第35話 眼を閉じた者

 ムウはごうごうと唸りながら流れ落ちる巨大な滝の前に立っていた。

 遥か頭上から流れ落ちてくる水は、滝壷に叩き付けられて真っ白な飛沫しぶきを上げている。

 轟音が耳を占領し、今まで聞こえていたはずの自然の音も、生きとし生けるものの音も、何もかもが水に飲み込まれてしまったようだった。

 砕けた細かい飛沫が空中を舞い、霧雨のようにムウの顔や肌を濡らしていく。

 しかし、夏のぎらつく日差しに照らされながら、砂岩壁さがんへきに囲まれた乾いた道を歩き続けてきたムウにとってみれば、それは砂漠の中に突如現れたオアシスのようでとても心地が良かった。

「ようやく……」

 ムウは小さく呟き、一度巨大な滝を仰ぎ見た後、目の前の細い道に視線を落とした。

 その道は滝の裏側にある、ぽっかりと空いた洞窟の入り口へと続いている。

(本当に、ここに真実があるのだろうか……)

 到底人が住んでいるとは思えない場所へ続いているであろうと思われるその入り口をムウはじっと見つめた。

 クヴ谷の谷底に足をつけてから今まで、全く人には出くわさなかった。

 それどころか、谷底を流れる細川が徐々にその幅を広げ、豊潤な水が流れる川になっていっても、人が住んでいるような家屋はおろか、生活できそうな場所さえも見つけることが出来なかった。

 ムウの前にはいつも、ただひたすらに、ありのままの自然が広がっているだけだった。

(……しかし、ここで立ち止まっている時間はない)

 ムウは覚悟を決めると、足を大きく前へ踏み出した。

 歩みを進めるにつれて、より一層滝の轟音が耳をつんざき、冷たい水が全身に降り注いだ。

 たどり着いた洞窟の入り口の手前で一度足を止めると、ムウはその先に広がっている暗闇を見つめた。

 この見通せない暗闇の先に何が待っているのだろうか。果たして本当に、まだ幼い皇太子の未来を照らす光はあるのだろうか……。

 ムウはそんな思いを抱えながら、深く息を吸って洞窟へと足を踏み入れた。

 背後の光が徐々に小さくなり、滝の轟音すらもゆっくりと遠のいていく。

 水流を避けるようにして壁際を慎重に歩いていくと、やがて静かな闇に包まれた。

 洞窟に入る前に急ごしらえで作った小さな松明は、すぐそばの足元しか照らさず、心許ない明るさしかムウには与えてくれなかった。

 心地良かった涼しさも奥に進むにつれて、しんとした、身体にのしかかるような寒さに変わっていった。

 ぴちょん、ぴちょんと上から垂れる水の音が岩壁に反響し、今自分が立っている場所が狭いのか、それとも、広いのかさっぱり分からなかった。

 どれくらい進んだだろうか、ふいに広い空間に出たような気になった。

 立ち止まり、松明をかざして辺りを見回したが、小さな松明ではその全体を把握することは出来なかった。

 ムウは交互に両手を横に広げ、手の届く範囲に岩壁がないことを確認した後、暫く悩んだ。

(岩壁をつたって歩くべきか……それとも、感覚を信じて前へ進むべきか……)

 暗闇の中で思案することが、これほどまでに時間の感覚を狂わすとは思いもしなかった。悩んでいるこの時間が永遠の時のようで酷くもどかしい。

 考え抜いたすえに、ムウはこのまま前へ進むことにした。

 前を照らそうと松明を上げた瞬間、ムウの視線の先に突如人の足が現れた。

「……っ!」

 驚いた拍子に持っていた松明を落としそうになり、ムウは慌てて持っている手に力を込めた。

 そして、恐る恐る松明を目の前まで掲げると、灯りが照らす先には見た事もないような輝く金色こんじきの髪をした女人にょにんが立っていた。

 女人は真っ白な長い衣を纏い、真っ直ぐに伸びた髪を胸の前に垂らしている。

 美しい輪郭の小さな顔と、その顔にある固く閉じられた目から伸びた金色の長い睫毛が印象的だった。

 女人はムウとは違い、驚いた様子も無くゆっくりとこちらへ近づいてくる。

 その動きに、はっと我に返ったムウは片膝を地面につけて深く頭を下げると、大きく息を吸い込んだ。

「最南の地、アウタクル王国より参りました。月詠み族第六十七代目当主ムウと申します」

 ムウの声は左右の岩壁に反響し、細かく木霊こだましながら遠ざかっていく。

 暫くの沈黙の後、女人は静かに口を開いた。

「遠い南の地の月詠みよ、なぜ我らを訪ねてこられたのか、そのわけをお聞かせ願います」

 それは、湧き水のような、ガラス玉のような、形容し難いほどの美しく澄んだ声だった。

 その声はムウの頭の中で鐘ののごとく幾度も響き渡り、束の間、脳を支配した。

 暫くして余韻が遠のいていくと、現実がどっと押し寄せ、ムウは慌てて口を開いた。

金色こんじきまなこにまつわる伝説の真実をご存知だとお聞きしました。その真実を知りたく、谷に棲む民ラガ・コテルを探してこちらへやって参りました」

 金色こんじきまなこという言葉が出た瞬間、ひりつく視線が一斉にムウの身体を貫いた。

 その瞬間、姿は全く見えないが、ここは二人だけの空間ではないことをムウは悟った。

 しかし、ムウは臆することなく更に続けた。

「あなた方は私の探している、谷に棲む民ラガ・コテルでお間違いないでしょうか?」

 ムウの問いに女人は躊躇ためらうように一瞬息を詰めたが、やがて、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「……正確には、ラ・ガット・テゥイル〈まなこを閉じた者〉です」

 そして、女人はどこか憂いを帯びた声で更に続けた。

「かつて私たちは自らにその名をつけ、外部との交流を閉ざす為にこの地に移り住みました。恐らく、長い年月の中で名が変化し後世へと伝わったのでしょうね」

 ムウは顔を上げ、瞬きをした。

「これ以上のお話をするには、ここは寒すぎます。どうぞ、こちら――」

「お待ちください」

 女人の言葉を遮るようにして、洞窟内に低い男の声が響き渡った。

「アーシェラ様、この男の素性が分かりません。安易に招くべきではないかと」

 男の声は徐々にムウたちに近づき、闇の中からゆっくりと姿を現した。

 その男はすらりと背が高く、しなやかそうな身体つきをしており、武骨な武人のそれとは違い、鋭利な聡明さを纏っていた。白い衣をきっちり着こなし、切り揃えられた金色の髪を綺麗に後ろへ流している。

 そして、この男もまた、女人同様に固く目を閉じていた。

「エメオス、よいのです」

 エメオスと呼ばれた男は、しかし、と言いかけて、女人がさっと手を上げたのを感じとったのか、すぐに口をつぐんだ。

 それから、不服そうに一瞬顔を歪めた後、まるで見えているかのようにムウを見下ろし、やがて、ゆっくりと闇の中へ消えていった。

「どうぞ、こちらへ」

 再び二人になった洞窟内にアーシェラと呼ばれた女人の澄んだ声だけが静かに響き渡った。

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