第36話 洞窟を抜けた先
そこからは、ひどく長い静かな時間だった。
前を歩くアーシェラは何も語りはしない。時折、少し耳を後ろに傾けて、ムウの足音を気にする素振りを見せたが、それ以外はただ悠然と前を向いて進んでいく。
ムウはアーシェラを見失わないように、黙ってついていくことしか出来なかった。
緩やかな登り坂の続く洞窟内にはいくつもの枝道があった。
目の見えないはずのアーシェラがいったい何を目印にして、どのようにその道を選んでいるのか、ムウにはさっぱり分からなかった。
ただ、ムウの持つ松明の小さな灯りだけが、アーシェラの背で揺れる
洞窟内には二人分の足音と、
先刻ムウの前に姿を現した男や、他の者たちの気配はどこに消えてしまったのか、どこにも感じられなかった。
どのくらいの時が経過したのか、どこを通り、今どの方向を向いているのか、すっかり分からなくなった頃、遥か前方にうっすらと光が見えはじめた。
目を凝らさなければ見失ってしまいそうなほどの儚い光は、歩を進めるにつれて次第にはっきりと確認できるようになり、ムウとアーシェラをようやく暗闇から解放させた。
頭上に空いた穴からは太陽の光が幾筋も差し込み、下方にある大きな泉を照らしている。
泉にはなみなみと水が溜まり、ムウの足元付近で水面が日を浴びながら煌めいている。
もうとっくに日が暮れた頃かと思っていたが、それほど時は経っていないようだった。
泉に流れつくようにして地を這う細川のその先に、洞窟の出口と思われる穴が見えた。
大きく口を開けたその場所からは夏の清涼な風が吹き込んでいる。
本来であれば涼しいであろうと思われる夏の山風は、全身が濡れ、さらに日の当たらない洞窟内で冷やされたムウにとっては、凍える身に一枚
暫くその暖かさをどこか夢見心地で味わっていたが、前を行くアーシェラの背が小さくなっているのに気付き、ムウは慌てて背を追った。
そうして、ムウたちは長く感じられた闇を経てようやく外へ出た。
とたんに、白に近い真夏の陽光が目を刺した。目の奥に走った鋭い痛みにムウは思わず目をつむり、ぱっと顔を伏せた。
加えて、強い日差しがじりじりと肌を焼き、炙るようにムウを急速に温めていく。
何度か瞬きを繰り返し、ようやく顔を上げると、そこには
左手に広がる森と目の前の草地を
川で布を洗っている者や、川辺で遊んでいる幼子を見て、人々がここで生活を営んでいるということは分かったが、その規模は一民族の集落と言うには少しばかり小さなものだった。
そして、ムウは暫くその奇妙な光景に目を奪われていた。
「こちらへどうぞ」
アーシェラは一言そう言うと、一番大きな天幕へとムウを案内した。
天幕の中には、中央に炉が
風通しをよくするためか、地面付近の布がめくられ、そこから僅かに風が吹き込んでいる。
ムウはアーシェラに言われるがまま、入り口付近の敷物に腰を下ろした。
アーシェラはムウの対面の敷物にゆっくりと腰を下ろすと、静かに話し始めた。
それは、初対面とは思えない、回りくどい余分な話を一切排除した、実に端的な言葉だった。
「何者かが我らのことを探っているということは既に存じ上げておりました」
ムウは驚いて顔を上げた。
「時折、子供たちが度胸試しと
アーシェラはふわりと顔を緩めると、どうしようもないものです、と付け加えた。
「その日、子供たちを連れ戻しにいった母親たちから、何者かの視線を感じたと報告を受けたのです」
ムウの脳裏にふっとヨヌアの顔が浮かんだ。
「ですから、覚悟はしておりました。いつかこの日がくるだろうと、代々ずっと伝えられておりましたから」
話の途中でムウはふと、洞窟内で出会ったエメオスの顔が浮かび、訊ねた。
「なぜ私をここへ招き入れたのですか?」
エメオス以外の視線からも、歓迎されていないことは十分に肌で感じられた。にもかかわらず、目の前のアーシェラはムウに何の疑いも持っていないように思えたのだ。
「月詠み族、そして、
アーシェラはそこで一旦言葉を切り、そして、静かに口を開いた。
「貴方様からそれらの言葉を聞いた時、私は私の役目を悟ったのです」
「……?」
アーシェラはムウの目を見つめるようにゆっくりと顔を上げた。
視線はぶつからなかったが、ムウは自分を真っ直ぐ見つめるアーシェラの視線をしっかりと感じた。
「我らが犯した大罪を
ムウは眉根を寄せ、アーシェラの顔を見つめた。
「お話ししましょう。貴方様が知りたいと仰っていた
ムウは無意識にごくりと唾を飲み込んだ。
「かつてこの世に国という概念が無く、また、この大陸が海に囲まれる前のずっと昔の話です」
――それは、遠い昔に生きた人々のひどく悲しい物語であった。
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