(先ほどの竹林とは正反対だな)

 化物けものは誰に言うでもなく、心の内でぼそりと皮肉を吐いた。

 それから、主殿までの道はひどく静かなものだった。

 こうして誰かの背を黙って追うのはあの日以来だったが、あまりにもあの時とは違い過ぎて、化物けものはその差に眩暈めまいさえ覚えた。

 身を包む明るさも、匂いも、肌で感じるものも、何もかもが全て違う。

 それは、慣れた闇とついを成すこの光の地を無意識に身体が拒絶しているようにも感じられた。

「止まれ」

 前を先導していた近衛兵がさっと腕を上げた。

「これより先、少しでも妙な真似をするようであれば切る」

 前を見つめたまま小さく紡がれた近衛兵のその言葉には、どこか迷いの音が混じっていた。

 娘を救ったという事実と素性の知れぬ者への警戒が入り混じり、化物けものをどう扱うべきなのかを計りあぐねている様子だった。

 化物けものは何も言わずに黙って近衛兵に従った。

 そうして、ようやくたどり着いた広い主殿の奥、一段高くなった上座に琥珀族のおさはゆったりと胡坐あぐらをかいて座っていた。

 化物けものは目を伏せながら中央まで進みでると、そこに腰を下ろして深々と頭を下げた。

「お目通り光栄でございます」

おもてを上げてください」

 静かな主殿に穏やかな声が響く。

 声に従って化物けものがゆっくりと顔を上げると、まばゆい金地の屏風が目に飛び込んできた。

 おさの背の向こうで大きく広げられた豪壮な屏風は、主殿に差し込む日差しを受けて金色こんじきに輝いている。

 その金色にも似た、気高き色を瞳に宿したこの地のあるじは、化物けものが想像していたよりもずっと柔らかな顔をしていた。

 凛とした細面の顔立ちではあったが、少し下がり気味の太い眉とその口から紡がれる穏やかな声が温厚な印象を与えている。

「娘の恩人であらせられる御方よ、なんとお礼を申してよいものか……本当に感謝いたします」

 おさ化物けものに向かって深々と頭を下げた。

 その瞬間、化物けものの後ろに控えていた近衛兵たちが一斉にたじろいだのが分かった。

 名のある薬師くすしですら成し得なかったことをたった数刻でやってのけたのだ、当然と言えば当然であろうが、今下げられた頭は、琥珀族のおさとしてではなく一人の親としての意味合いの方が強いのだろう。

「身に余るお言葉感謝いたします。しかし、まだ完全におさめたわけではありません」

 化物けものは真っ直ぐ顔を上げて更に続けた。

「恐らく呪術をかけた術師は再び姫君を狙うでしょう」

「なにゆえ……」

 おさは驚愕の表情で化物けものを見つめた。

「わけはわたくしには分かりません。しかし、一度術に取り込まれた者はそう簡単にはのがれられないのです。ですから、暫くわたくしをこちらに置いてください。必ず姫君を呪術から守ってみせます」

 化物けものはまっこうからおさの目を見つめた。

 これは俺にしか出来ないものだと、そう伝えるように。

「貴様に一体何の義理がある」

 突如、後ろから怒気を含んだ声がした。

(何だ……?)

 化物けものは眉根を寄せながら、声の主を確かめるように振り返った。

 先ほど娘のはなで出会った黒い瞳の男が足早にこちらへ向かってくるところだった。

 その男は化物けものから離れた場所にさっと腰を下ろすと両手をついて頭を下げた。

おさ、無礼を承知で申し上げます。この男は信用なりません、この者は我らの地に影を呼ぶ者にございます」

 反射的に化物けものの眉がぴくりと動いた。

 男は顔をふせたままおさの返事も聞かずに更に言葉を続けた。

「月はこの者を災いと告げております。この者は決してこの地に招き入れるべきではない者です。どうか私の言葉に、月のに耳を傾けてくださいますようお願い申し上げます」

「月詠み殿……」

 静まり返った主殿に、おさの困惑の声だけがぽつりと小さく響いた。

 化物けものは暫く黙ってその様子を見ていたが、やがて、静かに口を開いた。

「仕方ありません、去れと言われるならば去りましょう。私は巡行中の術師ゆえ、一つの所にはとどまりません」

 これは賭けだった。

 月詠みと呼ばれたこの男が一体何者なのか、どんな術を以て月の音というものを聴くのかはさっぱり分からなかったが、今この瞬間は、おさがこの地のあるじに成るか、それとも一人の親に成るかの分かれ目だった。

 さあ、どちらを取る?

「術師殿、お待ちください」

おさ!」

――かかった。

 化物けものは隣で叫んでいる男を無視しておさに目をやった。

「今晩だけでもこちらでお休みください。娘を救ってくださったお礼もせずにお帰しするわけにはいきますまい」

「……」

 どうやらこのおさは思っていたよりも頭がきれるらしい、化物けものは心の内で小さく舌を鳴らした。

「ありがたく、お受けいたします」

 化物けものは月詠みと呼ばれた男の視線を強く受けながら、おさに向かって深々と頭を下げた。

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