第38話 光を食らう者たち

 あかい月は山陰やまかげに沈み、天が薄ら青く明るみ出した頃、化物けものたちの周りには濃い霧が立ち込め始めた。

 霧の中に溶け出した土の匂いと山の精気を含んだ鮮緑の匂いが、濁った腐臭の漂う谷で育った化物けものの鼻を綺麗さっぱり洗い流すように通り過ぎていく。

 常人であれば、いつまで歩くつもりか、とぼやきそうな距離を化物けものたちはひたすらに歩き続けた。

 とうに歩く体力をなくしたわらべをおぶさりながら、化物けものは一向に振り返りもしない男の背をずっと睨み続けていた。

――不思議だった。

 無防備に背を見せているはずのこの男に、何故か化物けものは手を出せないでいたのだ。

 視界に立ち込める濃霧のうむの中でぽつんと浮かび上がる男の大きな背は、今まで見てきたどんな大人のものよりも頑強で、そして、ひどく異様なものとして化物けものの全身を逆撫でさせた。

 その男は自らをグホンと名乗った。それ以外は何も知らされなかった。

 ふと、前を歩くグホンが足を止めた。

 化物けものはぱっと後ろに飛びのいて、警戒するように身を低くした。

 食わねば食われる道理の中で生きてきた化物けものにとって、この男の一挙手一投足は、己と自身の背で穏やかに眠っている妹の生き死にを掌握している脅威そのものであったからだ。

 しかし、そんな化物けものの思いなど知らぬ様子でグホンはようやく振り返ると、殺気だった小さな化物けものを見つめながら静かに言った。

「ここが今日からお前たちが暮らす場所だ」

「……」

 化物けものはグホンの言い放った言葉の意味が理解出来ずに、僅かに目を揺らした。

 すっとグホンの大きな背が視界から退くと、目の前に立派な屋敷が姿を現した。

 大きな門を中心にぐるりと全体が板塀いたべいで囲われており、その広さは想像も付かない。

 化物けものは口をあんぐり開けて、突如現れたその大きな壁を仰ぎ見た。

 板塀の高さに目を奪われている化物けものを見ながらグホンは思い出したように、ところで、と呟いた。

「口はきけるのか?」

 上から降ってきたその声に化物けものははっと我に返ったように一瞬肩を震わすと、ぎろりとグホンを睨み付けた。

 じりじりと燃え上がる化物けものの眼光と、凪いでややかなグホンの眼光とがぶつかり合った。

 化物けものの激しさとグホンの静けさが、二人の間に流れる時を止めるようにせめぎ合う。

 どちらも目は逸らさなかった。

 化物けものは負けまいと口を震わせながら歯を剥いてグホンを睨み続けた。

 しかし、自分を見下ろすそのめた眼光は石のように固く、ぴくりとも揺ぎはしなかった。

 そればかりか、激しく燃える化物けものの火などいつでも吹き消せるのだという涼しささえもがそこにはあった。

 それに気付いた化物けものはさっとグホンから地面に視線を落とすと、一言だけぽつりと答えた。

「……きける」

 久しく声を出していなかったのだろう、それはひどくかすれたか細い声だった。


 屋敷に入り、無理やり湯浴みをさせられてグホンの前に座らされた頃には、おぶわれていた妹もすっかり目を覚ましていたが、母親にすがる赤子のように化物けものの傍を決して離れようとしなかった。

