第43話 天を舞う鳥

 それから、庭は静けさを取り戻していた。

 風に揺られる葉擦れの音と、庭池に流れ落ちゆく水流の音、時折水面みなもで跳ねる魚たちの音。

 決して静かではないはずのそこは、けれども、とても静かだった。

 先ほどからずっと目で追っていた夏鳥が、身を低くして尾を震わせたかと思うと、ぱっと翼を広げて舞い上がった。

 つられて見上げると、丁度真上に昇り切った日の光が強く化物けものの目を焼いた。

 反射的に視線を逸らして遠くを見やると、飛び立った夏鳥は真っ白い積乱雲に向かってぐんぐんと飛んでいく。

 娘は隣で化物けものの視線を追いながら、穏やかに言った。

「風は吹き、水は流れ、鳥は飛ぶ。人よ獣よ、緑が芽吹くぞ。さあ、太陽神の名の下に、万物あるがままによくよく生きよ」

 それはとてもみやびな音の調べだった。

 話し言葉のそれではなく、まるで歌うようになめらかで繊細で、且つ、美しかった。

「琥珀族に伝わる祝詞のりとの一節です。術師様もあの鳥のように、あるがままに生きてよいのですよ」

 化物けものは驚いて再び娘の方に顔を向けた。

 力のこもった眉間とこわばって固まってしまった表情を戻せぬままに、穏やかに天を仰ぎ見る娘の横顔を凝視した。

 一方、娘は徐々に小さくなっていく夏鳥の姿を見つめながら、ふわりと言った。

「鳥が自由に天を舞えるのは、あの大きな翼をもっているからです。力強く羽ばたいて風を切り、思うがままに天を舞う。ですから、私たち琥珀族の間では、翼は自由の象徴だと言われています」

 化物けものは娘が何を言いたいのか分からず、黙って話を聞いていた。

イファル。名がないのなら、付ければよいのです」

 化物けものは瞬きをした。

 暫く呆然と娘を見つめていたが、やがて、確かめるように呟いた。

「まさか、それがわたくしの名ですか……?」

 娘はぱっと化物けものに顔を向けると、一層微笑みながら頷いた。

「はい、お気に召しませんか?」

「いえ、そうではなく……」

 その後の言葉が紡げなかった。何と言っていいのか分からなかったのだ。

 名を欲したことなどなかった化物けものからすれば、これまでがそうであったように、名がついたところで何かが変わるとは到底思えなかった。それに、己に名がつくということ事態が何とも奇妙なことだった。

 しかし、この時化物けものは、何故だか娘を無下にできなかった。

「……ありがたく頂戴します」

 化物けものが小さく呟いて頭を下げると、娘は嬉しそうに両手を合わせて喜んだ。

――ああ、天が微笑んでいる。

 風になびく金色こんじきの髪が、穏やかに笑う金色こんじきの目が、彼女の纏っている全てのものが、化物けものには天に輝く日の光そのもののように思えた。

 そうして、化物けものはこの地でイファルと呼ばれるようになっていった。





 イファルは月明かりの消えた暗い新月の夜を、静かに飛んでいた。

 鷹に魂を乗せ、複雑な風の流れを感じながらその身で天を切り裂いてく。

 いつもであれば狩人かりびとの屋敷まで一直線に飛ぶのだが、今夜は何故かそうしなかった。

 途中でふわりと上昇すると、まるで回り道をするように、何度も大きく旋回しながら風の流れに身を任せて飛んだ。

 いつか見た、あの夏鳥をぼんやりと思い出しながら。

(あの鳥は自由に天を舞ったのだろうか)

 積乱雲の向こう側へ飛び、そして、己の意の向くままに自由に旅を続けたのだろうか……俺とは違うのだから当然か。

 そう思った瞬間、イファルはぞっとして固まった。

 馬鹿げている。僅かでもあの鳥に己を重ねた自分自身に絶句した。

 その時、強い風の流れを受けそこなってぐらぐらと身体が左右に揺れた。

 イファルはぐっと翼に力を込めると、何かを振り払うように大きく羽ばたいた。

 内に湧き出た何かを消すように、だた黙って静かな闇夜を飛んだ。

 ようやく前方に狩人の屋敷が見え始めると羽ばたくのをやめ、すうっと滑空していく。

 慣れた様子で開け放たれた小さな窓に素早く身を滑り込ませると、イファルはゆっくりと翼をたたんだ。

 待っていたあるじの眼前で深々とこうべを垂れて、そのくちばしをひらく。

「ご報告いたします――」

 イファルは淡々とグホンに琥珀族の内情を伝えていった。

 氏族間の勢力図や地形、それぞれの人物像など、グホンが欲している情報を探ってはこうして狩人の屋敷へ帰ってきていたのだ。

 そこに感情などなかった。

 イファルという名が付こうが、主の前ではただの化物けものなのだ。

 これが本来の己の姿なのだと強く心に刻みながら、鋭い鷹の目はじっと前を見つめていた。

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