第39話 琥珀族の地へ

「一晩だ」

 グホンは笑みを消してから静かに話し始めた。

「一晩で天地を返す。お前は間者として琥珀族の懐にもぐり込み、随時情報をこちらに流せ。その為の膳立てはしてやる」

 脇に置いてあった脇息きょうそくに肘を乗せ、僅かに身体を傾けると、グホンは淡々と化物けものに計画を言って聞かせた。

「琥珀族のおさのところに一人、お前と同じくらいの娘がいる。その娘に黒蛇絞こくじゃこう夢術むじゅつをかけた。今頃娘の魂は闇に囚われ、毎夜おぞましい夢を見ていることだろう。

 奴らは戦慄しているはずだ。得体の知れぬ不治の病が娘の身体をむしばみ、苦しめていると、な。黒蛇絞こくじゃこう夢術むじゅつは呪術の学を持たぬ奴らにとってみれば、どうすることも出来ぬ呪いのようなものだからな」

 グホンはゆったりと顎をさすりながら更に続けた。

「お前はその娘を救うだけで良い。術を解いてやり、そこで腕を買われろ。娘の傍付そばつきの術師として最も適任だと琥珀族に思わせろ。そうなるように何度か種は撒いてやる。娘が闇に落ち藻掻き苦しむ度に、お前が手を差し伸べて救ってやるのだ。何度も何度もな」

 化物けものは僅かに目を細めた。やけに回りくどいそのやり口が理解出来なかったのだ。

 グホンは化物けものの反応を目ざとく見つけると、小さく笑った。

「一匹も取りこぼさぬ為だ」

 それが答えだとでも言うようにグホンはさらりと言ったが、しかしそれは、化物けものにとって納得出来る答えにはなり得なかった。

「今は分からずとも良い。お前はただ琥珀族と共に時を待てばいい、時が来たら合図を送る。食らい尽くすぞ」

 グホンが話を終えた後の一室はやけに静かだった。化物けものもイルも誰も口を開かなかった。

 やがてグホンは一言、決してぬかるな、と静かに付け加えた。





 化物けものが琥珀族の住まう北の地に足を踏み入れたのは、グホンの計画を聞いてからひと月ほど経った頃だった。

 思ったよりも長旅になってしまったが、おかげで情報を集めることが出来た。

 どうやら、病んだ娘の噂は多くの氏族の間で広まっているようで、みな口を揃えてこう言った。

――琥珀族の長は医術に富んだ薬師くすしを探し回っている、と。

 しかし、そんな名のある薬師たちですら、娘の前では成すすべがなく誰もが首を横に振るばかりだと噂されていた。

(薬師か……)

 なぜ術師ではなく薬師を探し回っているのか、化物けものにはそれが不思議でならなかった。

 以前グホンが琥珀族には呪術の学がないと言っていたが、どうやらそれは本当のようだった。


 山間部を抜け、なだらかな丘の続く地を暫く進むと前方に小さな番小屋ばんごやが見えてきた。

 近付いて行くと、番小屋の前には見張り番の男が一人立っているだけだった。

 見張り番の男は化物けものに気付くと怪訝そうに眉根を寄せながら、そこで止まるようにと腕を上げた。

「何者だ」

 化物は短く答えた。

「巡行中の術師だ。人づてに病んだ娘がいると聞き、ここに参った。俺ならその娘を救ってやれる」

 見張り番の男は一瞬目を見開いた後、いぶかしむようにしげしげと化物を見つめた。

 質素な旅衣たびごろもしかまとっていない目の前の男が本当に術師なのか、そして、先ほどこの男が口にした驚きの言葉を受け入れるべきかどうかを考えあぐねているようだった。

 暫くして、見張り番の男は小さく首を振った。

「俺の一存では決められん、主に報告し承諾をとってくるからここで待っていてくれ。分からないことがあれば番小屋の中に別の男がいるからそいつに聞いてくれ」

 見張り番の男はそう言って化物けものを番小屋に案内すると、中にいた男に一言二言残して早々に去っていった。

 突如現れた素性の知れぬ術師を招き入れるべきかどうか一族で話合いが続いたのだろう、化物けものは番小屋で三日待たされた。

 ようやく戻ってきた見張り番の男は化物けものに向かって小さく手招きをした。

「許可が下りた。案内するからついてこい」

 見張り番の男の後を静かに追いながら、化物けものは目の前に広がる景色に目をやった。

 そこには自然が織りなす広大な牧草地がどこまでも広がっていた。

 足元に生える新緑の絨毯は遥か遠くまで続き、ずっと先にある地平線で天と交わっている。

 天には透けた布がふわりと身をひるがえしたような薄雲が浮き、その下を鮮やかな春の風が、牧草を揺らしながら吹き渡っている。

 牧草地の間を真っ直ぐに伸びる道の先には、石造りのしっかりとした家々が道をはさんで遠くの方まで綺麗に立ち並んでいた。

 一氏族の領地にしてはやけに広い。

 化物けものは前を行く見張り番の男に視線を戻すと、その顔を思い返した。

 どうやらここは琥珀族だけの地ではないらしい。その証拠に番小屋にいた男たちの瞳の色は金色こんじきではなかった。

 恐らく氏族間で身を寄せ合い集落を形成しているのだろう。

 ふと、グホンの言葉が頭に浮かんだ。

――一匹も取りこぼさぬ為だ。

 そう言って、暗がりの中で口の端をうすく持ち上げたグホンの顔が脳裏によぎり、化物けものはなるほど、と心の内で呟いた。

 その時、吹き渡る風に乗って、日に温められた牧草の香りがふわりと化物けものの頬を撫でて通り過ぎていった。

 化物けものはもう一度目の前の広大な景色に顔を戻すと、ふいに目を細めた。

(住む世が違う……)

 ぼんやりと心に浮かんだその感情がつっと化物の胸を刺した。

 なぜ娘の状態を病と信じて疑わず呪術の学がないのか、化物はここに来てようやく分かった気がした。

 ここにはないのだ。

 明日、首を狩られるやもしれぬ恐怖も、よどみ憎悪の混じった害意も、誰一人信じられずに過ごす暗夜もここにはない。

 遠くの方で日の光を浴びながら、のんびりと草をんでいる獣たちにすらそれは感じられた。

 天と地の狭間を悠々と飛んでいく鳥も、足元をゆっくりと這っていく虫も、自らがいかに自然であるかを物語っている。

 そう思った瞬間、己だけがぐっと強く後ろに引かれ、景色が急速に遠のいていくような感覚が全身を襲い、化物けものは僅かにたたらを踏んだ。

「おい、こっちだぞ」

 見張り番の男がいつの間にか立ち止まっていた化物けものに気付き、不思議そうに声をかけてきた。

 化物けものははっと我に返ると、一つ頷いて再び歩き出した。

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