 グホンが従者を呼び寄せてそんな二人の前に出させたのは、穀物をどろどろに煮溶かした粥だった。

 湯気は立っていない。わざと冷めた粥を出させたのはグホンの僅かばかりの情けだった。

 しかし、化物けものは椀に入った見たこともない液体をどうしていいものか考えあぐねている様子で、じっと粥を見つめている。

「安心しろ、食いものだ。ゆっくり食べろ」

 化物けものはちらとグホンを見やり、やがて、恐る恐るさじを手に取ると、粥を掬って妹の口元へと持っていった。

 妹は条件反射で口を開け、流れ込んできた粥をゆっくりと時間をかけて嚥下していく。

 しかし、数口ほど飲み込んだ後は、もういらぬとばかりに弱々しく首をふった。

 化物けものはそれを見届けると、今度は自分の口に匙を突っ込んだ。

 どろりとした生温なまぬるいものが舌に触れる。

――美味かった。

 香ばしい穀物の香りとほんのりとした甘さが口内に染み渡り、舌先からゆっくりと胃に伝い落ちていく。

 粥が胃に落ちた途端、感じたことのない熱が全身へ広がり、身体の末端を目指して駆け巡っていくのが分かるような奇妙な体験をした。

 化物にとってそれは初めての感覚だった。

 泥水以外の液体を口にしたことも、腐った獣の死骸や草以外の物を口にしたことも、寒さをしのげる住処すみかの内側に自分がいることも、温かな湯浴みも、何もかもが初めてのことだった。

 屍で溢れかえったあの谷で、弱った者に群がる獣から身を守っている時も、人さらいの大人たちに牙を剝いている時もこんな思いは決して抱かなかった。

 地獄のような酷薄な世界で、温かい何かが身体を巡ることなど決してありはしなかったのだ。

 だから、頬を伝うこの温かいものの正体が何なのかすら、化物は知らなかった。





 それからは厳しい修練の日々であった。グホンの教えには一切の容赦がなかった。

 毎日、息も出来ぬほどの痛みに耐え、大量の血を流し、痙攣する身体を無理やり起こされながら刀を握った。

 関節を外される嫌な音も、骨が折れる鈍い音も飽きるほどに聞いた。また、泡を吹き、目をむきながら毒にも耐えた。

 初めて任務に出たのは、グホンと出会ってから五年の歳月が経った頃だった。

 周囲からは、まだ幼さの残る少年のなりをした化物けものを心配する声も上がったが、地獄に生まれ落ちた化物けものにとってみれば、人の命を奪うことなど息をするのと同等のことだった。

 今までしてきたこととさして変わりはしない。ただ変わったことと言えば、確実に相手を仕留められるわざを持ったことだった。

 どれだけの人数に囲まれようが、向かってくるものは全て切り刻んだ。邪魔だと思った者は誰であろうと切り捨てた。

 そうして、グホンから伝えられた獲物は一人残らず狩った。

 誤解だ、助けてくれと醜く命をわれようが、泣きながら命だけはどうかと浅ましく懇願されようが、それらは一つたりとも化物けものの刃を止める要因には成り得なかった。

 そんなことを繰り返していく内に、化物けものは獲物たちが喚くその雑音が次第に煩わしくなっていった。

――喚く前に狩ってしまえばいい。

 そう気づいてからの化物はもう誰にも止められなかった。

 音もなく闇に溶け込む異様さが、またたきよりも早い太刀筋が、その名の通り〈化物けもの〉であることを周囲に知らしめた。


 そうして、自分が何者に成ったのかを知ったのは成人の儀が行われた後だった。

 グホンは屋敷の一室に化物けものを呼び付けて静かに言った。

「お前も晴れて今日より立派な狩人かりびとだ」

 グホンはおのが一族を〈狩人かりびと一族いちぞく〉と呼んだ。

「光を狩り食らう為に闇より生まれ落ちたのが我らだ。なあ、化物けものよ、この世でおそあがめられるものは一つでいいと思わぬか? 我ら狩人かりびとこそがであるべきなのだ。その為にあの日お前たちを拾ったのは、どうやら正解だったようだ」

 グホンの横でイルが小さく頭を下げたのが見えた。

 ついに化物けものに名がつくことはなかったが、妹にだけは名をやってくれと頼んだ日を化物はふと思い出した。

 グホンは妹をイルと名付けた。

 狩人の屋敷の門をくぐったあの日から、イルも化物けものと同じようにグホンの下で過酷な修練を積んで育ってきた。

 イルはその名の通り毒の才を発揮し、今ではグホンの傍付そばつきの従者へと成り上がっていた。

 化物けものはすっとイルからグホンに視線を戻した。

化物けものよ、お前のおかげで随分と領地を広げられた。ようやく我ら狩人かりびとの時がきたのだ。さあ、共に光を食らおうぞ」

 そう言って初めて見せたグホンの笑みを、化物けものは冷めた目でじっと見つめていた。

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