第五章 葬られた物語

第37話 泥犂谷の化物

 かつてこの世に国という概念はなく、また、大陸同士が一繋ぎに繋がっていた時代。

 そこでは誰もが平等であった。誰かに支配されることもなく、誰かにおびやかされることもなく、ただ当然の如く生も死も自らの手の内にあった。

 そこにあるのは数え切れぬほどの氏族のみ。皆一様に田を耕し、獣を狩って生きていた。

 多くを望む者はいなかった。その日生きるだけの食糧と、集まった一族が住めるだけの安寧あんねいたる住処すみかさえあれば、彼らはそれで良かった。

 両の手に収まるもののみをいつくしみ、また、いとおしんだ。

 そうして、人々はあるがままに、与えられた命を享受きょうじゅしながら生を紡いでいった。

 そんな世にもただ一つ、ただ一つだけ例外はあった。

 誰もが平等である世で唯一、聖なるものとしてあがめられ、うやまうに値すると考えられた人々がいた。

 北に住まうその者たちだけが、他とは違う不思議な金色こんじきの瞳を持っていた。

 彼らは天をつかさどり、生きとし生けるもの全てに多くの恩恵を与えた。

 あたたかい光で大地を照らし、乾いた地には雨を降らせた。光と雨を浴びた大地からは緑が芽吹き、そうして、人も獣も良く育った。

 もし、彼らの逆鱗に触れたならば、この世はたちまち長久の闇に覆われるとおそれられていた。

 それが、天照あまてらす太陽神たいようしんに愛された一族である。

 人々はその一族をこう呼んだ――〈琥珀族こはくぞく〉と。





 光あれば、影もしかり。

 長く続いた平穏な世は、人々の生きる知恵と細かな錯誤を繰り返し、やがてそこに文明の花を咲かせた。

 氏族間で文字が生まれ、田を耕す道具や獣を狩る道具は改良された。住処は丈夫さを増し、人々の暮らしは少しばかり豊かさを増した。

 そこに一滴、墨を垂らしたような小さな黒点が生まれたのはそんな時だった。

 どこからか生まれ出た小さな点は息を潜めながら徐々にその身を広げ、やがて影となった。

 影は光を食らおうと、虎視眈々とその喉元を狙うようになっていった。



 天にあかい月が滲んでいる。黒々とした雲が天一面を覆う中、月の周りだけは雲を透かして朱黒く光っている。

 眼下では、黒い衣に身を包んだ長身の男が、草木も眠る静かな森の中を一人歩いていた。

 鼻を突くような嫌な匂いが大気に混じり始めたのを感じて、男は足を止めた。

 肌を刺す冷たい夜風に乗って漂ってくるその不快な匂いは、男の向かう先を明確に示していた。

 泥犂谷ないりだに――今男が向かっているその谷は、地獄の異名を取って人々からそう呼ばれていた。

 そこは流行り病や、もうどうにも助からない者たちが捨て置かれ、ただ死を待つだけの肥溜めのような場所だった。

 そんな泥犂谷ないりだに化物けものが出ると噂され始めたのはいつの頃だったか、畏怖いふの噂は人々の間で瞬く間に広がり、男の耳にも届いていた。

(人か獣か、光か闇か……さて、化物けものとは一体何だろうな)

 男は風よけの布を鼻上まで引き上げると、再び歩き出した。

 より一層腐臭がきつくなり、ぽつぽつと転がっていたしかばねは徐々にその数を増していく。

 奥地へ進めば進むほど、白骨化した屍にはどろどろと腐った肉片が残るようになっていった。

 加えて、おびただしいほどのアブの羽音が大気を揺らすように鳴り響いている。

 音と匂い、目に映る全てのものが男の五感を刺し続け、そこかそこに転がる屍から、聞こえるはずのない怨嗟えんさの声が聞こえてくるようだった。

 多くの屍を見てきたこの男の目にも、この光景はひどくおぞましい地獄絵図に映った。

 不快感に顔をしかめながら暫く歩いていると、正面に一際大きな屍の山が現れた。

 腐敗してどす黒く変色した屍が無造作に積み重なり、ぬめり気を帯びた液体が屍を伝って流れ落ち、地面に染みを作っている。

 その頂上にはいた。

 その光景を見た瞬間、男は化物けものの正体が何なのかを瞬時に理解した。

 最も印象的だったのは、その目だった。

 不気味な朱月しゅげつを背に、屍の上から男をじっと見下ろす化物のその眼光は、強烈な怒りと憎悪を宿していた。

 この世の全てを憎み、怒りくるったような殺気を放って男を睨んでいる。

 男は心の内で、なるほど、と声を漏らした。なぜ〈化物けもの〉などという大層な名がついたのか、この目で見てようやく納得した。

 到底幼子のそれとは思えぬ眼光に射抜かれて、男はせりあがってくる笑みを隠し切れなかった。

 その時ふと、化物けものの後ろで何かが身じろいだ。

 男はさっと笑みを消し身構えながら、その正体を確かめるように目を細めた。

 女のわらべだった。

 童は化物けものの後ろにそっとたたずみ、アブが耳元で飛び交っているのも気に止めず、ただ、シラミの沸いた頭をポリポリと掻いている。

 最後に食いものを口にしたのはいつなのか、骨が浮き出た皮だけの身体は立っているのもやっとのように見える。

 化物けものとは違い、その目には一切の光を宿していなかった。

 何処を見ているわけでもなく、ただ目を開いているだけで、本当にその目が見えているのかどうかさえも疑わしかった。

 身内だろうか、化物けものは男が童に目を移したのを察すると、童を庇うようにさっと腕を上げた。

 ぎりぎりと歯を食いしばり、唸るような声を上げて身を低くしたその姿は、野生の獣がする威嚇のそれであった。

 男はふっと口元を緩めると化物けものに視線を戻して、静かに言った。

「俺と共に来い。もしお前がこの世を憎むなら、その憎しみを晴らす機会をくれてやる。その有り余っている怒りをこの世にぶつけるか、それとも、ここでその童と共にくたばるか、好きな方を選べ」

 男はそう言うと、返事も聞かずにくるりと背を向けて歩き出した。

 選択の時は与えなかった。いや、与えずとも結果は分かっていた。

 人々から化物けものと呼ばれ、おそれられた幼子は、男が思った通り童の手を引いて、ゆっくりと男の背を追ってきた。

 天から地上を照らす月明かりは、分厚くなった雲にかげり、より一層朱黒く染まったように思えた。

 始まりは、そんな夜であった。

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